03.決意
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「ねぇ、ドリス。私、アンセルム様と結婚しようと思うの」
数日後。ベルトラン子爵家に帰った二人は、いつもの日常へと戻っていた。
ルシールは養鶏場の片隅で、肉屋に卸す鶏を一羽ずつ締めながら、決意のこもった眼差しを傍らのドリスに向けた。
相変わらずこの令嬢は、鶏を締めるのが上手い。確実に急所を突くので、鶏は暴れも苦しみもせず、静かになる。ドリスは感心しながら締められた鶏の羽根を毟っていたため、ルシールの言葉に反応するのが遅れた。
「……ん? アンセルム様と、ですか? ケンタウロス……じゃなかった、ケンタリオ殿はもうよろしいのですか?」
「よろしいわけないじゃない!」
次の鶏を掴み、ルシールは悲痛な声を上げる。
ちなみに、令嬢と侍女が揃ってこのような生々しい作業をしているのは、単に従業員が少なく、手が回らないからである。
「あれからずっと考えていたの。あの筋肉という筋肉が肥大した、ケンタウロス様の手……」
「ケンタリオ殿です」
「あの見事な前腕筋に包まれて、大胸筋に顔を埋めたい! けれど……」
そっと視線を落とすと、長い睫毛が頬に影を落とした。その手の中で、鶏が声もなく絶命する。
「ケンタウロス様は、異国の方。いくら世間知らずの私でも、彼を選んだらこの家が潰れることくらいは想像できるわ」
「ケンタリオ殿ですってば。しかし、まぁ、そうですね。ルシール様のご結婚は、ベルトラン家の最後の切り札とも言えますから」
「だから、私がキノワール家に嫁げば、アンセルム様の護衛を務めているケンタウロス様とも、ずっと一緒にいられるってことじゃない?」
「……はい?」
名前の訂正は、もう諦めた。
「あ、もちろん、それで不貞を働こうとは思っていないわよ。私はあの筋肉を、少しでも近くで毎日眺めたいだけなの」
ドリスは、真剣そのものの顔で語るルシールを、じっと見つめた。
「結果的にキノワール伯爵家と姻戚関係になれるのなら、ベルトラン家としては願ったり叶ったりですが……ルシール様は本当にそれでよろしいのですか? アンセルム様は、その……控えめに言って、ルシール様のお好みとは真逆のタイプでしたが」
「念のため確認しておきたいのだけれど、キノワール伯爵のご夫人はご健在なのかしら」
「……ご健在です」
「残念だわ……」
不在であればどうするつもりだったのか。ドリスは聞くのをやめた。
「と、ともかく。キノワール伯爵がアンセルム様をルシール様に紹介されたということは、伯爵にとってルシール様の印象は悪くなかったのだと思います。ルシール様のお気持ちが固まったのであれば、あとはアンセルム様のお気持ち次第ではないかと」
「アンセルム様ともっとお近づきになれるいい方法を、何か考えてちょうだい」
「かしこまりました」
ルシールの侍女としてベルトラン子爵家に来てから、十年余り。主人の結婚をサポートするという初の大仕事に、ドリスは無意識に居住まいを正した。
その時、養鶏場の入り口に人影が現れた。
「ルシールちゃーん。お父様が大変なのー」
大変とは程遠いのんびりと間延びしたその声は、ベルトラン夫人、ルシールの母のものだった。
「旦那様がどうされましたか?」
「牛に襲われているわ」
またか、とドリスは小さく息を吐いた。これが初めてであれば血相を変えて駆けつけるところだが、ベルトラン子爵が牛に襲われるのは日常茶飯事である。
「お父様ってば、また一人で牛の屠殺をしようとしたの?」
「私は止めたのよぉ? でも、ルシールちゃんにばっかり任せていては申し訳ないって言って聞かなくってぇ」
ルシールは、鶏の羽根と血がついたエプロンを着けたまま歩き出した。ドリスもその後に続く。
二人とベルトラン夫人が牛舎の近くまでやってくると、その奥の、食肉処理のための作業場から声が聞こえてきた。
「ごめんよぉ……儂だって本当はこんなことしたくない……でも、誰かがしなければならないんだ。ごめんよぉ」
情けない声で許しを乞うのは、壁際で一頭の牛に詰め寄られているベルトラン子爵だった。
「まぁ、お父様。ここまで牛を連れてくることはできたんですね。成長されましたわ」
「おぉ、ルシール。ガウディと二人で連れてきたものの、ここから先がどうにも……うひぃっ!?」
牛が頭を大きく揺らし、子爵は体を竦めて悲鳴を上げた。その牛から一番離れたところでは、初老の執事ガウディが、青い顔でブルブルと震えている。
ルシールはガウディに歩み寄り、彼が抱きしめるように抱えていた剣を受け取った。
剣にしては短く、短剣にしては長い。また、細剣ほど細くはないが、通常の剣に比べれば細身の特注品である。
鞘から抜くと、冷たく鋭利な刃が、窓から差し込む光を受けて妖しく煌めいた。
「ルシール様。お手伝いいたしましょうか」
返答は分かっていたが、ドリスは声を掛けた。予想通り、ルシールは首を横に振る。
「おいで」
いつもと変わらぬ調子で、ルシールは牛に近づいていく。牛は新手の人間に警戒を強め、今にも飛びかかろうという血走った目を、ルシールに向けた。
「おいで」
もう一度、今度は牛の目を真っ向から見つめて、ルシールは促した。牛もまた、荒い息を吐きながらルシールを見つめ返す。
誰も微動だにしない、時が止まったかのような静寂。牛の呼吸が、徐々に鎮まっていく。
そして牛がゆっくりと瞬きをした瞬間、ルシールの手が動いた。
切先を真っ直ぐ牛に向け、淀みなく貫く。研ぎ澄まされた刃が深く沈み込み、次の瞬間、牛は断末魔を上げることもなく地面に倒れた。
ドリスは、この光景を何度も目にしてきた。生々しく、できることなら目を背けてしまいたい場面だ。慣れない頃は、命が奪われる様に罪悪感に駆られ、暫く調子を崩したこともあった。しかし、鶏にしろ牛にしろ、ルシールは必ず一撃で仕留める。彼らに無駄な苦しみを与えることは、絶対にない。それだけはいつも、ドリスの救いだった。
絶命した牛の前に跪き、ルシールは両手を合わせて目を閉じる。
「――いただきます」




