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第7話 王太子の招待状、勤務表に敗北する

 アルベルト王太子の机には、リディア・エルネストからの欠席返事が、礼儀正しく積み上がっていた。


 夜会。


 庭園散策。


 王妃主催のお茶会。


 慈善茶会。


 王宮音楽会。


 かつては、王国中の令嬢たちが血眼になって求めた「王太子の隣」という特等席。


 それが今は、一通の薄い羊皮紙によって、無機質な空席へ変えられている。


『ご招待、誠にありがたく存じます。

 ただいま神殿にて勤務中のため、該当時刻の参加は見送らせていただきます。

 必要なご連絡は、文書にて頂戴できましたら幸いです』


 筆跡は乱れていない。


 文面には、必要以上に丁寧な礼が尽くされている。


 王家への敬意も、王妃への配慮も、招待への感謝もある。


 そのすべてが、アルベルトには厚い鉄扉のような拒絶に見えた。


 一通目は勤務時間外。


 二通目は現場同行。


 三通目に至っては、『青い優先札案件』なる、王宮では聞いたこともない神殿用語まで混じっていた。


 どれも完璧に礼儀正しい。


 だからこそ、腹立たしい。


「勤務中……だと?」


 アルベルトは返書を指で弾いた。


「私の招待が、井戸の浄化や書類の整理より後だというのか」


 側近クラウスは、表情を変えずに控えていた。


 苛立ちの混じる声を、無言で受け流す。


 隙のない礼儀。


 非の打ち所のない筆跡。


 正論という名の防御壁が、王太子の権威を少しずつ削り取っていく。


「リディア様は、神殿での仮勤務登録を正式に済ませておられます」


「仮勤務登録」


 アルベルトは、その言葉を噛み砕くように繰り返した。


 勤務。


 登録。


 担当範囲。


 現場同行予定。


 どれも、公爵令嬢には似つかわしくない。


 泥臭く、事務的で、王宮の絹張りの椅子からは遠すぎる響きだった。


 彼女は、夜会で完璧に微笑む婚約者であるはずだった。


 王妃の隣で茶を受け取り、貴族令嬢たちの視線を受け流し、王太子である自分の横に立つ。


 それが当然だった。


「王太子の婚約者という立場が、今や勤務表に負けているなど、冗談にもならないな」


 クラウスは答えない。


 王太子の婚約者という立場が、今や井戸の濁りや結界点検や記録整理に負けているなど、口が裂けても言えなかった。


 アルベルトは返書を机に置いた。


 ぱさり、と乾いた音がする。


 その薄い紙一枚が、王太子の予定を押し返している。


「王妃との茶会まで、文書で済ませる気か」


「王妃陛下への無礼と判断できる文言はございません」


「だから、それが腹立たしいのだ」


 怒鳴ろうにも、怒鳴る隙がない。


 命じようにも、命じる理由が弱い。


 呼びつけようにも、彼女の側にはすでに「勤務」という盾がある。


 ここ数日、夜会の婚約者席は空いたままだ。


 王妃は何も言わなかった。


 ただ、理由を問う視線だけがあった。


 貴族令嬢たちは、扇の陰で小さく囁く。


「リディア様は神殿にお勤めですって」


「公爵令嬢が?」


「王宮より神殿がお忙しいのかしら」


 笑われたわけではない。


 それでも、自分の隣にある空席が、日に日に目立っていく。


 アルベルトは指先で机を叩いた。


 一度。


 二度。


 苛立ちを散らすように、規則的な音が執務室に落ちる。


「勤務時間外、か」


 彼は返書の一文をもう一度見下ろした。


 勤務時間外の私的参加。


 見送らせていただきます。


 王太子の招待が、彼女の中で「私的参加」に分類されている。


 身分も教養も通用しない、未知の規則を突きつけられたような不快感があった。


「リディアは、何か勘違いをしている」


 クラウスは沈黙した。


 勘違い。


 その一語で済む話ではない。


 けれど、今それを口にすれば、王太子の不機嫌をさらに深くするだけだ。


「王太子の婚約者としての立場を忘れている」


 アルベルトは言い切った。


 忘れているのではない。


 神殿の勤務表に、王宮より先に名を置いただけだ。


 クラウスは、そう言わなかった。


 アルベルトは、ふと別の少女を思い出した。


 あの夜会で扇を落とした平民の少女。


 王宮に慣れていない、頼りなげな姿。


 自分が扇を拾ってやると、彼女は驚いた顔でこちらを見上げた。


 あの時、胸の奥に淡い満足があった。


 守るべき可憐な少女。


 自分が手を差し伸べれば、驚きと感謝に瞳を潤ませるはずの存在。


 王宮の冷たい視線から救い出され、自分にだけ微笑む少女。


 その筋書きは、ひどく甘く、分かりやすかった。


「あのミリアはどうした。彼女も神殿にいるのだろう?」


 クラウスは控えの書類をめくった。


「はい。現在は神殿にて、見習い登録の準備中とのことです」


「聖女候補か」


 クラウスの視線が、紙面を追う。


「現時点での予定役職は、浄化技師補佐見習い、とのことです」


 アルベルトの動きが止まった。


「……浄化技師補佐見習い?」


 その無機質な響きは、アルベルトが夢想していた「運命の聖女」という幻想を、役所の台帳の隅へ叩きつけるような残酷さがあった。


「聖女候補ではないのか」


「神殿側の記録では、基礎教育後に適性を確認するとあります。また、即戦力扱い禁止、職務範囲と教育担当を設定要。生活支援も要確認、とのことです」


「即戦力扱い禁止」


 アルベルトは、その言葉に顔をしかめた。


 彼の中にいたミリアは、守られるべき少女だった。


 不慣れな王宮で怯え、自分の一言に救われ、感謝のまなざしを向ける。


 そんな、分かりやすい少女。


 だが神殿の記録では違う。


 浄化技師補佐見習い予定。


 基礎教育未確認。


 生活支援要確認。


 職務範囲設定要。


 恋愛劇の中心に立つはずだった少女が、職務分類の箱へ入れられている。


「彼女は、守られるべき少女ではなかったのか」


 クラウスは、ほんの少し困った顔をした。


「恐れながら、現在は神殿の新人として扱われております」


「新人」


 アルベルトはその単語を嫌そうに繰り返した。


 王宮には、舞台が整っている。


 夜会もある。茶会もある。招待状もある。


 王太子の隣という席も空いている。


 だが、婚約者は神殿の勤務予定の中にいる。


 扇を落とした少女も、神殿の見習い登録の中にいる。


 優雅に始まるはずだった何かが、神殿の事務作業という濁流に飲み込まれ、見る影もなく解体されている。


 アルベルトは、三度目に机を叩く前に立ち上がった。


「直接話す」


 クラウスの表情が、わずかに強張る。


「殿下。神殿へ向かわれるのでしたら、正式に訪問予定を入れた方がよろしいかと」


「必要ない」


「神殿側も、現在は受付制度を整えているとのことです。事前連絡なしでは」


「私は王太子だ」


 その一言で、部屋の空気が硬くなった。


 アルベルトは、自分が行けば扉は開くと思っている。


 名乗れば道が空くと思っている。


 呼べばリディアは来ると思っている。


 クラウスは深く頭を下げた。


「馬車を手配いたします」


「すぐに」


「承知いたしました」


 外套が運ばれてくる。


 アルベルトは、それをひったくるように手に取った。


 机の上には、リディアからの返書が残されている。


『勤務時間外のため、出席を見送らせていただきます』


 乾いたインクの匂いが、まだかすかに残っていた。


 王太子の紋章を冠した馬車が、王宮の車寄せから走り出す。


 車輪が石畳を叩く。


 硬い音が、白亜の神殿へ向かって近づいていく。


 その入口で、一介の受付係エリンが、順番札という名の絶対的な平等を握りしめて待っていることも知らずに。

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