第六話 僕は今、ただの湊だ
ひなが失踪してから、二日、三日が経つ。警察はスーパーの帰りに姿を消したとみて、事件性が高いと判断した。そして、四日、五日と時間だけが過ぎていく。
……警察からの連絡は、まだなかった。
ドラマの現場にて。今日も朝浦は台本ではなく、スマホを開いてしまう。
「……おい」
そんな朝浦に声をかけたのは、黒瀬だった。
「……何かあった?」
「いや。……調子悪いのか?」
「……どうして?」
「演技に不調が出てる」
朝浦の動きが、ぴたりと止まる。
「……演技に?」
「間の取り方がぶれてる。さっきのシーンはいつもより0.2秒間長かった。力を抜く時、肩の角度が3度きつい」
「……ちょっとね。ばれちゃったか、頑張ってたんだけどな」
朝浦はそう言って笑う。笑った瞬間、気づく。今、自分はなんて言った?
黒瀬を見れば、彼も目を丸めていた。
「……無理はするなよ。お前が潰れたら、お前を負かせなくなる」
「ありがとう」
口から溢れた言葉に息を飲む。……まただ。
「黒瀬さん、出番です」
スタッフから声がかかる。黒瀬は「すぐ行きます」と返事して、朝浦に視線を向けた。
「……見てろよ。痺れさせてやる」
「うん」
朝浦は笑顔でその背中を見送る。その瞳に、ギラつきはなかった。
「……これは……だめだ……」
朝浦の呟きは、風に溶けて消えていった。
◇
今日も撮影が終わる。車に乗り込んだ朝浦は、ドアが閉まるのを確認したあと口を開いた。
「……長原さん」
声は、重い。長原はすぐに後部座席に振り返った。
「どうかしましたか?」
「……活動、休止したい」
「……え?」
長原の動きは、止まる。
「……活動休止、ですか?」
「……うん。……今の僕は、俳優の朝浦湊じゃない」
「……と、言いますと?」
朝浦は目を伏せた。声が震える。
「……今日、黒瀬に演技を指摘されたんだ」
「……たまにありますよね」
「そうだよ。……いつもなら悔しい。悔しくて、負けてやるかって。でも、今日……悔しく、なかった……」
「……悔しくなかった、のですか?」
カーナビから、芸能ニュースが流れる。テレビの中の朝浦はマイクを向けられ、笑顔で答えていた。
『黒瀬迅ですか? 彼はすごい俳優ですよ。僕に食らいつける、食らいついてる、なんなら抜かされる、負けたことだってある』
テレビの朝浦はフッ、と笑みを消す。
『でも、僕は負けない。負けたくない。僕が前だ。譲らない』
座席に座ったまま、朝浦はズボンを握りしめる。
「……そう。悔しくなかった。……今、僕は俳優じゃない。……現場に立っちゃだめだ」
「……そこまで言うほどでは——」
「だめだよ」
朝浦は呼吸を一つ置く。
「……黒瀬が、いるんだから」
握りしめた手が、涙で濡れている。
「……ほんとは……仕事したいよ。……仕事へ逃げたい……。けど……だめだ……」
嗚咽が漏れる。
「……僕は今、ただの湊だ……」
「……分かりました」
長原の声は静かだった。
「事務所と協議します。休止方向へ持っていきます。……降板も、認めさせます」
「……ありがとう」
「……伊藤家にお送りしますね」
車のエンジンが、かかる音がした。
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