第3話 聖女職、想像以上にブラックでした
案内された執務室には、女神像よりも書類の山が多かった。
白い石壁。清めの香。窓から差し込む朝の光。
壁際では、優しい微笑みを浮かべた女神像がリディアたちを迎えている。
そこまでは、想像していた神殿の執務室に近かった。
けれど、リディアは一歩目で足を止めた。
つま先のすぐ横に、一週間前の日付が入った『至急』の依頼書が落ちていたからだ。
端には埃が積もっている。
踏まれた跡もある。
未開封ではない。誰かが一度見て、どうにもできず、床へ戻した紙の顔だった。
慈悲を届けるべき場所で、慈悲そのものが放置されている。
リディアの胃の奥が、不快に縮んだ。
「お嬢様」
背後でノラが小声を落とした。
「こちらは就職先というより、事故現場ではございませんか」
リディアはその依頼書を拾い、日付と担当欄を確認する。
「事故報告書がありません。つまり、事故として扱われていません」
「その方が危険ではございませんか」
「ええ。かなり」
リディアは拾った依頼書を机の空いているわずかな場所へ置いた。
机にはすでに、依頼書、祈祷願、浄化報告、結界点検表が混ざり合って積まれている。分類されていない紙は、紙ではなく障害物だ。
書記官セオ・グラントは、その障害物の間を慣れた足取りで進んだ。
箱を避け、倒れかけた束を片手で支え、窓際に寄りかかった点検表を落とさない角度で抜き取る。
無駄に洗練された動きだった。
この部屋で、何度も紙雪崩に遭っている者の動きである。
「こちらが本日分です」
セオが示したのは、机の中央に積まれた書類の山だった。
高さは、リディアの肘に届きそうである。
「本日処理する分、という意味ですか」
「本日、処理予定だった分です」
予定だった。
その言い方には、すでに敗北の匂いがした。
リディアは一番上の書類をめくる。
瘴気浄化依頼。
病除け祈祷願。
街道結界の点検要請。
温室の病害除け。
舞踏会前の祝福願。
種類も日付も混ざっている。
書類の束から立ち上る、埃と放置された時間の匂いに、リディアの指先が冷えた。
「昨日以前の繰り越しは?」
セオのまぶたが、ほんの少し落ちた。
言葉より早く、答えが見えた。
彼は部屋の奥へ歩き、半分ほど紙束に塞がれた扉の前に立つ。
鍵を回す音が、やけに重かった。
扉が開く。
向こう側にも、書類があった。
箱。紐で縛られた依頼書。古い日付。
赤字の『至急』が、下の方に埋もれている。
リディアは三秒だけ見た。
そして、静かに扉を閉める。
「ノラ。筆記具を」
「はい」
ノラは即座に小型の筆記具入れを差し出した。
リディアは袖口を少しだけ上げ、拾った『至急』の依頼書の余白に短く印をつける。
「まず、日付が古い緊急案件を拾います。セオ、未処理件数を」
セオの目が動いた。
扉の中の地獄を前にして、悲鳴でもため息でもなく、件数を求められた。
彼は一拍遅れて記録板を開く。
「未処理浄化依頼、三百二十件。王都内の結界点検遅れ、四箇所。地方神殿からの応援要請、確認済みだけで二十七件。未確認分は、奥の箱と、女神像横の箱です」
「職員の離脱は」
「今月だけで十一名です。倒れた者、休職した者、実家から帰ってくるなと手紙が届いた者を含みます」
「最後は分類として正しいのですか」
「神殿側の記録では、家庭都合による一時離脱です」
セオは次の紙へ目を移した。
「祈祷室で朝まで倒れていた神官もいます」
「倒れていた?」
「記録上は、夜通しの祈りです」
リディアは、少しだけ目を細めた。
「祈祷室で倒れたものを、夜通しの祈りとして記録しているのですか」
「倒れていたと書くより、祈っていたと書く方が、神殿としては美しいので」
乾いた毒が、紙の端のように声へ混じっていた。
美しい記録。
尊い奉仕。
夜通しの祈り。
言葉だけは清らかだ。
その清らかな言葉の下で、人が潰れている。
「美しさで未処理は減りません」
セオの隈が、ぴくりと動いた。
まぶたではない。
隈が動いたように見えた。
笑いをこらえたのか、感情が戻ったのか、判断しづらい。
廊下から若い神官が顔を出した。
「セオさん、西門の結界点検記録、昨日のものと今日のものが混ざっています」
セオは振り向きもせず答える。
「昨日の分は青紐、今日の分は白紐です。混ざっているなら、昨日の時点で誰かが白紐を使いました」
「白紐しか残っていませんでした」
若い神官の声がしぼむ。
セオは一度だけ目を閉じた。
「左端を折ってください。右端は浄化済み確認用なので使わないように」
「はい!」
若い神官は慌てて走っていった。
ノラが小声で呟く。
「神殿の方々、紐の色だけでかなり生き延びておられるのですね」
「生き延びているだけです」
リディアの視線は、床に置かれた紙束、紐の足りない箱、隈の濃い書記官、そして奥の扉を順番に拾った。
分類がない。
予備がない。
倒れた人間を倒れたと書けない。
この状態で聖女の献身を積めば、祈る前に聖女本人が潰れる。
前話で勤務条件を確認したのは、正解だった。
正解すぎて、むしろ遅い。
その時、廊下の向こうから杖の音が響いた。
こつ。
こつ。
重く、わざとゆっくり近づいてくる音。
セオの背筋が、ほんの少し固くなる。
若い神官たちが、廊下で道を空ける気配がした。
杖の音が、執務室の前で止まる。
白い法衣をまとった老人が入口に現れた。
長い白髭。女神紋のついた杖。人が自然に道を譲ることに慣れた姿勢。
大神官グレゴリウス。
中央大神殿の権威そのもののような人物だった。
「リディア様」
開いた口から漏れ出すのは慈悲ではなく、凝り固まった自尊心の匂いだった。
「聖女とは、民のためにすべてを捧げる存在です」
リディアは部屋を見渡した。
埃を被った『至急』。
床に沈む依頼書。
閉めたばかりの繰り越し部屋。
紙に埋もれた机。
セオの隈。
それから、重々しく美しい言葉だけを置いていく大神官。
「すべて捧げた結果が、この山ですか」
大神官の杖が床を突いた。
こつ、と硬い音が、耳障りな耳鳴りのように残る。
セオが下を向く。
肩が震えていたが、リディアはその理由を言葉にしなかった。
彼の羽ペンが記録板の上で止まっている。
書きたいが、書けば上司に刺さる。
その葛藤だけは、指先で十分伝わった。
「尊い犠牲は、女神への奉仕です」
「犠牲が尊くても、未処理は減りません」
沈黙を切り裂いたのは、セオの羽ペンが羊皮紙を無遠慮に削る音だった。
大神官の眉が動く。
リディアは、彼の眉より机の書類を見た。
相手にしている時間が惜しい。
「セオ。この束から、命に関わるものを抜きます。私的祈祷は後ろへ。生活維持に関わるものは別にしてください」
「はい」
返事が早かった。
大神官が目を細める。
「リディア様。聖女の祈りは、帳簿や書類で量るものではありません。民は聖女様の慈悲を求めています」
「私が量っているのは女神への愛ではありません」
リディアは机の上から二枚の依頼書を抜き取った。
一枚は、下町の子どもが瘴気を浴びたという浄化依頼。
もう一枚は、伯爵家の温室で薔薇が病にかかりかけているため、病除け祈祷を求める依頼。
どちらも、同じ束の中に入っていた。
その下には、井戸、街道、地方神殿、祈祷室の応援要請。
生活に根ざした切実な紙たちが、貴族家の華やかな依頼と同じ紐で縛られている。
「今日中に処理できる物理的な限界です」
セオの羽ペンが、かり、と鳴る。
今の言葉を書いたのかもしれない。
リディアは二枚の紙を机に置く。
子ども。
薔薇。
それだけで、対立は十分だった。
「緊急浄化と私的祈祷が、同じ束に入っています」
セオが短く答える。
「はい」
「どういう基準で順番を決めているのですか」
セオの視線が、大神官へ一瞬だけ向いた。
言いにくいのだろう。
けれど彼は、記録板を握り直して言った。
「声の大きい依頼が上に来ます」
「声の大きい、とは」
「貴族名の大きい依頼です」
大神官が咳払いをした。
「貴族の信仰心は、神殿を支える大切な柱です。多くの寄付によって、神殿の活動は成り立っております」
リディアはその言葉を最後まで聞いた。
それから、大神官ではなくセオを見た。
「セオ。記録してください。緊急性の基準が、寄付額と家名に侵食されています」
「はい」
セオの返事は少しかすれていた。
それでも、ペンは止まらない。
グレゴリウスの顔色が変わる。
「リディア様、そのような表現は」
「あなたの怠慢を、数字と分類に直しているだけです」
大神官の杖が、もう一度床を突いた。
こつ。
こつ。
だが、今度は誰も道を空けなかった。
リディアは、紙束の中から数枚だけ抜き出し、机の上で分け始める。
命に関わるもの。
生活に関わるもの。
予約でよいもの。
完全な分類ではない。
それでも、同じ束に沈めておくよりはずっとましだった。
セオが、その手元を見て息を呑む。
ただ並べ替えているだけ。
たったそれだけのことを、誰もやってこなかったのだ。
「聖女の慈悲に、優劣をつけるおつもりですか」
大神官の声に、さきほどより硬さが混じった。
リディアは顔を上げずに答える。
「慈悲の話に逃げないでください。命に関わる順に並べます」
「それでは、寄付をしてくださる貴族の方々が不満を抱きます」
「不満は、命に関わる症状ではありません」
セオの羽ペンが止まりかけた。
止まらなかった。
震えたまま、文字を刻む。
ノラは無言で視線を少しだけ横へ流した。
主の正論が、今日も鋭い。
「リディア様。聖女の務めは、民にも貴族にも等しく慈悲を向けることです」
「等しく向けるためには、順番が必要です。今の状態では、慈悲ではなく、声量で処理されています」
セオの羽ペンが、とうとう走った。
声量。
その二文字だけ、少しだけ筆圧が強い。
リディアは机の上に、二枚の依頼書を並べ直した。
瘴気を浴びた子ども。
薔薇の病除け祈祷。
命と見栄が、同じ厚みの紙に書かれている。
だからこそ、紙の扱い方を変えなければならない。
「まず、声の大きい依頼から処理するのをやめます」
セオの指が、記録板の端を押さえた。
震えている。
だが、今度は疲労だけではない。
羽ペンを握り直す。
ペン先が紙を削るように動く。
『新聖女候補、優先順位の再設定を宣言』
そこで止まらない。
彼の手は、震えながらも次の行を探した。
『声量基準、廃止予定』
リディアはそれを横目で見た。
「声量基準という記録名は正式ですか」
セオは真顔で答える。
「今、正式にしました」
「そうですか」
「正式名称は大切です」
「ええ。大切ですね」
大神官の眉間の皺が深くなった。
その時、廊下から若い神官が駆け込んできた。
先ほど結界点検の紐を間違えていた神官とは別の者だ。
顔が青い。
「セオさん、受付で伯爵夫人が……温室の薔薇が弱っているから、今すぐ聖女様を寄越せと」
言い終わる前に、もう一人の神官が息を切らして現れた。
「下町から、瘴気を浴びた子どもが運ばれてきました。母親が受付で待っています」
机の上には、さきほど分けたばかりの二枚の依頼書。
温室。
子ども。
声の大きい依頼。
命に関わる依頼。
大神官グレゴリウスが、当然のように口を開く。
「まずは伯爵家のご依頼を」
リディアは、机に置いた二枚の紙を見た。
ちょうどよかった。
声量基準を廃止するには、最初の実地確認が必要である。
リディアは静かに立ち上がった。
セオの羽ペンが、彼女の動きに追いつこうとして羊皮紙の端で小さく跳ねた。




