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第18話 ミリア、正式採用される

 ミリアは、震える指先で採用通知を抱え直した。


 羊皮紙の下部には、神殿の公印が押されている。指でなぞると、蝋の跡がわずかに盛り上がっていた。


 そこにある名前は、確かに自分のものだった。


 ミリア・フォード。


 浄化技師補佐見習い期間終了。

 基礎研修修了。

 現場補助適性あり。

 正式に、浄化技師補佐として採用する。


 何度読んでも、文字は消えない。


 誰かの気まぐれで書かれた夢物語ではなく、担当者名と承認印がそろった、実務上の通知だった。


 ミリアは、給金欄の数字を見た。


 見習いの時より少し増えている。


 実家の台所にある、脚のがたついた机が脳裏に浮かんだ。母がその机に片肘をつき、咳をこらえて笑っていた顔も。


 ミリアは通知書の端を強く握った。


 紙が少し鳴る。


「私、聖女になれなかったら、何もないと思っていました」


 声は小さかった。


 けれど、執務室の中でははっきり聞こえた。


「聖なる素質があると言われて、それだけが私の価値なのだと思っていました。聖女になれなかったら、ただの平民で、誰かに守ってもらうしかなくて……」


「何もない人に、浄化技師補佐は務まりません」


 リディアの返事は早かった。


 ミリアが顔を上げる。


 リディアは机の上から一枚の現場報告書を取った。


「測定器の数値を読むだけなら、訓練である程度はできます。けれど、現場で違和感を拾うこと、人の不安を見落とさないこと、報告すべきことを飲み込まないこと。それは、あなたの力です」


「私の、力……」


「昨日の下町水路の件を覚えていますね」


 ミリアの背が、少し伸びた。


 湿った石壁。苔の匂い。浄化後の水面。


 測定値は基準内に戻っていた。若い神官が終了記録を書きかけた時、ミリアは足を止めた。


 数字は正常。


 けれど、水路の曲がり角だけ、息を吸うと喉の奥が重かった。


「私、変なことを言ったかと思いました」


「変ではありません」


 リディアは報告書の一行を指で押さえた。


 再測定。

 排水溝奥に瘴気残留。

 追加浄化後、正常化。


「数字に出る前の異変を拾える人は、現場に必要です。あなたが止めなければ、翌日には水路の奥で再発していた可能性があります」


 ミリアは通知書を胸に抱えた。


 聖女候補。


 その言葉は、いつも遠くて、眩しくて、少し怖かった。


 浄化技師補佐。


 地味で、長くて、少し言いにくい役職名。


 けれど今、足の裏にちゃんと床がある気がした。


「あなたは、あなたの持ち場で役に立てばいいのです」


 リディアは言った。


「聖女という看板がなくても、人は誰かを助けられます」


 ミリアの目元が熱くなる。


 涙が落ちそうになり、彼女は慌てて通知書を胸から離した。インクを滲ませてはいけない。


 その動作に、リディアの目元がほんの少しだけ和らいだ。


     *


「記録係としても、正式採用に異議はありません」


 セオが、珍しくまっすぐミリアを見て言った。


 彼の前には、採用通知の控えと、別の紙が一枚置かれている。


「こちらは、見習い期間中の確認漏れ、測定補助の修正回数、再報告件数の推移です」


 ミリアは身構えた。


 失敗の一覧を出されるのかと思ったのだ。


 だが、紙面には折れ線が引かれている。


 最初の週は、確認漏れが多い。

 二週目から、報告の質が安定する。

 三週目には、自主的な再確認が増える。

 四週目には、現場で拾った異変が正式報告につながっている。


「ミス率は下がっています。再確認の判断は増えています。現場観察欄の具体性も向上しています」


 セオは、淡々と続けた。


「つまり、失敗を隠さず、次の行動に変えられる人材です」


「それは……褒めてくださっているのですか」


「最大級に」


 ミリアは目を丸くした。


 セオは、採用通知の控えの下に、そのグラフを添えた。


「落ち込んだ時は、これを見てください。気分ではなく、数字で成長を確認できます」


 ミリアの指が、グラフの端に触れた。


「私、本当に少しずつできるようになっていたんですね」


「はい」


 セオの返事は短い。


 だからこそ、嘘がなかった。


 リディアは紙面を覗き込み、少しだけ眉を上げる。


「セオ。これ、本人に渡すために作ったのですか」


「はい」


「記録室用ではなく?」


「記録室には別紙を保管済みです。こちらは本人が自分を疑った時の対策です」


 ミリアは言葉を失った。


 セオの優しさは、柔らかくない。


 角があり、罫線が引かれ、根拠欄がある。


 けれど、逃げ道を塞ぐようにして「あなたは成長している」と突きつけてくる。


「……ありがとうございます」


 ミリアは小さく頭を下げた。


 セオは記録板に何かを書きかけ、リディアに睨まれて手を止めた。


「今のは記録しなくていいです」


「貴重な受領反応でしたが」


「しなくていいです」


 ミリアが、つい笑った。


     *


 祝いの会は、勤務時間外に行われた。


 神殿裏の小さな庭に、焼き菓子と果実水が並んでいる。石造りのベンチのそばで、花壇の草が夕風に揺れていた。


 リディアは、集まった職員たちへ最初に告げた。


「参加は自由です。帰りたい方は帰ってください。用事がある方は、そちらを優先してください」


 若い神官の一人が、焼き菓子を前に目を瞬かせる。


「帰ってもいい祝いの会……」


 エリンが真顔で頷いた。


「新しい概念ですね」


「強制参加は未来の疲労です」


 セオが記録板を開く。


 リディアは少し考えた。


「それは、掲示してもよいかもしれません」


 セオの目が光る。


「では、明朝までに」


「いえ、やはりやめなさい。勢いで掲示物を増やすのは危険です」


「残念です」


「本気で残念そうにしないでください」


 ミリアは、焼き菓子の皿を見つめていた。


「私のために、こんなに……」


「正式採用のお祝いですから」


 エリンが笑う。


「それに、下町水路の件で助けてもらいました。あのまま終わっていたら、きっとまた苦情が来ていました」


 若い神官も頷いた。


「測定器の箱、先に確認してくれて助かりました。僕、あのまま別の箱を持っていくところでした」


「それは危なかったですね」


「本当に危なかったです」


 ミリアは困ったように笑った。


 自分が役に立ったという言葉を、まだ上手に受け取れない。


 けれど、採用通知の公印と、セオのグラフと、職員たちの声が、少しずつ彼女の手元へ積もっていく。


     *


 祝いの会に参加しない職員もいた。


「今日は弟の誕生日なので、先に失礼します」


 若い神官が申し訳なさそうに言う。


 リディアは頷いた。


「はい。おめでとうと伝えてください」


「母と夕食の約束がありまして」


「時間に遅れないように」


「明日、早番なので休みます」


「良い判断です」


 ミリアは、そのやり取りを不思議そうに見ていた。


「お祝いなのに、帰ってもいいんですね」


「もちろんです」


 リディアは果実水の杯を置いた。


「祝いのために疲れ果てるのは本末転倒です」


「でも、せっかくなのに」


「せっかくの日を、誰かの生活を潰す理由にしてはいけません」


 ミリアは、小さく頷いた。


 帰れること。


 休めること。


 断れること。


 この神殿では、つい最近まで、帰らないことが熱心さで、休まないことが美徳で、断らないことが慈悲だった。


 今は、子どもの誕生日に間に合う神官がいる。


 家族と夕食を食べる職員がいる。


 明日の早番に備えて帰る人がいる。


 それを、誰も責めない。


 ミリアは焼き菓子をひとつ取った。


 甘くて、少しほろほろしていた。


     *


 庭の片隅で、ミリアはリディアの隣に立った。


 夕風が、白い神殿の壁をなぞっていく。


「リディア様」


「はい」


「私、まだ聖女という言葉を聞くと、少し怖いです」


 ミリアは採用通知の封筒を両手で持っていた。


「査問会で、聖女という言葉が、人を守る言葉にも、人を縛る言葉にもなるのだと思いました」


「怖いなら、急いで名乗らなくていいのです」


 リディアは庭の花壇へ目を向けた。


「役職名は、人を助けるための道具です。人を閉じ込める箱ではありません」


「でも、いつか」


 ミリアは少しだけ顔を上げた。


「いつか、自分の仕事で、誰かを助けられるようになりたいです」


「もう助けています」


 リディアは即答した。


 ミリアが目を丸くする。


「下町水路の残留瘴気を見つけました。受付で迷っていた子どもに声をかけました。休憩を取らない新人に、自分から果実水を渡していました」


「あれは、ただ」


「ただ、で人は助かるのです」


 ミリアの唇が、少し震えた。


「私は、聖女になれなかったのではなく、別の仕事を得たのですね」


「そうです」


 リディアは採用通知の封筒を軽く指で示した。


「あなたは、あなたの持ち場で役に立てばいいのです」


 ミリアは、ゆっくりと頷いた。


 涙が一粒落ちかけて、彼女は慌てて袖で拭った。


「す、すみません。通知書が滲むところでした」


「大切な記録ですからね」


「はい」


 ミリアは封筒をもう少し胸から離し、それから両手で大事に抱え直した。


     *


 片付けが始まった頃、神殿の入口に荷馬車が止まった。


 車輪の音に、セオが顔を上げる。


 リディアも庭から受付の方へ視線を向けた。


 地方神殿の紋が入った封筒を抱えた使者が、息を切らして立っている。


「本部へ照会です。急ぎではありませんが、できれば早めにご確認をと」


 言葉は遠慮がちだった。


 けれど、手渡された書類束は、遠慮を知らない厚みをしていた。


 リディアは受け取った瞬間、腕にずしりと重みを感じる。


 表紙の隅に、小さな文字がある。


『本部方式の導入について、ご教示願います』


 その一文を見た瞬間、祝いの会の甘い空気が、ほんの少しだけ引き締まった。


 本部方式。


 いつの間にか、リディアたちのやり方に名前がついている。


 その言葉は、誰かが机の前で必死に考えた救難信号のようだった。


 声の大きな貴族に押し流される依頼。


 帰れない神官。


 積み上がる記録。


 そして、どこかの地方神殿で、誰かが「本部では変わったらしい」と聞き、震える手でこの封筒を出した。


 リディアは、焼き菓子の甘さがまだ残る口元で、小さく息を吐いた。


「セオ」


「はい」


「この束、今日開くと帰れなくなりますね」


「間違いなく」


 セオは、分厚い書類束を抱え直した。


 目が危険なほど澄んでいる。


「ただし、表紙だけは確認済みです。分類名を付けるなら、地方神殿支援案件。重要度は高。処理開始は明朝」


「今日ではなく?」


「ミリアさんの採用祝いを、未処理依頼束で上書きするのは不適切です」


 リディアは少し驚いて、セオを見た。


 セオはいつも通り真顔だった。


「祝いは祝いとして記録します。混沌は明日処理します」


 ミリアが採用通知を抱え、目を丸くする。


 エリンが小さく笑った。


 リディアは、地方神殿から届いた分厚い封筒を見下ろした。


 本部方式。


 その言葉には、疲れた現場の悲鳴と、まだ諦めていない人の光が混ざっている。


 リディアは封筒の端を整え、セオへ預けた。


「では、明日の最初の議題に」


「承知しました」


「今日のところは、焼き菓子を片付けます」


「記録します。混沌、明朝まで保留」


「その書き方はやめなさい」


 セオはさらりと羽ペンを走らせた。


 やめる気配はない。


 リディアは諦め、ミリアの採用通知へ視線を戻した。


「ミリアさん」


「はい」


「正式採用初日の最初の仕事です」


 ミリアが背筋を伸ばす。


「焼き菓子を、湿気る前に配り切ってください」


 一瞬の沈黙。


 それから、ミリアはぱっと笑った。


「はい。浄化技師補佐として、確実に遂行します」


 地方神殿から届いた分厚い混沌は、明日の机に置かれる。


 今は、採用祝いの焼き菓子が先だった。

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