騒がしく、穏やかな朝
その日、オステンブルクの城内では誰もが慌ただしく立ち働いていた。
使用人たちがせわしなく行き交う城の廊下を、オステンブルク候の息子であるカールは特に急ぐ風もなく一人歩いていく。
その姿を目にした城内のメイド達は忙しさも忘れて彼の姿を目で追い、やがてうっとりした表情でため息をつく。
カールの妹のアンナはオステンブルクの宝石などと呼ばれ、その美しさを讃えられているが、その兄である彼もまた美男子であると評判だった。
邪魔にならない程度の長さで無造作に切りそろえられた髪は、特に手入れをしているわけでもないというのに金糸のように美しかった。
青く澄んだ瞳に見つめられると、吸い寄せられたように目を逸らすことが出来なくなると、女たちにはそう噂されていた。
その気になれば、いくらでも浮き名を流せただろうが、彼のそのような話を聞いたことがあるものはいなかった。
妹は見るものに穏やかな印象を与えたが、彼はその生真面目な性格や表情の硬さ故か、妹に比べて見るものに厳しい印象を抱かせた。
男らしく濃い眉もまた、その意志の強さを表しているかのようだった。
女達の噂に良くのぼるその容貌を、彼自身はあまり気にしたことはなかった。
男が見た目の美醜など気にするものではないと、そう思っていたからだ。
自分を追う女達の視線に気づくことも無くカールは歩き続けた。
やがて、ある扉の前まで来て立ち止まり、その扉を軽くノックする。
そこは父であるオステンブルク候ヘルマンの居室だった。
「父上、カールです。調査内容の報告にまいりました」
「入りなさい」
部屋に入ると、ヘルマンが執務用の机の向こう側に座って彼を待っていた。
「何が起きたかわかったのか?」
「はい、ある程度は」
そうしてカールはヘルマンの机の前に立ち、草原の民の軍勢についての報告を始めた。
草原の民は一万二千もの軍勢を率いて現れ、街の前に広がる平原に陣を敷いていた。
それが今朝、なんの前触れもなく撤退していった。
何かの罠かとも思い、いつでも援護を出せるように準備をした上で、百人ほどの騎士を偵察に向かわせたのだ。
草原の民の陣はほぼもぬけの殻となっていた。
しかも武器や食料などの物資も大量に残されたままで、いかにも慌てて逃げ出したかのような様子だった。
逃げ遅れて取り残された草原の民の兵も幾人か見つけることが出来た。
彼らを捕らえ尋問したところ、朝目が覚めたら上位の指揮官がことごとく死んでいたのだという。
そのせいで命令系統を維持できなくなった彼らは撤退していったのだそうだ。
何が起きたのかわかる者は居なかった。
一部には恐怖に駆られた表情で魔物の仕業に違いないと訴える者まであった。
一通りの報告を終え、カールはヘルマンの反応を伺った。
ヘルマンが特に興味を持ったのは、草原の民の指揮官を暗殺したのは何者なのかということだった。
「やはり、お前が手配したわけではないのだな?」
「はい、そうであれば父上に一言相談致します」
「まあ、そうだろうな。まさか本当に魔物の仕業では無いだろうしな」
そう言って頷くヘルマンにカールは首を傾げながら疑問を口にした。
「しかし、父上も知らないとなると一体誰がそのようなことをやったのでしょう? 一晩で上位の指揮官をほぼ全て暗殺するなど並大抵のことではありません」
「そのような事が可能な者に心当たりはないのか?」
「はい、まるで」
「そうか。それに関する調査は続けさせよう。まあ、焦る必要はない。おそらくそれをやった者は我らに敵する者ではあるまい」
楽観的な父の言葉にカールは僅かに眉を寄せる。
「そうであればよいのですが」
「心配性だな。まあ、あまり楽観視しすぎるのも確かに危険ではあるが」
「はい、警戒はしておいたほうが良いかと思います」
「まあ、何にしても良かった。蛮族への対応で他のことに手が回っていなかったからな」
そう言ってから、ヘルマンは小さくため息をつく。
「援軍も必要なくなってしまったな。陛下にはお叱りを受けることになるか」
「それはまあ……仕方がないでしょう」
「私の代わりに陛下に謝ってきてくれんか?」
それを聞いたカールは驚いたような表情になったあと、苦笑いを浮かべる。
「お断りします。父上の大事な仕事を奪ってしまっては申し訳ないですから」
「なに、今の私の立場もいずれお前に譲ることになるのだ。今から慣れておいたほうがいいだろう?」
「まったく。勘弁してください」
「まあ、そう遠慮することもない」
ニヤニヤ笑いながら話をするヘルマンを見ながらカールは苦笑いを浮かべていた。
こうやって軽口が叩けるのも大きな問題が既に片付いてしまったからだろう。
何者かが敵を追い払いオステンブルクの地を救ってくれた。
二人はその心のうちで、その正体不明の何者かが彼らの味方であることを祈っていた。
その朝、アンナは真十郎に会いに行くかどうか、少しだけ迷っていた。
何故なら、昨晩はずっと祈りを捧げていたため、ほとんど寝ていなかったからだ。
鏡を見て顔がむくんでいないか、目は充血していないかを確認する。
「うん。大丈夫。大丈夫なはず」
アンナはそうやって一人鏡に向かってうなずく。
少し目の下が黒ずんでいるような気もするが、化粧でなんとかごまかせるだろう。
寝不足の顔を真十郎に見せたくは無かったが、彼に会いたいという気持ちの強さがそれを上回っていた。
アンナはどうしても真十郎に会いに行きたかった。
今朝、蛮族の軍勢が突然撤退したというのを聞いてから、昨日までの沈んだ気持ちが嘘のように消えていた。
真十郎に祈れと言われた。
神様が救ってくれるかもしれないと、彼はそう言っていた。
だから何も考えず、ただ言われたとおりにしてみた。
なんとかなるとは彼女も思っていなかった。
だが、どうだろう。
朝になってみれば、蛮族の軍勢はいなくなっていた。
祈ったおかげでは無いのかもしれない。
ただの偶然なのかもしれない。
それでもアンナは、真十郎のおかげでそうなったように感じていた。
彼が自分を助けてくれたように感じていたのだ。
自分が浮かれているのがアンナにはわかった
早く彼に会いたい、早く声が聞きたい。
今日はいつにも増してそういった気持ちに抑えが効かなかった。
そうして急いで準備を終えたアンナは、弾むような足取りで外へと飛び出していった。
アンナが真十郎の小屋にたどり着いたとき、彼は座って庭の木に寄りかかっていた。
アンナが来たことに気づいたのだろう。
立ち上がりこちらへと歩いてくる。
馬上から手を振ると、控えめに手を振り返してくれた。
真十郎と目が合った。鼓動が早くなるのがわかった。
「おはよう! 真十郎」
真十郎に声をかけながら馬から降りようとする。
だが、気が逸りすぎていたのだろうか?
体制を崩し転げ落ちそうになり、慌てて馬の首にすがりつきながら、なんとか地に降り立つ。
真十郎はそれを見て一瞬驚いたような顔をしてから微笑んだ。
「おはよう、アンナ。今朝は随分と機嫌が良さそうだ」
その表情を見て、アンナは浮かれすぎていただろうかと思い、少し恥ずかしくなってしまう。
「え、ええ、そうね。すごくいいことがあったの。知ってる? 蛮族の軍隊が今朝早くに逃げて行ったんだって」
多少どもりながら、転げ落ちそうになったことをごまかすように早口でそう口にする。
それを聞いた真十郎は静かに、そして満足気に微笑んだ。
「そうか、良かった」
その笑顔を見て、アンナは自分の鼓動がまた早くなったような気がした。
何故なのかはわからない。
だが、真十郎の笑顔がいつもと少し違うような気がした。
真十郎の笑顔はアンナにはいつも悲しげなものに見えた。
今の真十郎の表情からは、そういった負の感情が消えているような気がしたのだ。
何かあったのだろうか?
もしかして自分のことで喜んでくれているのだろうか?
「何かいいことでもあったの?」
「いいこと?」
「うん。なんていうか、あなたも機嫌が良さそうに見えたから、何かあったのかなって思って」
その言葉を聞いた真十郎は何かを考えるように視線をそらし、数瞬の後、再び視線を戻した。
「そうか……そうかもしれないな」
そう言って真十郎は目を細めて笑った。
「昨日とは違って君が楽しそうに笑ってくれている。それが俺には何よりも嬉しい」
その言葉を耳にした途端、アンナは驚いたように目を見開き、やがてうつむいてしまっていた。
真十郎のその言葉が嬉しかった。
自分を気遣ってくれていたのだということが、その言葉だけでは無くその声や表情から痛いほど伝わってきた。
その嬉しさで心がいっぱいになり、涙がこぼれそうになってしまったのだ。
彼を愛しいと思う気持ちが強く激しく心の中で渦巻いているのがわかった。
その思いがどんどん高まっていき感情が抑えられなくなりそうだった。
気づけば真十郎に抱きつき、その体を抱きしめていた。
「アンナ? どうした?」
耳元で真十郎の戸惑ったような声が聞こえた。
できれば抱きしめ返して欲しかったが、この男にそこまで期待するのは無理というものだろう。
触れ合った場所から彼の体温が伝わってくる。
頬が熱い。
気を緩めると涙をこぼしてしまいそうだった。
できることなら、ずっとこうしていたいとそう思った。
どれくらい、そうしていただろう?
真十郎の体を抱きしめたまま、呼吸を整え心を落ち着ける。
ようやく、アンナは真十郎から身を離した。
今口を開けば、おかしなことを口走ってしまいそうだった。
もう一度呼吸を整え、それから微笑みを浮かべる。
「昨日はごめんね」
何か言わねばと思い、口に出てきたのはそんな言葉だった。
「昨日? なんのことだ?」
「フフッ。ううん、なんでもない。ただ謝りたかっただけだから」
「そうか」
何故謝罪されたのかわからないのだろう。
真十郎は曖昧な笑みを浮かべた。
「今日は狩りはお休みなの?」
「そのつもりだ」
「じゃあ、しばらく一緒にいてもいい?」
「ああ、もちろんだ」
「家にいて何をするの?」
「雲でも眺めていようかと思っている」
それを聞いたアンナはクスクスと笑った。
「要するに何もしないのね」
「ああ、そうだな」
アンナの言葉に真十郎も微笑みを返す。
二人して庭の木の下まで歩いて行き座り込む。
そのまま何をするでも無くただ並んで座り、雲が流れるのを眺めていた。
もうすぐ夏になる。
もたれかかった木に生い茂る葉が、強くなり始めた日差しを遮ってくれていた。
風は暖かく穏やかで、二人の間を優しく通り過ぎてゆく。
時折聞こえてくる鳥のさえずりが耳に心地よかった。
「最近、家にいるときはいつもこうやってボーッとしてるの?」
「いつもじゃない。たまにだ」
「それ以外のときは何してるの?」
「いろいろだな。弓の練習をしたり、馬の世話をしたり」
そうやって雲を眺めながら、たまに会話をする。
何の実りもない、無駄な時間の使い方だと思う。
だが、アンナにはそれが幸せだと思えた。
こんな時間がずっと続けばいいのにと、アンナは心のなかでそう呟く。
そんな時間をどれほど過ごしただろう?
教会の鐘が鳴る音が聞こえてきた。
それを聞いて、アンナはゆっくりと立ち上がった。
「今日はもう帰るわ。あまり長くいると怒られちゃうし」
「そうか」
「うん。またね」
「ああ」
真十郎もアンナを見送るために立ち上がった。
アンナは馬のところまで歩いていってから振り向いた
「ありがとう」
そう言って、馬に登りまたがる。
それを見る真十郎は少し困惑した表情をしていた。
「なんの礼だ?」
「なんでもないわ。ただお礼が言いたかっただけ」
「そうか」
その答えを聞いた真十郎は、まだ少し困惑しているようだった。
それを見てアンナはクスリと笑ってから、手を振った
「じゃあまたね」
「ああ」
真十郎が控えめに手を振り返すのをあとにして、アンナは馬を進ませ帰路についた
幸せだと、そう思えた。
ほんの短い時間であっても真十郎と過ごす時間は、いつの頃からか彼女にとってかけがえのないものになっていた。
だが、それもいつまで続けられるだろうか?
いずれ彼女はどこかに嫁がなければならないだろう。
その相手に真十郎が選ばれることはきっと無い。
「またお祈りしたら、神様が助けてくれたりしないかな?」
無意識のうちに口をついた言葉に、アンナ自身が驚いていた。
「フフッ、バカみたい」
そんな奇跡みたいなことが起こるはずは無いと、そう思いかけて考え直す。
今朝蛮族がいなくなっていたのも彼女から見れば奇跡のようなものだったのだ。
もしかしたら、自分と真十郎が結ばれたりすることもあるかもしれないではないか。
「でも、流石にそんなにうまくはいかないよね」
その頬に哀しげな笑みが浮かぶ。
彼女の望む結果を期待すればするほど、うまくいかなかったときの落胆は大きくなるだろう。
それでも、真十郎に対する思いは変わらない。
たとえ、この思いが叶う事は無いのだとしても……
「今は幸せ。それでいいの」
わざわざ心が沈むような事を考えるのは愚かなことだ。
そう、アンナは自分に言い聞かせる。
振り返り、真十郎の小屋に目を向ける。
既に小屋の中に戻ったのか、彼の姿は見えなくなっていた。
あと何度、こうして彼に会いに来ることが出来るだろうか?
「奇跡、もう一度起きないかな……」
アンナはうつむき、一人呟く。
「今日から毎日神様にお祈りしてみようかな」
どうせ駄目なのであれば、出来ることは何でもやっておくべきではないだろうか。
流石に図々しいと、神様に怒られそうだけれど。
それでも、もしかしたらもう一度くらいは神様も助けてくれるかもしれない。
いくらなんでも天罰を下されたりはしないだろうし、やれるだけやってみるべきではないか。
今日からお祈りを始めようと、そうアンナは心に誓いながら、再び家路をたどり始めた。




