第9話 ヒロインは、浄化技師補佐見習いになりました
「君は、ミリアをいじめたという噂まであるそうだな。私の気を引きたいなら逆効果だ」
面会室の空気が、一段冷えた。
リディアは記録板の端を押さえていた指を、ゆっくり離す。
怒鳴り返すなど、業務上のリソースの無駄だ。
噂という名の未整理データ。感情で応じれば、ノイズが増えるだけ。
リディアはペン先を紙に落とした。
「いじめ、という重大な指摘ですね。処理には一次情報が必要です。発生日時、場所、証言者名を教えていただけますか」
アルベルトが眉をひそめる。
「何?」
「確認可能な情報がなければ、正式な案件として扱えません」
面会室の外で、止まっていたセオの羽ペンが動き出した。
かり、と乾いた音。
王太子の発言が、感情ではなく記録へ変換される音だった。
「そういう話ではない。噂があると言っている」
「噂は担当者名がないので処理しづらいですね」
リディアは記録板へ視線を落とした。
「発言者不明。日時不明。場所不明。内容は抽象的。現時点では確認不能な未整理情報です」
「君は、どこまで書類の話にするつもりだ」
「事実関係が分かるところまでです」
アルベルトの口元が引きつった。
彼は、責めればリディアが揺らぐと思っていたのだろう。
嫉妬。
悪意。
いじめ。
その言葉をぶつければ、彼女が王宮の空気へ引き戻されると思っていた。
だが、リディアは噂を手早く広げ、汚れの出所を確認し始めている。
湿った紙束を処分する時と、同じ手つきで。
「では、本人に確認しましょう」
「本人?」
「ミリアさんです」
リディアは扉の方へ視線を向けた。
「ノラ。ミリアさんは今、研修室でしょうか」
面会室の隅に控えていたノラが、静かに頷く。
「はい。浄化補助の基礎手順を確認中でございます」
「本人の意思を確認したうえで、こちらへ来られるか尋ねてください。発言したくなければ、そのままで構いません」
「承知いたしました」
ノラが一礼し、部屋を出ていく。
アルベルトは、不満そうに椅子へ座り直した。
「本人に聞けば、素直に答えると思うのか」
「答えを強制するつもりはありません」
「ならば、なぜ呼ぶ」
「当事者確認です。噂を扱うなら、最低限必要ですので」
リディアは砂時計を見た。
残り時間は多くない。
未確認の噂に割く時間としては、すでに十分すぎる。
*
ほどなくして、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた少女を見て、アルベルトは一瞬、言葉を失った。
王宮の夜会で扇を落とした、あの平民の少女。
ミリア。
だが、そこにいたのは、白いドレスの少女ではなかった。
動きやすい生成りの作業服。
補佐職員用の腕章。
後ろで簡単にまとめた髪。
手には研修用の手順書。
袖口には、浄化粉らしき白い跡が少し残っている。
ミリアは緊張した顔で一礼した。
「浄化技師補佐見習い予定のミリアです」
アルベルトの目に、はっきりと困惑が走った。
「……聖女候補ではなく?」
「はい。まだ基礎手順の研修中です。測定器の扱いも、避難確認も、覚えることがたくさんありますので」
「浄化技師補佐見習い」
アルベルトは、もう一度その役職名を口にした。
言葉そのものが、喉に引っかかったようだった。
目の前の少女は、彼が手を差し伸べる隙など探していない。
ただの一度も、助けを求める視線を送ることなく、手元の手順書を大切そうに抱え直していた。
リディアはミリアへ視線を向ける。
「ミリアさん。今から確認する内容について、答えたくない場合は答えなくて構いません。ここでの発言を強制するものではありません」
「はい」
「王太子殿下より、私があなたをいじめたという噂があると指摘がありました。心当たりはありますか」
ミリアの目が丸くなった。
「いじめ、ですか?」
心底意外そうな声だった。
その反応だけで、面会室の温度が少し変わる。
アルベルトは椅子の肘掛けを握った。
「君は、リディアに厳しくされているのではないのか」
「厳しいです」
ミリアは素直に頷いた。
アルベルトの目に、わずかに色が戻る。
やはり、と言いたげだった。
けれど、ミリアはすぐに続けた。
「でも、分かりやすいです」
「分かりやすい?」
「はい。危ないことは危ないと、先に言ってくださいます。できないことを、できるふりしなくていいとも言われました」
ミリアは手順書を胸元に寄せる。
「測定前に浄化しようとして叱られました。あと、休憩時間に手順書を読み返していた時も叱られました」
アルベルトは眉を寄せる。
「休憩中に?」
「はい。リディア様に『休憩時間に休まない新人は、後で倒れます』と」
リディアは軽く咳払いした。
「倒れられると、本人も現場も困ります」
面会室の外で、セオの羽ペンが動く音がした。
いつもの軽口はない。
ただ、王太子の前で発生した証言を、客観的な証拠記録として研ぎ澄ませている。
リディアは扉の方を見た。
「セオ。今の発言は、業務指導の内容として記録してください」
「承知しました」
即答だった。
ミリアは少しだけ笑った。
その笑みは、王宮で見せた怯えたものとは違った。
まだ不安はある。
けれど、自分の足元を確認できる人の笑みだった。
「初めて、自分の名前でお給金をいただきました」
ミリアは照れたように言う。
「少しですが、実家へ仕送りもできました。食事と寝る場所もあります。勤務時間も休憩時間も決まっていて……覚えることは多いですけど、何をすればいいか分かるので、前より怖くありません」
アルベルトは黙った。
守るべき少女。
自分が救い出す相手。
その姿が、彼の頭の中で少しずつ崩れていく。
目の前のミリアは、救いを待っていない。
働き始めている。
給金を受け取り、仕送りをし、手順書を読み、失敗を叱られながらも仕事を覚えている。
「君は、リディアにいじめられているのではないのか」
アルベルトは、なおも問いかけた。
ミリアは今度こそ、まっすぐ首を振った。
「私、いじめられていません。業務指導を受けています」
面会室に、その言葉が落ちた。
静かで、強い。
「怒られたことはあります。でも、私が危なかったからです。休憩を取らないことも、測定前に浄化しようとすることも、あとで大きな事故になるって教えていただきました」
ミリアはリディアを見た。
「厳しいです。でも、理不尽ではありません」
アルベルトは返事ができなかった。
彼が想像していた悪役令嬢は、ここにはいない。
嫉妬で少女をいじめる婚約者もいない。
いるのは、休憩を取らない新人を叱る上司だった。
そして、叱られながらも仕事を覚えようとしている新人だった。
*
リディアは記録板へ書き込む。
「当事者確認。いじめの事実なし。業務指導あり」
セオの声が、面会室の外から静かに続いた。
「噂の発生源は未確認のままです」
「そうですね」
リディアはアルベルトを見る。
「殿下。噂をお聞きになった発言者名を、追記できますか」
アルベルトの眉が動く。
「それは……」
「日時、場所、発言者名。最低限、その三つが必要です」
「噂があること自体、問題だろう」
「はい。ですので、噂を流した方の確認が必要です」
アルベルトは答えられなかった。
噂。
誰かが言っていた。
そう聞いた。
たぶん、そうなのだろう。
その程度の曖昧なものを、彼は切り札のように出した。
だが神殿では、それは切り札ではない。
担当者名のない依頼書と同じ。
処理に困る紙切れである。
「噂は担当者名がないので処理しづらいですね」
リディアは静かに言った。
「ですが、当事者確認は取れました」
外でセオの羽ペンが、容赦なく走る。
『ミリア本人、いじめを否定』
『業務指導の内容:休憩取得、測定手順』
『噂の発生源:王太子殿下未提示』
最後の一文だけ、筆圧が妙に強い気がした。
リディアは見なかったことにした。
「ミリアさん、ありがとうございました。業務へ戻って構いません。ただし、今が休憩時間なら休憩を優先してください」
「はい」
ミリアは小さく頷く。
「休憩も業務です」
外で羽ペンが動く。
今度も軽口はなかった。
その短い言葉が、証言として丁寧に紙へ沈んでいく。
ミリアは一礼した。
そして面会室を出ていく。
作業服の袖が扉の向こうへ消える。
アルベルトは、その背中を見送った。
彼女は振り返らなかった。
助けを求める目もなかった。
*
砂時計の砂が、ほとんど落ち切っていた。
ノラが静かに口を開く。
「面会終了時刻でございます」
アルベルトは、はっとしたように砂時計を見る。
「まだ話は終わっていない」
リディアは記録板を閉じた。
「本日の予定時間は終了しました」
「王太子である私の話を、時間で切るのか」
「王国防衛より緊急のお話でしょうか」
アルベルトの口が止まった。
王国防衛。
その言葉を出されると、ただの感情論では押せない。
神殿は今、生活用水、結界、浄化、避難確認を扱っている。
王太子の苛立ちが、それより緊急か。
そう問われている。
アルベルトは答えられない。
リディアは続けた。
「緊急性がある場合は、来訪者記録に追記してください。ない場合は、次回の面会申請を文書でお願いいたします」
「リディア」
「本日の面会記録は、写しをお渡しできます」
徹底している。
徹底しすぎている。
アルベルトは立ち上がった。
椅子がわずかに音を立てる。
リディアは礼をした。
「ご来訪ありがとうございました」
婚約者としての引き止めはない。
王太子への泣き言もない。
ただ、面会が終わった来訪者への礼があるだけだった。
*
神殿の受付へ戻ると、エリンが丁寧に頭を下げた。
「ご来訪記録は完了しております」
アルベルトは、その一言に足を止めかけた。
完了。
王太子が来た。
婚約者に会った。
噂を持ち出した。
だが、神殿に残った結果は、来訪記録の完了と面会記録の写し。
エリンが、薄い書類を差し出す。
「こちらが面会記録の写しでございます」
アルベルトは受け取った。
白い紙。
整った文字。
味気ない記録。
待合では、民が順番札を取っている。
赤い優先札の子どもが来ると、人々が自然に道を空けた。
白い優先札の貴族らしい男が、予約表の前で日程を確認している。
青い優先札の依頼書を持った職員が、手順書を見ながら現場班へ声をかけていた。
神殿は動いていた。
アルベルトが来ても、止まっていない。
神殿は、王太子という異物を記録し、時間で区切り、面会記録の写しを持たせて、静かに外へ流した。
アルベルトは神殿を出た。
王太子の紋章をつけた馬車に乗り込む。
扉が閉まる。
少し遅れて、神殿の門が閉まる音が、遠く馬車の中にまで届いた。
アルベルトの手元に残ったのは、リディアに受け取らされた面会記録の写し。
ただそれだけの、味気ない事務書類だった。




