第6話 報告漏れは、未来の残業です
翌朝、神殿の聖なる壁は、狂気に満ちた実務に占領されていた。
リディアが執務室に入った瞬間、目に飛び込んできたのは女神の慈悲深い教えではなかった。
現地確認から瘴気濃度測定、浄化後の再測定、記録提出までを逃げ場なく固定した、手順書の列。
白い壁一面に、几帳面な文字が並んでいる。
『報告漏れは、未来の残業です』
『緊急ではないものを緊急にすると、本当に緊急の誰かが困ります』
『測る前に祈ると、祈った後にもう一度測ることになります』
『退勤までが業務です』
不吉なほど整然とした文字の群れが、現場に「祈る前にやるべきこと」を突きつけていた。
壁の前では、セオ・グラントが手順書の角度を調整している。
昨日までの彼は、徹夜明けの洗面器に沈んだ水のような目をしていた。
だが今は違う。
かつて濁っていた瞳に、獲物を仕留める前の猛禽類めいた静かな熱が宿っている。彼の視線が射抜いているのは魔物ではなく、整理されないまま放置された混沌そのものだった。
「セオ」
「はい」
「これは……夕食後に作ったのですか」
「はい。定時で帰れましたから。時間はたっぷりありました」
定時退勤という報酬を知った書記官は、思ったより過激だった。
「少し怖くありませんか」
「怖いくらいが効きます」
「神殿の壁に貼る文言としては、圧が強いです」
「昨日までの混沌よりは弱いです」
「比較対象が荒れています」
セオは表情を変えず、手順書の一枚を指で軽く弾いた。
ぱし、と乾いた音がする。
神職の所作というより、効率の悪さを許さない監査官の指先だった。
「新人が迷い、先輩が確認し直し、記録漏れを掘り返す。そのすべての無駄を、私はこの壁で封じ込めます」
「……言い方は怖いですが、内容は正しいですね」
「ならば、貼ります」
強い。
非常に強い。
リディアは壁一面の手順書を見た。
文言は強い。
圧も強い。
だが、内容は正しい。
むしろ今までなかったことの方が、かなり危険だった。
そこへ、若い神官が二人、おそるおそる執務室を覗き込んだ。
「セオさん、あの……この手順書、見ながら現場へ行ってもいいんですか」
問いかけた神官は、まだ十代後半くらいに見える。
昨日までなら、先輩の背中を見て覚えろと言われていた側の顔だ。
不安と期待が、半分ずつ混ざっている。
リディアは答えた。
「見ながらやるための手順書です」
若い神官は、ぱちりと瞬きをした。
「見ながら、でいいんですね」
「はい。忘れるより、見た方がいいです」
隣の神官が、ぽつりと言った。
「……何をすればいいか、先に分かるんですね」
その声は小さかった。
だが、リディアにはよく聞こえた。
分からないまま現場に出る怖さ。
あとから叱られる不安。
何を聞けばいいのかすら分からない状態。
それを「経験不足」と呼んで放置してきた結果が、あの書類の山だった。
エリンが受付から顔を出す。
「リディア様。西門近くの小さな瘴気滞留で、青い優先札の案件です」
以前なら、ここで誰かが走り、誰かが聞き返し、誰かが記録を探し、結果として同じ説明が三度繰り返されただろう。
今日は違った。
若い神官が壁の手順書を見る。
「現地確認、周辺避難、濃度測定、浄化、再測定、記録室提出……」
指で追いながら確認する。
隣の神官が道具箱を持った。
「測定器、予備布、記録紙。避難確認用の記録欄も必要ですね」
セオの羽ペンが走る。
『新人神官、手順書参照により事前確認完了』
リディアは見なかったことにした。
エリンが少しだけ安堵した顔になる。
「これなら、受付から現場へ回す時も説明しやすいです。何を伝えればよいか、私にも分かります」
「それが手順書の役目です」
リディアが言うと、セオが即座に付け加えた。
「手順書は人を責めるためではなく、迷子を減らすためにあります」
言葉自体は、とても良かった。
ただし、セオの背後に貼られた『報告漏れは、未来の残業です』が強烈な圧を放っている。
少し惜しい。
*
午前のうちに、手順書は思った以上の効果を出した。
青い優先札の案件に出た新人神官たちは、戻ってくるなり記録室へ向かった。
瘴気濃度。
避難確認。
浄化前後の数値。
依頼者への説明。
再訪問の必要性。
すべて埋まっている。
セオは記録紙を受け取り、目を通した。
眉間に皺が寄らない。
これは珍しい。
「報告漏れ、現時点でなし」
若い神官たちの肩が、目に見えて下がった。
叱られなかったからではない。
何をすればいいか分かり、その通りに動けた。
それだけで、現場へ出る怖さは少し減る。
リディアはその様子を見て、前世の記憶を少しだけ思い出した。
分からないまま任される仕事。
担当が曖昧なまま降ってくる案件。
あとから「普通は分かるでしょう」と言われる地獄。
普通、という言葉ほど信用ならないものはない。
普通は、人によって形が違う。
だから、見える場所に置いておく必要がある。
手順書も。
順番も。
責任の範囲も。
エリンが小さく言った。
「これ、見えるだけで、少し怖くなくなりますね」
「怖さが減ると、手も動きます」
リディアが答えると、セオが壁に新しい紙を貼った。
『見える手順は、手を動かします』
「セオ」
「標語候補です」
「またですか」
「標語は現場の背骨です」
「言い方が強くなってきました」
「定時退勤後に考えました」
定時退勤の副作用が、標語の増殖として現れている。
危険だ。
だが、効果はある。
*
昼前、人事神官が一枚の書類を持ってやって来た。
顔には、いつもの困惑が薄く貼りついている。
「リディア様。新しい見習い候補について、確認をお願いできますか」
「見習い候補ですか」
「はい。聖属性の反応がありまして。平民出身の少女です。生活支援も必要になるかと」
リディアは書類を受け取った。
氏名欄を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ミリア。
紙の上の四文字が、王城の夜会の光を連れて戻ってくる。
王太子アルベルトが扇を拾った少女。
前世で遊んだ乙女ゲームのヒロイン。
本来なら聖女候補として王宮に呼ばれ、王太子と恋愛劇を始め、リディアを悪役令嬢の位置へ押し出す存在。
指先に力が入る。
いけない。
ここで敵を見る目をしてはいけない。
ここで警戒を顔に出せば、物語の舞台が足元からせり上がってくる。
リディアは息を細く吸い、書類を読み直した。
平民出身。
聖属性反応あり。
基礎教育未確認。
神殿見習いとして登録予定。
生活支援要。
人事神官が言う。
「聖属性があるなら、すぐ祈祷補佐に……」
「やめましょう」
リディアは言葉を叩きつけた。
動揺を挟む前に、事務的な正論で思考を塗りつぶす。
人事神官の目が丸くなる。
「ですが、聖属性が」
「教育コストを無視した投入は、本人だけでなく現場を壊す欠陥投資です」
名簿を机へ置く音が、少し硬くなった。
「彼女が最初に覚えるべきは、祈りの美しさではありません。退避経路、報告手順、危険時の呼び出し先です」
セオの羽ペンが、かつてないほど力強く羊皮紙を削った。
『新見習い候補ミリア。即戦力扱い禁止』
リディアは一瞬そちらを見る。
即戦力扱い禁止。
強いが、正しい。
「受け入れの際は、職務範囲と教育担当を明確にしてください。生活支援の担当も別に決めます」
人事神官は困ったように眉を下げた。
「そこまで、必要でしょうか」
「必要です」
リディアはミリアの名が書かれた書類を指で押さえた。
「新人を美談で消費してはいけません」
ミリア。
物語のヒロイン。
けれど、ここではまず新人である。
守られるべき無垢な少女でも、持ち上げられる聖女候補でもない。
仕事を覚える前に現場へ放り込んではならない、一人の新人。
そう扱う。
そうしなければ、今度こそリディアは本物の悪役令嬢になる。
セオが記録板に書き足す。
『教育担当未定。設定要』
『生活支援、要確認』
『祈祷補佐投入前に基礎手順書の確認必須』
ミリアの名が、神殿の実務に組み込まれていく。
それは恋愛劇の配役ではなく、受け入れ準備の項目として。
リディアは、その文字を静かに見ていた。
*
午後、大神官グレゴリウスが手順書の壁の前で足を止めた。
彼は、まるで汚物でも見るかのような目で、壁一面の手順書を凝視した。
順番札の木箱。
赤い優先札、青い優先札、白い優先札。
そして、壁に貼られた手順書。
若い神官たちは、もういちいち大神官へ判断を仰がない。
壁を見て、記録紙を確認し、必要な道具を持って動き出す。
エリンも、受付から現場へ回す時に、手順書に沿って必要項目を伝えている。
誰も大神官を軽んじているわけではない。
それでも、彼の前を通る職員たちは、以前ほど怯えて足を止めなくなった。
グレゴリウスの眉間に、細い皺が刻まれる。
そこには怒りだけではなく、わずかな焦燥があった。
自分を中心に回っていたはずの神殿が、木箱の番号と壁の手順書で動き始めている。
それは、彼にとって侮辱に近い変化だった。
「神殿が、まるで役所のようになっていく……」
杖を突く音が、冷たい床に響いた。
だが廊下の向こうでは、新人神官がその音を気にする様子もなく、手順書を指差しながら道具を確認している。
「祈りを紙で管理するとは」
低い声だった。
リディアは手元の記録を置いた。
「祈りは心で行えばよろしいかと。手順は壁に貼ります」
近くにいた新人神官が、危うく咳き込みかけた。
セオの羽ペンが動く。
グレゴリウスがリディアを見る。
「聖女の務めは、処理などという言葉で語るものではありません」
「倒れた神官を『夜通しの祈り』と粉飾するよりは、不格好でも正直な壁の方が、私は信頼できます」
グレゴリウスの杖が、もう一度床を突いた。
こつ、と硬い音。
以前なら、その音だけで若い神官たちは肩を縮めていた。
だが今、誰も止まらなかった。
壁の手順書を確認し、記録紙を持ち、必要な道具を揃え、現場へ向かっていく。
グレゴリウスの目に、一瞬だけ孤独が浮かんだ。
すぐに権威の影へ隠れたが、リディアには見えた。
精神論が、初めて数字と手順という刃に押し返され始めている。
セオの羽ペンが、さらに速くなる。
リディアが横目で見ると、そこにはこう書かれていた。
『大神官、手順書導入に慎重』
「柔らかいですね」
「前回、表現を柔らかくと言われましたので」
「意味は同じですね」
「はい」
グレゴリウスの視線が冷たくなる。
だが、彼はそれ以上言わなかった。
まだ、この場で正面からリディアを止める材料がないのだ。
記録は揃っている。
待ち時間は減っている。
報告漏れも減っている。
しかも、今日の現場は荒れていない。
美しい精神論だけでは、数字に勝てない。
グレゴリウスは杖を握り直し、重い足取りで廊下へ戻っていった。
セオはその背を見送り、記録板に小さく一行を足す。
『今後、反発強化の可能性あり』
リディアは止めなかった。
それは、おそらく正しい。
*
夕方。
神殿には、焦燥のない穏やかな静けさが流れていた。
受付からの連携は終わっている。
青い優先札の現場報告は、記録室へ提出済み。
赤い優先札の緊急対応も完了。
白い優先札の予約確認も済んでいる。
新人神官たちは、手順書の前で最後の確認をしていた。
「現地確認、測定、避難、浄化、再測定、記録室」
「忘れたら壁を見る」
「記録室へ出す前に空欄確認」
誰かが、半分冗談のように言った。
「報告漏れは」
別の神官が答える。
「未来の残業です」
セオの目が、すっと細くなった。
満足そうだった。
少し怖い。
エリンが受付台の片づけを終え、リディアの方へ来る。
「今日は、受付から現場へ戻ってきた問い合わせが少なかったです」
「手順書が効いたのでしょう」
「はい。何を伝えればいいか、先に分かりました」
リディアは時計を見た。
終業時刻。
急ぎの案件はない。
書類も揃っている。
再確認のために誰かを残す必要もない。
「皆さん、帰りましょう」
神官たちの動きが止まる。
リディアは、はっきりと言った。
「退勤までが業務です」
その一言が、壁のどの手順書より強く響いた。
神官の一人が戸惑う。
「祈祷室に残らなくても……」
「急ぎでないものを残業で処理する癖をつけると、本当に急ぎの時に倒れます。帰れる日は帰ってください」
少しずつ、神官たちが動き出した。
羽ペンが置かれる。
記録紙が揃えられる。
椅子が戻される。
誰かが、小さく笑った。
セオは記録板を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がする。
「受付処理完了。現場報告、提出済み。再確認不要。緊急案件なし」
「帰れますね」
「帰れます」
セオはそこで、ふと真顔になった。
「昨日、温かい夕食を食べました」
「よかったですね」
「味がしました」
「これまで味がしなかったのですか」
「食事中に翌日の未処理件数を考えると、味は消えます」
重い。
思ったより重い。
だが、セオはしみじみしたいわけではないらしい。
壁の手順書を見つめる目に、再び危険な熱が灯る。
「今日も味のする夕食を食べます」
「それは良いことです」
「そのために、明日の混沌も狩り尽くします」
「ほどほどに」
「報告漏れは、未来の残業ですので」
「その標語、気に入っていますね」
「はい」
セオは即答した。
そして帰り支度をしながら、すでに新しい手順書の余白を探していた。
迷いがない。
リディアは、止めるべきか、少しだけ迷った。
*
同じ頃、王宮では。
アルベルト王太子が、一通の返書を読んでいた。
差出人は、リディア・エルネスト。
彼の婚約者。
ここ数日、王妃のお茶会にも、庭園散策にも、慈善茶会にも姿を見せていない令嬢である。
返書は丁寧だった。
完璧な礼儀。
乱れのない筆跡。
こちらを責める言葉は一つもない。
ただし、すべて断っている。
『ご招待、誠にありがたく存じます。
ただいま神殿での職務に従事しておりますため、勤務時間外の私的参加は見送らせていただきます。
必要なご連絡は、文書にて頂戴できましたら幸いです』
アルベルトは、その一文を見つめた。
勤務時間外。
私的参加。
見送らせていただきます。
王太子の誘いが、業務外の予定として処理されている。
「勤務時間外……だと……?」
側近が困ったように視線を落とした。
「リディア様は現在、神殿にて聖女見習いとして登録されているとのことです」
「聖女の真似事か」
アルベルトの声に、苛立ちが混じる。
「いつまで続けるつもりだ」
側近は答えられない。
机の上には、もう一通の招待状が置かれていた。
次の夜会への招き。
本来なら、リディアは王太子の婚約者として当然のように隣に立つはずだった。
だが、返書にはこうある。
『勤務時間外のため、出席を見送らせていただきます』
アルベルトの手の中で、高価な羊皮紙の返書がかすかに震えた。
その薄い紙は、なぜか分厚い解雇通知書のような重みを放っている。
アルベルトは返書を机へ放った。
ぱさり、と乾いた音が、王宮の静かな執務室に妙に大きく響いた。




