第11話 神殿の記録室は、意外と牙を持っている
神殿の記録室は、思ったよりも牙を持っていた。
セオが両腕いっぱいに抱えて戻ってきたのは、古い依頼簿、祈祷派遣記録、休職届の写しだった。
神殿が「なかったこと」にしてきた怠慢の死屍累々。
机に置かれるたび、どさり、と鈍い音がする。舞い上がる埃は、積み重ねられた沈黙の残骸のようだった。
「記録室は、思ったより牙を持っていました」
セオの瞳には、祈りの場には不釣り合いな冷たい光が宿っていた。古い依頼簿をめくる指先に、迷いがない。
「旧体制を噛むには十分です」
「物騒ですね」
「物騒なくらいでないと、旧体制は痛みを感じません」
セオは一冊の依頼簿を開いた。
湿った棚と古いインクの匂いが立ち上る。
「西門の結界事故。被害者一名。同日、聖女補佐二名が侯爵夫人の温室祈祷へ派遣されています」
リディアは、紙面に記された日付を指でなぞった。
結界の揺らぎ。
商人の負傷。
延期された点検。
その裏で、温室の薔薇へ祈るために動かされた聖女補佐。
大神官が守ろうとした「由緒」の代償が、乾いた文字で残っている。
「記録上は偶然です」
セオは言った。
その声は、少しも偶然を信じていなかった。
「温室、祝宴、私的祈祷。そのたびに生活浄化が後ろへ押し出されている」
セオが書類の束を指で叩く。
とん、と乾いた音。
その一音が、大神官という古い権威の急所を正確に測っているように聞こえた。
「美談は人を黙らせますが、数字は黙りません」
セオは次の紙束を置いた。
「大神官が祈りの尊さを語るなら、こちらはその裏で誰が待たされ、誰が倒れ、誰の依頼が消えたかを出します」
リディアは黙って頷いた。
未処理件数。
待ち時間。
結界事故。
過労離脱。
寄付額の高い家ほど優先されていた私的祈祷。
それらは叫ばない。
ただ、日付と時刻と担当者名を持っている。
それだけで、噂や精神論よりずっと強い。
「寄付者名簿と私的祈祷記録の照合は?」
「相関はあります。断定には、もう一枚ほしいところです」
「もう一枚」
「記録室の奥に、まだ開けていない棚があります」
「……開ける気ですね」
「必要なら」
セオが短く答えた。
リディアは、背筋の奥に小さな寒気を覚えた。
この男は、もう単に資料を探しているのではない。査問会の卓上へ、旧体制の骨ごと叩きつけるつもりだ。
定時退勤を知った書記官は、やはり過激になる。
*
扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのはエリンだった。
両手で受付記録の束を抱えている。表紙を押さえる指は、少し震えていた。
「あの、リディア様。こちら、受付の記録です」
エリンはおそるおそる机へ置く。
「順番札制度を始める前と後の待ち時間、それから、赤い優先札の対応件数、白い優先札の予約化後の割り込み未遂件数をまとめました」
セオが無言で近づいた。
その目が、また冷たく光る。
エリンがびくりと肩を揺らした。
「セオさん、その顔は少し怖いです」
「良い一次資料を前にしていますので」
「良い一次資料……」
「受付係の手書き記録は強いです。神殿の入口で何が起きていたかを示します」
エリンは目を丸くした。
「私の仕事が、証拠になるのですか」
「なります」
リディアは、エリンの記録を一枚めくった。
字はところどころ震えている。
伯爵夫人の日。
ダリオ・ベルトンの日。
王太子殿下を来訪者記録に入れた日。
そのあたりは、線が少しだけ乱れていた。
けれど、日付がある。
時刻がある。
対応者名がある。
案件内容がある。
震えていても、逃げていない字だった。
「十分です。これは、あなたが受付で逃げなかった証拠です」
エリンの目が潤む。
「逃げなかった、だけです」
「それが一番難しい日もあります」
エリンは小さく頷いた。
セオが記録束の中から一枚を抜き出す。
「特に、王太子殿下の来訪者記録は強いです」
エリンの顔色が変わった。
「あれも出すのですか」
「出します」
「必要な範囲で、です」
リディアが釘を刺すと、セオは紙面から目を離さずに答えた。
「必要な範囲に含まれます」
断言だった。
リディアは思わず黙る。
この一枚が王城の卓上に置かれる光景が、あまりにも容易に浮かんだ。王太子でさえ受付で止められたという事実は、神殿の新しい秩序が身分で曲がらない証明になる。
エリンは複雑そうな顔で、自分の受付記録を見る。
「私、ずっと怒られるだけの受付係だと思っていました」
小さな声だった。
「でも、記録していてよかったです」
「あなたの記録は、神殿の入口を守りました。今度は、あなた自身も守ります」
エリンは唇を結び、それから深く頭を下げた。
*
ミリアが来たのは、研修後のことだった。
生成りの作業服の袖口に、まだ少し浄化粉がついている。
手には研修用の手順書。
補佐職員用の腕章は、以前よりも少しだけ彼女の腕に馴染んで見えた。
けれど、表情は硬い。
「リディア様。私も、王城で話すことになるのでしょうか」
「可能性はあります」
リディアが答えると、ミリアの指が手順書の端を握った。
「王太子殿下や、貴族の方々の前で?」
「はい。ただし、話したくなければ話さなくて構いません」
ミリアは、すぐには答えなかった。
視線が足元へ落ちる。
王宮の夜会で扇を落とした少女。
王太子に守られるはずだった少女。
噂の中では、リディアにいじめられたことにされかけた少女。
そのどれでもなく、今ここにいるのは、浄化技師補佐見習い予定のミリアだった。
「怖いです」
ミリアは正直に言った。
「でも、リディア様に救われたことは言いたいです」
リディアは資料から顔を上げた。
ミリアは続ける。
「初めて、自分の名前でお給金をもらえました。実家に仕送りできました。休憩時間に休んでいいって、言われました。できないことを、できるふりしなくていいって」
リディアは、少しだけ表情をやわらげる。
「立派なことを言わなくていいです。あなたの言葉で十分です」
「私の言葉で」
「はい。給金を受け取ったこと。仕送りできたこと。休憩を取るよう叱られたこと。怖さが減ったこと。それだけで十分です」
ミリアは手順書を胸に抱え直した。
「私、聖女候補じゃなくても、ちゃんと働いているって言います」
その言葉に、セオの羽ペンが動いた。
リディアはちらりと見る。
「今のは、記録してよいです」
「承知しました」
セオの筆圧が、少しだけやわらかくなった。
*
リディアたちが記録を整えている頃、大神官グレゴリウスも動いていた。
重い香の煙が満ちる部屋。
東の侯爵家の使者と、数名の寄付者貴族が集められている。
「王城で、聖女としての温かみを問う必要がございますな」
大神官は深く頷いた。
「リディア殿は、能力はあるのでしょう。ですが、祈りを時間で区切り、貴族の依頼を薔薇だからと退ける。その姿勢が、聖女にふさわしいかどうか」
「神殿が役所になってしまう」
「寄付しても予約枠に回されるなら、我々の信仰はどう扱われるのです」
「冷たい聖女ですな」
彼らは、まだ自分たちの土俵で勝負できると信じ切っていた。
温かみ。
信仰。
由緒。
貴族の信頼。
そうした言葉を並べれば、若い令嬢一人など押しつぶせると思っている。
リディアが事務机の下で、彼らの首を撥ねるための数字の刃を研ぎ終えていることも知らずに。
同じ頃、王宮にも噂は届いていた。
アルベルトは、側近クラウスから報告を受けながら、黙っていた。
冷たい聖女。
祈りを時間で区切る令嬢。
王太子の面会すら十五分で切った婚約者。
腹立たしい言葉ばかりだった。
だが、ミリアの声も残っている。
私、いじめられていません。業務指導を受けています。
あの作業服の少女は、泣いていなかった。
リディアは慌てなかった。
神殿は、アルベルトが来ても止まらなかった。
彼は返書のない机を見つめたまま、何も言わなかった。
*
夜。
リディアは一人、机の上の紙束を見つめていた。
王城。
査問。
聖女の資質。
かつて自分を処刑台へ送るはずだった広間が、脳裏をかすめる。
けれど、今手元にあるのは悲劇の脚本ではない。
冷徹な事実を刻んだ記録簿だ。
エリンの受付記録。
ミリアの研修記録。
セオが掘り出した古い依頼簿。
侯爵家の薔薇祈祷をめぐる勤務時間外命令の控え。
紙束は重い。
その重みが、リディアの指先に確かな手応えを残した。
もう、誰かの書いた悲劇の役を演じる必要はない。
手元の記録が、彼女の最強の武器になる。
「悪役令嬢にするには、証拠が整いすぎています」
扉の近くで、セオが顔を上げる。
いつの間にいたのか、封筒を抱えて立っていた。
「では、悪役令嬢ではなく、証拠提出者として参りましょう」
「物騒ですね」
「査問会ですので」
「あなたは査問会を何だと思っているのですか」
「記録が牙を剥く場です」
リディアは小さく笑った。
緊張が消えたわけではない。
けれど、足元はある。
今度は、誰かの筋書きに乗せられて王城へ行くのではない。
自分たちの手で揃えた記録を持っていく。
*
翌朝、王城からの使者が神殿に到着した。
受付でエリンが来訪者記録を取り、使者は少し戸惑いながらも名前を書いた。
神殿は、王城の使者に対しても通常運転だった。
差し出された封書には、王家の封蝋が押されている。
リディアはそれを受け取り、封を切った。
『神殿における聖女見習いリディア・エルネストの職務判断ならびに聖女としての資質について、王城にて確認会を行う』
確認会。
柔らかい言葉で包まれているが、実質は査問である。
エリンの顔が青くなる。
ミリアは手順書を握りしめた。
セオだけが落ち着いていた。
「想定通りです」
リディアは通知書から顔を上げる。
「準備は」
セオは、分厚い封筒を一つ差し出した。
神殿記録室の印が押されている。
「記録室の牙です。装填は完了しました」
リディアはそれを受け取った。
封蝋が、指先にひやりと触れる。
王家の馬車が神殿の門をくぐる音がした。
重い車輪が、石畳を叩く。
リディアは封筒を胸元で抱え直した。
「行きましょう」
車輪の音が、もう一度、石畳を叩いた。
その重厚な響きは、今日、王城の古い秩序を叩き壊すための、静かな宣戦布告だった。




