第17話 婚約解消理由、双方の職務上の都合
数日後、アルベルト王太子は、神殿の受付で黙って羽ペンを走らせていた。
かつてのように門を抜け、権威で奥へ通ろうとする姿はない。
民の列の横で、用件と緊急性を記入する。
その光景だけで、神殿が勝ち取ったものは十分に分かった。
「用件、私的協議。緊急性、なし……か」
アルベルトは、自嘲気味に呟いた。
最後の「なし」を書く時、指先が少し止まる。
私的協議。
緊急性なし。
王太子の胸には重い言葉でも、神殿の受付ではその程度に分類される。
リディアは通路の奥から、それを見ていた。
勝ち誇る気持ちはなかった。
ただ、王太子の来訪さえ記録と順番の中へ収まった事実を、静かに確認した。
横でセオが記録板を閉じる。
「記録上、重要な進歩です」
「セオ、その言い方はさすがに不敬よ」
「承知しました。では、表現を改めます。殿下はようやく受付を突破しない方法を習得されました」
「悪化しています」
リディアは小さく息を吐いた。
「準備はできているのね?」
「いつでも。滲みにくいインクと、婚約解消届の雛形を用意済みです」
「なぜ雛形まで」
「殿下が食い下がった場合、書類を出せば定時で帰れると判断しました」
その理由は、あまりにもセオだった。
「……あなたの定時退勤への執念は、時々神殿の鐘より重いわね」
「鐘は鳴っても仕事を減らしませんので」
リディアは反論を諦めた。
*
面会室に置かれた砂時計が、静かに砂を落としている。
それは愛の囁きを飾る小道具ではなく、面会時間を削るための実務道具だった。
アルベルトは、以前のように机を叩かなかった。
苛立ちを隠さず足を組むこともない。
リディアが入室すると、彼は立ち上がった。
「お待たせいたしました、王太子殿下。本日の面会目的は、私的協議でよろしいでしょうか」
「そうだ」
「承知しました。面会予定は二十分です」
「ああ」
アルベルトは喉元で言葉を整えるように、一度息を吸った。
「リディア。まず、謝罪したい。私は、君を……公爵令嬢の気まぐれだと侮っていた」
「事実ですので、お気になさらず」
リディアは即答した。
アルベルトの言葉が止まる。
「当時の殿下がそう判断されたことは、すでに査問会の記録にも残っています。それで、本題は?」
ノラが、ほんのわずかに目を伏せた。
セオの羽ペンが一瞬だけ止まり、また動く。
アルベルトは、苦く笑った。
「君は、本当に容赦がない」
「感情の整理に時間を使いすぎると、次の青い優先札案件に支障が出ます」
「……そうだったな」
アルベルトは手元へ視線を落とした。
「君にも、ミリアにも、私は都合のいい役を押しつけていた。そう思う」
言葉は少ない。
それでも、彼がようやく何かに手を触れたことは分かった。
「すまなかった」
リディアは少しだけ間を置いた。
「謝罪は、受け取ります」
「ありがとう」
アルベルトの肩から、わずかに力が抜ける。
だが、彼はそこで終わらなかった。
「謝罪だけで済むとは思っていない。だが、もし可能なら」
声に、かすかな震えがあった。
かつての傲慢な響きは微塵もない。
拒絶の恐怖を必死に抑え込んでいるような震えだった。
「もう一度、婚約者として向き合う機会をもらえないだろうか」
面会室の空気が沈む。
セオの羽ペンも止まった。
ノラは何も言わない。
リディアは、アルベルトの目を見た。
未練は伝わった。
謝罪も受け取った。
それでも、その未練に自分の人生を差し戻す理由はなかった。
*
「殿下の謝罪は受け取ります」
リディアは言った。
「ですが、婚約の継続は望みません」
アルベルトが息を呑む。
それでも、怒鳴らなかった。
王太子の権威で押さえつける言葉も出さなかった。
「王太子妃となれば、王宮行事、外交儀礼、貴族対応、後宮管理が発生します。現在の神殿職務と両立できません」
「そこまで、仕事を優先するのか」
「はい」
返事に迷いはない。
「王太子妃公務と神殿実務を突き合わせた結果、私の人生の勤務表に、殿下の恋愛劇を入れる余白は一分も残っていません」
面会室が、しんと静まった。
あまりにも率直で、あまりにも実務的な拒絶だった。
アルベルトは、しばらく何も言えなかった。
その時、扉が軽く叩かれる。
「リディア様、失礼します! 午後の浄化ルート、十五分浮きました!」
ミリアが予定表を抱えて入ってきた。
弾んだ声。
仕事がうまく回った人間の声だった。
しかし室内の空気に気づき、ぴたりと止まる。
「……失礼しました。面会中でしたか」
「構いません。急ぎですか」
「はい。測定器の事前準備で、さらに短縮可能です。調整枠を一つ削れます」
「確認します」
リディアは予定表を受け取った。
神殿前の水路浄化。
ミリアの基礎研修。
測定器準備。
移動時間短縮。
確かに、午後の調整枠が一つ削れる。
「助かるわ、ミリア」
リディアは頷き、アルベルトへ向き直った。
「殿下、あいにくですが、今、その僅かな余白も現場の努力で塗りつぶされました」
アルベルトの手が、肘掛けから力なく滑り落ちた。
彼が入り込もうとした隙間は、現場の少女がよりよい仕事をするための時間に、事務的に埋められたのだ。
アルベルトはミリアを見る。
彼女は予定表を抱えたまま、気まずそうに立っている。
だが、かつてのように王太子の顔色だけをうかがう少女ではなかった。
自分の担当業務を持ち、予定を動かし、必要な報告をしに来た職員だ。
以前の彼なら、「今は大事な話をしている」と遮ったかもしれない。
今は、その言葉が出ない。
「……そうか」
アルベルトは小さく息を吐いた。
「君の勤務表に、私は載らないのだな」
「はい」
「分かった」
その声には、悔しさがあった。
未練もあった。
けれど、命令はなかった。
「ならば、王太子として、私も自分の職務を見直すべきなのだろう」
「それがよろしいかと存じます」
リディアの返事は淡々としていた。
アルベルトに残された道は、復縁ではない。
王太子として、自分の仕事を知ることだった。
*
「解消の理由……?」
アルベルトは書類の理由欄を見て、指を止めた。
セオが静かに言う。
「『双方の職務上の都合』。後々の問い合わせ対応を減らすため、最も正確な表現にいたしました」
リディアは書類を見下ろす。
「簡潔ですね」
「婚約解消理由が曖昧ですと、噂が増えます。噂が増えると問い合わせが増えます。問い合わせが増えると」
「残業になるのですね」
「はい」
説明はそれで足りた。
アルベルトは、理由欄を見つめる。
「私との婚約は、勤務上の都合で終わるのか」
「はい」
リディアは迷わない。
「恋愛劇より、正確です」
アルベルトは息を吐き、羽ペンを取った。
双方の職務上の都合。
その文字は、拍子抜けするほど整っていた。
次に、リディアが署名する。
筆は止まらない。
インクが紙に沈む。
ノラが、乾燥用の砂を差し出した。
リディアが軽く砂を振る。
さら、さら。
面会室に響いたのは、恋愛劇を悼む音ではない。
茶番を終わらせるための、無機質な作業音だった。
アルベルトも同じように砂をかける。
さら、さら。
二つの署名が乾いていく。
涙も、怒号もない。
インクの滲みを確認するセオの視線だけが、ひどく真剣だった。
「これで、よろしいか」
アルベルトが言った。
「はい。正確な記録をありがとうございます」
リディアは書類を受け取った。
アルベルトとの婚約は、砂が紙の上を滑る音の中で終わった。
*
数日後、王都に婚約解消の知らせが広がった。
王太子アルベルトと公爵令嬢リディア・エルネストの婚約解消。
理由は、双方の職務上の都合。
「職務上?」
「王太子妃業務と神殿勤務が衝突したらしい」
「神殿勤務が王太子妃業務に勝ったのか」
「恋愛劇が勤務表に負けた、ということかしら」
噂は王都を駆け回った。
だが、神殿の仕事は止まらない。
エリンが受付台で顔を上げた。
「次の方、どうぞ」
老婆が順番札を差し出す。
ミリアは測定器を抱え、若い神官と一緒に手順書を確認している。
セオは来訪者記録の横に、新しい注意書きを貼ろうとしていた。
『私的面会は勤務予定と調整のうえ実施』
「セオ」
「実例ができましたので」
「貼る前に確認を取りなさい」
「確認申請書を作成します」
「そこからなのですか」
リディアは羽ペンを置き、予定表に目を落とした。
午前、青い優先札案件の確認。
昼、ミリア研修。
午後、下町水路の浄化報告。
夕方、書類整理。
帰りに、可能なら林檎蜜の氷菓子。
リディアは予定表の「氷菓子」に小さく印をつけた。
窓の外では、夕焼けが神殿の白い壁を淡く染めている。
カチリ。
鞄の留め具が鳴る。
その音が、新しい実務の始まりを告げるように、夕暮れの執務室に澄んで響いた。




