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次のご案内まで、死んでお待ちください。  作者: 二条理|アコンプリス


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11/12

第十一章 死にたい人間を、死なせない

 犯人を捕まえれば事件は終わる。

 刑事ドラマなら、そこで音楽が鳴る。

 ニュースなら、速報のテロップが流れる。

 ネットなら、逮捕の瞬間だけが切り抜かれ、何度も再生される。

 だが現実には、手錠の音で終わらない事件がある。

 凶器を取り上げても、血が止まらないことがある。

 配信を止めても、言葉が残ることがある。

 犯人を連れていっても、犯人が置いていったものが、誰かの胸の奥でまだ作動していることがある。

 間宮零司は逮捕された。

 だが、《WAIT》は最後にもう一度だけ動いた。

 ご案内は、まだ完了していません。

 最終ご案内対象を変更しました。

 次の対象は――

 相沢沙耶

 理由:あなたのせいで、先生は死にかけました。

 ご案内予定時刻:即時

 その文字を見た瞬間、江口桜次郎は走り出していた。

 考えるより先だった。

 足が階段を蹴る。

 息が喉を焼く。

 膝が笑う。

 右手が壁を擦る。

 古い連絡階段の湿った空気が背中にまとわりつく。

 背後で真壁彰の声が飛んだ。

「江口!」

 聞こえた。

 だが、止まれなかった。

 間宮を捕まえた。

 配信は止まりかけている。

 中原千夏は保護された。

 警察官も、教師も、医者も、刑事も、ここにいる。

 それでも、沙耶のスマートフォンには今、あの文字が届いている。

 あなたのせいで、先生は死にかけました。

 ご案内予定時刻、即時。

 それはつまり、次はあなたの番です、と言われているのと同じだった。

 そんな言葉を、あの子が一人で読んでいる。

 江口は走った。

 教師になってから、全力で校舎を走ったことが何度あっただろう。体育祭の準備中にテントが倒れかけた時。給食室の火災報知器が誤作動した時。二年生男子がふざけて非常階段に閉じ込められた時。

 そのどれよりも、今の走りは格好悪かった。

 足音がばらばらだった。

 息がすぐに上がった。

 腕の振り方も分からない。

 靴底が滑りかけ、壁に肩をぶつけた。

 それでも走った。

 美しく走る必要はない。

 間に合えばいい。

 廊下へ出ると、五十嵐理人が追いついてきた。息を切らしながらも、江口より冷静だった。

「江口先生、沙耶さんの現在位置は?」

「教室にいるはずです」

「確認します」

 五十嵐は無線を持つ警察官へ振り返った。

「三年二組、相沢沙耶さんの所在確認をお願いします。今すぐ」

 警察官が無線で確認する。

『三年二組、応答願います。相沢沙耶さんの所在確認』

 返答までの数秒が、異様に長かった。

 廊下の電子掲示板では、まだ黒い画面に白い文字が残っている。

 ご案内対象

 相沢沙耶

 ご案内予定時刻

 即時

 即時。

 なんて乱暴な言葉だろう、と江口は思った。

 待つ時間すら与えない。

 考える余地も、誰かに助けを求める間も、息を整える隙も与えない。

 死にたい人間を、死に向かって急がせるための言葉だ。

 無線が返ってきた。

『三年二組です。相沢さん、教室にいません』

 江口は足を止めた。

 廊下の空気が、一瞬で薄くなる。

「いつから」

『通知を見た直後、過呼吸気味になりました。担任と養護教諭が近づき、警察官もそばにいました。ただ、同時に別の生徒が泣き出し、パニックが連鎖。教室後方で椅子が倒れて、数人が立ち上がりました。相沢さんは「トイレ」と言って後方扉から出たようです。すぐ警察官が追いましたが、白煙が充満。防火扉の作動と廊下の避難誘導で、数十秒だけ見失いました。白煙は発煙筒』

 江口は目を閉じた。

 駄目だ。

 責めるな。

 誰が見失ったのか。なぜ一人にしたのか。なぜスマホを持たせたのか。そんなことを考え始めたら、時間が消える。

 今は沙耶だ。

「沙耶が行きそうな場所」

 江口は呟いた。

 五十嵐がすぐに聞いた。

「心当たりは?」

「静かな場所。人が少ない場所。でも、本当に見つけてほしくないなら校外へ出る。でも校門は閉じています」

「校内の死角」

「保健室、相談室、女子トイレ、体育館裏、部室棟、屋上前」

 言いながら、江口の中でひとつの場所が浮かんだ。

 屋上前の踊り場。

 沙耶は以前、放課後にそこへいたことがある。授業後、姿が見えなくなり、探したら屋上へ続く階段の途中でノートを開いていた。泣いてはいなかった。ただ、誰にも見えない場所で、じっと座っていた。

 ――ここ、静かなので。

 その時、沙耶はそう言った。

「屋上」

 江口が言うと、五十嵐が顔を上げた。

「屋上は施錠されているはずです」

「扉の前です。階段の踊り場。あそこなら、人が少ない」

 江口は走り出そうとした。

 だが、五十嵐が腕を掴んだ。

「待ってください。別動隊を向かわせます。江口先生一人で行く必要はありません」

「一人じゃないでしょう」

「江口先生」

 五十嵐の声が少し強くなった。

「あなたも標的になった直後です。間宮は逮捕されましたが、仕掛けが他にもあるかもしれません。沙耶さんを助けるためにも、あなたが倒れたら駄目です」

 正しい。

 五十嵐は正しい。

 今日、正しい言葉を何度も聞いた。

 真壁も正しい。二階堂も正しい。堀島も正しい。校長も、警察官も、きっと正しい。

 だが、沙耶は今、その正しさの届かないところにいる。

「五十嵐先生」

「はい」

「先生が叱って死にたいと思わせた生徒を、先生以外の大人が助けても、もちろん助かります」

「はい」

「でも、今あの子はたぶん、僕の顔を見ないと駄目です」

 五十嵐は黙った。

 江口は続けた。

「それが教師の傲慢だとしても、今はその傲慢で走ります」

 五十嵐は数秒だけ江口を見ていた。

 それから、掴んでいた手を離した。

「分かりました。僕も行きます」

「助かります」

「ただし、走るのが遅すぎたら置いていきます」

「理科教師、急に体育会系になりますね」

「地質調査は意外と体力勝負です」

 二人は階段へ向かった。

     *

 対策室では、真壁がすでに指示を飛ばしていた。

「屋上階段、体育館裏、部室棟、非常階段、全て確認しろ。相沢沙耶のスマートフォン位置情報は」

「校内です。ただ、細かい位置が揺れています。東棟上階付近の可能性」

「屋上階段か」

「可能性はあります」

 真壁は無線を握った。

「江口、聞こえるか」

 返答はなかった。

「江口!」

 数秒後、五十嵐の声が入った。

『こちら五十嵐です。江口先生と屋上階段へ向かっています』

「止めろ」

『止まりません』

 真壁は舌打ちした。

「お前も止めろ」

『僕も同行します』

「二人揃って何をやってる」

『生徒を探しています』

 真壁は言葉に詰まった。

 その返答だけは、責められなかった。

 九条雅紀の声が、対策室の回線から静かに入った。

『真壁』

 真壁は振り返った。

 九条は手元の端末に表示された校内図を見ている。

『探すべきは、生きている人間だ』

 その言葉に、対策室の空気がわずかに変わった。

 事件は、犯人逮捕で終わっていない。

 今必要なのは、現場検証ではなく捜索だ。

 鳳恭介の声がオンラインで入る。

『校内図を確認しました。屋上へ続く階段は二系統あります。東棟中央階段と、旧校舎側の非常階段。ただし、旧校舎側は防火扉で通れない可能性がある』

 五十嵐の無線が重なる。

『江口先生は東棟中央階段へ向かっています』

『屋上前の踊り場には、カメラがありません』

 鳳が続ける。

『防犯カメラの死角です。犯人が仕掛けを残すなら、そこを選ぶ可能性があります』

 真壁は即座に言った。

「先行する警察官を上へ回せ。江口たちより先に到着しろ」

「了解」

 堀島岳斗の声が別回線から入った。

『救急隊に初期対応の準備を指示します。沙耶さんに外傷がなくても、急性ストレス反応の可能性があります。落ち着いた環境へ移してください』

「現場に来られるか」

『二階堂さんを病院スタッフに引き継ぎました。今、学校へ向かっています。ただ、先に校内待機の救急隊と養護教諭に対応させてください』

 奥で二階堂の声がかすかに聞こえた。

『行かせた』

 堀島の声は冷静だった。

『今は沙耶さんが優先です』

 真壁は短く答えた。

「頼む」

     *

 相沢沙耶は、屋上前の踊り場にいた。

 スマートフォンを両手で握っている。

 黒い画面。

 白い文字。

 あなたのせいで、先生は死にかけました。

 ご案内予定時刻:即時。

 何度閉じても、画面は戻ってくる。

 電源を切ろうとしても、指が震えてうまく押せない。

 先生は死にかけた。

 自分のせいだ。

 違う、と言われた。

 江口先生は違うと言った。

 相沢、違う、と教室で言ってくれた。

 死にたいと思ったことを怒らないと言ってくれた。

 でも、違わない。

 自分が書いた。

 先生に叱られて、死にたいと思った。

 先生の声が怖かった。

 先生の言葉が頭から離れなかった。

 先生が悪いと思いたかった。

 それを、書いた。

 そのせいで、先生の名前が画面に出た。

 先生は殺されそうになった。

 学校中が巻き込まれた。

 二階堂という警察の人も傷ついた。

 中原さんも泣いていた。

 全部、自分のせいだ。

 頭では、違うと分かっているつもりだった。

 犯人が悪い。

 間宮という男が悪い。

 アプリが悪い。

 先生は悪くない。

 自分も殺人犯ではない。

 でも、胸の中の別の場所が、ずっと言っている。

 それでも、あなたが書いた。

 先生が死んだら、あなたのせいだった。

 沙耶は、踊り場の壁に背中を預けた。

 屋上へ続く扉は閉まっている。鍵もかかっている。外へは出られない。出るつもりもない。

 ただ、教室へ戻れなかった。

 みんなの顔が見られなかった。

 美咲は母親のことで泣いた。

 莉央は安未果のことで泣いた。

 中原は自分が消えてもいいと言ってほしかったと泣いた。

 みんな苦しかった。

 なのに、自分だけが先生の名前を出してしまった気がした。

 スマートフォンが震えた。

 また通知。

 ご案内は、即時です。

 誰かが廊下を走る音が聞こえた。

 沙耶は肩を震わせた。

 来ないで。

 先生、来ないで。

 来たら、また私のせいになる。

 涙が落ちた。

 画面の上で、白い文字が滲んだ。

     *

 江口は東棟の階段を駆け上がっていた。

 三階。

 四階。

 踊り場。

 息が切れる。

 太腿が痛い。

 心臓が胸を叩く。

 五十嵐は少し先を走り、時々振り返る。

「江口先生、無理しないでください」

「無理してます」

「堂々と言わないでください」

「教師はだいたい無理を隠して働きます。今日は隠す余裕がありません」

 五十嵐は返事の代わりに階段を上った。

 上階へ行くほど、校舎の音が遠くなる。

 教室のざわめきも、無線の声も、廊下を走る足音も薄れていく。

 その静けさが怖かった。

 江口は走りながら、沙耶の顔を思い出していた。

 班発表の準備をしてこなかった日。

 廊下で叱った日。

 俯いた顔。

 笑わなかった顔。

 泣き崩れた職員室。

 手だけで出席を示した教室。

 あの時、自分は何を見落としたのか。

 何もかもを見逃さない教師などいない。

 それは分かっている。

 分かっていても、今は自分の言葉が沙耶の背中を押した気がしてしまう。

 これが、犯人の仕掛けだ。

 間宮は逮捕された。

 だが、最後に罪悪感だけを残した。

 刃物ではなく、責任という言葉を生徒の胸に置いていった。

 江口は歯を食いしばった。

「ふざけるな」

 思わず声が出た。

 五十嵐が振り返った。

「江口先生?」

「すみません。犯人に言いました」

「届いていないと思います」

「でしょうね」

 階段の上に、屋上前の扉が見えた。

 その手前の踊り場。

 非常灯。

 灰色の壁。

 そこに、俯く人影があった。

 相沢沙耶だった。

 江口は足を止めた。

 急に近づいてはいけない。

 そう思うより早く、五十嵐が手で制した。

「ゆっくり」

 江口は頷いた。

 沙耶はスマートフォンを握っている。こちらに気づいているが、顔を上げない。肩が小刻みに震えている。

 江口は数段下で止まった。

「沙耶」

 沙耶の肩が跳ねた。

「来ないでください」

 声は小さかった。

 江口は止まったまま言った。

「来ました」

「来ないでって言ったのに」

「すみません。教師は呼ばれてない時ほど来ることがあります」

「私、呼んでません」

「だから来ました」

 沙耶は泣いていた。

「先生、戻ってください」

「戻りません」

「私のせいになる」

「なりません」

「なります!」

 沙耶が顔を上げた。

 目が真っ赤だった。

「私が書いたから、先生が死にかけた。私が死にたいなんて書かなければよかった。私が、先生の名前を出したから」

「違います」

「違わない!」

 叫び声が階段に響いた。

 江口は、そこで初めて沙耶がこんなに大きな声を出すのを聞いた気がした。

 普段の彼女は、小さな声で返事をする。

 自分の意見を言う前に、周りの顔を見る。

 間違えるとすぐに謝る。

 班で何かを決める時も、最後に頷く。

 その沙耶が、今は全身で叫んでいる。

 それが、彼女の苦しみの大きさだった。

 江口は一段だけ上がった。

 沙耶が後ずさろうとする。

「止まります」

 江口は両手を見せた。

「ここで止まります。だから、話だけ聞いてください」

 沙耶はスマートフォンを胸に抱えた。

「もう嫌です」

「うん」

「先生の顔、見られないです」

「見なくていいです」

「私のせいで、先生が」

「違う」

「違わない!」

「違う」

 江口は、同じ言葉を繰り返した。

 大きな声ではない。

 説得でもない。

 ただ、沈んでいくものを下から支えるように。

「先生が死にかけたのは、先生の運動不足と、犯人のせいです」

 沙耶は一瞬、泣くのを忘れたような顔をした。

「……運動不足?」

「はい。さっき階段を走っただけで、もう足がだいぶ終わっています」

「今、それ言いますか」

「今だから言います。重要な事実です」

 五十嵐が横で小さく息を吐いた。

 沙耶の顔が、泣き顔のまま少しだけ歪んだ。

 笑いかけて、失敗した顔だった。

 江口は続けた。

「それと、沙耶。君が書いたから先生が死にかけたんじゃない。君が書いた言葉を、間宮零司が勝手に使った」

「でも、書いたのは私です」

「うん。書いたのは君です」

 沙耶の顔がまた崩れた。

 江口は、すぐに続けた。

「でも、書いたことと、殺そうとしたことは違います」

 沙耶は唇を噛んだ。

「死にたいって思いました」

「うん」

「先生に叱られて、死にたいって思いました」

「うん」

「先生のせいにしました」

「うん」

「最低です」

「最低じゃない」

「最低です!」

 沙耶の声が割れた。

「先生は、ちゃんと叱っただけなのに。私が準備しなかったのに。班の子に迷惑かけたのに。それなのに、私は先生のせいにしたんです。先生が怖いって、先生の声が嫌だって。私が悪いのに、先生を悪いことにしたかった」

 江口は黙って聞いた。

 沙耶は泣きながら続ける。

「死にたいって、書いたら、誰かが分かってくれる気がしたんです。誰かが、そんなに苦しかったんだねって言ってくれる気がしたんです。でも、そんなの甘えで、私が悪くて、なのに先生が死にそうになって」

「沙耶」

「私がいなければよかった」

 江口の表情が変わった。

 それまで保っていた軽さが、すっと消えた。

「それは違う」

 声は静かだった。

 だが、階段の空気が変わるほど強かった。

「それだけは違う」

 沙耶は泣きながら江口を見た。

 江口は、ゆっくりと言った。

「提出物を忘れたことも、班に迷惑をかけたことも、僕のせいにしたかったことも、死にたいって書いたことも、全部、後で一緒に扱います。怒る必要があれば怒ります。謝る必要があれば、一緒に謝り方を考えます。班の子にどう言うかも考えます」

 江口は一段上がった。

 沙耶は逃げなかった。

「でも、君がいなければよかった、だけは採用しません」

 沙耶の涙が止まらない。

「先生は」

「はい」

「怒ってないんですか」

「怒っています」

 沙耶の顔がこわばった。

 江口は続けた。

「間宮に。あのアプリに。君にそんな通知を送った人間に。死にたいって書いた子の言葉を、人を殺す道具にしたことに。ものすごく怒っています」

「私には」

「君には、心配しています」

 沙耶は俯いた。

 江口はそこで、もう一段だけ上がった。

 距離はまだある。

 だが、声は届く。

「沙耶。死にたいって思ったことを、罪にしなくていい」

 沙耶は、顔を上げた。

「でも」

「でも、次からはアプリじゃなくて先生に言え」

 江口は、息を整えながら言った。

「既読は遅いかもしれないけど、返事はする」

 その言葉を聞いた瞬間、沙耶の顔が崩れた。

 泣き声が漏れた。

 それは、さっきまでの恐怖の泣き方とは少し違っていた。

 喉の奥に詰まっていたものが、ようやく外へ出てくるような泣き方だった。

「先生」

「はい」

「私、まだ出席してますか」

 江口は、一瞬だけ目を閉じた。

 それから、出席簿など持っていない手で、空中に丸をつけるように動かした。

「確認済みです」

 沙耶は泣きながら、膝の上のスマートフォンを差し出した。

「これ、もう見たくないです」

「預かります」

 江口が近づこうとした時、五十嵐がそっと前へ出た。

「僕が受け取ります」

 江口は頷いた。

 五十嵐は慎重に沙耶へ近づき、スマートフォンを受け取った。沙耶はその場にへたり込んだ。画面はまだ黒く、白い文字が残っている。

 ご案内予定時刻:即時

 五十嵐は画面を伏せた。

「相沢さん。立てますか」

 沙耶は首を振った。

「無理です」

「では、座ったままで大丈夫です」

 江口が言った。

「僕も座ります」

 そう言って、踊り場の数段下に腰を下ろした。

 五十嵐が少し驚いた顔をする。

「江口先生」

「足が限界です」

「本当にですか」

「半分は本当です」

 沙耶が泣きながら、少しだけ笑った。

 その笑いを聞いて、階段の下にいた警察官が小さく息を吐いた。

 無線の向こうでも、誰かが息を詰めて聞いていたのかもしれない。

 江口は壁に背中を預けた。

 まだ何も終わっていない。

 沙耶は泣いている。

 《WAIT》の通知は残っている。

 間宮は逮捕されたが、事件の傷は校内に残っている。

 それでも今、沙耶は一人ではない。

 それだけで、ひとつ勝った。

     *

 最初に沙耶の状態を確認したのは、校内に待機していた救急隊員だった。

 養護教諭も駆けつけ、沙耶の呼吸と意識を確認する。過呼吸に近い状態はあったが、外傷はない。救急隊員はゆっくりと呼吸を整えるよう促し、五十嵐が預かったスマートフォンは、警察官が証拠品として保全した。

 堀島岳斗が到着したのは、それからしばらく後だった。

 医療バッグを持ち、階段を上ってくるなり、江口を見て眉をひそめた。

「江口先生、あなたも顔色が悪いです」

「今は相沢を」

「もちろん相沢さんを診ます。そのあとあなたもです」

「僕は大丈夫です」

「その台詞を今日何回聞いたか数えたくありません」

 堀島は沙耶の前に膝をついた。

 声が驚くほど柔らかくなる。

「相沢沙耶さんですね。堀島です。医者です。今から少しだけ確認します。嫌なことは嫌と言ってください」

 沙耶は小さく頷いた。

 堀島は脈、呼吸、意識の状態を確認した。

 処置というほど大きなことはしない。だが、その手つきは沙耶に「自分は今、ちゃんと見られている」と伝えるように丁寧だった。

「大丈夫です。今すぐ命に関わる状態ではありません。ただ、かなり強い恐怖と緊張があります。暖かい場所へ移動しましょう」

 沙耶は江口を見た。

「先生も来ますか」

「行きます」

 堀島が即座に言った。

「江口先生も診ますから」

「ついでにされてますね」

「かなり本気です」

 五十嵐が沙耶のそばへ立ち、江口も立ち上がろうとした。

 足に力が入らず、少しよろけた。

 真壁がいつの間にか階段の下に立っていた。

「格好悪いな」

 江口は振り返った。

「真壁さん」

「体力が終わってる」

「教師なので」

「言い訳にならない」

「ですよね」

 真壁は沙耶を見た。

 声を柔らかくするような男ではない。

 だが、言葉は選んでいた。

「相沢沙耶さん」

 沙耶がびくりとする。

「あなたは被疑者ではない」

 沙耶は目を見開いた。

「あなたは通報者であり、被害者だ。詳しい話は後で聞く。だが、今あなたを責めるために警察が来たわけではない」

 沙耶の目にまた涙が溜まった。

 真壁は続けた。

「事件を起こしたのは、あなたではない」

 その言葉は、江口の言葉とは違う重さを持っていた。

 教師の言葉ではなく、刑事の言葉。

 法と捜査の側から引かれた線。

 沙耶は小さく頷いた。

 その時、真壁の無線機から、九条雅紀の声が静かに流れた。

『あなたには命がある』

 沙耶は、その意味をすぐには理解できなかったかもしれない。

 だが江口には分かった。

 九条は、彼なりに沙耶を生者として見ている。

 死ぬかもしれない人間ではなく、今ここにいる人間として。

 沙耶はまた頷いた。

「はい」

     *

 午後九時十八分。

 《WAIT》の配信は完全に停止された。

 サーバーの一部は海外を経由していたが、警察とプラットフォームの緊急対応で主要な配信経路は遮断された。ミラー配信や録画は残ったものの、警察公式と報道各社の注意喚起により、少なくとも大手メディアは映像の直接使用を避けた。

 それでも、すべては消えない。

 江口が階段で間宮と向き合う映像。

 間宮が「俺だって、主役になりたかった」と叫ぶ音声。

 沙耶の名前が表示された最後の通知。

 江口が屋上前の踊り場へ走る後ろ姿。

 誰かが保存している。

 誰かが切り抜いている。

 誰かが面白がっている。

 事件は止められても、見出しは止まらない。

 その現実を、二階堂壮也は病室のベッドで見ていた。

 堀島に端末を没収されたはずだった。

 だが、広報課の若い職員が状況確認用に持ってきた端末を、二階堂はいつの間にか自分のほうへ引き寄せていた。

『二階堂さん』

 堀島が低い声で言った。

「これは仕事です」

『あなたの仕事は今、回復です』

「広報も回復の一部だ」

『それは医学的に証明できません』

 二階堂は画面を見ていた。

 間宮零司逮捕。

 《WAIT》閉鎖へ。

 江口桜次郎教諭、無事。

 登録生徒も保護。

 警察、殺害予告配信を停止。

 “主役になりたかった”犯人の正体。

 九条事件との関連か。

 見出しは、すでに増えている。

 中には、最悪のものもあった。

 《WAIT》風ジェネレーター作ってみた。

 次のご案内メーカー。

 死にたい理由を入力すると誰かを処刑してくれる架空アプリ。

 あなたの加害者診断。

 黒背景白文字テンプレ配布。

 二階堂は画面をスクロールする手を止めた。

 目が細くなる。

「最悪だな」

 堀島の声が入る。

『何ですか』

「犯人は捕まったのに、見出しだけが増えてる」

 堀島は何も言わなかった。

 二階堂は端末を置いた。

「真壁に繋げる?」

『あなたは休むべきです』

「休むために、先にこれだけ言います」

 堀島は数秒だけ端末を見た。

 それから、ため息をついて回線を繋いだ。

 真壁の声が返る。

『何だ』

「模倣が出始めてる」

『把握している』

「早い」

『お前が思うより警察は仕事をしている』

「それは失礼しました」

『寝ろ』

「その前に、公式文の骨子だけ出す。実際に整えるのは広報課の別の人に任せる」

『怪我人が書くな』

 二階堂は天井を見た。

 頭は痛い。

 身体は重い。

 口の中はまだ血の味がする。

 それでも、今書かなければならない言葉がある。

「俺が、さっきまで見出しにされてたから」

 真壁は黙った。

 二階堂は続けた。

「見出しにされた人間が骨子を出したほうが、少しは届くだろ」

 短い沈黙のあと、真壁が言った。

『短くしろ』

「広報文の話? 俺の稼働時間の話?」

『両方だ』

 二階堂は少し笑った。

 痛みが走る。

 それでも笑った。

     *

 江口が沙耶を連れて教室へ戻った時、生徒たちは誰も騒がなかった。

 三年二組は、静かだった。

 美咲が立ち上がりかけ、すぐに座り直した。

 莉央は安未果の手を握っている。

 中原千夏は保健室へ運ばれていたため、席は空いている。

 沙耶は教室の入口で足を止めた。

 江口は隣に立った。

「戻りますか」

 沙耶は小さく頷いた。

 教室へ入る。

 誰も、何も言わない。

 その沈黙をどう受け取ればいいか、沙耶は分からないようだった。責められているようにも感じるだろう。腫れ物に触るようにも思えるだろう。

 だから江口は、先に言った。

「はい、三年二組。もう一度出席確認をします」

 何人かが顔を上げた。

「今日は出席確認が多いですね、という苦情は後日受け付けます」

 美咲が鼻をすすった。

 莉央が小さく笑った。

 安未果も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 江口は出席簿を持っていなかった。

 だから、手元のメモ用紙で代用した。

「相沢」

 沙耶は席の前に立っていた。

 手は震えている。

 顔は泣き腫らしている。

 それでも、彼女は前を見た。

 声は小さかった。

「はい」

 江口は、メモ用紙に丸をつけた。

「確認済み」

 それから、江口は最初に戻った。

「石川」

「はい」

「大槻」

「はい」

 ひとりずつ、名前を呼ぶ。

 返事が返ってくる。

 そのたびに、教室の空気が少しずつ戻っていく。

 事件は終わっていない。

 傷も消えない。

 だが、返事はできる。

「小野寺」

「はい」

 美咲の声は震えていたが、朝より少しだけ強かった。

「倉田」

「はい」

 莉央。

「桐谷」

「はい」

 安未果。

「中原」

 教室が静かになる。

 江口は言った。

「保健室。確認済み」

 誰かが小さく息を吐いた。

 最後に、江口はもう一度だけメモ用紙を見た。

「全員、確認済みです」

 その瞬間、教室のどこかで小さな嗚咽が漏れた。

 誰のものかは分からなかった。

 美咲かもしれない。莉央かもしれない。沙耶自身かもしれない。

 あるいは、廊下で聞いていた若い教師かもしれない。

 江口は黒板へ向かった。

 そこには、さっき書いた文字がまだ残っていた。

 いなくならない。

 チョークの線は少し掠れていた。

 だが、消えてはいなかった。

 江口はその下に、もう一行書いた。

 死んで待たない。

 生徒たちは、黒板を見ていた。

 江口はチョークを置いた。

「今日の目標、追加です」

 誰も笑わなかった。

 でも、誰も目を逸らさなかった。

「死にたいって思った時に、死んで待たないこと。アプリに言われたからって、死なないこと。誰かに名前を呼ばれたら、返事ができなくても、手を上げること。それも無理なら、隣の人が先生を呼ぶこと」

 江口は教室を見回した。

「先生の返事は遅いかもしれません。たぶん遅いです。採点も遅いし、メッセージもたまに見落とします。でも、返事はします」

 沙耶が泣きながら顔を上げた。

 江口は、少しだけ笑った。

「だから、死んで待たないでください」

 教室の外では、まだ無線が飛び交っている。

 警察官が走り、教師たちが保護者へ連絡し、救急隊が中原を診ている。

 夜は終わっていない。

 だが、教室の中にだけ、小さな朝のようなものが差していた。

     *

 夜明け前。

 警察車両の赤色灯が、校門の外でまだ回っていた。

 空は黒から濃い藍色へ変わり始めている。

 校舎の窓には、疲れ切った教師たちの影が映っている。

 保護者が迎えに来た生徒から順に、警察の確認を受けて帰されていく。

 江口は、玄関前に立っていた。

 沙耶は母親に付き添われ、車へ向かっている。

 美咲も母親と一緒に帰った。親子はまだぎこちなかったが、美咲の母は娘の肩を離さなかった。

 莉央と安未果は、それぞれの保護者に挟まれながらも、別れ際に小さく手を振り合った。

 中原千夏は念のため病院へ向かった。命に別状はないと救急隊員は言った。堀島も、同じ見立てだった。

 江口は、その一人一人を見送った。

 名前を呼ぶ必要はなかった。

 もう、返事は聞いた。

 校舎の中から真壁が出てきた。

「江口先生」

「はい」

「先に病院で診てもらえ。帰るのはその後だ」

「片付けが」

「病院だ」

「でも」

「病院だ」

 江口は口を閉じた。

 真壁の目は、反論を許していなかった。

「分かりました」

「堀島先生に診てもらえ」

「それはちょっと」

「診てもらえ」

「はい」

 江口は肩を落とした。

「刑事って、教師より命令が短いですね」

「従うまで言うからだ」

 五十嵐がやってきた。

「江口先生、保護者対応は一段落しました」

「ありがとうございます」

「相沢さんのお母さん、何度も頭を下げていました」

「僕には下げなくていいんですけどね」

「そう伝えました。でも、下げたい時もあります」

 五十嵐は空を見た。

「夜が明けますね」

「はい」

「長い一日でした」

「まだ今日なんですよね、これ」

「日付は変わりました」

「じゃあ、昨日の提出物はもう諦めていいですか」

「それは生徒に聞かせないほうがいいです」

 江口は小さく笑った。

 笑えることが、不思議だった。

 こんな夜のあとでも、人は笑う。

 泣きながらでも、疲れながらでも、笑う。

 その当たり前が、ひどく尊かった。

 真壁の無線が短く鳴った。

 対策室から、九条の声が入る。

『江口先生はまだそこにいるのか』

 真壁が答えた。

「いる。今から病院へ行かせる」

『そうして』

 江口は無線へ向かって言った。

「九条先生」

『何です』

「ありがとうございました」

『私は何もしていないですよ』

「してましたよ」

 短い沈黙があった。

 九条は、静かに言った。

『間宮は、人を見ていなかった』

「はい」

『死にたいと書いた人間も、殺した人間も、画面の向こうの視聴者も。全部、反応として見ていた』

「反応」

『通知、再生数、コメント、検索結果。生きている人間の返事ではなく、数字を見ていた』

 江口は黙って聞いた。

 九条は続けた。

『だから、あなたが名前を呼ぶことには意味がある』

「僕はただ、出席を取ってるだけです」

『その“だけ”が、失われることがある』

 九条の声は静かだった。

 江口は校門の外を見た。

 夜明けが近い。

 赤色灯の色が、少しずつ薄くなっていく。

「九条先生」

『何です』

「まだ、続くんでしょうか」

『事件としては終わりへ向かいます』

「でも」

『見出しは残る』

 九条は言った。

『模倣も出る。誰かが面白がる。誰かが正義だと言う。誰かが新しい物語にする』

「嫌ですね」

『嫌です』

 九条がそう言った。

 江口は少しだけ驚いた。

 九条が自分の感情をそのまま言うのは、珍しい気がした。

 無線はそこで切れた。

 朝の空気が、校門の前に戻ってくる。

     *

 病院の窓にも、薄い朝の光が差し始めていた。

 二階堂壮也は、ようやく端末を手放した。

 戻った堀島はベッドサイドで腕を組んでいる。

「寝てください」

「うん」

「本当に」

「はい」

「返事だけなら誰でもできます」

 二階堂は薄く笑った。

「出席確認みたいだな」

「江口先生に影響されすぎです」

 二階堂は天井を見た。

 警察公式の新しい広報文は、すでに投稿されている。

 未確認のアプリ、投稿、殺害予告に関する情報は、安易に拡散しないでください。

 映像やスクリーンショットの共有は、関係者の安全を脅かし、犯人や模倣者の注目獲得に加担するおそれがあります。

 一方で、「死にたい」という言葉を見かけた場合は、笑わず、責めず、近くの大人、学校、警察、または相談窓口につないでください。

 その言葉は、誰かを罰するためのものではありません。

 生きている人へ届くべき言葉です。

 硬い。

 警察の文章だ。

 実際の文面を整えたのは、広報課の中堅職員だった。

 二階堂が出したのは、骨子だけだ。

 それでも二階堂は、その硬さでいいと思った。

 犯人の言葉は、強く、短く、冷たかった。

 だからこそ、こちらは少し遅くても、正確でなければならない。

「二階堂さん」

 堀島が言った。

「何」

「今度こそ寝てください」

「分かった」

 二階堂は目を閉じた。

 その直前、スマートフォンが震えた。

 堀島の眉が動く。

「見ないでください」

「見ないよ」

「本当に?」

「じゃあ差出人だけ」

 二階堂は片目だけ開けた。

 江口からだった。

 本文は短い。

 ―― 全員、出席確認済み。

 二階堂は、しばらくその文字を見ていた。

 それから、力の抜けた笑いを漏らした。

「何ですか」

 堀島が聞く。

 二階堂はスマートフォンを伏せた。

「無事の報告」

「なら、よかったです」

「うん」

 二階堂は目を閉じた。

 今度こそ、少しだけ眠れそうだった。

     *

 朝日が校舎の窓に差し込む頃、江口桜次郎は誰もいない三年二組の教室に戻った。

 病院へ行く前に、荷物を取るためだ。

 真壁には「三分だけ」と言われた。

 江口は「教師の三分はだいたい伸びます」と言いかけて、真壁の目を見てやめた。

 机が少し乱れている。

 椅子がいくつか引かれたままになっている。

 黒板には、昨夜の文字が残っている。

 いなくならない。

 死んで待たない。

 江口は黒板消しを手に取った。

 少し迷った。

 消していいのか、残しておくべきなのか分からなかった。

 だが、授業をするなら黒板は使う。

 それもまた、日常を戻す手続きだ。

 江口は、ゆっくり文字を消した。

 チョークの粉が、朝の光の中で舞う。

 完全には消えない。

 うっすらと跡が残る。

 それでいいのだと思った。

 何もなかったようには戻れない。

 でも、文字を上書きすることはできる。

 江口は新しいチョークを手に取った。

何かを書こうとして、手を止めた。

 廊下から足音が聞こえた。

 振り返ると、真壁が立っていた。

「三分過ぎた」

「まだ二分五十秒くらいでは」

「過ぎた」

「体感時間が厳しいですね」

 真壁は黒板を見た。

「出席確認」

「はい」

「好きだな」

「嫌いではないです」

 江口はチョークを置いた。

「名前を呼んで、返事があるだけですけど」

 真壁は少し黙った。

 それから言った。

「それがない現場ばかり見ている」

 江口は真壁を見た。

 真壁の顔には疲れが深く刻まれている。

 間宮を逮捕した刑事の顔ではなく、まだ終わっていない事件の中にいる人間の顔だった。

「真壁さん」

「何だ」

「ありがとうございました」

「礼を言うな。仕事だ」

「それでも」

 真壁は少しだけ視線を逸らした。

「相沢沙耶は、生きている」

「はい」

「中原千夏も」

「はい」

「お前も」

「はい」

「なら、今日はそれでいい」

 江口は頷いた。

「はい」

 窓の外で、朝の光が校庭を照らし始めている。

 次の案内は、もう来なかった。

 だが、江口は知っていた。

 通知が来なくても、人は勝手に自分を責める。

 黒い画面が消えても、白い文字のような言葉が胸に残る。

 誰かに呼ばれるまで、自分がまだここにいていいのか分からなくなる夜がある。

 だから、名前を呼ぶ。

 返事を待つ。

 たとえ返事が遅くても。

 声にならなくても。

 手を上げるだけでも。

 誰かが代わりに知らせるだけでも。

 死んで待たせないために。

 江口桜次郎は、誰もいない教室で、もう一度だけ出席簿を開いた。

 そこには、生徒たちの名前が並んでいる。

 一人一人の名前の横に、昨夜つけた丸が残っていた。

 少し歪んだ丸だった。

 慌ててつけた丸。

 震える手でつけた丸。

 それでも、確かに丸だった。

 江口はそのページをしばらく見つめた。

 そして、静かに閉じた。

 事件は終わりへ向かっている。

 だが、彼らの明日はここから始まる。

 チャイムの鳴らない朝の教室で、江口は小さく呟いた。

「全員、いますね」

 その声に返事はなかった。

 けれど、返事を待つ時間だけは、確かにそこに残っていた。


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