12. vsヴァルガ
王城前へ続く道は、二つあった。
「近道はこっちの大通りだ。敵は多いが、王城の包囲へ最短で届く。ヴァルガの本陣、恐らく謁見広場までまっすぐ。……もう一つは地下水路。捕虜収容区のすぐ裏へ出る。ただし遠回りで、本陣への奇襲の好機は失う」
リシアが地図を叩いた。
「戦術の教科書なら、答えは奇襲だ。敵将さえ落とせば包囲は崩れる。捕虜の救出は、その後でも」
「間に合えば、でしょう」
俺は地図を見つめた。
見せしめの処刑は、包囲が破られれば前倒しになる。奇襲が成功しても、その瞬間に百人の捕虜が死ぬなら――それは、俺の順番の付け方じゃない。
「……地下水路へ。捕虜を先に逃がします。ヴァルガには、真正面から会いに行く」
「奇襲の好機を捨てるのか! 正気か!?」
叫んだのは、クライヴだった。
「敵将を先に討てば戦は終わる! 捕虜など後回しで――」
「その捕虜の中に、あなたの部下がいても?」
クライヴの言葉が、止まった。
「…………っ」
「行きます。時間がない」
地下水路は、暗く、狭かった。松明を落として進み、収容区の裏手に出る。
王城前広場の一角、急ごしらえの柵の中に、捕虜たちは詰め込まれていた。傷つき、武器を奪われ、うなだれた騎士たち。その中に、見覚えのある第五小隊の顔が、確かにあった。
見張りの魔族兵は八。
「デグの班が右の四つ。俺が左の四つ。リシアは柵の錠を。声を出させずに、同時に」
実行は、十秒で終わった。
柵が開き、捕虜たちが、幽霊でも見るような顔で俺たちを見た。
「北辺守備隊です。助けに来ました。歩ける人は負傷者を支えて、地下水路から北門へ。味方が収容します」
「あ、あんたは……竜殺しの……」
「早く。時間がありません」
捕虜たちが動き出す。第五小隊の生き残りたちが、俺の前を通る時、次々と足を止めた。
「アルトさん……あんた、俺たちを、まだ……」
「話は後で。生きて、北門へ」
その列の最後に――クライヴが、立っていた。
彼は、逃げていく自分の部下たちを見て、それから俺を見た。何かを言おうと口を開き、閉じ、また開いた。
「……なぜだ」
絞り出すような声だった。
「なぜ、助ける。貴様を追放したのは俺だ。功績を消したのも、俺だ。分かっていたはずだ、とっくに。……なぜ貴様は、俺の部下まで救う。俺への当てつけか? 貴様の器を見せつけて、俺に恥をかかせるためか!?」
「あなたは関係ない」
俺は、静かに答えた。自分でも意外なほど、憎しみは、声に乗らなかった。
「俺は騎士団を救いに来たんじゃない。あなたを許しに来たんでもない。……ここで死のうとしている人を、死なせたくないだけだ。その中に、たまたまあなたの部下がいて、たまたま、あなたがいる。それだけです」
「たまたま、だと……」
「ええ。……救う。だが、あなたの部下へ戻るわけではない。俺の剣は、もう、あなたの承認を必要としていない」
クライヴは、殴られたような顔をした。
リシアが、俺の肩を叩いた。
「捕虜の護送は私とデグで引き受ける。北門まで送り届けたら、すぐ戻って王城前の敵を引き受ける。……アルト。行くんだろう、あそこへ」
彼女の視線の先――王城の正面階段。
包囲する魔族軍の中心、玉座へ続く大階段のその下に、黒鉄の巨躯が、静かに立っていた。
まるで、最初から俺を待っていたかのように。
「……ああ。行ってくる」
「注文は一つだ」
リシアは、槍を担ぎ直して笑った。
「生きて帰れ、隊長」
◇
王城前の大階段を、俺は一人で上がった。
ヴァルガは、階段の中程の踊り場で待っていた。周囲に魔族兵はいない。人払いされた決闘場のような静けさだった。
「来たか、アルト・レイン」
「……部下は使わないのか」
「要らぬ」
魔将は、大剣を無造作に構えた。
「貴様は我が斬る。それは我の主張の証明であり――貴様の主張の否定だ。誰にも触れさせぬ」
空気が、変わった。
封魔領域が、収束していく。王都全域を覆っていた黒い靄が、この謁見広場の一点へ、渦を巻いて濃縮されていく。体が、鉛のように重くなった。
身体強化――消えた。二割どころではない。ほぼ、ゼロ。
「貴様の内なる強化ごと、封じさせてもらった。この密度の領域は、我とて長くは保てぬ。……だが、貴様を殺すには足りよう。これで貴様は、ただの人間だ」
「……最初から」
俺は、剣を正眼に構えた。
「最初から、ただの人間だ」
初撃は、音より先に来た。
大剣の斬り下ろし。受けたら死ぬ。半歩の見切り。石段が爆ぜる。
二撃、三撃。速い。強化を失った体では、見えていても足が追いつかない。掠めた刃が革鎧を裂き、脇腹に熱が走った。
――構え。
崩れるな。構えが崩れた瞬間、次の一撃は避けられなくなる。
四撃目、横薙ぎ。受け流す。骨まで痺れる。剣が手から飛びそうになる。
――呼吸。
止めるな。息を止めれば体が固まる。吐きながら流し、吸いながら離れる。
五撃、六撃、七撃。
――歩法。
下がるな。下がり続ければ階段に詰まる。円を描け。半歩ずつ、奴の右側へ。大剣の返しが最も遅い側へ。
「見事」
ヴァルガの声に、初めて明確な熱があった。
「強化を失い、なお五要素が崩れぬ。貴様の十年は本物だ。――だが」
大剣が、俺の剣の腹を、正面から打った。
耐えきれなかった。体ごと吹き飛ばされ、石段を転がり、踊り場の柱で止まる。口の中に血の味。左腕が、上がらない。折れてはいない。だが、痺れて使い物にならない。
「――だが、それでもなお、貴様は一人よ」
ヴァルガは、ゆっくりと階段を降りてきた。
「見よ、この王都を。百万の民のうち、貴様のように立てる者が何人いる? 騎士団の千人のうち、何人いた? ……一人だ。アルト・レイン、貴様ただ一人。人は決して、貴様には続かぬ。鍛錬より容易な力を選ぶのが人の性だからだ。貴様は例外で、例外は種にならず、故に――貴様が死ねば、すべて終わる」
その言葉に。
俺は、笑った。
血の味のする口で、心の底から、笑うことができた。
「……聞こえないのか」
「何?」
「耳のいい魔族様が、聞こえないのか。あの音が」
風が、市街の音を運んでくる。
剣戟。盾の連なる音。そして――声。
『間隔! 槍一本分、崩すな!』
『追うな! 深追いするな、戻れ!』
『倒さなくていい! 隣を守れ!』
王城前の大通りで、リシアの隊が、捕虜を逃がし終えて戻り、魔族の包囲部隊と正面からぶつかっていた。魔剣は一振りもない。なのに、陣形は崩れない。城壁の上では、生き残った王都守備兵までもが、見よう見まねで間隔を作り始めていた。
俺が教えたのは、たった三つ。
その三つが、俺のいない場所で、俺の知らない誰かの口から、叫ばれている。
「……あれが、聞こえないのか。ヴァルガ」
俺は、柱を支えに立ち上がった。
右手一本で、剣を構える。正眼。十年間、毎朝三千回、構え続けた形。
「俺は、例外じゃない。ちょっとだけ、先に始めただけだ。人は続く。現にもう、続いてる。……あんたの負けだ。俺を斬っても、もう終わらない」
ヴァルガは、長く、沈黙した。
「…………三百年」
やがて、静かな声が言った。
「三百年、人間を見てきた。道具に群がり、楽に流れ、同胞を蹴落とす様をな。我の見立てが、覆ったことはない。――故に」
大剣が、上段に構えられた。初めて見る、全体重を乗せる構え。
「貴様らで、覆してみせよ」
来る。
最後の一撃。避けられない。受けられない。左腕は死んでいる。強化はない。体力も、もう残っていない。
残っているのは――十年分の、基礎だけだ。
なら、それで十分だ。
ヴァルガが、踏み込んだ。
巨躯の全体重が、前へ。大剣が、唸りを上げて落ちてくる。
俺は、その場から、逃げなかった。
半歩。
最小の、最後の半歩だけを、前へ。
斬り下ろしの威力が最大になるのは、刃が振り抜かれる弧の外周。なら、内側だ。振り下ろしが加速しきる前の、腕と剣の根元へ。地竜の首を落とした、あの理屈。相手の踏み込みを、こちらの刃への踏み込みに変える。
大剣の風圧が、頬を裂いた。
俺の刃は、最短の直線で――
正面から、ただ、まっすぐに。
王国式基礎剣術、最初の頁に載っている、正面斬り。
十年間で、恐らく百万回、振った形。
その百万一回目が、黒鉄の甲冑の、胸の中心を断った。
……長い静寂の後。
ヴァルガの巨躯が、膝から、崩れ落ちた。
大剣が石段を滑り、乾いた音を立てて止まる。
「…………正面、斬り、か」
魔将は、倒れたまま、掠れた声で言った。
「奥義でも、秘剣でも、ない。……最初に習う、一振り」
「……あんたが言ったんだ。基礎の五要素が揃った者は十人といないと。なら、揃った基礎が――一番強い」
「……フ」
黒鉄の兜の奥で、息だけの笑いが漏れた。
「三百年で……最も、つまらぬ……最も、美しい答えだ……」
巨躯から、力が抜けた。
同時に――世界が、軽くなった。
封魔領域が、砕けた硝子のように消えていく。王都の魔導灯に、次々と光が戻る。城壁の魔導砲が唸りを取り戻し、残った魔族軍が、将を失って潮のように退いていく。
歓声が、聞こえた。
最初は一つ。すぐに十、百、千。王都中の窓から、路地から、城壁から、割れるような声が上がった。
俺は、階段に座り込んだ。
もう、指一本、動かせなかった。それでも剣だけは、手放さなかった。無銘の鋼剣。刃こぼれだらけの、俺の剣。
「――隊長!」
リシアが、階段を駆け上がってくるのが見えた。デグが、若い騎士が、隊のみんなが続いてくる。
ああ、良かった。
みんな、生きてる。
俺は、それだけ確認して、少しだけ、目を閉じ――
「おい、寝るな! おい!」
◇
……三日後。
目を覚ました俺は、王城の客室の天蓋付きベッドという、人生で最も落ち着かない場所にいた。
傷は深いが、命に別状はないという。王都は解放され、国王は健在。北辺もガルドたちが守り抜いた。全部、いい報せだった。
――ただ一つ、妙な報せを除いて。
「決闘だと?」
見舞いに来たリシアは、苦い顔で頷いた。
「クライヴ・バルゼンが、査問の場で要求した。……『ヴァルガ戦は封魔領域との相性で勝っただけ。魔剣が使える通常の条件下なら、騎士の実力はアルトを上回る』と。自分の騎士資格の正当性を賭けて、万全の《炎牙》で、公開決闘を申し込むそうだ」
「…………」
「受ける必要はない。査問はどのみち奴に不利だ。放っておいても――」
「受けます」
俺は、天蓋を見上げたまま、言った。
怒りは、なかった。あるのは、もっと静かな何かだった。
相性で勝った。その言い訳を残せば、この国は変わらない。魔剣に選ばれなかった誰かが、また「素振りしかできない無能」と呼ばれる。あの選剣殿の石段で、俯く誰かが出続ける。
それを、終わらせる。
「万全の魔剣に、基礎剣術が正面から勝つところを――全員に、見せます」




