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次のご案内まで、死んでお待ちください。  作者: 二条理|アコンプリス


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9/12

第九章 ご案内まで、あと十分

 十分という時間は、人を殺すには長すぎる。

 だが、人を怯えさせるには短すぎない。

 それは待つ時間ではなく、削られる時間だった。

 十、九、八、と数字が減るだけで、人は自分の呼吸を数え始める。

 心臓の音が気になる。

 足音が気になる。

 背後の影が気になる。

 自分の名前を呼ぶ声が、本当に自分を呼んでいるのか分からなくなる。

 午後八時五十分。

 《WAIT》の最終配信が始まった。

 画面は、暗い廊下を映していた。

 非常灯の赤い光。

 閉じた防火扉。

 壁に貼られた進路説明会の古いポスター。

 床に反射する蛍光灯。

 そして、その廊下を歩く江口桜次郎の後ろ姿。

 タイトルは、黒い背景に白い文字で表示されている。

 【最終案内】江口桜次郎を処刑します

 配信開始から三十秒で、視聴者数は二十万を超えた。

 コメント欄は、ほとんど暴風だった。

 来た

 始まった

 チネよ

 江口先生

 やめろ

 本当に学校じゃん

 教師は全員しねえええええええ

 これ配信していいやつ?

 先生を殺すな

 教師って実際加害者多いしな

 江口先生は違うだろ

 違うかどうか何で分かるんだよ

 この人、生徒守ってた人じゃん

 外面がいいだけじゃね。しらんけど

 こいつどうでもいいからうちの担任殺してほしいわ

 でも死にたいって言わせたなら加害者じゃね?

 教師消えたら学校行かなくていいんだぞ最高やん

 裁判員気取り多すぎ

 二階堂さんの次は江口先生?

 九条先生の事件からおかしくなってる

 どうせなら派手に散れ

 爆散wwww

 警察はよ止めろ

 見てる場合じゃない

 オマエモナ

 でも見ないと分からない

 イケメンのミンチ見れるかもしれないんだぞ

 見届けるって言葉、便利すぎて怖い

 江口は、その画面を見ていなかった。

 彼は実際の廊下を歩いていた。

 スマートフォンは警察に預けてある。職員室に残した端末にも、配信は映っているだろう。生徒たちには見せないようにしているはずだが、完全には防げない。誰か一人が見れば、その画面はもう教室の空気に入ってくる。

 江口は、そのことを考えないようにした。

 今考えるべきは、いない生徒のことだった。

「中原千夏が、いない?」

 江口が聞くと、三年二組の副担任である二年目の教師は頷いた。顔色が悪い。

「はい。出席確認の時はいたはずなんですが、先ほどトイレに行くと言って、そのまま戻っていません」

「一人で行かせたんですか」

「いえ、本来は教師が付き添う予定でした。ただ、その直前に別の生徒が過呼吸を起こして、廊下の職員が一瞬そちらに回りました。女子生徒を一人付き添わせたんですが、途中で千夏さんが『大丈夫だから先に戻って』と。その子は戻ってきたんですが」

 江口は額を押さえたくなった。

 責める言葉はいくらでも出てくる。

 だが、責めても時間は戻らない。

「中原は《WAIT》に登録してましたか」

 副担任は唇を噛んだ。

「分かりません。ただ、相沢さんが言っていました。千夏さんも、さっきからずっと様子がおかしかったと」

 相沢沙耶。

 江口を死亡予告の対象にしてしまった生徒。

 あの子自身も崩れかけている。その沙耶が、別の生徒の異変に気づいた。

 生徒は、時に教師よりよく生徒を見ている。

 江口は廊下の奥を見た。

 旧連絡階段。

 今はほとんど使われていない、東棟と旧校舎側をつなぐ古い階段だった。校舎改修前には体育館へ近道できる通路だったが、現在は防火扉で区切られ、普段は施錠されている。生徒の間では、昔から怪談の場所として扱われていた。

 こういう時、子どもは“誰も来ない場所”へ行く。

 教師に見つかりたい気持ちと、見つかりたくない気持ちを同時に抱えて。

「江口先生」

 五十嵐理人が隣に来た。

「一緒に行きます」

「お願いします」

 廊下の警察官が江口の前に立った。

「江口先生、これ以上の移動は危険です。真壁警部補からも、単独行動は止めるようにと」

「単独ではありません。五十嵐先生と、あなたたちがいます」

「ですが」

「生徒が一人、所在確認できてないんです」

 その言葉を聞いた瞬間、警察官は返す言葉を失った。

 江口は続けた。

「僕をここで止めるのは正しいです。でも、あの子を一人にするのは間違っています。正しいことと間違っていることが同時にある時は、たいてい現場の大人が嫌な顔をするしかないんです」

 五十嵐が小さく言った。

「江口先生、それ、職員会議で言うと揉めるやつです」

「今は職員会議じゃないので助かります」

 警察官は無線を握った。

「江口先生、旧連絡階段方面へ移動希望。警護二名同行。五十嵐教諭同行。前方確認班の配置を要請」

 江口は、その返答を待ってから歩き出した。

 廊下の防犯カメラが、かすかに動いた。

 江口はそれに気づいた。

 見られている。

 犯人が、画面の向こうで自分を見ている。

 視聴者も見ている。

 おそらく、今この瞬間の自分の後ろ姿が、配信画面に映っている。

 足が止まりそうになった。

 だが、止まらなかった。

 歩くしかない。

 歩かなければ、物語の中で立ち尽くすだけになる。

     *

 警視庁の対策室では、配信画面が大型モニターに映し出されていた。

 真壁彰は立ったまま画面を見ていた。

 江口の後ろ姿。

 その少し後ろに五十嵐。

 さらに警察官二名。

 廊下の左右は暗く、カメラは明らかに学校の防犯システムから抜かれている。映像の画質は低いが、江口だと分かる程度には鮮明だった。

「映像の出所は」

「校内防犯システムの一部です。外部からアクセスされていますが、ルートが複数あります。遮断を試みています」

「遮断したら、現場の監視も失われるのか」

「一部は警察側でも見られなくなります」

 真壁は舌打ちした。

 犯人はまた、こちらの手を縛っている。

 配信を止めれば、江口の位置が見えなくなる。

 配信を残せば、犯人の見世物に加担する。

 二階堂壮也は病室から音声で繋がっていた。

 ただし、堀島岳斗が許したのは、二分ずつの短い参加だけだった。二階堂は話すたびに呼吸を乱し、そのたびに堀島が「終了です」と回線を切ろうとする。病室の向こうでは、酸素マスクの音と、モニターの電子音がかすかに混じっていた。

『真壁』

「何だ」

『配信を完全に止めるより、犯人が見ているコメント欄の空気を変えた方がいい』

「何?」

『犯人は見てる。自分の最終回の反応を』

「だから何だ」

『犯人の目的が注目獲得だと、視聴者に知らせる。見ていること自体が、犯人の利益になると分からせる』

 真壁は眉をひそめた。

「世論を動かすつもりか」

『違う。警察がやるのは注意喚起。映像を見ない、録画しない、切り抜かない、拡散しない。犯人の意図に加担するなと、公式に言う』

 九条雅紀が横で静かに聞いていた。

「二階堂。それでも危険だ。犯人が焦って行動を早める可能性がある」

『あるよ。でも今も十分危険だ』

 真壁は画面を見た。

 江口は廊下を歩いている。

 その先には、旧連絡階段。

 犯人がどこにいるかは分からない。

『間宮は、江口を殺したいんじゃない。江口を主役にした最終回を見せたいんだ。だから、視聴者が自分の演出から降りるのが一番効く』

 堀島の声が遠くで飛ぶ。

『二階堂さん、そこで終了です』

『ここからが本題なんだけど』

『いつもそう言います』

 二階堂は短く息を吸い、続けた。

『警察公式からは、“配信映像の拡散は犯人の意図に加担する”と出す。それとは別に、報道各社とプラットフォーム側へ、犯人の言葉をそのまま見出しにしない、配信を中継しない、拡散を抑えるよう要請する。視聴者に、見ている自分が犯人の数字になっていると気づかせる』

 真壁は短く考えた。

 危うい。

 だが、犯人が視聴者の目を凶器にしている以上、そこへ何も言わないわけにはいかない。

 警察が世論を作るのではない。

 犯人が作った処刑場から、少しでも人を退かせる。

 そのための注意喚起だ。

「やれ」

 真壁は言った。

 二階堂は一瞬黙った。

『本当にいいの?』

「お前が言ったんだろう」

『真壁がこんな早く許可すると怖いんだけど』

「早くやれ」

『わかった』

「その後は黙れ」

『努力する』

「黙れ」

 すぐに広報班が動いた。

 警視庁公式アカウントに新しい注意喚起が出る。

 現在配信されている映像は、犯人が注目を集める目的で編集・配信している可能性があります。視聴、録画、切り抜き、拡散は、関係者の安全をさらに脅かすおそれがあります。映像を見かけても拡散せず、通報してください。

 同時に、報道各社へも連絡が入る。

 この配信を「中継」しないでください。

 犯人の言葉をそのまま見出しにしないでください。

 被害者・関係者の氏名を煽り文句として扱わないでください。

 プラットフォーム側へは、ミラー配信と切り抜きの停止要請が送られた。

 配信そのものの遮断はまだ難しい。

 だが、犯人が用意した観客席を、少しでも崩すことはできる。

 二階堂の声が、最後に短く届いた。

『自然に出てきたコメントの流れを拾って。視聴者の中にも、もう嫌がってる人間がいる』

 堀島の声。

『終了です』

 そこで二階堂の回線は一度切られた。

     *

 配信のコメント欄は、最初こそ江口への同情と野次で埋まっていた。

 だが、警察公式の注意喚起が出てから、少しずつ流れが変わり始めた。

 見るのやめる

 拡散したら犯人喜ぶだけじゃん

 いやでも江口先生が心配

 心配なら見るなって話か

 イケメンの苦しむ姿見たいんだよこっちは

 通報した

 切り抜き上げてる奴、犯人の宣伝してるだけ

 悪趣味すぎ

 とりあえず教師はチネ

 これ二階堂拉致の焼き直しじゃね?

 前回より演出古くない?

 カウントダウン芸しかないの?

 江口先生を使っても犯人が薄い

 やってること、ただのかまちょでは

 最終回って自分で言う作品ほどだいたい寒い

 もちろん、すべての視聴者が見るのをやめたわけではない。

 むしろ数字だけなら、増え続けている。

 だが、コメント欄は一枚岩ではなくなった。

 江口を裁けと叫ぶ声。

 警察を罵る声。

 犯人を嘲る声。

 見るのをやめろと呼びかける声。

 通報しろと繰り返す声。

 それらが混ざり、犯人が気持ちよく読める処刑場ではなくなっていく。

 その変化は、はっきりと画面の向こうにも届いていた。

 どこかで見ている間宮零司が、コメント欄を読んでいる。

 それは、配信画面の動きで分かった。

 それまで江口の背中を淡々と追っていたカメラが、急にズームした。

 江口の顔を横から捉える。

 さらに、階段の非常灯へ移る。

 また江口へ戻る。

 画面が落ち着かない。

 真壁はそれを見て言った。

「揺れてるな」

 堀島に回線を一度切られていた二階堂が、再び短く繋がった。

『見てる。かなり効いてる』

「だが焦らせすぎるな」

『分かってる』

『分かっているなら喋らないでください』

 堀島の声が重なる。

 二階堂の返事は、もう聞こえなかった。

 回線がまた切られたのだろう。

 九条は画面の江口を見ていた。

 江口の呼吸は、映像からは分からない。

 だが、歩き方は見える。

 恐怖で走っていない。

 逆に、無理にゆっくり歩いてもいない。

 いつもの校内巡回に近い速度だ。

 それが危うい。

 江口は、恐怖を日常の中へ押し込めようとしている。

 それは彼の強さであり、弱さでもある。

「真壁」

 九条が言った。

「江口先生を止めるなら今だ」

「止まらない」

「分かっている」

「なら言うな」

「止まらない人間をどう守るかを考える必要がある」

 真壁は画面を見た。

 江口の進む先に、旧連絡階段の扉がある。

 その周辺は配信画面にも映っているが、死角が多い。鳳恭介が先ほどから図面と映像を照合している。

 オンライン越しに鳳の声がした。

『旧連絡階段の構造を確認しました。階段は東棟二階から半地下の旧昇降口へ抜けています。ただし、現在は防火扉と倉庫化した踊り場で分断されています』

「犯人が潜むなら」

『踊り場、または旧昇降口側です。特に踊り場は防犯カメラの死角です。ネット上の学校紹介写真では“使える階段”に見えるため、犯人がそこを演出場所に選んだ可能性が高い』

 五十嵐の声も重なる。

『それと、旧連絡階段の下には雨水排水の古い溝があります。今日の夕方、雨は降っていませんが、湿った匂いが残りやすい場所です。もし中原さんが不安で隠れるなら、体育館裏か旧昇降口の隅を選ぶかもしれません』

 真壁は無線で学校現場へ指示を出した。

「旧連絡階段周辺を挟み込め。江口の前方に警察官を入れろ。後方も固めろ。犯人は校内を実際にはよく知らない。旧動線を使う可能性がある」

 返答が返ってくる。

『了解。ただし、防火扉の一部が外部操作で閉じています。迂回が必要です』

「急げ」

 画面のカウントダウンは進む。

 00:06:42

     *

 江口は旧連絡階段の前に立った。

 扉は半分開いていた。

 本来なら施錠されているはずだった。

 金属の扉が、わずかに隙間を作っている。中から湿った空気が漏れてくる。

 五十嵐が低く言った。

「開いてますね」

「開いてます」

「入りますか」

「千夏がいるなら」

 警察官が前に出た。

「我々が先に確認します」

 江口は頷いた。

「お願いします」

 その時、スピーカーが鳴った。

 今度は校内放送ではなかった。

 廊下の電子掲示板から音が出ている。

『江口桜次郎先生』

 加工された声。

『そこは、先生が先に入る場面です』

 江口は顔を上げた。

『生徒が待っています。先生を待っています。名前を呼んでくれる先生を』

 警察官が無線で叫ぶ。

「犯人、校内システムから音声送信。旧連絡階段前」

 江口は、胸の奥が冷えるのを感じた。

 犯人は誘導している。

 自分に先に入らせようとしている。

 生徒を餌にして。

 だが、中に生徒がいる可能性もある。

 ここで引くことはできる。

 正しい判断だ。

 警察に任せるべきだ。

 そのほうが、生徒のためでもある。

 江口は一歩下がった。

 コメント欄が流れる。

 江口先生行くな

 警察先に行かせろ

 でも生徒いるんだろ

 教師なら行けよ

 自分と生徒どっちをとるの?ww

 行くなって

 生徒より自分の身を守る最低教師

 これ犯人の誘導だろ

 先生を試してる

 なんでこんなことできるんだよ

 江口先生、死ぬな

 江口はコメントを見ていない。

 だが、見ていなくても分かる気がした。

 今、画面の向こうでは自分の選択が消費されている。

 行けば、無謀な教師。

 行かなければ、生徒を見捨てた教師。

 どちらも犯人の見出しになる。

 なら、見出しにならない選択をするしかない。

「五十嵐先生」

「はい」

「ここから声、届きますか」

「たぶん」

 江口は扉の前に立ち、少しだけ身を乗り出した。中には入らない。警察官が前に出る。江口はその背後に立ち、暗い階段へ向かって声を出した。

「千夏」

 返事はない。

 廊下が静まる。

「中原千夏。聞こえたら返事しろ。できなかったら、何か音を出せ」

 沈黙。

 江口はもう一度呼んだ。

「中原」

 奥で、何かが小さく鳴った。

 金属を爪で引っかいたような音。

 五十嵐が顔を上げる。

「います」

 警察官が懐中電灯を向けた。

「中原さん、警察です。動かないで。今そちらへ行きます」

 階段の奥から、かすれた声が聞こえた。

「先生……」

 江口の胸が締めつけられた。

「千夏。いるな」

「先生、来ないで」

 声は泣いていた。

「来ないで。私のせいになる」

「何が」

「先生が死んだら、私のせいになる」

 江口は扉の枠を掴んだ。

 中原千夏。

 おとなしい生徒だった。沙耶ほど目立つタイプではない。いつも美咲たちの後ろにいて、笑う時も口元を隠す。授業中に当てると小さな声で答え、間違えるとすぐに「すみません」と言う。

 江口は彼女が《WAIT》に登録していたことを知らなかった。

「千夏。君も登録したのか」

 奥から嗚咽が聞こえた。

「お母さんじゃないです。友達でもないです。先生でもないです。でも、私、相沢さんが泣いてるの見て、怖くなって。私も、前に書いてて」

「何を書いた」

「誰かに、私が消えてもいいって言ってほしかった」

 江口は言葉を失った。

 死んでほしい相手の名前ではない。

 誰かを恨む言葉でもない。

 自分が消えることを、誰かに許可されたい。

 それもまた、《WAIT》が拾うには十分すぎる苦しみだった。

「千夏」

「私、誰の名前も書いてないのに。なのに、画面が出て。先生の名前が出て。相沢さんだけじゃない。私も、先生の名前を出したのかもしれない」

「それは犯人がやったことだ」

「でも、私が死にたいって書いたから」

「違う」

 江口の声が、少し強くなった。

「違う。死にたいって書いたことと、人を殺すことは別だ。君が書いたのは助けてくれって言葉だ。犯人がそれを勝手に刃物にした」

 中原は泣いていた。

 階段の奥で、警察官がゆっくり近づいている。

 その時、配信画面が切り替わった。

 カメラは江口の横顔を映していた。

 そして、その奥の暗い階段を、あえて見せるように角度を変えた。

 コメント欄がまた加速する。

 生徒いる

 中原って誰

 声聞こえた

 死にたいって書いたとかなんとか

 江口殺したいやつ二人目www恨まれ杉乙ww

 江口先生、入るな

 いや助けに行けよ

 犯人の思う壺

 これもう教師の公開試験じゃん

 最悪すぎる

 見てるこっちも共犯みたいで嫌だ

 その最後のコメントが、いくつも繰り返され始めた。

 見てるこっちも共犯みたいで嫌だ。

 見るのやめる。

 拡散しない。

 犯人に数字やるな。

 江口先生じゃなくて犯人を見ろ。

 いや犯人も見るな。

 通報しろ。

 対策室で、短く回線が繋がった。

 二階堂が小さく言った。

『いい流れかも』

 堀島の声。

『流れを見る前に脈を見せてください』

『俺の?』

『あなた以外に誰がいますか』

 回線は、そこで切れた。

     *

 間宮零司は、湿った暗がりで画面を見ていた。

 学校の中とも外とも言えない場所だった。

 旧校舎側の半地下。使われなくなった昇降口の奥。普段は施錠されているはずの倉庫化した踊り場に、古い机と段ボール箱が積まれている。その隙間に、小型の操作端末とスマートフォンが置かれていた。

 ノートパソコンはない。

 それは自宅に残してきた。

 ここにあるのは、遠隔で繋ぐための端末と、配信を確認するためのスマートフォン二台だけだった。

 間宮の顔は、画面の光だけで青白く照らされている。

 コメント欄が気に入らなかった。

 つまらない。

 焼き直し。

 かまちょ。

 犯人に数字をやるな。

 違う。

 これは最終案内だ。

 ここまで全部つながっている。

 柏木から始まり、未成年登録者で火がつき、警察が慌て、二階堂を血祭りにし、江口が選ばれた。

 全部、自分が作った。

 全部、自分が動かした。

 なのに、コメント欄の連中は分かっていない。

 いや、違う。

 分からせなければならない。

 間宮は画面の中の江口を見た。

 教師。

 生徒に名前を呼ばれる人間。

 泣かれる人間。

 心配される人間。

 死なないでと言われる人間。

 羨ましかった。

 殺したいほど憎いわけではない。

 むしろ好きだった。

 こういう人間になりたかった。

 誰かに必要とされる人間。

 名前を呼べば返事が返ってくる場所にいる人間。

 江口桜次郎。

 画面の向こうで、彼は中原千夏の名を呼んでいる。

 いい声だった。

 大声ではない。

 命令でもない。

 それでも、階段の奥に届く声。

 間宮は奥歯を噛んだ。

 どうして、そんな声を出せる。

 どうして、誰かに届く。

 間宮の投稿は届かなかった。

 配信は誰にも見られなかった。

 歌も、朗読も、声真似も、雑談も、考察も、小説も、全部流れていった。

 名前を変えても、アイコンを変えても、声を変えても、誰も振り返らなかった。

 なのに、事件を起こせば人は見る。

 最初に《WAIT》へ言葉を投げた三瀬莉子は見られた。

 相沢沙耶も見られた。

 小野寺美咲も、倉田莉央も、桐谷安未果も、名前を呼ばれた。

 江口桜次郎は、その名前に返事をした。

 間宮だけが、ずっと返事をもらえなかった。

 だから作った。

 見られるために。

 名前を呼ばれるために。

 世界に「ここにいる」と言わせるために。

 間宮は操作端末を握った。

 予定通りではない。

 警察が早い。

 二階堂が余計なことをしている。

 コメント欄が汚れている。

 なら、予定を変える。

 物語は、ライブで修正できる。

     *

 旧連絡階段で、警察官が中原千夏を発見した。

 彼女は踊り場の隅に座り込んでいた。膝を抱え、スマートフォンを床に伏せている。目は泣き腫らし、唇が紫がかっていたが、外傷はない。

 警察官が近づくと、中原は怯えた。

「触らないで」

「大丈夫です。保護します」

「先生は?」

「江口先生は外にいます」

「来ないでって言ってください」

 その声は、配信にも拾われていた。

 江口は扉の外から言った。

「聞こえてます」

 中原はしゃくり上げた。

「先生、私のこと、怒りますか」

「後で少し怒るかもしれません」

「え」

「一人でいなくなったことについては怒ります。心配したので」

 中原は泣きながら、かすかに笑った。

「今ですか」

「今は怒る順番待ちです。先生、今日は死亡予定と出席確認と警察対応で、怒る時間が押しています」

 五十嵐が隣で小さく息を吐いた。

 警察官が中原を立たせる。

 中原はふらつきながらも、階段を上がろうとした。

 その時だった。

 廊下の電子掲示板が一斉に点灯した。

 黒い背景。

 白い文字。

 ご案内まで、あと五分。

 同時に、校内放送が鳴った。

『予定を変更します』

 江口は顔を上げた。

 加工された声は、少しだけ荒れていた。

『最終案内を、前倒しします』

 警察官が無線で叫ぶ。

「犯人、スケジュール変更。カウントダウン五分」

 五十嵐が江口の腕を掴んだ。

「江口先生、下がってください」

 江口は中原を見た。

 階段の中ほどにいる。

 まだ完全には出ていない。

 その背後の暗がりで、何かが動いた。

 黒い影。

 警察官がライトを向けるより早く、影は中原の背後から伸びた。

 人影だった。

 黒いパーカー。

 白い仮面ではない。

 今度は、素顔に黒いマスクだけをつけていた。

 男は中原の肩を掴んだ。

 中原が悲鳴を上げる。

 江口の身体が勝手に動いた。

「中原!」

 五十嵐が止めようとした。

 警察官が叫んだ。

 だが江口は、扉の中へ踏み込んでいた。

 その瞬間、配信画面が大きく揺れた。

 コメント欄が爆発する。

 いる

 犯人いる

 後ろ!

 江口先生行くな

 警察!

 いけ江口

 やばいやばい

 生徒が!

 これ本物だ

 見てる場合じゃない

 誰か止めろ

 犯人出た

 男は中原を突き飛ばした。

 中原は階段の壁にぶつかり、その場に座り込む。

 警察官が彼女を引き寄せようとする。

 その間に、男は階段の踊り場へ立った。

 江口と、向かい合う形になった。

 初めて見る顔だった。

 三十代前半。

 痩せている。

 目だけが異様にぎらついている。

 髪は乱れ、頬には不眠の影がある。

 男は、江口を見ていた。

 画面ではなく、目の前の江口を。

「間宮零司か」

 江口が言った。

 男は少し驚いたように目を見開いた。

 それから、嬉しそうに笑った。

「呼んだ」

 その声は、加工されていなかった。

 細く、乾いた声だった。

「今、俺の名前を呼んだ」

 江口は息を整えた。

 背後では警察官が中原を保護している。五十嵐が無線で何か伝えている。廊下の向こうから足音が増えている。

 間宮はそれを気にしていないようだった。

 江口だけを見ている。

「千夏を離してください」

「もう離した」

「なら、そこを動かないでください」

 間宮は笑った。

「教師みたいな言い方だ」

「教師です」

「いいよな」

 間宮の声が変わった。

 笑いの奥から、別のものが滲み出る。

「本当に、いいよな」

 江口は黙っていた。

 間宮は一歩、階段を下りた。

 警察官が銃を構えかける。

 だが、間宮の右手にある黒い端末を見て、動きを止めた。

 スイッチかもしれない。

 ただのスマートフォンかもしれない。

 判断するには近すぎた。

 階段は狭い。逃げ場がない。中原はまだ完全に安全圏へ出ていない。

 間宮は江口を見つめた。

「あんた、いいよな」

 その声は、ほとんど泣いているようだった。

「生徒に泣いて名前を呼ばれて」

 江口は何も言わなかった。

 階段の上の防犯カメラが、二人を映している。

 配信の視聴者数は、また跳ね上がっていた。

 三十万。

 四十万。

 五十万。

 間宮は、その数字をどこかで見ているのだろうか。

 それとも、もう数字すら見ていないのだろうか。

 男は続けた。

「俺なんか、誰にも呼ばれなかった」

 間宮は、笑っているのか泣いているのか分からない顔で言った。

「俺も書いたんだよ。死にたいって。誰か見てくれって。何度も。何度も書いた。でも誰も来なかった。誰も怒らなかった。誰も走ってこなかった。先生も、警察も、友達も、誰も」

 江口は動かなかった。

 間宮の手には、まだ端末がある。

「なのに、最初に《WAIT》へ言葉を投げた三瀬莉子は見られた。相沢沙耶も見られた。小野寺美咲も見られた。倉田莉央も、桐谷安未果も、名前を呼ばれた。江口先生、あんたは走ってきた。名前を呼んで、返事を待って、出席を取って」

 間宮の目が、暗い階段の中で光った。

「ずるいだろ」

「ずるくない」

 江口は静かに言った。

「遅すぎただけです」

「何が」

「あなたに、誰かが返事をするのが」

 間宮の顔が歪んだ。

 江口は続けた。

「でも、遅かったことは、殺していい理由になりません」

 その言葉が、湿った階段に落ちた。

 江口は、ようやく理解した。

 この男は、自分を殺しに来たのではない。

 自分の名前を呼ばせに来たのだ。

 校内放送が再び鳴った。

 だが今度は、誰も操作していないはずのスピーカーからではなかった。

 間宮のポケットの端末から、録音された機械音声が流れた。

 ご案内まで、あと四分。

 間宮零司は、江口桜次郎を見つめたまま、静かに笑った。


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