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第10話 祈りに時間外などない、と大神官は言った

 定時直前の扉の音ほど、職場の空気を冷やすものはない。


 その日の執務室には、かつての戦場のような喧騒が嘘のような、凪いだ時間が流れていた。


 書類の山は消えた。

 受付からの呼び出しもない。

 壁の手順書の前で、新人神官たちが明日の確認を終えている。


 全員が、心のどこかで同じ奇跡を信じかけていた。


 今日は、定時で帰れる。


 この神殿において、それは女神の祝福に近い出来事だった。


「本日は、このまま退勤できそうですね」


 エリンが、小さく息を吐いた。


 セオは記録板を閉じようとしている。


 その動作にすら、どこか厳粛さがあった。


「帰れる時は帰りましょう。退勤までが業務です」


 リディアがそう言った、その直後だった。


 扉が叩かれた。


 執務室に残っていた安堵が、一瞬で冷える。


 ノラが扉を開ける。


 立っていたのは、大神官グレゴリウスだった。


 白い法衣。

 重い杖。

 皺深い顔に浮かぶ、当然のような命令の色。


 彼は、リディアを見た。


「リディア殿。今夜、東の侯爵家へ向かっていただきます」


 その言葉には、他者の都合を考慮する余地など微塵もなかった。


 セオが無言で記録板を引き寄せる。


 紙が擦れる音は、獲物を前にした猛禽が爪を研ぐ音に似ていた。


「内容を確認します」


 リディアは立ち上がった。


「東の侯爵家で、何が起きたのでしょうか」


「温室の薔薇に病の兆しがあるとのことです。葉先が黒ずみ始めたそうで」


「病人は出ていますか」


 グレゴリウスの眉が動く。


「薔薇の病です」


「人の病ではないのですね」


「東の侯爵家は、古くから神殿を支えてくださっている家ですぞ。その薔薇も、代々大切にされてきた由緒あるものです」


 リディアは、手元の記録板を開いた。


「正式依頼書はございますか」


「侯爵家から直接の依頼です」


「緊急認定印は」


「そのようなものは不要でしょう。侯爵家からの依頼です」


「受付記録は」


「私が直接受けました」


「受付を通っていない、ということですね」


 セオの羽ペンが走った。


 ざり、と紙を削る音。


 グレゴリウスの視線が、わずかにそちらへ動く。


「リディア殿。これは侯爵家からの依頼ですぞ」


「承知しております」


「貴族の信頼を失えば、神殿の運営にも差し障ります」


「信頼は大切です。ですが、手順を飛ばす理由にはなりません」


「聖女ならば、求められた祈りを断るべきではありません」


 グレゴリウスの杖が床を突いた。


 こつ、と硬い音が響く。


「祈りに時間外などありません」


「あります」


 即答だった。


 部屋の空気が止まる。


 グレゴリウスの白い眉が、ゆっくりと吊り上がった。


「今、何と」


「あります。祈る者にも体がありますので」


 リディアは声を荒げなかった。


 だからこそ、その言葉はまっすぐ通った。


「薔薇の病除け祈祷ですね。緊急度は低。正式依頼書を提出のうえ、白い優先札の予約枠へ回してください」


「侯爵家の温室を、一般の私的祈祷と同列に扱うのですか」


「はい。対象は温室の薔薇です」


「由緒ある薔薇だと言っている」


「由緒は確認しました。緊急性は確認できません」


 セオの羽ペンがさらに速くなる。


 エリンは受付記録を胸に抱えたまま、青ざめていた。


 けれど逃げない。


 王太子を受付で止めた時と同じように、震える足でその場に立っている。


「今夜、無理に動く場合の稼働影響を申し上げます」


 リディアは淡々と続けた。


「移動、現地確認、祈祷、再確認、記録提出。最低でも三時間。同行神官二名、馬車一台、夜間警護。明朝の浄化班の稼働率は、およそ一五パーセント落ちます」


 グレゴリウスの口元が歪む。


「祈りを数字で量るとは」


「量らなかった結果が、未処理三百二十件です」


 その数字が出た瞬間、グレゴリウスの顔色が変わった。


 リディアは引かなかった。


「一輪の薔薇のために、明日の子どもの命を賭ける気はありません」


「侯爵家を軽んじるのですか」


「命と嗜好品を同じ列に置かないだけです」


 室内の誰かが、息を呑んだ。


 グレゴリウスの杖を握る手に力が入る。


「あなたは、聖女としての心を失っている」


「心を理由に手順を壊せば、次に泣くのは現場です」


「祈りは奉仕です」


「奉仕する者を使い潰せば、明日の祈りが消えます」


 リディアは、机の上に置かれた勤務表を指で押さえた。


「今日、限界を超えて薔薇へ祈れば、明日の瘴気を吸った子どもに向ける力が減ります」


「神殿は貴族の信頼によって支えられている」


「民の信頼も同じです」


 短い言葉が、乾いた音で積み上がっていく。


 長い説教ではない。


 確認。


 分類。


 判断。


 その一つひとつが、大神官の精神論を事務机の上へ引きずり下ろしていた。


 その時、エリンが一歩前へ出た。


「あ、あの」


 声は震えていた。


 グレゴリウスが彼女を見る。


 エリンの肩が跳ねる。


 それでも、彼女は受付記録を開いた。


「本日、東の侯爵家からの正式受付記録はございません」


 空気が冷えた。


「受付係」


 グレゴリウスの声が低くなる。


「あなたは、私の言葉を疑うのですか」


 エリンの唇が白くなる。


 だが、視線は記録から離れなかった。


「疑っているのではありません。受付記録には、ございません」


 セオの羽ペンが、容赦なく走る。


 その音を聞いて、リディアは思った。


 いま大神官の言葉は、権威ではなく証拠になっている。


 グレゴリウスも、それに気づいているのだろう。


 彼の顔には怒りだけではなく、焦りが浮かんでいた。


 若い神官たちは、もう杖の音だけでは止まらない。

 エリンは受付記録を読み上げる。

 セオは発言を残す。

 リディアは侯爵家の名で膝を折らない。


 神殿が、自分の一声で動かなくなっている。


 その事実が、大神官の足元を削っていた。


「あなたのような者に、聖女の務めは任せられません」


 グレゴリウスは言った。


「王城で問うことにいたしましょう」


 リディアは静かに見返す。


「何を、でしょうか」


「あなたに、聖女としての資質があるかを」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 査問。


 その単語は出ていない。


 けれど、意味は全員に伝わった。


 王城。

 聖女としての資質。

 神殿だけの問題では済ませないという宣告。


 グレゴリウスは、勝ったような顔をした。


 この場ではリディアを動かせない。


 ならば、王城へ持ち込む。


 貴族たちの前で、王宮の前で、聖女らしさという曖昧な刃を向ける。


 それが彼の選んだ手だった。


「王城で、正式に問います」


「承知しました」


 リディアは怯えなかった。


 ただ、記録板を閉じる。


「その場合、本日のやり取りも提出対象になります」


 グレゴリウスの目が細くなる。


「好きになさい」


「はい。そういたします」


 セオの羽ペンが、ざり、と最後の一行を刻んだ。


 大神官はそれ以上何も言わず、重い足取りで執務室を出ていった。


 杖の音が廊下を遠ざかる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 以前なら、神殿中の職員を萎縮させた音だ。


 だが今、部屋に残った者たちは、その音ではなく、セオの紙束が揃う音を聞いていた。


     *


 扉が閉まると、エリンがその場で小さく息を吐いた。


 膝が少し揺れている。


 ノラがすっと近づき、彼女の背を支えた。


「お疲れさまでした」


「わ、私、余計なことを」


「必要なことでした」


 リディアが言うと、エリンの目が潤んだ。


「受付記録には、ありませんでしたから」


「はい。それを言えたことが大事です」


 エリンは何度も頷いた。


 セオは、黙々と記録を整えている。


 早い。


 迷いがない。


 紙を重ねる指が、ひどく冷静だった。


「査問会になりますね」


 リディアが言った。


「はい」


 セオは即答した。


「準備は」


「記録は揃っています」


 彼は紙束の端を揃えた。


 そこには、勤務時間外命令、正式依頼書なし、緊急認定なし、対象は侯爵家温室の薔薇、という乾いた事実が詰まっている。


 セオはその束を、ひとつの封筒へ滑り込ませた。


 封蝋を落とす。


 赤い蝋が固まり、神殿記録室の印が押される。


 それは書類というより、装填された弾丸に近かった。


 とん、とセオが封筒を机に置く。


 乾いた音が執務室に落ちた。


 大神官という古い権威を、事務手続きという名の審判台へ送るための、カウントダウンのようだった。


「記録は揃っています」


 セオの声は、ひどく静かだった。

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