第4話 薔薇と子ども、どちらを先にいたしましょう
「聖女様をお呼びなさい。今すぐですわ」
神殿受付に、鋭い命令が突き刺さった。
カミーユ伯爵夫人。
銀糸の刺繍が入った濃紫の外出着。手には扇。後ろには付き人が二人。香水の匂いが、清めの香を塗りつぶすように広がっている。
待合の老人が、手にしていた順番札を慌てて膝の布の下へ隠した。
商人らしい男は、受付へ出しかけていた依頼書をそっと胸元に戻す。
小さな子どもを連れた母親が、椅子の端へ体を寄せる。
誰も文句を言わない。
怒鳴られたから黙ったのではない。
怒鳴られる前から、そうするものだと知っている顔だった。
受付係のエリンが、青ざめて立ち上がる。
「カ、カミーユ伯爵夫人。本日はどのようなご用件で……」
「うちの温室の薔薇が昨日から葉を落としているの。神殿には毎年、相応の寄付をしております。すぐ手配なさい」
扇が受付台を打った。
ぱん、と乾いた音。
エリンの肩が跳ねる。
声の大きさがすべての序列を支配する、この神殿の腐った慣習。
それが、待合の老人が隠した順番札の端に、これ以上なく醜く表れていた。
「聖女様をお呼びする前に、受付記録を……」
エリンがどうにか言いかけた時だった。
神殿の扉が乱暴に開いた。
「お願いします!」
泥だらけの母親が飛び込んできた。
腕の中には、小さな男の子。
灰色がかった頬。浅い呼吸。首元には、黒い靄が触れたような痕がある。
母親の髪は乱れ、靴は泥にまみれていた。受付台までたどり着く前に、膝が折れかける。
「下町の水路で、この子が瘴気を……朝から熱が下がらなくて……」
母親は、伯爵夫人の姿を見るなり、目に見えて身を縮めた。
「順番は待ちます。でも、どうか、診ていただけるだけでも」
自分の希望を、一番下まで押し下げる声だった。
声の小さい者が沈黙し、切実な者ほど待たされる。
その歪んだ序列を、リディアが歩み出て止めた。
「エリン」
リディアは受付へ進む。
後ろにはセオとノラ。少し遅れて、大神官グレゴリウスもいる。
伯爵夫人の扇が、リディアを見て止まった。
「あら、あなたが新しい聖女様?」
「仮採用の聖女候補です」
短く答え、リディアは子どもの額に触れた。
熱い。
首元の瘴気痕は薄いが、広がりかけている。
呼吸は浅い。
まだ間に合う。
「セオ、記録。瘴気吸引疑い、即時対応」
「はい」
「ノラ、母親を確保。倒れられると二件になります」
「承知いたしました」
「エリン、赤を出して」
「は、はい!」
リディアの命令は、混乱を一本の線で貫いた。
エリンの震える手が、赤い優先札を取り出す。
赤い優先札、一番。
受付台の上に置かれた赤色が、伯爵夫人の視界へ刺さった。
「お待ちなさい。そちらを先にするおつもり?」
リディアは、今度は伯爵夫人へ向き直る。
そして、白い優先札を差し出した。
「伯爵夫人、こちらを」
「何ですの、それは」
「植物専用の予約札です。趣味の園芸は、こちらの枠でお待ちいただきます」
伯爵夫人の扇が、ぴたりと止まった。
「……植物、ですって?」
「はい。温室の薔薇ですので、植物です」
「わたくしの薔薇ですのよ!」
「大切な薔薇であることは理解しました」
リディアの声は少しも荒れない。
彼女の視線は、伯爵夫人を怒れる貴族として扱っていなかった。
処理すべき依頼の一件として見ている。
それが、かえって容赦なかった。
「こちらは瘴気を吸った子ども。発熱、呼吸の浅さ、瘴気痕があります」
リディアは赤い優先札の横に視線を落とした。
次に、伯爵夫人の白い優先札を持つ手を少しだけ上げる。
「そちらは、葉を落とした薔薇」
「だから、その薔薇は」
「伯爵夫人」
リディアは言葉を切った。
「薔薇と子ども、どちらを先にいたしましょう」
待合の雑音が消えた。
人々の視線だけが、リディアと伯爵夫人の間を激しく往復している。
母親が、子どもを抱く腕に力を込める。
老人の膝の上で、隠されていた順番札が少しだけ布の下から覗く。
付き人の一人が、そっと目を逸らした。
伯爵夫人の扇が、ぎしりと悲鳴を上げる。
ここで「薔薇」と言えば、伯爵家の名は地に落ちる。
リディアは、貴族の矜持という名の檻に彼女を事務的に閉じ込めた。
大神官グレゴリウスが奥で不快そうに杖を握り直したが、リディアは見なかった。
セオの羽ペンが、羊皮紙を削る。
かり、かり、と速い音。
リディアはエリンを見る。
「エリン。赤い優先札の受付を」
「は、はい」
エリンは震える手で、記録欄へ書き込んだ。
到着時刻。
症状。
発生場所。
緊急対応。
途中でインクが少し滲んだ。
それでも、手は止まらない。
「赤い優先札一番。瘴気吸引の疑い。即時対応へ回します」
声は震えていた。
だが、受付全体に届いた。
母親が、声にならない息を漏らす。
「ありがとうございます……」
「まだ礼は不要です」
リディアは子どもの額から手を離した。
「まず処置を」
近くにいた若い神官が、はっとして動いた。
「はい、処置室へ!」
母親と子どもが案内されていく。
伯爵夫人は、その背中を見ていた。
怒っている。
屈辱もある。
けれど、もう大声では押し通せない。
リディアは白い優先札を、もう一度差し出した。
「伯爵夫人のご依頼は、白い優先札で受付します」
伯爵夫人は、扇をぎゅっと握った。
「……いつになりますの」
リディアはエリンを見る。
今度は、任せるために。
「エリン。予約表を確認してください」
「はい」
エリンは予約表を開いた。
指先は震えている。
それでも、奥へ逃げなかった。
受付台の前に立ったまま、伯爵夫人と向き合う。
「カミーユ伯爵夫人。温室の病除け祈祷は、白い優先札での受付となります」
声は細い。
けれど、言葉は切れない。
「最短で、来週火曜日の午後が空いております」
「来週火曜日?」
伯爵夫人の眉が吊り上がる。
エリンの喉が、小さく動いた。
「はい。移動費と記録費を含めた見積もりを作成いたします」
待合の老人が、小さく頷いた。
商人らしい男が、引っ込めていた依頼書を少しだけ受付台の方へ戻す。
神官たちが、信じられないものを見る顔でエリンを見た。
伯爵夫人は、何か言おうとした。
だが、受付台の横には白い優先札。
奥へ運ばれていく子ども。
周囲の民の視線。
ここでまた大声を出せば、自分の薔薇を子どもより優先しろと言っているのと同じになる。
扇が、ぎしりと鳴った。
「……来週火曜日で結構ですわ」
苦い敗北の宣言だった。
リディアは頷く。
「ありがとうございます。エリン、白い優先札三番で受付を」
「はい」
エリンは白い優先札を取り、番号を書いた。
白い優先札、三番。
カミーユ伯爵家。
温室病除け祈祷。
来週火曜午後。
移動費、記録費見積もり要。
手は震えている。
インクも少し濃くなりすぎた。
それでも、記録は読める。
伯爵夫人は白い優先札を受け取った。
まだ納得していない顔だった。
「その子の対応が終わったら、必ずうちの薔薇も見ていただきますわ」
「予約日に伺います」
リディアは微笑んだ。
今すぐ、とは言わなかった。
伯爵夫人は、それ以上言えなかった。
付き人を従え、香水の匂いを残して受付を去っていく。
扉が閉まる。
エリンは、しばらく受付台に手を置いたままだった。
それから、小さく息を吸う。
まだ少し青い顔で、次の順番待ちの老人へ目を向けた。
「……次の方、どうぞ」
老人が、膝の布の下に隠していた順番札をそっと出した。
「いいのかい」
エリンは唇を噛み、ほんの少しだけ頷いた。
「はい。順番ですので」
セオが、ぽつりと呟いた。
「……予定外のバイパスを通しましたね。ですが、おかげで受付の滞留時間が三分短縮されました」
リディアは振り返った。
「セオ」
「失礼しました。記録します」
セオは記録板へ目を戻す。
羽ペンの動きは速い。
『赤い優先札一番。瘴気吸引疑いの児童。即時対応』
『白い優先札三番。伯爵家温室病除け祈祷。予約処理へ移行』
そして、一拍置いて、さらに書く。
『声量基準、初回運用で廃止確認』
最後の一行だけ、少し筆圧が強かった。
リディアは見なかったことにした。
エリンは白い優先札三番の控えを受付箱へ入れた。
ことり、と木札が落ちる。
その音を合図に、エリンは次の依頼書を手に取った。
インクが滲まないよう、今度はゆっくりと、確実にペンを走らせる。




