第十章 俺だって、主役になりたかった
名前を呼ばれることは、救いになる。
ただし、それは正しく呼ばれた時だけだ。
人は、間違った名前で呼ばれれば傷つく。
悪意ある見出しで呼ばれれば壊れる。
加害者、容疑者、悪の広報、処刑対象。
そんな言葉で呼ばれ続ければ、自分が本当にそういうものになってしまったような錯覚に落ちる。
だから江口桜次郎は、目の前の男の名前を、できるだけ正確に呼んだ。
「間宮零司」
旧連絡階段の踊り場で、男は嬉しそうに笑った。
「もう一回」
江口は答えなかった。
階段の空気は湿っていた。古いコンクリートに染みついた埃と水の匂い。非常灯の赤い光が、間宮の頬を横から照らしている。痩せた顔。乾いた唇。血走った目。黒いマスクは顎までずり下がり、口元だけが笑っていた。
背後では、中原千夏が警察官に支えられ、階段の上へ連れ出されようとしている。五十嵐理人が彼女のそばに立ち、安心させるように声をかけていた。
「中原さん、大丈夫。ゆっくりでいいです。足元を見て」
中原は泣きながら頷く。
足が震えていた。
江口はそれを横目で確認し、間宮から視線を外さなかった。
間宮の右手には小さな黒い端末がある。親指が、その表面に置かれている。
何のスイッチか分からない。
学校の放送システムか。
配信の切り替えか。
仕掛けの起動か。
ただのスマートフォンか。
分からないから、動けなかった。
踊り場の上と下には警察官がいる。だが階段は狭い。間宮が一歩でも中原のほうへ戻れば、まだ危険がある。江口が焦れば、間宮も焦る。
この男は、自分の脚本が崩れることに耐えられない。
だから、江口は焦ってはいけなかった。
校内のどこかに設置されたカメラが、二人を映している。配信は続いている。
コメント欄の文字が、対策室のモニターでは濁流のように流れているはずだ。
やばい
犯人出た
これ間宮?
名前呼ばれて喜んでるの怖すぎ
生徒を保護して
江口そこは捨て身でかばえよ
江口先生逃げて
いや逃げられないだろ
警察撃てないの?
端末持ってる
スイッチ?
爆発物とかじゃないよね
この犯人、泣いてる?
自分が主役だと思ってる顔だ
見るのやめたいのに見てしまう
見てるこっちも犯人に加担してる気がする
間宮は、そのコメントを見ていないようで、見ているようでもあった。視線は江口に固定されている。けれど、江口の奥にある無数の目を意識している。
画面の向こうの観客。
彼は、江口と二人きりで話しているのではない。
世界に向けて、自分を話している。
「江口桜次郎先生」
間宮は、ゆっくりと言った。
「いい名前だよな」
「ありがとうございます」
「呼ばれ慣れてる」
「教師なので」
「生徒が呼ぶんだろ。先生、先生って」
「呼ばれますね」
「うるさいくらいに?」
「たまに」
「いいよな」
間宮は笑った。
「名前を呼ばれて、返事をして、それだけで人が安心するんだろ。あんたが教室に入るだけで、誰かが泣き止んだりするんだろ。さっきもそうだった。中原千夏もあんたが名前を呼んだら返事をした」
中原が階段の上で小さく震えた。
江口は言った。
「千夏は、あなたに利用されただけです」
「利用?」
間宮の眉が動いた。
「俺は、あの子の苦しみを拾ったんだ」
「拾っていません」
「拾ったよ。お前ら大人が見ないものを、俺は見た。死にたいって言葉を、ちゃんと見た」
「見ていません」
江口の声が少し低くなった。
「あなたは、あの子の言葉を見ていない。使っただけです」
間宮の笑みが止まった。
階段の空気が、さらに重くなる。
「使った?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
「死にたいって書いた人間を、社会はいつも無視するだろ。俺は無視しなかった」
「無視しなかったんじゃない。都合のいい部分だけ切り取ったんです」
江口は一歩も動かずに言った。
「死にたいと書いた子が、本当は何を言いたかったのか。誰に止めてほしかったのか。誰に謝ってほしかったのか。誰に気づいてほしかったのか。あなたは聞いていない」
間宮の指が端末の上で動いた。
警察官が身構えた。
だが、間宮の右手の端末を見て、すぐには踏み込めなかった。
江口は、その沈黙を壊さないように、間宮へだけ言った。
「動かないでください」
間宮は、低く笑った。
「教師って、ほんとそうだよな」
「何がですか」
「すぐ正しいことを言う。すぐ人を分かった気になる。すぐ、そうやって俺を説教する」
「説教はまだ始めていません」
「じゃあ何だよ」
「確認です」
「確認?」
「あなたが何をしたかの確認です」
間宮の顔から、わずかに表情が消えた。
江口は続けた。
「柏木修一さんを殺した。長谷部慎也さんを殺した。森下裕介さんを殺した。小野寺美咲の母親を、ご案内対象にした。桐谷安未果を、ご案内対象にした。二階堂壮也を拉致して配信した。中原千夏を利用した。相沢沙耶に罪悪感を植えつけた」
ひとつひとつ、名前を置く。
犯人の物語ではなく、現実の名前として。
「そして今、江口桜次郎を殺そうとしている」
間宮は、少しだけ首を傾げた。
「自分の名前を最後に言うんだ」
「順番です」
「出席番号みたいに?」
「そうですね」
間宮は笑った。
「やっぱりいいな、あんた」
その声には、憎しみよりも羨望が混じっていた。
「本当に、いいよな」
*
警視庁の対策室と、学校敷地内に置かれた現地指揮車は、同じ映像を見ていた。
大型モニターには、江口と間宮の対峙が映っている。画質は粗い。音声も時々乱れる。だが、二人の会話は拾えていた。
真壁彰は、すでに学校へ向かっていた。
配信開始直後、江口が旧連絡階段方面へ動くと分かった時点で、現地指揮車に乗り換えていたのだ。対策室への指示は車内端末と無線で出していた。学校到着後、彼は校舎の外周を回り、旧連絡階段の下側へ向かっている。
今、現地指揮は対策室と真壁の無線をつないだまま、階段上と階段下の部隊を同時に動かしていた。
真壁の声が無線に入る。
『突入できるか』
学校現場の警察官から無線が返る。
『階段が狭く、対象者が端末を所持。中原さんは保護完了、現在上階へ退避中。ただし江口先生との距離が近すぎます』
『狙撃位置は』
『ありません。踊り場は死角です』
『端末の正体は』
『不明』
真壁は奥歯を噛んだ。
映像の中で、間宮は江口だけを見ている。
だが、彼の右手は端末から離れない。
サイバー班が叫んだ。
「間宮の端末から校内放送システムへのアクセス反応あり。ただし、それ以外にも複数の接続があります」
『侵入経路は?』
「校内の無線ではありません。旧校舎側の倉庫付近に、不審な中継端末があります。そこから放送設備の外部入力に噛ませている可能性が高い」
『防火扉は』
「直接制御ではなく、警報系統への誤信号です。完全に操っているわけではありません。開けにくくしているだけです」
真壁は奥歯を噛んだ。
充分だった。
完全に支配する必要などない。
犯人に必要なのは、江口を数分間、そこに立たせることだけだ。
『仕掛けは』
「校内掲示板、配信サーバー、複数アカウントの予約投稿。物理的な装置に接続しているかは不明です」
警視庁側の回線で、九条雅紀の声が低く入った。
『自分自身を最後の被害者にする可能性がある』
真壁が反応する。
『何?』
九条は対策室にいた。現場には来ていない。だが、真壁の無線と対策室の音声はつながっている。
『犯人は“最終回”に固執している。江口を殺せなくても、自分が死ぬ、あるいは死んだように見える映像を作れば、本人にとっては完成になる』
二階堂壮也の声が病院から入る。
『同感』
堀島の声がすぐに重なる。
『二階堂さん、もう喋らないでください』
『これだけは言わせて』
『さっきから全部それです』
二階堂は咳をし、かすれた声で続けた。
『間宮は桜次郎を殺したいんじゃない。桜次郎に自分を見てほしいんだ。もっと言えば、桜次郎に名前を呼ばれて、自分を物語の中に入れてほしい』
真壁は画面を睨んだ。
『それで人を殺したのか』
『そう』
短い返答だった。
だから余計に重かった。
九条が静かに言う。
『見られなかったことは、死因にならない』
二階堂が答えた。
『でも、あいつの中では動機になる』
真壁は無線を握り直した。
『現場、江口の対話を続けさせろ。ただし、少しでも端末操作の兆候があれば制圧。中原は完全に退避させろ。五十嵐には江口の背後を空けるよう伝えろ』
『了解』
対策室の別モニターには、コメント欄の動向が映っている。
警察公式の注意喚起と二階堂の提案した拡散抑止の効果で、流れは明らかに変わっていた。
犯人に数字をやるな
切り抜き上げるな
江口先生じゃなくて犯人を止めろ
これは救済じゃなくて見世物
間宮、自分の話しかしてない
死にたい人の味方じゃなかった
ただの主役ごっこじゃん
見てほしいだけで人殺したのか
最低
通報した
もう見るのやめる
視聴者数はまだ多い。
だが、歓声は消えつつあった。
間宮が欲しかった祭りは、少しずつ冷めている。
真壁は言った。
『二階堂』
『はい』
『効いている』
『なら、そろそろ危ないよ』
『分かっている』
自分の舞台が冷える時、犯人は最後の派手な動きを欲しがる。
真壁は画面から目を離さなかった。
*
間宮零司は、江口の目を見ていた。
江口は、自分から目を逸らさない。
それが腹立たしかった。
それが嬉しかった。
今まで誰も、こんなふうに自分を見なかった。
小学校の教室でも、中学の相談室でも、アルバイト先の休憩室でも、配信アプリの小さな画面でも、動画サイトのコメント欄でも、自分はいつも流れていくものだった。
誰も止まらなかった。
誰も「間宮零司」と呼ばなかった。
なのに今、この教師は呼んだ。
警察も、ネットも、配信の視聴者も、自分の名前を見ている。
やっとだ。
やっと、ここまで来た。
「俺、声優になりたかったんだよ」
間宮は唐突に言った。
江口は黙って聞いた。
「いい声だって言われたことがある。小学校の時、朗読で先生に褒められた。それだけだけど、ずっと覚えてた。俺は声で何かになれるんだって思った」
階段の上で、五十嵐が静かに中原をさらに遠ざけている。
江口はそれを視界の端で確認した。
間宮は続ける。
「でも、養成所は金がかかる。親にも反対された。動画を出しても伸びない。歌ってみたも駄目。朗読も駄目。考察動画も駄目。小説も駄目。VTuberになろうとしてもアバター買えない。声だけ配信しても、ふぉろワーは相互フォローの三人だけ」
その声は、だんだん早くなっていく。
「おかしいだろ。俺はすごいはずだった。何かになれるはずだった。俺のほうが、あいつらよりずっと分かってるんだよ。物語の作り方も、盛り上げ方も、見せ場も、タイトルも、引きも」
江口は言った。
「だから、人を殺したんですか」
間宮の目が揺れた。
「違う」
「違いません」
「俺は、救ったんだよ」
「誰を」
「死にたいって言ってる人たちを」
「救っていません」
「救った!」
間宮の声が階段に反響した。
「死にたいって書いた人間の代わりに、そいつを苦しめた奴を消した。みんな思ってるだろ。自分を苦しめた奴がいなくなればいいって。なのに、みんな言わない。できない。だから俺がやった」
「あなたが選んだのは、殺せそうな人と、騒ぎになりそうな人です」
江口の声は静かだった。
「本当に苦しんでいる人のためじゃない」
「違う」
「違いません」
「違う!」
間宮は端末を握りしめた。
「俺は、分かってた。誰よりも、死にたいって気持ちが分かってた!」
江口は一拍置いた。
それから言った。
「分かっていたなら、死にたい人の言葉を勝手に人殺しの理由にしない」
間宮の表情が歪んだ。
その瞬間、江口は初めて、間宮が本当に泣きそうになっていることに気づいた。
怒りではない。
哀れみでもない。
もっと幼い感情だった。
見てほしかった。
ただ、それだけの顔。
「あんたには分からない」
間宮は低く言った。
「あんたには、絶対分からない。教室がある人間には分からない。名前を呼んでくれる生徒がいる人間には分からない。二階堂も、九条も、真壁も、鳳も、堀島も、みんな事件の中に居場所があった」
間宮の声が震えた。
「俺だけ、外だった」
江口は、初めて少しだけ表情を変えた。
その言葉の中にだけは、嘘がないように聞こえたからだ。
間宮は続けた。
「九条雅紀の事件、見てたよ。ずっと見てた。あいつ、疑われただけで名前が広がった。みんな検索して、考察して、写真を見て、過去を掘って、心臓の位置まで話してた。二階堂の広報文も、みんな読んでた。真壁の名前も出た。江口桜次郎も、鳳恭介も、堀島岳斗も、事件の登場人物になってた」
江口は無言だった。
「あの時、思ったんだ」
間宮は、笑った。
「みんな、かっこよかった」
階段の非常灯が、かすかに瞬く。
「事件の中心にいた。誰もが名前を呼んでいた。じゃあ俺も、事件を作ればいいんだって」
江口は息を吸った。
「あなたは、事件の中に入りたかった」
「そうだよ」
「そのために、人を殺した」
「そうしないと、誰も見ないだろ!」
間宮は叫んだ。
「ずっと俺は影の人間だった。お前らみたいな派手な人間になりたかった。九条雅紀みたいに名前を検索されたかった。二階堂壮也みたいに言葉で人を動かしたかった。真壁彰みたいに、誰かの人生を決める側に立ちたかった。江口桜次郎みたいに、誰かに泣いて呼ばれたかった」
声が割れる。
「俺だって、主役になりたかったんだよ」
その叫びは、配信に乗って、無数の画面へ届いた。
コメント欄が一瞬、止まったように見えた。
それから、流れが変わった。
ふざけるな
それで殺すな
主役になりたいで人殺すのか
死にたい人を利用しただけじゃん
被害者ぶるな
やばい、俺の人生とかぶる。こいつは殺人犯なのに
見られなかったことと殺人は別
江口先生、言ってやって
気持ちはわかるが、やったことは最低
誰かに呼ばれたいなら殺すなよ
これは救済じゃない
間宮はその流れを見ていない。
だが、空気の変化は感じたのかもしれない。
端末を持つ手が震えた。
江口は静かに言った。
「呼ばれなかったからって、他人の名前を死亡通知に使うな」
間宮の目が見開かれた。
江口は続けた。
「三瀬莉子の名前を使った。小野寺美咲の名前を使った。莉央の名前を使った。相沢沙耶の名前を使った。中原千夏の言葉を使った。二階堂の名前を、九条先生の名前を、真壁刑事の名前を、あなたは全部、自分の舞台装置にした」
江口の声は、もう軽くなかった。
「呼ばれたいなら、自分の名前で呼ばれなさい。人の苦しみを名札にするな」
間宮の唇が震えた。
「……説教するな」
「教師なので」
「うるさい」
「よく言われます」
「うるさい!」
間宮が端末を持ち上げた。
警察官が動く。
江口は、その瞬間、間宮の目を見た。
押す気だ。
端末の正体が何であれ、彼は“何か”を始めるつもりだ。
それが配信の切り替えでも、自分自身への演出でも、学校システムへの最後の指令でも、止めなければならない。
江口は一歩踏み込んだ。
「間宮」
男が止まった。
「もう一回、呼んだ」
「はい」
「……俺を、見てる?」
「見ています」
「ちゃんと?」
「はい」
江口は言った。
「だから、そこで終わりにしてください」
間宮の表情が、少しだけ緩んだ。
まるで、その言葉を待っていたかのように。
だが、次の瞬間、笑った。
「違う」
間宮は端末を握り直した。
「終わり方は、俺が決める」
*
その瞬間、旧連絡階段の下側の扉が開いた。
真壁彰が現れた。
息を切らしている。
だが、銃口は揺れていない。
「間宮零司」
真壁の声が階段に響いた。
「端末を置け」
間宮の顔が歪んだ。
「来た」
その声には、喜びが混じっていた。
「刑事まで来た。すごいな。ほんとに、最終回みたいだ」
「端末を置け」
「真壁彰だ」
間宮は笑った。
「本物だ。俺、また呼べたんだな」
「三度目は言わない」
真壁は静かに言った。
「端末を置け」
間宮は江口を見た。
真壁を見た。
階段の上の警察官を見た。
その向こうにあるカメラを見た。
そして、端末の画面を見た。
そこには、おそらく視聴者数が映っていたのだろう。
彼の目が一瞬だけ輝いた。
「見てる」
間宮は呟いた。
「みんな、見てる」
その時、真壁の肩につけた無線機から、別の声が流れた。
九条雅紀の声だった。
『見ていることと、理解していることは違う』
間宮は反射的に顔を上げた。
真壁は無線機の音量を上げた。
対策室にいる九条の声が、旧連絡階段に落ちる。
『私は、お前の物語の登場人物ではない』
間宮は、九条の声を聞いていた。
その目が、江口を見る時とは違う光を帯びた。
「九条雅紀」
声が震える。
「本物だ」
『本物かどうかを、お前が決めるな』
九条の声は静かだった。
間宮は笑った。
「でも、みんな見てた。あんたのこと。右胸に心臓があるとか、左利きだとか、喘息だとか、法医学者だとか、指名手配されたとか。全部、設定みたいだった」
『設定ではない』
九条の声が、階段の空気を冷やした。
『事実だ』
間宮の笑みが止まった。
『私の心臓の位置も、利き手も、病歴も、職業も、お前のためにある情報ではない』
九条は続けた。
『お前が見ていたのは人間ではない。断片だ。検索結果だ。見出しだ。お前は、それを人間だと思い込んだ』
間宮は唇を噛んだ。
「俺は、あんたに憧れてたんだよ」
『それは私には関係がない』
九条は言った。
『見られなかったことと、殺していいことは関係がない』
その言葉は、階段の空気を切った。
間宮の顔が歪む。
その時、今度は現場の警察官が持つ端末から、別の声が流れた。
病院から繋がった二階堂壮也の声だった。
『間宮零司』
間宮は反射的に顔を上げた。
五十嵐が、現場端末をスピーカーに切り替えていた。堀島が許した最後の短い通話だった。
『お前が欲しかったのは正義じゃない』
声はかすれていた。
だが、言葉は鋭かった。
『通知だ』
間宮の目が揺れた。
『誰かが自分を見たという通知。名前を呼んだという通知。再生されたという通知。いいねがついたという通知。お前はそれが欲しかっただけだ』
「違う」
『違わない。お前は死にたい人間を救ってない。苦しんでる人間の言葉を、通知音に変えただけだ』
間宮は歯を食いしばった。
『お前が聞いていたのは、悲鳴じゃない。反応だ』
「黙れ」
『黙らない』
堀島の声が小さく混じった。
『あなたは黙ってください』
二階堂はそれを無視した。
『間宮。お前の最終回、もう終わってる』
間宮の瞳孔が開いたように見えた。
『視聴者はもう、お前を主役として見てない。人の苦しみで舞台を作った、ただの殺人犯として見てる』
「違う!」
間宮が叫んだ。
端末を握る手が上がる。
真壁が動いた。
江口も動いた。
間宮の親指が画面へ触れる寸前、江口は間宮の手首を掴んだ。
その力は強くなかった。教師の腕だった。刑事のようには抑え込めない。だが、一瞬だけ間宮の動きをずらすには足りた。
次の瞬間、真壁が踊り場へ踏み込み、間宮の腕を取った。
端末が床へ落ちる。
警察官が一斉に動く。
間宮は暴れた。
「離せ!」
真壁は無言で腕を捻り、間宮を床へ押さえた。
狭い踊り場に、身体が叩きつけられる音が響く。
「離せ! まだ終わってない! まだ、俺は――」
「間宮零司」
真壁は低く言った。
「殺人未遂、逮捕監禁、威力業務妨害の現行犯で逮捕する。柏木修一さん、長谷部慎也さん、森下裕介さんの殺害についても追及する」
「違う!」
間宮は叫んだ。
「これは、俺の――」
「黙れ」
真壁の声が、階段を震わせた。
その一言で、間宮の声が止まった。
手錠がかかる。
金属音がした。
江口は、その音を聞いて、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。
間宮は床に押さえつけられながら、顔だけを江口へ向けた。
「先生」
その呼び方に、江口は反応しなかった。
「先生、俺の名前、もう一回呼んで」
江口は黙っていた。
間宮の目が縋るように揺れた。
「呼んでよ」
江口は、ゆっくりと言った。
「被疑者の氏名は、警察が確認します」
間宮の顔から、何かが抜け落ちた。
真壁が彼を立たせる。
配信画面は、まだ動いていた。
コメント欄は、もはや祭りではなかった。
逮捕された
終わった?
江口先生無事?
中原さんは?
二階堂さんの声した
九条先生の声もした?
真壁さん怖すぎ
間宮、最後まで名前呼んでほしかったのか
これは救済じゃない
死にたい人を利用した犯罪
拡散やめよう
切り抜き消せ
終わってくれ
真壁が配信カメラを確認するよう指示を出す。
サイバー班が配信停止操作を進める。
五十嵐は中原のそばに戻り、九条は対策室の回線越しに無言になった。
江口は階段の壁にもたれた。
足に力が入らない。
「江口先生」
真壁が声をかけた。
「怪我は」
「たぶん、してません」
「たぶんじゃ困る」
「教師は自己診断が雑なんです」
真壁は何か言おうとして、やめた。
その時、床に落ちた間宮の端末が、短く震えた。
誰も触れていなかった。
間宮が今、押したものではない。
あらかじめ予約されていた最後の通知だった。
間宮が逮捕されても、舞台だけが自動で進むように。
サイバー班が言っていた、予約投稿と複数アカウントの連動。
それが、まだ止まっていなかった。
「端末に触るな」
真壁が鋭く言った。
捜査員が手袋をはめ、画面を確認する。
端末の画面は黒かった。
白い文字が表示されている。
ご案内は、まだ完了していません。
江口は息を呑んだ。
「どういう意味ですか」
誰もすぐには答えなかった。
端末の文字が、一行ずつ増える。
最終ご案内対象を変更しました。
次の対象は――
画面が一瞬、乱れた。
そして、表示された名前を見た瞬間、江口の喉が詰まった。
相沢沙耶
理由:あなたのせいで、先生は死にかけました。
ご案内予定時刻:即時
階段の上で、中原が小さく悲鳴を上げた。
対策室から、九条の声が落ちる。
『物理的な実行ではない』
真壁が顔を上げる。
「何?」
『罪悪感で走らせるつもりだ。自分で死なせる気だ』
真壁の声が低くなる。
「自死誘導か」
二階堂の声が、病院の回線からかすかに入った。
『相沢さんを、一人にしちゃいけない』
その声を最後まで聞く前に、江口は走り出していた。
真壁が叫ぶ。
「江口!」
九条の声が重なる。
『まだ終わっていない』
配信は停止されつつあった。
間宮は逮捕された。
犯人の舞台は崩れた。
だが、最後の通知だけが、すでに別の場所へ届いていた。
相沢沙耶のスマートフォンに。
江口は階段を駆け上がる。
息が切れる。
膝が笑う。
心臓が痛いほど鳴る。
それでも走った。
事件の本当の終わりは、犯人を捕まえることではなかった。
死にたいと書いた人間を、死なせないことだった。




