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第8話 王太子殿下、受付で止められる

 王太子アルベルトが神殿の敷地を踏んだ瞬間、待合の空気が凍りついた。


 王家の紋章を掲げた馬車。


 磨き上げられた長靴の音。


 白い石段を上がるその姿に、待合にいた民たちは反射的に道を空けかけた。


「王太子殿下……?」


「なぜ神殿に」


「リディア様に会いにいらしたのかしら」


 ささやきが白い石床を滑っていく。


 偉い人が来たら、下がる。


 声の大きい人が来たら、黙る。


 家名の重い人が来たら、自分の用件を後ろへ押し込む。


 この国が長く覚えてきた、古い癖だった。


 けれど、受付台の横には順番札の木箱がある。


 赤い優先札、青い優先札、白い優先札も所定の位置に並んでいる。


 そして壁には、セオが貼った手順書があった。


『身分ではなく、目的を記録せよ』


『記録なき訪問は、ただの混乱です』


 受付係エリンは、それを見た。


 次に、来訪者記録を見る。


 最後に、正面から歩いてくる王太子を見た。


 顔色は白い。


 手も震えている。


 けれど、受付台の前から逃げなかった。


 アルベルトは当然のように奥へ進もうとする。


 王太子である。


 神殿は道を空ける。


 受付など、形だけ。


 彼の歩き方は、そう言っていた。


「恐れ入ります」


 エリンの声が、受付に落ちた。


 羽のように細い。


 それでも、消えなかった。


「ご面会でしたら、まず来訪者記録にご記入ください」


 その場にいた全員が止まった。


 アルベルトも足を止める。


 ゆっくりと振り返った。


「……私を誰だと思っている」


 低い声が、受付に不穏な振動を与えた。


 待合の老婆が、膝の上の順番札をぎゅっと握る。


 子どもが母親の袖を掴む。


 エリンは喉を鳴らした。


 羽ペンを持つ指が震えている。


 それでも、目を逸らさない。


「王太子殿下でいらっしゃいます」


 一拍。


 エリンは続けた。


「ですので、正式に記録が必要です。ご面会の目的、緊急性の有無を確認させていただきます」


 アルベルトの眉が動いた。


 怒ろうにも、言葉が見つからない顔だった。


 彼女は無礼ではない。


 王太子だと知らないわけでもない。


 王太子だと知っているからこそ、正式に記録すると言っている。


 身分が、通行証ではなく記録対象へ変換された瞬間だった。


 受付台の奥で、セオが来訪者記録を構えていた。


 いつの間にいたのか、いつからいたのか。


 かつて濁っていた瞳は、今や猛禽類のように澄んでいる。


 エリンの視界の端で、セオが無言で親指を立てた。


 顔は真剣だった。


 怖い。


 だが、少し心強い。


「リディアに会いに来た」


「リディア様へのご面会ですね」


 エリンは来訪者記録へ書き込む。


 来訪者名、アルベルト王太子殿下。


 目的、リディア・エルネスト様との面会。


 緊急性、本人申告なし。


 受付時刻。


 対応者、エリン。


 最後に自分の名を書く時、指先が少しだけ震えた。


 けれど、書いた。


「現在、リディア様は勤務中です。面会可能時間を確認いたしますので、少々お待ちください」


「待てと?」


「はい」


 エリンはまっすぐ答えた。


 待合で、子どもが小さく囁く。


「王太子様は何番?」


 母親が慌ててその口を押さえた。


 セオの羽ペンが、音もなく王太子の失態を紙に刻みつける。


     *


 面会室で待たされることに、アルベルトは慣れていなかった。


 椅子は上等だった。


 茶も出された。


 神殿としては、十分に礼を尽くしている。


 だが、王宮とは違う。


 壁には金細工の額の代わりに、面会に関する手順書が貼られている。


『面会は十五分』


『記録は誤解を防ぎます』


 アルベルトは、それを見て顔をしかめた。


 記録。


 勤務。


 優先札。


 面会可能時間。


 ここ数日、彼を苛立たせ続けている言葉ばかりが、この神殿では壁にまで貼られている。


 やがて扉が開いた。


 リディアが入ってくる。


 白い聖女見習いの衣装。


 夜会で見る絹のドレスではない。


 動きやすく整えた髪。


 腰に下げた小さな筆記具。


 手には記録板。


 夜会で自分を引き立てるための装飾品ではない。


 泥を厭わず、書類の山を捌き、現場を支配するための峻厳な美しさが、そこにあった。


「お待たせいたしました、王太子殿下」


 リディアは丁寧に礼をした。


「雇用契約上の休憩時間を利用して参りました。本日はご来訪ありがとうございます」


 完璧な挨拶。


 婚約者としてではない。


 神殿職員としての応対だった。


「リディア。これは何のつもりだ」


「面会記録を取らせていただきます」


「私は君の婚約者だ」


「承知しております。そのため、正式に記録いたします」


 まただ。


 王太子であることも、婚約者であることも、ここでは彼を通す鍵にならない。


 むしろ、記録を厳密にする理由へ変えられてしまう。


 アルベルトは、リディアの目を見た。


 そこに、彼の知る「婚約者」はいなかった。


 映っているのは、面会予定の入った来訪者。


 処理すべき案件。


 それだけだった。


「聖女の真似事はやめて、王宮へ戻れ」


 直球だった。


 面会室の空気が少し冷える。


 リディアは表情を崩さない。


「真似事ではありません。神殿との雇用契約があります」


「君は公爵令嬢だぞ。王太子の婚約者でもある」


「殿下。婚約者としての感情論は、神殿の帳簿には乗りません」


 リディアの声は静かだった。


 だが、刃のように冷たい。


「不備があれば残業が出ます。それだけの話です」


 アルベルトは、得体の知れない規則という泥濘に足を取られたような苛立ちに、奥歯を噛んだ。


 怒鳴りたい。


 だが、怒鳴ったところで記録されるだけだ。


 命じたい。


 だが、命じたところで面会記録に残るだけだ。


 王太子の権威など、面会室の外でセオが削り出す羽ペンの音にかき消される程度のノイズにされている。


 かり。


 外で、羽ペンが鳴った。


 アルベルトのこめかみが引きつる。


「何でも書類にするな」


「書類にしなかった結果、誤解と噂が増えます」


「私が誤解するとでも?」


「誤解は身分を選びません」


 返す言葉が、喉で詰まった。


 ノラが静かに卓上へ砂時計を置く。


 さら、と砂が落ち始めた。


「本日の面会時間は十五分です」


「十五分?」


「時間が惜しいので、要点をお願いいたします」


 説明はそれだけだった。


 次の予定。


 青い優先札案件。


 生活用水。


 そうした単語を並べることさえしない。


 ただ、時間が惜しい。


 リディアの態度は、それだけを告げていた。


「私との話より、その砂を優先するのか」


「はい」


 即答だった。


 アルベルトの喉が詰まる。


「私は王太子だ」


「承知しております。そのため、正式な来訪記録と面会記録を残しております」


 王太子であることが、押し通る理由にならない。


 正式に記録される理由になる。


     *


 面会室の外で、エリンは来訪者記録の控えを抱えて立っていた。


 緊張で、まだ指先が冷たい。


 隣では、セオが面会開始時刻を書き込んでいる。


『王太子殿下面会。十五分枠で開始』


 エリンは小声で尋ねた。


「本当に十五分なのですね」


「時間管理は身分で伸びません」


 セオは真顔だった。


「……ただし、不備があれば王家全体の責任問題になります」


「責任問題」


「ならば、王太子殿下の記録は誰よりも分厚く、逃げ場なく固定すべきです」


 セオは羽ペンを握り直した。


「それが誠意でしょう?」


 エリンは、何と返せばよいのか分からなかった。


 セオの誠意は、ときどき刃物に似ている。


 面会室の内側から、アルベルトの声が聞こえた。


「君は、王宮での立場を軽く見すぎている」


 リディアの声が続く。


「神殿での職務を軽く扱う理由にはなりません」


「だから、その考え方が」


 アルベルトの声には苛立ちが混じっている。


 セオは羽ペンを止めない。


 エリンは、少しだけ思った。


 伯爵夫人も、小貴族ダリオも、最初は同じ顔をしていた。


 自分の用件は通るはずだという顔。


 順番も記録も、自分には関係ないという顔。


 ただ、今度の相手は王太子だ。


 重さが違う。


 けれど、来訪者記録は閉じられていない。


 面会時間も動いている。


 順番札制度も、優先札制度も、手順書も、リディアがいない場所でちゃんと働いている。


 エリンは、胸の奥で小さく息を吐いた。


     *


 砂時計の砂が半分ほど落ちたころ、アルベルトの苛立ちは隠しようがなくなっていた。


「神殿の業務より、王太子の婚約者としての務めが先だ」


「そのご認識については、文書でご提示ください。勤務表と照合します」


「照合?」


「はい」


 リディアは本気だった。


 アルベルトはようやく、それを理解し始めた。


 これは一時的な反抗ではない。


 拗ねてもいない。


 嫉妬でもない。


 リディアは本当に、王宮の予定を神殿の勤務表と並べて処理している。


 王太子の招待状を、青い優先札案件や現場確認と同じ机の上に置いて、比較している。


 そして今のところ、王太子は負けている。


「君は変わったな」


「勤務環境が変わりましたので」


「そういう話ではない」


「では、どのようなお話でしょうか」


 アルベルトは返答に詰まった。


 自分が来たことに動揺してほしかった。


 王宮に戻れと言えば、迷ってほしかった。


 なのに、彼女はペンを持ち、記録を取り、砂時計で時間を区切っている。


 残り時間は少ない。


 このままでは何も動かせない。


 彼は、切り札のつもりでその名を出した。


「そういえば」


 リディアのペンが動きを止める。


「君は、ミリアをいじめたという噂まであるそうだな。私の気を引きたいなら逆効果だ」


 面会室の空気が変わった。


 リディアの指が、記録板の端を強く押さえる。


 白い指先に、わずかに力が入った。


 面会室の外で、セオの羽ペンがぴたりと止まる。


 ノラが静かに視線を上げた。


 アルベルトは、その変化に気づいた。


 ようやく。


 初めて。


 リディアの整った表情に、小さなひびを見つけた気がした。


 だが、彼は知らない。


 そのひびの奥にあったのは、怯えではない。


 手順通りに整理してきた現場へ、根拠のない噂という泥を投げ込まれたことへの、実務家としての静かな怒りだった。


 リディアは、記録板に置いたペンを持ち直す。


 砂時計の砂だけが、さらさらと落ち続けていた。

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