出会った頃の思い出
アンナは真十郎の小屋の中で一人、テーブルにうつ伏せになって真十郎に出会ったばかりの頃の事を思い出していた。
道端で行き倒れていた彼の姿を今でもはっきりと覚えている。
衣服はボロボロで体は痩せ細っており、意識も朦朧としていたようで、まともに話すことすらできなくなっていた。
放っておけばそのまま死んでしまっていただろう。
自分の目の前で誰かが死のうとしている。
それを見過ごすことが出来ず、父に助けてくれるように必死に懇願し、彼をオステンブルクの城へと連れ帰った。
当時母を失くして間も無かったアンナは、目の前で誰かが死ぬのをこれ以上見たくは無かったのだ。
彼を城に連れ帰ってから、父に彼の面倒はアンナが見るようにと言われた。
アンナが自分の意思で彼を救ったのだから、その責任を持ちなさいという事だった。
周りの使用人たちの手を借りても良いが、何か起こった時の責任はアンナが負わなければならないと、そう言われた。
当時はその責任という物も良くわかっていなかった気がする。
人間一人の命の責任を負うということの重大さを彼女は理解出来ていなかった。
だがそれでもアンナは必死で真十郎の看病をした。
せっかく助けたのだ。絶対に死なせたりなどするものかと、周りの使用人らに助けられながらも彼女なりに一生懸命に働いた。
そうして、衰弱していた真十郎の体は一月も経つ頃にはすっかり良くなっていた。
今になって考えればアンナはあまり役に立っていなかったように思える。
真十郎が元気になったのは手伝ってくれた使用人や父が呼んでくれた医者のおかげだろう。
だが、当時の彼女は自分の頑張りで一人の人間の命を救うことが出来たのだと思っていた。
真十郎の体は健康になったが、アンナにはまだ気になっていることがあった。
そのころの真十郎はほとんど表情を変えることが無かったのだ。
特に真十郎の笑った顔をアンナは一度も見たことが無かった。
アンナは彼に笑って欲しいと思っていた。
表情や振る舞いを変えれば、心もそれにつられて明るいものになることがあると聞いた事があったからだ。
アンナはある日、真十郎に笑顔を作るように言ってみた。
アンナのその言葉を聞いても、真十郎は眉を寄せて怪訝な表情を浮かべただけだった。
言っていることがうまく伝わっていないのかもしれない。
そう思って自分の指で真十郎の口の端を無理やり上げさせてみた。
「ねえ、ほら、笑って見せて」
真十郎の表情が困惑したようなものになり、やがて苦笑するような表情を浮かべた。
そして、彼は突然涙を零した。
アンナはそれを見て驚き、うろたえた。
なぜ彼が突然泣き出したのか、まるで理解できなかった。
これまでに大の男が涙を流すところなども見たことが無かったせいで、どうすればよいのかもまるでわからなかった。
きっと自分のせいで泣かせてしまったのだと思い、その後必死で彼に謝罪をした。
その間ずっと、真十郎は困ったような表情を浮かべていたのを覚えている。
その日の夜、アンナはそのことについて父であるヘルマンに相談していた。
その話を聞いたヘルマンはその顔に難しい表情を浮かべてしばらく何かを考えていたが、やがて優しく微笑みアンナを諭すように語り始めた。
「どんな人間も苦しみ悩んでいる。悩みを持たない人間などいないんだ。その人物がどれ程強そうに見えたとしてもな。いや、強そうに見える者程、大きな悩みを抱えていたりするものなんだ。彼も何かに悩み苦しんでいるのかもしれない。それが何なのかはわからないがな」
「お父様やお兄様にも悩みがあったりするんですか?」
「ああ、もちろんだ。私には悩みが無さそうに見えるかな?」
そう言って苦笑する父を、アンナは驚きの感情と共に見つめていた。
彼女にとっては父も、そして死んだ母も非の打ち所の無い人間であるかのように見えていた。
さほど年の変わらぬ兄でさえも、彼女からみれば優秀で欠点など見当たらないように思える。
「お父様はとても強そうだから、そんな風には見えませんでした。では帝都にいらっしゃる皇帝陛下も悩みを持っていらしたりするのですか?」
「ああ、もちろんだとも。陛下はその背に誰よりも重い責任を負っていらっしゃる。だからこそ、誰よりも重い悩みも持っていらっしゃるはずだ。それを決して表に出したりはされないがな」
そういうものなのだろうかと、アンナは良くわからないままに頷きを返す。
「覚えておきなさい。人は悩み、苦しむものだ。中にはその苦しみに耐えられずおかしくなってしまう者もいる。遂には自らの命を絶ってしまうような者もな。あの異国の少年が何に悩み、苦しんでいるのかはわからない。彼の世話はお前に任せたのだから、そういったところにも気を配ってあげなさい」
「何を悩んでいるのか聞いてみたほうがいいですか?」
「それはまだやめておいたほうがいいだろう。相手の心を余計に傷つけることになるかもしれない。もう少し相手がこちらに心を開いてからにしたほうがいいだろうな。無理に聞き出そうとしたりするのはやめておきなさい。きちんと信頼を深めていけば、いずれ彼のほうから話してくれたりするかもしれない」
「はい……わかりました、お父様」
アンナも母が死んでからしばらくの間は毎日泣いていた。
真十郎も同じで、何か辛いことがあったのをずっと我慢し続けていたのかもしれない。
どんなことがあったのかはわからないが大の男が女の子の前で涙を流すくらいなのだ。
余程辛いことがあったのだろう。
それからもアンナは使用人たちの手を借りながらではあったが、色々と彼のために世話を焼き、言葉と読み書きを教えたりもした。
彼は優秀で、言葉も文字も一年も経つ頃には完全に身に付け、声だけ聴けば異国人であるということが分からなくなるほどに上達していた。
一年ほど彼は城の中で過ごし、その後は狩人として街外れで暮らすようになった。
アンナは彼が城を離れてからも度々様子を見に行った。
いつの間にかほぼ毎日通うようになってしまっていたが。
つい最近、彼の強さを知った。
優れた狩人であることは以前から知っていたが、たった一人で万の軍勢を追い払うような力を持っているなどとは思いもしなかった。
だがそれでも、彼に対して強い男という印象を持ったりすることは無かった。
戦えば強いのかもしれない。
だが、それと人として強いかどうかはまた別の話だ。
人としての彼の弱さをアンナは良く知っていた。
出会った頃の真十郎は何に苦しんでいたのだろう?
未だにそれを聞いてみたことは無かった。
その悩みがなんであったのか、いつか話してくれるだろうか?
もしかして、今もまだ何かに苦しんでいたりするのだろうか?
「でも、大丈夫よね……これからもずっと傍にいてあげられるもの」
真十郎はきっと無事に任務を達成し帰って来る。
アンナはそう信じていた。
その先はずっと彼と一緒にいられるだろう。
自分なら彼の助けになってやれる。
彼はアンナを守るために万の軍勢を退けた。
そんな風に彼を守ることはアンナには出来ないが、彼女なりに彼を助けることは出来るだろう。
出会ったばかりの頃にそうしていたように。
「出来るだけ早く帰ってきてね……」
テーブルの上にうつ伏せになったまま、アンナは祈るようにそう呟いていた。
真十郎、エーリヒ、コリンナの三人はアーデルラントの王都の外れにある廃屋に潜伏していた。
そこは王都内に複数ある彼等の隠れ家の一つだ。
その廃屋の一室で真十郎は一人壁に背を預けて座っていた。
今は早朝でエーリヒとコリンナはまだ眠っている。
彼は手にした短剣をじっと眺めていた。
それはオステンブルクを発つときにアンナが持たせてくれた物だ。
彼はゲオルグを殺すという彼の任務について、どのようにしてそれを成し遂げるかをひたすらに考えていた。
様々な方法を考え、どう実行するか頭の中でその情景を思い浮かべながら検討していく。
だが、そうやって思案に耽るたびに彼の心の内にある強い感情がそれを妨げていた。
強く激しい憎しみの感情。
ゲオルグを殺す方法について考えようとするたび、その感情は強くなり冷静な思考を妨げていた。
与えられた任務を達成するため、そして彼の感情の求めるところを為すためには、その感情を抑えて理性に従わなければならない。
そのため自身の意識を冷静に保とうと努力するが、抑えきれない激しい感情がそれを許してはくれなかった。
真十郎はもう一度手にした短剣に目を落とした。
その短剣を鞘から引き抜き、その刃に目を向けた。
よく手入れされているのだろう。
長い年月を経ている筈であるのに、その刃には曇り一つ無い。
そしてなぜか、その短剣を眺めていると激しい感情が抑えられ心が落ち着いていくのだった。
どうしてなのかはわからない。
だが間違い無く、それは今の真十郎にとって大きな助けとなっていた。
アンナに会いたいと、そう思った。
そんなことを考えてしまうのは、大勢の仲間を死なせ、クラウディアも救うことが出来なかったせいで心が乱れ弱くなってしまっているからだろうか。
彼女はいつも、わざわざ街外れの小屋まで真十郎に会いに来てくれていた。
それによって、どれほど自分の心が救われていた事か。
そのことが自分にとってどれほどありがたい事であったのか、充分に理解出来ていなかったのではないだろうか。
彼女が自分の傍にいてくれるだけで、どれほど自分の心の慰めとなっていただろうか。
彼女の存在、そして彼女が自分に向けてくれる笑顔に、どれほど安らぎを与えて貰っていただろうか。
ほんのわずかであったとしても、彼女と共に過ごせる時間が、自身にとってどれほど掛け替えの無いものとなっていただろうか。
六年前にオステンブルクに流れ着いてからずっと、アンナの存在は真十郎にとって掛け替えが無いほどに大きかった。
彼女の存在が自分にとってどれ程大きなものであるのか、理解しているつもりだった。
だが自身が思っていた以上に、彼女の存在は彼の中で大きなものとなっていたようだ。
本来ならば、アンナはどこかの貴族のもとに嫁いでいくことになっていた筈だ。
そうなっていたなら、もう彼女に会うことは出来なくなっていただろう。
いつの間にか、彼女の傍にいられることが当たり前であるかのように勘違いしてはいなかっただろうか。
ゲオルグの暗殺任務を達成できた場合、報酬として彼はアンナの夫として迎えられることになっている。
自分が彼女にふさわしい人間だとは、やはり思えなかった。
ただの狩人などと一緒になっても、きっとアンナのためにはならないだろう。
だが、自分にとってはどうだろうか?
これから先もずっとアンナの傍にいられるのだとしたら?
本来あり得ないことであるが故に、ついこの間までそんなことは想像すらしたことが無かった。
アンナと共に過ごす未来を思い描いてみる。
そのような光景が現実のものになるのだとしたら……。
それは、自分にとってどれ程幸せな未来だろうか。
狩人として暮らす日々に不満を覚えたことなど無かった。
今のままでも十分だと思っており、これ以上の幸せを望むことなど考えたことも無い。
だがもし今以上というものを望んでも良いのであれば、そして本当にアンナもそれを望んでくれているのだとしたら。
自分には不相応と思えるその幸せを、受け入れても良いのだろうか。
そこまで考えたところで、彼は自分が本来やらねばならないことを思い出した。
今は任務に集中するべきだ。
そう思い短剣を鞘に戻す。
そしてゲオルグを倒すための手段について再び思考を巡らせ始める。
だがしばらくするとまた激しい憎悪の感情がそれを邪魔し始めた。
彼は再びアンナの短剣を取り出し心を鎮めようとする。
そして落ち着きを取り戻し、また任務遂行の方策について考え始める。
そんなことを何度も繰り返しながら、真十郎は少しずつ己の考えを整理していくのだった。




