第19話 王都だけホワイトでも、地方は黒いままでした
王都神殿が少しずつ「帰れる職場」になっていく中で、リディアの机に置かれたのは、北方辺境グレイヴ地方から届いた黒ずんだ書類束だった。
擦り切れた紐。
何度も開かれ、何度も閉じられた紙の端。
古いインクと湿った棚の匂い。
照会書と呼ぶには、あまりにも重かった。
使者は深く頭を下げる。
「グレイヴ地方神殿より、本部へ照会です。急ぎではないとのことですが……できれば、早めに」
「急ぎではない」という添え書きは、形だけの礼儀に過ぎなかった。
リディアが束を受け取った瞬間、腕にずしりと重みが沈む。
紙の量だけではない。
処理されなかった時間。
届かなかった祈り。
誰かが飲み込んできた言葉。
そういうものが、束になって押し寄せてくる。
セオの目が細くなった。
「昨日の混沌を今日処理する予定でしたが」
「言いましたね」
「混沌が増便されました」
「配送物のように言わないでください」
リディアは封を切った。
中身を一枚ずつ丁寧に読み上げる必要はなかった。
井戸。
街道結界。
魔物被害後の浄化。
どれも、生活の底を支える案件ばかりだ。紙の端には泥の跡が残り、いくつかの欄には、焦って書き足したような細い文字が重なっている。
その束の中ほどで、セオの羽ペンが止まった。
「地方神官マルク・レイノルズ、信仰疲労により昏倒」
リディアの指が、紙の上で止まる。
「信仰疲労」
彼女は、その四文字を見下ろした。
「便利な言葉ですね」
声は静かだった。
だが、ミリアはその静けさに、査問会の時と同じ冷たさを感じた。
「一人の人間が限界を超えて倒れた事実を、これほど綺麗に、無責任に塗りつぶせる言葉もありません」
ミリアは測定器の箱を抱えたまま、報告書を覗き込んだ。
信仰疲労。
その四文字を目で追った瞬間、喉の奥が熱くなる。
かつて自分も、聖なる言葉に包まれて何かに押し流されかけた。美しい言葉は、時々、人の悲鳴を薄い布で覆ってしまう。
王都では、過労離脱者ゼロという数字をようやく作った。
その外側では、まだ誰かが倒れている。
セオが書類束をめくった。
「王都の未処理件数は減りました。しかし、王都が静かになった分、地方の滞留が見えるようになっています」
「つまり、減ったのではなく、見えていなかっただけのものがある」
「はい。かなりあります。数字が育ちすぎています」
「育てないでください」
「私も望んでいません」
セオは、依頼束の端を揃えた。
その指先がいつもより硬い。
感情を出さない彼が、書類の角をきっちり合わせすぎる時は、だいたい怒っている。
リディアは書類をさらにめくった。
表紙の隅に、小さなメモが挟まっている。
『本部方式の導入について、ご教示願います』
震えるような筆跡だった。
誰かが、王都では変わったらしいと聞いたのだろう。
順番札。
優先札。
手順書。
帰れる勤務。
そういうものが、遠い北方まで噂として届いた。
救いの形で。
その数枚後ろに、別の走り書きがあった。
『王都の制度など、こちらでは使えません』
署名は同じ。
地方神官、マルク・レイノルズ。
倒れたと報告されている神官の名だった。
ミリアが眉を寄せる。
「同じ方が、導入を求めて、使えないとも書いているんですか」
「ええ」
リディアは、その二枚を並べた。
一枚目は、助けを求める細い字。
二枚目は、強く押しつけたような字。
どちらも同じ人間の手から出ている。
「反対しているのでしょうか」
「使いたくても使えない理由を知っているのかもしれません」
リディアは、走り書きの紙を指先で押さえた。
王都の制度など、こちらでは使えません。
乱暴な言い方だ。
けれど、ただの反発にしては、字が疲れている。
怒りよりも、諦めに近い硬さがあった。
「現地へ向かいます」
リディアは言った。
セオは、予想していたように記録板を開く。
「出張扱いですね」
「ええ。書類だけでは判断できません。測定方法、緊急認定、地方貴族との距離、気候、人員。王都の手順をそのまま貼って済む話ではなさそうです」
ミリアが一歩前へ出た。
「リディア様。私も同行させてください」
エリンが小さく息を呑む。
ミリアの声は震えていた。
けれど、採用通知を受け取った時よりも、足元はしっかりしている。
「地方出張は、王都の研修とは違います」
「分かっています」
「歓迎されないかもしれません。手順書がない場所で動くこともあります。怖い思いをする可能性もあります」
「怖いです」
ミリアは即答した。
その正直さに、リディアは少しだけ目を細める。
「でも、怖いから見ないままでいたら、私はまた誰かに役を決められるだけになります。王都で教わったことが外で役に立つのか、確かめたいです。役に立たないなら、何が足りないのか知りたいです」
ミリアは測定器の箱を抱え直した。
「数字に出る前の違和感を拾えるなら、グレイヴ地方でも拾いたいです」
リディアは、しばらく彼女を見た。
正式採用されたばかりの新人を、整っていない地方へ連れていく。
危険はある。
けれど、彼女を王都の中だけに置いておけば安全だという考えも、結局は別の形の箱になる。
「同行を許可します」
ミリアの顔が明るくなる。
「ただし条件があります。単独行動は禁止。体調不良は即報告。違和感を拾ったら、一人で抱え込まないこと。研修扱いとして記録します」
「はい!」
「返事が元気すぎます。体力を温存してください」
「はい」
セオが静かに羽ペンを動かした。
「出張前教育項目を追加します」
ミリアの顔が、ほんの少し固まる。
「項目、増えますか」
「増えます。地方は混沌ですから」
「混沌……」
「ただし、今日中には詰め込みません」
セオの言葉に、リディアがわずかに目を瞬いた。
「珍しいですね」
「ミリアさんは正式採用直後です。初日から教育項目で圧殺するのは、採用祝いの趣旨に反します」
「本当に変わりましたね」
「定時退勤と祝いの区別を覚えました」
「良い成長です」
「記録します」
「自分で記録しないでください」
*
出張準備は、その場で必要最低限だけ確認された。
細かな荷物はノラが整える。
リディアは知っている。
ノラが黙って用意したものは、だいたい足りる。むしろ多い。
「お嬢様、防寒具を二組追加いたしました」
「なぜ二組?」
「お嬢様は、寒さを事務処理で忘れようとなさいますので」
リディアは言葉に詰まった。
「否定しづらいですね」
「ミリア様には、測定器を抱えても転びにくい靴をご用意します」
ミリアが慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます」
「北方の泥は、王都の石畳より遠慮がありませんので」
セオが横から言う。
「泥による遅延も勤務時間に含めますか」
「含めますが、泥を理由にわざと遅延しないでください」
「しません」
「少し間がありましたね」
「泥は予測困難な要素です」
「遊ばない」
リディアは、机に置いた走り書きを見下ろした。
『王都の制度など、こちらでは使えません』
その文字は、準備の間もずっと視界の端に残っている。
王都で通った方法が、地方では通らないかもしれない。
けれど、その「使えない」の中には、何かが隠れている。
人が足りないのか。
距離が邪魔をするのか。
貴族が近すぎるのか。
魔物被害が多すぎるのか。
それとも、王都の人間が想像していない別の理由があるのか。
セオが静かに言った。
「移動時間は勤務時間です」
「当然ですね」
「馬車内の書類確認も勤務時間です。宿泊先での作業時間上限も設定します」
「必要です」
「出張は、残業を正当化する魔法ではありません」
ミリアが小さく復唱した。
「出張は、残業を正当化する魔法ではない……」
「覚えなくていいです」
リディアが止める。
セオはすでに記録していた。
「掲示物候補です」
「候補に入れない」
「北方にも必要かと」
「必要性が否定しづらいのが嫌ですね」
*
王宮からは、宰相名で正式な出張許可と護衛手配の通知が届いた。
文面は簡潔だった。
北方辺境グレイヴ地方における神殿運用確認について、王家として護衛および移動支援を手配する。
余計な私信はない。
甘い言葉もない。
リディアは目を通し、小さく頷いた。
「職務上の文書になっていますね」
セオが横から覗く。
「感情の混入が少なく、良い傾向です」
「その評価、王宮に送らないでください」
「内部所感に留めます」
「内部にも残さなくていいです」
セオは答えなかった。
残す気だ。
リディアは諦めて、走り書きの紙を鞄へ入れた。
窓の外では、エリンが受付で老婆の順番札を確認している。
赤い優先札が出ると、待っていた人々が自然に道を空けた。
王都では、少しずつ新しい日常が動いている。
その外で、まだ誰かが自分の順番を諦めているなら。
見に行く理由は、それで十分だった。
「王都だけが定時で帰れても、王国は救えません」
リディアの声に、セオの羽ペンがぴくりと動く。
「掲示しません」
「まだ何も言っていません」
「目が言っています」
「では、出張記録の表紙に」
「言っています」
ミリアが口元を押さえる。
リディアは鞄の留め具を閉じた。
「行きましょう。王都の外へ」
セオが記録板を抱える。
ミリアが測定器の箱を持ち上げる。
ノラが、防寒具の束を当然のようにもう一つ追加した。
「ノラ?」
「念のためでございます」
北方辺境への出張準備が、静かに始まった。




