第十一章 死にたい人間を、死なせない
犯人を捕まえれば事件は終わる。
刑事ドラマなら、そこで音楽が鳴る。
ニュースなら、速報のテロップが流れる。
ネットなら、逮捕の瞬間だけが切り抜かれ、何度も再生される。
だが現実には、手錠の音で終わらない事件がある。
凶器を取り上げても、血が止まらないことがある。
配信を止めても、言葉が残ることがある。
犯人を連れていっても、犯人が置いていったものが、誰かの胸の奥でまだ作動していることがある。
間宮零司は逮捕された。
だが、《WAIT》は最後にもう一度だけ動いた。
ご案内は、まだ完了していません。
最終ご案内対象を変更しました。
次の対象は――
相沢沙耶
理由:あなたのせいで、先生は死にかけました。
ご案内予定時刻:即時
その文字を見た瞬間、江口桜次郎は走り出していた。
考えるより先だった。
足が階段を蹴る。
息が喉を焼く。
膝が笑う。
右手が壁を擦る。
古い連絡階段の湿った空気が背中にまとわりつく。
背後で真壁彰の声が飛んだ。
「江口!」
聞こえた。
だが、止まれなかった。
間宮を捕まえた。
配信は止まりかけている。
中原千夏は保護された。
警察官も、教師も、医者も、刑事も、ここにいる。
それでも、沙耶のスマートフォンには今、あの文字が届いている。
あなたのせいで、先生は死にかけました。
ご案内予定時刻、即時。
それはつまり、次はあなたの番です、と言われているのと同じだった。
そんな言葉を、あの子が一人で読んでいる。
江口は走った。
教師になってから、全力で校舎を走ったことが何度あっただろう。体育祭の準備中にテントが倒れかけた時。給食室の火災報知器が誤作動した時。二年生男子がふざけて非常階段に閉じ込められた時。
そのどれよりも、今の走りは格好悪かった。
足音がばらばらだった。
息がすぐに上がった。
腕の振り方も分からない。
靴底が滑りかけ、壁に肩をぶつけた。
それでも走った。
美しく走る必要はない。
間に合えばいい。
廊下へ出ると、五十嵐理人が追いついてきた。息を切らしながらも、江口より冷静だった。
「江口先生、沙耶さんの現在位置は?」
「教室にいるはずです」
「確認します」
五十嵐は無線を持つ警察官へ振り返った。
「三年二組、相沢沙耶さんの所在確認をお願いします。今すぐ」
警察官が無線で確認する。
『三年二組、応答願います。相沢沙耶さんの所在確認』
返答までの数秒が、異様に長かった。
廊下の電子掲示板では、まだ黒い画面に白い文字が残っている。
ご案内対象
相沢沙耶
ご案内予定時刻
即時
即時。
なんて乱暴な言葉だろう、と江口は思った。
待つ時間すら与えない。
考える余地も、誰かに助けを求める間も、息を整える隙も与えない。
死にたい人間を、死に向かって急がせるための言葉だ。
無線が返ってきた。
『三年二組です。相沢さん、教室にいません』
江口は足を止めた。
廊下の空気が、一瞬で薄くなる。
「いつから」
『通知を見た直後、過呼吸気味になりました。担任と養護教諭が近づき、警察官もそばにいました。ただ、同時に別の生徒が泣き出し、パニックが連鎖。教室後方で椅子が倒れて、数人が立ち上がりました。相沢さんは「トイレ」と言って後方扉から出たようです。すぐ警察官が追いましたが、白煙が充満。防火扉の作動と廊下の避難誘導で、数十秒だけ見失いました。白煙は発煙筒』
江口は目を閉じた。
駄目だ。
責めるな。
誰が見失ったのか。なぜ一人にしたのか。なぜスマホを持たせたのか。そんなことを考え始めたら、時間が消える。
今は沙耶だ。
「沙耶が行きそうな場所」
江口は呟いた。
五十嵐がすぐに聞いた。
「心当たりは?」
「静かな場所。人が少ない場所。でも、本当に見つけてほしくないなら校外へ出る。でも校門は閉じています」
「校内の死角」
「保健室、相談室、女子トイレ、体育館裏、部室棟、屋上前」
言いながら、江口の中でひとつの場所が浮かんだ。
屋上前の踊り場。
沙耶は以前、放課後にそこへいたことがある。授業後、姿が見えなくなり、探したら屋上へ続く階段の途中でノートを開いていた。泣いてはいなかった。ただ、誰にも見えない場所で、じっと座っていた。
――ここ、静かなので。
その時、沙耶はそう言った。
「屋上」
江口が言うと、五十嵐が顔を上げた。
「屋上は施錠されているはずです」
「扉の前です。階段の踊り場。あそこなら、人が少ない」
江口は走り出そうとした。
だが、五十嵐が腕を掴んだ。
「待ってください。別動隊を向かわせます。江口先生一人で行く必要はありません」
「一人じゃないでしょう」
「江口先生」
五十嵐の声が少し強くなった。
「あなたも標的になった直後です。間宮は逮捕されましたが、仕掛けが他にもあるかもしれません。沙耶さんを助けるためにも、あなたが倒れたら駄目です」
正しい。
五十嵐は正しい。
今日、正しい言葉を何度も聞いた。
真壁も正しい。二階堂も正しい。堀島も正しい。校長も、警察官も、きっと正しい。
だが、沙耶は今、その正しさの届かないところにいる。
「五十嵐先生」
「はい」
「先生が叱って死にたいと思わせた生徒を、先生以外の大人が助けても、もちろん助かります」
「はい」
「でも、今あの子はたぶん、僕の顔を見ないと駄目です」
五十嵐は黙った。
江口は続けた。
「それが教師の傲慢だとしても、今はその傲慢で走ります」
五十嵐は数秒だけ江口を見ていた。
それから、掴んでいた手を離した。
「分かりました。僕も行きます」
「助かります」
「ただし、走るのが遅すぎたら置いていきます」
「理科教師、急に体育会系になりますね」
「地質調査は意外と体力勝負です」
二人は階段へ向かった。
*
対策室では、真壁がすでに指示を飛ばしていた。
「屋上階段、体育館裏、部室棟、非常階段、全て確認しろ。相沢沙耶のスマートフォン位置情報は」
「校内です。ただ、細かい位置が揺れています。東棟上階付近の可能性」
「屋上階段か」
「可能性はあります」
真壁は無線を握った。
「江口、聞こえるか」
返答はなかった。
「江口!」
数秒後、五十嵐の声が入った。
『こちら五十嵐です。江口先生と屋上階段へ向かっています』
「止めろ」
『止まりません』
真壁は舌打ちした。
「お前も止めろ」
『僕も同行します』
「二人揃って何をやってる」
『生徒を探しています』
真壁は言葉に詰まった。
その返答だけは、責められなかった。
九条雅紀の声が、対策室の回線から静かに入った。
『真壁』
真壁は振り返った。
九条は手元の端末に表示された校内図を見ている。
『探すべきは、生きている人間だ』
その言葉に、対策室の空気がわずかに変わった。
事件は、犯人逮捕で終わっていない。
今必要なのは、現場検証ではなく捜索だ。
鳳恭介の声がオンラインで入る。
『校内図を確認しました。屋上へ続く階段は二系統あります。東棟中央階段と、旧校舎側の非常階段。ただし、旧校舎側は防火扉で通れない可能性がある』
五十嵐の無線が重なる。
『江口先生は東棟中央階段へ向かっています』
『屋上前の踊り場には、カメラがありません』
鳳が続ける。
『防犯カメラの死角です。犯人が仕掛けを残すなら、そこを選ぶ可能性があります』
真壁は即座に言った。
「先行する警察官を上へ回せ。江口たちより先に到着しろ」
「了解」
堀島岳斗の声が別回線から入った。
『救急隊に初期対応の準備を指示します。沙耶さんに外傷がなくても、急性ストレス反応の可能性があります。落ち着いた環境へ移してください』
「現場に来られるか」
『二階堂さんを病院スタッフに引き継ぎました。今、学校へ向かっています。ただ、先に校内待機の救急隊と養護教諭に対応させてください』
奥で二階堂の声がかすかに聞こえた。
『行かせた』
堀島の声は冷静だった。
『今は沙耶さんが優先です』
真壁は短く答えた。
「頼む」
*
相沢沙耶は、屋上前の踊り場にいた。
スマートフォンを両手で握っている。
黒い画面。
白い文字。
あなたのせいで、先生は死にかけました。
ご案内予定時刻:即時。
何度閉じても、画面は戻ってくる。
電源を切ろうとしても、指が震えてうまく押せない。
先生は死にかけた。
自分のせいだ。
違う、と言われた。
江口先生は違うと言った。
相沢、違う、と教室で言ってくれた。
死にたいと思ったことを怒らないと言ってくれた。
でも、違わない。
自分が書いた。
先生に叱られて、死にたいと思った。
先生の声が怖かった。
先生の言葉が頭から離れなかった。
先生が悪いと思いたかった。
それを、書いた。
そのせいで、先生の名前が画面に出た。
先生は殺されそうになった。
学校中が巻き込まれた。
二階堂という警察の人も傷ついた。
中原さんも泣いていた。
全部、自分のせいだ。
頭では、違うと分かっているつもりだった。
犯人が悪い。
間宮という男が悪い。
アプリが悪い。
先生は悪くない。
自分も殺人犯ではない。
でも、胸の中の別の場所が、ずっと言っている。
それでも、あなたが書いた。
先生が死んだら、あなたのせいだった。
沙耶は、踊り場の壁に背中を預けた。
屋上へ続く扉は閉まっている。鍵もかかっている。外へは出られない。出るつもりもない。
ただ、教室へ戻れなかった。
みんなの顔が見られなかった。
美咲は母親のことで泣いた。
莉央は安未果のことで泣いた。
中原は自分が消えてもいいと言ってほしかったと泣いた。
みんな苦しかった。
なのに、自分だけが先生の名前を出してしまった気がした。
スマートフォンが震えた。
また通知。
ご案内は、即時です。
誰かが廊下を走る音が聞こえた。
沙耶は肩を震わせた。
来ないで。
先生、来ないで。
来たら、また私のせいになる。
涙が落ちた。
画面の上で、白い文字が滲んだ。
*
江口は東棟の階段を駆け上がっていた。
三階。
四階。
踊り場。
息が切れる。
太腿が痛い。
心臓が胸を叩く。
五十嵐は少し先を走り、時々振り返る。
「江口先生、無理しないでください」
「無理してます」
「堂々と言わないでください」
「教師はだいたい無理を隠して働きます。今日は隠す余裕がありません」
五十嵐は返事の代わりに階段を上った。
上階へ行くほど、校舎の音が遠くなる。
教室のざわめきも、無線の声も、廊下を走る足音も薄れていく。
その静けさが怖かった。
江口は走りながら、沙耶の顔を思い出していた。
班発表の準備をしてこなかった日。
廊下で叱った日。
俯いた顔。
笑わなかった顔。
泣き崩れた職員室。
手だけで出席を示した教室。
あの時、自分は何を見落としたのか。
何もかもを見逃さない教師などいない。
それは分かっている。
分かっていても、今は自分の言葉が沙耶の背中を押した気がしてしまう。
これが、犯人の仕掛けだ。
間宮は逮捕された。
だが、最後に罪悪感だけを残した。
刃物ではなく、責任という言葉を生徒の胸に置いていった。
江口は歯を食いしばった。
「ふざけるな」
思わず声が出た。
五十嵐が振り返った。
「江口先生?」
「すみません。犯人に言いました」
「届いていないと思います」
「でしょうね」
階段の上に、屋上前の扉が見えた。
その手前の踊り場。
非常灯。
灰色の壁。
そこに、俯く人影があった。
相沢沙耶だった。
江口は足を止めた。
急に近づいてはいけない。
そう思うより早く、五十嵐が手で制した。
「ゆっくり」
江口は頷いた。
沙耶はスマートフォンを握っている。こちらに気づいているが、顔を上げない。肩が小刻みに震えている。
江口は数段下で止まった。
「沙耶」
沙耶の肩が跳ねた。
「来ないでください」
声は小さかった。
江口は止まったまま言った。
「来ました」
「来ないでって言ったのに」
「すみません。教師は呼ばれてない時ほど来ることがあります」
「私、呼んでません」
「だから来ました」
沙耶は泣いていた。
「先生、戻ってください」
「戻りません」
「私のせいになる」
「なりません」
「なります!」
沙耶が顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「私が書いたから、先生が死にかけた。私が死にたいなんて書かなければよかった。私が、先生の名前を出したから」
「違います」
「違わない!」
叫び声が階段に響いた。
江口は、そこで初めて沙耶がこんなに大きな声を出すのを聞いた気がした。
普段の彼女は、小さな声で返事をする。
自分の意見を言う前に、周りの顔を見る。
間違えるとすぐに謝る。
班で何かを決める時も、最後に頷く。
その沙耶が、今は全身で叫んでいる。
それが、彼女の苦しみの大きさだった。
江口は一段だけ上がった。
沙耶が後ずさろうとする。
「止まります」
江口は両手を見せた。
「ここで止まります。だから、話だけ聞いてください」
沙耶はスマートフォンを胸に抱えた。
「もう嫌です」
「うん」
「先生の顔、見られないです」
「見なくていいです」
「私のせいで、先生が」
「違う」
「違わない!」
「違う」
江口は、同じ言葉を繰り返した。
大きな声ではない。
説得でもない。
ただ、沈んでいくものを下から支えるように。
「先生が死にかけたのは、先生の運動不足と、犯人のせいです」
沙耶は一瞬、泣くのを忘れたような顔をした。
「……運動不足?」
「はい。さっき階段を走っただけで、もう足がだいぶ終わっています」
「今、それ言いますか」
「今だから言います。重要な事実です」
五十嵐が横で小さく息を吐いた。
沙耶の顔が、泣き顔のまま少しだけ歪んだ。
笑いかけて、失敗した顔だった。
江口は続けた。
「それと、沙耶。君が書いたから先生が死にかけたんじゃない。君が書いた言葉を、間宮零司が勝手に使った」
「でも、書いたのは私です」
「うん。書いたのは君です」
沙耶の顔がまた崩れた。
江口は、すぐに続けた。
「でも、書いたことと、殺そうとしたことは違います」
沙耶は唇を噛んだ。
「死にたいって思いました」
「うん」
「先生に叱られて、死にたいって思いました」
「うん」
「先生のせいにしました」
「うん」
「最低です」
「最低じゃない」
「最低です!」
沙耶の声が割れた。
「先生は、ちゃんと叱っただけなのに。私が準備しなかったのに。班の子に迷惑かけたのに。それなのに、私は先生のせいにしたんです。先生が怖いって、先生の声が嫌だって。私が悪いのに、先生を悪いことにしたかった」
江口は黙って聞いた。
沙耶は泣きながら続ける。
「死にたいって、書いたら、誰かが分かってくれる気がしたんです。誰かが、そんなに苦しかったんだねって言ってくれる気がしたんです。でも、そんなの甘えで、私が悪くて、なのに先生が死にそうになって」
「沙耶」
「私がいなければよかった」
江口の表情が変わった。
それまで保っていた軽さが、すっと消えた。
「それは違う」
声は静かだった。
だが、階段の空気が変わるほど強かった。
「それだけは違う」
沙耶は泣きながら江口を見た。
江口は、ゆっくりと言った。
「提出物を忘れたことも、班に迷惑をかけたことも、僕のせいにしたかったことも、死にたいって書いたことも、全部、後で一緒に扱います。怒る必要があれば怒ります。謝る必要があれば、一緒に謝り方を考えます。班の子にどう言うかも考えます」
江口は一段上がった。
沙耶は逃げなかった。
「でも、君がいなければよかった、だけは採用しません」
沙耶の涙が止まらない。
「先生は」
「はい」
「怒ってないんですか」
「怒っています」
沙耶の顔がこわばった。
江口は続けた。
「間宮に。あのアプリに。君にそんな通知を送った人間に。死にたいって書いた子の言葉を、人を殺す道具にしたことに。ものすごく怒っています」
「私には」
「君には、心配しています」
沙耶は俯いた。
江口はそこで、もう一段だけ上がった。
距離はまだある。
だが、声は届く。
「沙耶。死にたいって思ったことを、罪にしなくていい」
沙耶は、顔を上げた。
「でも」
「でも、次からはアプリじゃなくて先生に言え」
江口は、息を整えながら言った。
「既読は遅いかもしれないけど、返事はする」
その言葉を聞いた瞬間、沙耶の顔が崩れた。
泣き声が漏れた。
それは、さっきまでの恐怖の泣き方とは少し違っていた。
喉の奥に詰まっていたものが、ようやく外へ出てくるような泣き方だった。
「先生」
「はい」
「私、まだ出席してますか」
江口は、一瞬だけ目を閉じた。
それから、出席簿など持っていない手で、空中に丸をつけるように動かした。
「確認済みです」
沙耶は泣きながら、膝の上のスマートフォンを差し出した。
「これ、もう見たくないです」
「預かります」
江口が近づこうとした時、五十嵐がそっと前へ出た。
「僕が受け取ります」
江口は頷いた。
五十嵐は慎重に沙耶へ近づき、スマートフォンを受け取った。沙耶はその場にへたり込んだ。画面はまだ黒く、白い文字が残っている。
ご案内予定時刻:即時
五十嵐は画面を伏せた。
「相沢さん。立てますか」
沙耶は首を振った。
「無理です」
「では、座ったままで大丈夫です」
江口が言った。
「僕も座ります」
そう言って、踊り場の数段下に腰を下ろした。
五十嵐が少し驚いた顔をする。
「江口先生」
「足が限界です」
「本当にですか」
「半分は本当です」
沙耶が泣きながら、少しだけ笑った。
その笑いを聞いて、階段の下にいた警察官が小さく息を吐いた。
無線の向こうでも、誰かが息を詰めて聞いていたのかもしれない。
江口は壁に背中を預けた。
まだ何も終わっていない。
沙耶は泣いている。
《WAIT》の通知は残っている。
間宮は逮捕されたが、事件の傷は校内に残っている。
それでも今、沙耶は一人ではない。
それだけで、ひとつ勝った。
*
最初に沙耶の状態を確認したのは、校内に待機していた救急隊員だった。
養護教諭も駆けつけ、沙耶の呼吸と意識を確認する。過呼吸に近い状態はあったが、外傷はない。救急隊員はゆっくりと呼吸を整えるよう促し、五十嵐が預かったスマートフォンは、警察官が証拠品として保全した。
堀島岳斗が到着したのは、それからしばらく後だった。
医療バッグを持ち、階段を上ってくるなり、江口を見て眉をひそめた。
「江口先生、あなたも顔色が悪いです」
「今は相沢を」
「もちろん相沢さんを診ます。そのあとあなたもです」
「僕は大丈夫です」
「その台詞を今日何回聞いたか数えたくありません」
堀島は沙耶の前に膝をついた。
声が驚くほど柔らかくなる。
「相沢沙耶さんですね。堀島です。医者です。今から少しだけ確認します。嫌なことは嫌と言ってください」
沙耶は小さく頷いた。
堀島は脈、呼吸、意識の状態を確認した。
処置というほど大きなことはしない。だが、その手つきは沙耶に「自分は今、ちゃんと見られている」と伝えるように丁寧だった。
「大丈夫です。今すぐ命に関わる状態ではありません。ただ、かなり強い恐怖と緊張があります。暖かい場所へ移動しましょう」
沙耶は江口を見た。
「先生も来ますか」
「行きます」
堀島が即座に言った。
「江口先生も診ますから」
「ついでにされてますね」
「かなり本気です」
五十嵐が沙耶のそばへ立ち、江口も立ち上がろうとした。
足に力が入らず、少しよろけた。
真壁がいつの間にか階段の下に立っていた。
「格好悪いな」
江口は振り返った。
「真壁さん」
「体力が終わってる」
「教師なので」
「言い訳にならない」
「ですよね」
真壁は沙耶を見た。
声を柔らかくするような男ではない。
だが、言葉は選んでいた。
「相沢沙耶さん」
沙耶がびくりとする。
「あなたは被疑者ではない」
沙耶は目を見開いた。
「あなたは通報者であり、被害者だ。詳しい話は後で聞く。だが、今あなたを責めるために警察が来たわけではない」
沙耶の目にまた涙が溜まった。
真壁は続けた。
「事件を起こしたのは、あなたではない」
その言葉は、江口の言葉とは違う重さを持っていた。
教師の言葉ではなく、刑事の言葉。
法と捜査の側から引かれた線。
沙耶は小さく頷いた。
その時、真壁の無線機から、九条雅紀の声が静かに流れた。
『あなたには命がある』
沙耶は、その意味をすぐには理解できなかったかもしれない。
だが江口には分かった。
九条は、彼なりに沙耶を生者として見ている。
死ぬかもしれない人間ではなく、今ここにいる人間として。
沙耶はまた頷いた。
「はい」
*
午後九時十八分。
《WAIT》の配信は完全に停止された。
サーバーの一部は海外を経由していたが、警察とプラットフォームの緊急対応で主要な配信経路は遮断された。ミラー配信や録画は残ったものの、警察公式と報道各社の注意喚起により、少なくとも大手メディアは映像の直接使用を避けた。
それでも、すべては消えない。
江口が階段で間宮と向き合う映像。
間宮が「俺だって、主役になりたかった」と叫ぶ音声。
沙耶の名前が表示された最後の通知。
江口が屋上前の踊り場へ走る後ろ姿。
誰かが保存している。
誰かが切り抜いている。
誰かが面白がっている。
事件は止められても、見出しは止まらない。
その現実を、二階堂壮也は病室のベッドで見ていた。
堀島に端末を没収されたはずだった。
だが、広報課の若い職員が状況確認用に持ってきた端末を、二階堂はいつの間にか自分のほうへ引き寄せていた。
『二階堂さん』
堀島が低い声で言った。
「これは仕事です」
『あなたの仕事は今、回復です』
「広報も回復の一部だ」
『それは医学的に証明できません』
二階堂は画面を見ていた。
間宮零司逮捕。
《WAIT》閉鎖へ。
江口桜次郎教諭、無事。
登録生徒も保護。
警察、殺害予告配信を停止。
“主役になりたかった”犯人の正体。
九条事件との関連か。
見出しは、すでに増えている。
中には、最悪のものもあった。
《WAIT》風ジェネレーター作ってみた。
次のご案内メーカー。
死にたい理由を入力すると誰かを処刑してくれる架空アプリ。
あなたの加害者診断。
黒背景白文字テンプレ配布。
二階堂は画面をスクロールする手を止めた。
目が細くなる。
「最悪だな」
堀島の声が入る。
『何ですか』
「犯人は捕まったのに、見出しだけが増えてる」
堀島は何も言わなかった。
二階堂は端末を置いた。
「真壁に繋げる?」
『あなたは休むべきです』
「休むために、先にこれだけ言います」
堀島は数秒だけ端末を見た。
それから、ため息をついて回線を繋いだ。
真壁の声が返る。
『何だ』
「模倣が出始めてる」
『把握している』
「早い」
『お前が思うより警察は仕事をしている』
「それは失礼しました」
『寝ろ』
「その前に、公式文の骨子だけ出す。実際に整えるのは広報課の別の人に任せる」
『怪我人が書くな』
二階堂は天井を見た。
頭は痛い。
身体は重い。
口の中はまだ血の味がする。
それでも、今書かなければならない言葉がある。
「俺が、さっきまで見出しにされてたから」
真壁は黙った。
二階堂は続けた。
「見出しにされた人間が骨子を出したほうが、少しは届くだろ」
短い沈黙のあと、真壁が言った。
『短くしろ』
「広報文の話? 俺の稼働時間の話?」
『両方だ』
二階堂は少し笑った。
痛みが走る。
それでも笑った。
*
江口が沙耶を連れて教室へ戻った時、生徒たちは誰も騒がなかった。
三年二組は、静かだった。
美咲が立ち上がりかけ、すぐに座り直した。
莉央は安未果の手を握っている。
中原千夏は保健室へ運ばれていたため、席は空いている。
沙耶は教室の入口で足を止めた。
江口は隣に立った。
「戻りますか」
沙耶は小さく頷いた。
教室へ入る。
誰も、何も言わない。
その沈黙をどう受け取ればいいか、沙耶は分からないようだった。責められているようにも感じるだろう。腫れ物に触るようにも思えるだろう。
だから江口は、先に言った。
「はい、三年二組。もう一度出席確認をします」
何人かが顔を上げた。
「今日は出席確認が多いですね、という苦情は後日受け付けます」
美咲が鼻をすすった。
莉央が小さく笑った。
安未果も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
江口は出席簿を持っていなかった。
だから、手元のメモ用紙で代用した。
「相沢」
沙耶は席の前に立っていた。
手は震えている。
顔は泣き腫らしている。
それでも、彼女は前を見た。
声は小さかった。
「はい」
江口は、メモ用紙に丸をつけた。
「確認済み」
それから、江口は最初に戻った。
「石川」
「はい」
「大槻」
「はい」
ひとりずつ、名前を呼ぶ。
返事が返ってくる。
そのたびに、教室の空気が少しずつ戻っていく。
事件は終わっていない。
傷も消えない。
だが、返事はできる。
「小野寺」
「はい」
美咲の声は震えていたが、朝より少しだけ強かった。
「倉田」
「はい」
莉央。
「桐谷」
「はい」
安未果。
「中原」
教室が静かになる。
江口は言った。
「保健室。確認済み」
誰かが小さく息を吐いた。
最後に、江口はもう一度だけメモ用紙を見た。
「全員、確認済みです」
その瞬間、教室のどこかで小さな嗚咽が漏れた。
誰のものかは分からなかった。
美咲かもしれない。莉央かもしれない。沙耶自身かもしれない。
あるいは、廊下で聞いていた若い教師かもしれない。
江口は黒板へ向かった。
そこには、さっき書いた文字がまだ残っていた。
いなくならない。
チョークの線は少し掠れていた。
だが、消えてはいなかった。
江口はその下に、もう一行書いた。
死んで待たない。
生徒たちは、黒板を見ていた。
江口はチョークを置いた。
「今日の目標、追加です」
誰も笑わなかった。
でも、誰も目を逸らさなかった。
「死にたいって思った時に、死んで待たないこと。アプリに言われたからって、死なないこと。誰かに名前を呼ばれたら、返事ができなくても、手を上げること。それも無理なら、隣の人が先生を呼ぶこと」
江口は教室を見回した。
「先生の返事は遅いかもしれません。たぶん遅いです。採点も遅いし、メッセージもたまに見落とします。でも、返事はします」
沙耶が泣きながら顔を上げた。
江口は、少しだけ笑った。
「だから、死んで待たないでください」
教室の外では、まだ無線が飛び交っている。
警察官が走り、教師たちが保護者へ連絡し、救急隊が中原を診ている。
夜は終わっていない。
だが、教室の中にだけ、小さな朝のようなものが差していた。
*
夜明け前。
警察車両の赤色灯が、校門の外でまだ回っていた。
空は黒から濃い藍色へ変わり始めている。
校舎の窓には、疲れ切った教師たちの影が映っている。
保護者が迎えに来た生徒から順に、警察の確認を受けて帰されていく。
江口は、玄関前に立っていた。
沙耶は母親に付き添われ、車へ向かっている。
美咲も母親と一緒に帰った。親子はまだぎこちなかったが、美咲の母は娘の肩を離さなかった。
莉央と安未果は、それぞれの保護者に挟まれながらも、別れ際に小さく手を振り合った。
中原千夏は念のため病院へ向かった。命に別状はないと救急隊員は言った。堀島も、同じ見立てだった。
江口は、その一人一人を見送った。
名前を呼ぶ必要はなかった。
もう、返事は聞いた。
校舎の中から真壁が出てきた。
「江口先生」
「はい」
「先に病院で診てもらえ。帰るのはその後だ」
「片付けが」
「病院だ」
「でも」
「病院だ」
江口は口を閉じた。
真壁の目は、反論を許していなかった。
「分かりました」
「堀島先生に診てもらえ」
「それはちょっと」
「診てもらえ」
「はい」
江口は肩を落とした。
「刑事って、教師より命令が短いですね」
「従うまで言うからだ」
五十嵐がやってきた。
「江口先生、保護者対応は一段落しました」
「ありがとうございます」
「相沢さんのお母さん、何度も頭を下げていました」
「僕には下げなくていいんですけどね」
「そう伝えました。でも、下げたい時もあります」
五十嵐は空を見た。
「夜が明けますね」
「はい」
「長い一日でした」
「まだ今日なんですよね、これ」
「日付は変わりました」
「じゃあ、昨日の提出物はもう諦めていいですか」
「それは生徒に聞かせないほうがいいです」
江口は小さく笑った。
笑えることが、不思議だった。
こんな夜のあとでも、人は笑う。
泣きながらでも、疲れながらでも、笑う。
その当たり前が、ひどく尊かった。
真壁の無線が短く鳴った。
対策室から、九条の声が入る。
『江口先生はまだそこにいるのか』
真壁が答えた。
「いる。今から病院へ行かせる」
『そうして』
江口は無線へ向かって言った。
「九条先生」
『何です』
「ありがとうございました」
『私は何もしていないですよ』
「してましたよ」
短い沈黙があった。
九条は、静かに言った。
『間宮は、人を見ていなかった』
「はい」
『死にたいと書いた人間も、殺した人間も、画面の向こうの視聴者も。全部、反応として見ていた』
「反応」
『通知、再生数、コメント、検索結果。生きている人間の返事ではなく、数字を見ていた』
江口は黙って聞いた。
九条は続けた。
『だから、あなたが名前を呼ぶことには意味がある』
「僕はただ、出席を取ってるだけです」
『その“だけ”が、失われることがある』
九条の声は静かだった。
江口は校門の外を見た。
夜明けが近い。
赤色灯の色が、少しずつ薄くなっていく。
「九条先生」
『何です』
「まだ、続くんでしょうか」
『事件としては終わりへ向かいます』
「でも」
『見出しは残る』
九条は言った。
『模倣も出る。誰かが面白がる。誰かが正義だと言う。誰かが新しい物語にする』
「嫌ですね」
『嫌です』
九条がそう言った。
江口は少しだけ驚いた。
九条が自分の感情をそのまま言うのは、珍しい気がした。
無線はそこで切れた。
朝の空気が、校門の前に戻ってくる。
*
病院の窓にも、薄い朝の光が差し始めていた。
二階堂壮也は、ようやく端末を手放した。
戻った堀島はベッドサイドで腕を組んでいる。
「寝てください」
「うん」
「本当に」
「はい」
「返事だけなら誰でもできます」
二階堂は薄く笑った。
「出席確認みたいだな」
「江口先生に影響されすぎです」
二階堂は天井を見た。
警察公式の新しい広報文は、すでに投稿されている。
未確認のアプリ、投稿、殺害予告に関する情報は、安易に拡散しないでください。
映像やスクリーンショットの共有は、関係者の安全を脅かし、犯人や模倣者の注目獲得に加担するおそれがあります。
一方で、「死にたい」という言葉を見かけた場合は、笑わず、責めず、近くの大人、学校、警察、または相談窓口につないでください。
その言葉は、誰かを罰するためのものではありません。
生きている人へ届くべき言葉です。
硬い。
警察の文章だ。
実際の文面を整えたのは、広報課の中堅職員だった。
二階堂が出したのは、骨子だけだ。
それでも二階堂は、その硬さでいいと思った。
犯人の言葉は、強く、短く、冷たかった。
だからこそ、こちらは少し遅くても、正確でなければならない。
「二階堂さん」
堀島が言った。
「何」
「今度こそ寝てください」
「分かった」
二階堂は目を閉じた。
その直前、スマートフォンが震えた。
堀島の眉が動く。
「見ないでください」
「見ないよ」
「本当に?」
「じゃあ差出人だけ」
二階堂は片目だけ開けた。
江口からだった。
本文は短い。
―― 全員、出席確認済み。
二階堂は、しばらくその文字を見ていた。
それから、力の抜けた笑いを漏らした。
「何ですか」
堀島が聞く。
二階堂はスマートフォンを伏せた。
「無事の報告」
「なら、よかったです」
「うん」
二階堂は目を閉じた。
今度こそ、少しだけ眠れそうだった。
*
朝日が校舎の窓に差し込む頃、江口桜次郎は誰もいない三年二組の教室に戻った。
病院へ行く前に、荷物を取るためだ。
真壁には「三分だけ」と言われた。
江口は「教師の三分はだいたい伸びます」と言いかけて、真壁の目を見てやめた。
机が少し乱れている。
椅子がいくつか引かれたままになっている。
黒板には、昨夜の文字が残っている。
いなくならない。
死んで待たない。
江口は黒板消しを手に取った。
少し迷った。
消していいのか、残しておくべきなのか分からなかった。
だが、授業をするなら黒板は使う。
それもまた、日常を戻す手続きだ。
江口は、ゆっくり文字を消した。
チョークの粉が、朝の光の中で舞う。
完全には消えない。
うっすらと跡が残る。
それでいいのだと思った。
何もなかったようには戻れない。
でも、文字を上書きすることはできる。
江口は新しいチョークを手に取った。
何かを書こうとして、手を止めた。
廊下から足音が聞こえた。
振り返ると、真壁が立っていた。
「三分過ぎた」
「まだ二分五十秒くらいでは」
「過ぎた」
「体感時間が厳しいですね」
真壁は黒板を見た。
「出席確認」
「はい」
「好きだな」
「嫌いではないです」
江口はチョークを置いた。
「名前を呼んで、返事があるだけですけど」
真壁は少し黙った。
それから言った。
「それがない現場ばかり見ている」
江口は真壁を見た。
真壁の顔には疲れが深く刻まれている。
間宮を逮捕した刑事の顔ではなく、まだ終わっていない事件の中にいる人間の顔だった。
「真壁さん」
「何だ」
「ありがとうございました」
「礼を言うな。仕事だ」
「それでも」
真壁は少しだけ視線を逸らした。
「相沢沙耶は、生きている」
「はい」
「中原千夏も」
「はい」
「お前も」
「はい」
「なら、今日はそれでいい」
江口は頷いた。
「はい」
窓の外で、朝の光が校庭を照らし始めている。
次の案内は、もう来なかった。
だが、江口は知っていた。
通知が来なくても、人は勝手に自分を責める。
黒い画面が消えても、白い文字のような言葉が胸に残る。
誰かに呼ばれるまで、自分がまだここにいていいのか分からなくなる夜がある。
だから、名前を呼ぶ。
返事を待つ。
たとえ返事が遅くても。
声にならなくても。
手を上げるだけでも。
誰かが代わりに知らせるだけでも。
死んで待たせないために。
江口桜次郎は、誰もいない教室で、もう一度だけ出席簿を開いた。
そこには、生徒たちの名前が並んでいる。
一人一人の名前の横に、昨夜つけた丸が残っていた。
少し歪んだ丸だった。
慌ててつけた丸。
震える手でつけた丸。
それでも、確かに丸だった。
江口はそのページをしばらく見つめた。
そして、静かに閉じた。
事件は終わりへ向かっている。
だが、彼らの明日はここから始まる。
チャイムの鳴らない朝の教室で、江口は小さく呟いた。
「全員、いますね」
その声に返事はなかった。
けれど、返事を待つ時間だけは、確かにそこに残っていた。




