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次のご案内まで、死んでお待ちください。  作者: 二条理|アコンプリス


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12/12

終章 出席確認済み

 事件の終わりは、いつも少し遅れてやってくる。

 犯人が逮捕された瞬間ではない。

 凶器が押収された瞬間でもない。

 配信が停止され、サーバーが遮断され、報道各社が速報を流した瞬間でもない。

 その時点で終わるのは、事件の外側だけだ。

 中にいた人間の時間は、すぐには戻らない。

 机の上に伏せたスマートフォンを見るたび、黒い画面を思い出す。

 廊下のスピーカーが鳴るたび、加工された声を思い出す。

 名前を呼ばれるたび、次は誰の名前が表示されるのかと身構える。

 生きていることを確認されるまで、自分が本当にここにいていいのか分からなくなる。

 それでも朝は来る。

 学校にも、警察署にも、病院にも、遺族の部屋にも、同じように朝は来る。

 その平等さは、ときどき残酷だった。

     *

 前夜、配信経路は停止された。

 だが、《WAIT》本体と呼ばれていた入力フォームや予約投稿群、外部連携の遮断が完了したのは、事件翌日の午前七時四十二分だった。

 アプリと呼ばれていたものは、実際にはいくつかの簡素な入力フォームと、複数の匿名アカウント、予約投稿、配信サービス、メッセージ送信機能を組み合わせたものだった。高度な人工知能など存在しない。自動判定システムでもない。黒い画面と白い文字は、利用者にそう思わせるための演出に過ぎなかった。

 入力された「死にたい」は、誰かに救済されていたわけではない。

 間宮零司という一人の男に読まれていた。

 彼はその中から、殺せそうな相手、騒ぎになりそうな相手、ネットで燃えそうな相手を選んでいた。苦しみの深さではなく、見出しの強さで選んでいた。救うためではない。裁くためでもない。自分の事件を大きくするためだった。

 警察庁と各プラットフォームは緊急対応に追われた。

 《WAIT》の名を使った偽サイト、模倣アプリ、黒背景に白文字の診断メーカー、事件を茶化した投稿、切り抜き動画、考察スレッド。

 それらは、事件の熱が冷める前に次々と湧き出した。

 まるで火事場に群がる小さな火の粉だった。

 ひとつ消しても、また別の場所で光る。

 警視庁広報課は、徹夜で対応に当たっていた。

 その中心に、二階堂壮也はいなかった。

 病室にいた。

 本人は強く反対したが、堀島岳斗が医師として、また人間として、全面的に却下した。

「あなたの現在地は病院です」

「広報課だ」

「病院です」

「広報課の仕事が病院まで来ている」

「追い返します」

「仕事させてよ」

「駄目なものは駄目です」

 二階堂はベッドの上で小さく息を吐いた。頭には包帯、手首には拘束痕の処置。顔には擦過傷が残り、口元も少し切れている。本人は軽口を叩いているが、動くたびに痛むのは隠せていなかった。

 堀島はベッド脇の端末を取り上げた。

「没収します」

「横暴だ」

「医療です」

「患者の権利は?」

「権利より安全です」

 二階堂は不満げに目を細めたが、強く抵抗はしなかった。

 それだけの体力が残っていないのだ。

 病室のテレビには、音量を絞ったニュースが流れていた。

 匿名アプリ《WAIT》を利用した連続殺人事件。

 犯人の男、間宮零司容疑者。

 警察関係者の拉致配信。

 中学校での殺害予告。

 登録者の未成年生徒保護。

 過去の九条雅紀指名手配事件との関連。

 画面の中では、淡々と事件が整理されている。

 淡々と整理できるほど、簡単なものではなかった。

 二階堂はテレビを見ず、窓の外を見ていた。

 朝の光が白い。

 病院の駐車場には、救急車が一台停まっている。

 世界は、事件のあとも普通に動いている。

「二階堂さん」

 堀島が声をかけた。

「ん」

「本当に、少し休んでください」

「休んでるって」

「脳が休んでいません」

「脳の休ませ方を忘れたもんで」

「深刻ですね」

「職業病だね」

 堀島はしばらく二階堂を見ていた。

 いつものように叱るべきか、黙ってそばにいるべきか、迷っている顔だった。

 二階堂はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。

「大丈夫だよ」

「その言葉は信用しません」

「じゃあ、まだ生きてる」

 堀島の手が止まった。

 二階堂は窓の外を見たまま言った。

「それなら、信用してくれるよね」

 堀島は何も言わなかった。

 病室に短い沈黙が落ちる。

 それから堀島は、端末を二階堂の手の届かない場所に置いたまま、椅子へ腰を下ろした。

「ええ」

 小さく言った。

「それは、信用します」

     *

 間宮零司の取り調べは、逮捕から数時間後に始まった。

 彼はひどく疲れていたが、黙秘はしなかった。

 むしろ、話したがっていた。

 取調室の机を挟み、真壁彰が向かいに座っている。

 録音機器が作動している。

 隣室では複数の捜査員が記録を取っている。

 間宮の手には手錠がかけられている。

 だが、彼はどこか満足そうだった。

「何人見てました?」

 最初に聞いたのはそれだった。

 真壁は答えなかった。

「配信。最後、何人見てました?」

「被害者について話せ」

「それも話します。でも、先に知りたいんです。だって、最後でしょう。最後の数字って大事じゃないですか」

「大事ではない」

「大事ですよ。何人が見たかで、意味が変わる」

「変わらない」

 真壁の声は低かった。

「柏木修一を殺した事実も、長谷部慎也を殺した事実も、森下裕介を殺した事実も、二階堂壮也を拉致監禁した事実も、江口桜次郎と生徒たちを脅迫した事実も、数字では変わらない」

 間宮は少しだけ笑った。

「真面目ですね」

「数字が欲しかったのか」

「欲しかったです」

 間宮はあっさり認めた。

「だって、数字って嘘つかないでしょう。誰かが見たら増える。誰かが反応したら増える。再生数、コメント、いいね、リポスト。全部、俺がそこにいた証拠になる」

「人を殺して得る証拠か」

「そうしないと増えなかった」

「だから殺したのか」

 間宮は黙った。

 黙ったというより、答え方を選んでいるようだった。

「俺、ずっと見つけてもらえなかったんです」

 間宮は言った。

「最初の《WAIT》は、誰かを殺すためじゃなかったんです」

 真壁は黙っていた。

「気軽に外注しただけの自分用でした。死にたい理由を書いたら、画面が返事をする。誰も返事をくれないから、自分で返事を作った。あなたの苦しみを受け付けました。次のご案内まで、お待ちください。そう表示されるだけの、くだらないページです」

「それを、なぜ殺人に使った」

「見られたからです」

 間宮は顔を上げた。

「誰かの名前を入れたら、数字が動いた。死にたい、だけじゃ誰も見ない。でも、誰かのせいで死にたい、なら見る。加害者がいると、人は見る。処刑があると、もっと見る」

 真壁は黙っていた。

「だから、分かったんです。みんな、死にたい人間を見たいんじゃない。誰かが裁かれるところを見たいんだって」

「それで、お前は裁く側のふりをした」

「ふりじゃない」

 間宮は即座に言った。

「俺は案内したんです」

「違う」

 真壁の声が低くなった。

「お前は、誰にも届かなかった言葉を拾って、刃物にしただけだ」

 間宮は、少し笑った。

 笑いにはなっていなかった。

「子どもの頃から。学校でも、ネットでも。何をやっても埋もれる。歌っても、読んでも、書いても、喋っても、誰も見ない。俺より下手なやつが伸びて、俺より何も考えてないやつが見られる。おかしいでしょう」

「お前の努力が報われなかったことと、人を殺したことは関係がない」

「九条雅紀は、何もしてないのに見られた」

 真壁の目がわずかに細くなった。

 間宮は続ける。

「あの人、疑われただけで名前が広がった。みんな検索した。みんな話した。二階堂壮也もそうです。広報文ひとつで人を動かした。真壁さん、あなたも。江口先生も。鳳恭介も、堀島岳斗も。みんな、事件の中で役をもらってた」

「役ではない」

「でも、そう見えたんです」

 間宮は顔を上げた。

 その目は、もう昨夜のようにぎらついてはいなかった。

 だが、空虚だった。

「俺には役がなかった」

「だから作った」

「はい」

「人の死で」

「……はい」

 短い返答だった。

 反省というより、事実確認に近い声だった。

 真壁はしばらく間宮を見ていた。

 この男は、自分を被害者だと思っている。

 それは演技ではない。

 本当にそう思っている。

 だからこそ、たちが悪い。

 自分が見られなかった苦しみを、殺された人間の苦しみより大きいものとして扱っている。

 真壁は静かに言った。

「お前が見ていた数字は、被害者の数だ」

 間宮が顔を上げる。

「違います」

「違わない」

「視聴者です」

「被害者だ」

 真壁は机の上の資料を一枚ずつ指で押さえた。

「殺された人間。殺されかけた人間。名前を書いてしまった子ども。自分の言葉で誰かが死ぬと思わされた人間。配信を見てしまった人間。見なければよかったと後悔している人間。家族。教師。医師。警察官。お前が数字として見ていたものの後ろには、全部、人間がいる」

 間宮は唇を噛んだ。

 真壁は続けた。

「お前は誰にも見つけてもらえなかったと言ったな」

「はい」

「お前は誰も見ていない」

 その言葉のあと、取調室は静かになった。

 間宮は、しばらく何も言わなかった。

 真壁は、彼に反省を期待していなかった。

 その場で涙を流し、被害者に謝るような分かりやすい終わりなど、現実には滅多にない。

 それでも、言わなければならないことがある。

 刑事としてではなく、事件の中で名前を使われた一人として。

「お前の物語は終わった」

 真壁は言った。

「ここから先は、被害者の記録だ」

     *

 九条雅紀は、警視庁の一室で供述調書の写しを読んでいた。

 窓の外は午後の光になっている。

 徹夜明けの庁舎は、普段より少しだけ音が鈍い。

 誰もが疲れていた。

 机の上には、今回の被害者資料と、九条自身がかつて巻き込まれた指名手配事件の報道スクラップが並んでいる。

 自分の顔写真。

 自分の名前。

 自分について勝手に書かれた言葉。

 完全内臓逆位。

 左利き。

 監察医。

 指名手配。

 逃亡。

 疑惑。

 真相。

 それらの単語が、かつて自分から切り離され、勝手に歩いていった。

 事件は解決した。

 疑いは晴れた。

 真犯人は逮捕された。

 だが、名前は残った。

 誰かの検索履歴に。

 誰かのまとめ記事に。

 誰かの記憶の中に。

 間宮零司は、その残骸を拾った。

 責任ではない。

 そう九条は理解している。

 自分が疑われたことが、今回の殺人を生んだわけではない。

 報道されたことが、間宮に人を殺せと命じたわけでもない。

 二階堂の広報文が、間宮に配信を教えたわけでもない。

 それでも、痛みは残る。

 自分の名前が、どこかで別の人間の欲望の材料になっていたという痛み。

 九条は資料を閉じた。

 ドアがノックされる。

「どうぞ」

 入ってきたのは真壁だった。

「休まないのか」

「お前もだ」

「俺は仕事だ」

「俺も仕事だ」

「お前は解剖医だ。供述調書を読んで寝不足になる仕事ではない」

「今回は死体だけの事件ではない」

 真壁は少し黙った。

 それから、向かいの椅子に座った。

「自分のせいだと思っているのか」

 九条は真壁を見た。

「思っていない」

「ならいい」

「だが、影響はある」

「影響と責任は違う」

「分かっている」

 真壁は腕を組んだ。

「なら、それ以上自分を解剖するな」

 九条は一瞬、返答に迷った。

 真壁らしい言い方だった。

「俺は死体ではない」

「知ってる」

「自分で言うのも何だが、まだ生きている」

「知ってる」

「なら解剖対象ではないな」

「そういうことだ」

 九条は、わずかに目を伏せた。

 笑ったのかもしれない。

 真壁には判別できなかった。

 少しして、九条は言った。

「間宮は、見出しだけを拾った」

「ああ」

「人間を見ていなかった」

「ああ」

「なら、我々がするべきことは逆だ」

「逆?」

「見出しにされた人間を、人間に戻す」

 真壁は無言で頷いた。

 それは警察の仕事であり、法医学の仕事であり、広報の仕事であり、教師の仕事でもあるのだろう。

 真壁は立ち上がった。

「午後、改めて江口の学校へ行く」

「なぜ」

「保護者説明と現場確認だ」

「江口先生は?」

「病院に行かせた。と言いたいところだが、たぶん学校にいる」

「だろうな」

「お前も来るか」

 九条は資料を揃えた。

「行く」

「堀島先生に怒られるぞ」

「二階堂よりは軽く済む」

「比較対象が悪い」

 真壁はドアへ向かった。

 九条も立ち上がる。

 自分の名前が残るなら、その名前で何をするかを選ぶしかない。

 九条はそう思った。

     *

 事件から三日後、江口桜次郎は教室に立っていた。

 三年二組。

 窓から入る午前の光は、あの日の朝とは違って穏やかだった。

 机は整っている。

 椅子も揃っている。

 黒板には、今日の日付と授業内容が書かれている。

 公民。

 基本的人権。

 個人の尊重。

 あまりにも皮肉な単元だった。

 江口は教卓の上に出席簿を置いた。

 教室は静かだった。

 事件後、学校は二日間臨時休校になった。警察の現場検証、保護者説明、カウンセラーの手配、報道対応、ネット上の二次被害対策。やるべきことは山ほどあった。

 そして今日、事件後初めて、三年二組は全員揃った。

 美咲がいる。

 莉央がいる。

 安未果がいる。

 中原千夏がいる。

 相沢沙耶がいる。

 誰も、事件の前と同じ顔ではない。

 それでも、席に座っている。

 江口は出席簿を開いた。

「はい、出席を取ります」

 いつもの言葉だった。

 だが、教室の空気が少しだけ動いた。

「相沢」

 教室が、ほんの少し静かになる。

 沙耶は顔を上げた。

 目の下にはまだ薄い隈がある。

 だが、机の上にはノートが開かれている。筆箱も置かれている。授業を受ける準備が、ちゃんとある。

「はい」

 江口は丸をつけた。

「石川」

「はい」

「大槻」

「はい」

 返事が続く。

 江口は、ひとりずつ目を見て丸をつけた。

 事件の前は、出席確認などほとんど作業だった。

 名前を呼び、返事を聞き、丸をつける。

 遅刻者を確認し、欠席者を職員室へ報告する。

 それだけの時間。

 だが今は、その「それだけ」が少し違っている。

「小野寺」

「はい」

 美咲は以前より少しだけ声が大きくなった。

 母親とはまだぎこちないらしい。だが、昨夜も一緒に夕食を食べたと、朝のホームルーム前に小さく報告してくれた。

「倉田」

「はい」

 莉央は返事のあと、安未果をちらりと見た。

「桐谷」

「はい」

 安未果も返事をし、莉央を見返した。

 二人はまだ完全に元通りではない。だが、部活には一緒に行くらしい。

「中原」

 少し間があった。

「……はい」

 声は小さい。

 でも、確かに聞こえた。

 江口は丸をつけた。

「はい、全員いますね」

 その瞬間、誰かが小さく息を吐いた。

 江口は出席簿を閉じた。

「じゃあ授業を始めます」

 生徒たちは黒板を見る。

 江口はチョークを持った。

「今日は、たとえへこんだ日でも提出物は減らないという、社会の厳しさについてです」

 一瞬、教室が静まった。

 それから、ぽつりと笑いが漏れた。

 美咲だった。

 続いて莉央が笑う。

 安未果が口元を押さえる。

 中原が俯いたまま肩を揺らす。

 沙耶も、泣きそうな顔で少しだけ笑った。

 江口は黒板へ向き直った。

「笑いましたね。では、提出物を出してください」

 今度は、少し大きな笑いが起きた。

 それは明るい笑いではなかった。

 完全に元通りの笑いでもなかった。

 どこか危うく、まだ涙の気配を含んだ笑いだった。

 それでも、教室の中に確かにあった。

 江口はその笑いを聞きながら、黒板に文字を書いた。

 個人の尊重。

 チョークの音が、静かに教室へ響いた。

     *

 同じ頃、二階堂壮也は病院のベッドで広報文の最終稿を読んでいた。

 堀島の監視つきだった。

「五分だけです」

「うん」

「三分経過」

「早い」

「体感ではなく時計です」

 二階堂は苦笑しながら、画面を見た。

 前夜に出した第一報をもとに、被害者保護と二次被害防止を強調した最終稿だった。

 警視庁の公式発表。

 未確認のアプリ、投稿、殺害予告に関する情報を見かけても、安易に拡散しないでください。

 被害者、関係者、未成年者の氏名や映像を共有する行為は、二次被害につながります。

 また、「死にたい」という言葉を見かけた場合は、からかったり、責めたり、晒したりせず、近くの大人、学校、医療機関、警察、相談窓口につないでください。

 その言葉は、誰かを罰するためのものではありません。

 生きている人に届くべき言葉です。

 二階堂は、最後の一文を何度も読み返した。

 硬い。

 けれど、それでいい。

 犯人の言葉は、人を即座に動かすために作られていた。

 黒い画面。白い文字。短い命令。カウントダウン。

 恐怖と好奇心を同時に刺す言葉。

 それに対抗する言葉は、同じ速さであってはいけないのかもしれない。

 少し遅くていい。

 少し硬くていい。

 誰かを煽るのではなく、誰かを止める言葉なら。

「二階堂さん」

 堀島が言った。

「五分です」

「あと一行」

「駄目です」

「送信ボタンだけ」

「広報課の方に任せてください」

 二階堂は不満げに端末を返した。

「堀島先生、向いてるよ」

「何にですか」

「広報課の敵」

「光栄です」

 その時、スマートフォンが震えた。

 堀島が目を細める。

「見ないよ」

 二階堂は先に言った。

「なら、私が見ます」

 堀島はスマートフォンを手に取り、画面を確認した。

「江口先生からです」

「じゃあ見る」

「分かりやすいですね」

 堀島はスマートフォンを渡した。

 二階堂は画面を見た。

 ――授業開始。全員います。

 短い文だった。

 二階堂は、しばらくそれを見つめた。

 それから返信を打つ。

 ――生きてるか。

 送信。

 すぐに返事は来なかった。

 江口は授業中なのだろう。

 それでいい。

 返事が遅いことを、今はむしろ喜べる。

 返事が遅いということは、日常の中にいるということだ。

 二階堂はスマートフォンを胸の上に置き、目を閉じた。

 今度こそ堀島は何も言わなかった。

     *

 授業が終わったのは、午前十二時二十分だった。

 チャイムが鳴る。

 生徒たちは、少しずつ動き出した。

 いつものような騒がしさにはまだ遠い。

 だが、机を動かす音、ノートを閉じる音、誰かが小声で「購買行く?」と聞く声が戻ってきている。

 江口は教卓でプリントを揃えていた。

 沙耶が近づいてきた。

「あの、先生」

「はい」

「提出物、出します」

 彼女は一枚のプリントを差し出した。

 班発表の準備メモだった。

 あの日、出せなかったもの。

 端の文字が少し震えている。

 だが、最後まで書かれていた。

 江口は受け取った。

「確認します」

「遅れてすみません」

「遅れましたね」

「はい」

「でも、出しました」

 沙耶は小さく頷いた。

「はい」

 江口はプリントを他の提出物の上へ置いた。

「班の子には、今日の放課後、一緒に話しましょう」

「はい」

「僕も一緒に謝ります」

「先生は悪くないです」

「僕も、あの日ちょっと言い方が硬かったです」

 沙耶は首を振ろうとして、やめた。

「じゃあ、一緒に考えます」

「はい」

 沙耶は教室を出る前に、振り返った。

「先生」

「はい」

「来てくれてありがとうございました」

 江口は一瞬、言葉に詰まった。

 自分は、何か立派なことをしたつもりはない。

 ただ、名前を呼んだだけだ。

 違うと言っただけだ。

 その場からいなくならなかっただけだ。

 でも、それが沙耶にとって返事だったのなら。

「どういたしまして」

 江口は言った。

「次からは、もう少し早めに呼んでください。僕、既読つけるの遅いので」

 沙耶は小さく笑った。

「はい」

 彼女が教室を出ていく。

 江口は、その背中をしばらく見ていた。

 スマートフォンが震えた。

 画面を見る。

 二階堂からだった。

 ――生きてるか。

 江口は思わず笑った。

 短い。

 雑。

 乱暴。

 だが、二階堂らしい。

 江口は返信欄を開いた。

 少しだけ迷う。

 生きている、と打とうとして、消した。

 無事です、と打とうとして、それも消した。

 そして、いつもの言葉を打った。

 ――出席確認済み。

 送信。

 教室には、もうほとんど生徒はいなかった。

 窓の外では、校庭に柔らかな光が差している。

 遠くで、莉央と安未果が並んで歩いているのが見えた。

 美咲は昇降口で母親へメッセージを打っている。

 沙耶は廊下の途中で中原に声をかけられ、少し驚いた顔をしてから頷いている。

 生きている者たちは、ゆっくりと動き始めていた。

     *

 午後、警視庁の前に集まっていた報道陣の数は、昨日より少し減っていた。

 事件はまだ大きなニュースだったが、世間の視線はすでに次の見出しを探し始めている。

 それが残酷なのか、救いなのか、二階堂にはまだ分からなかった。

 真壁は庁舎の窓から外を見下ろしていた。

 九条が隣に立つ。

「何を見ている」

「人の数」

「間宮のようなことを言うな」

「違う。減ったと思ってな」

「関心は移る」

「ああ」

「それで救われる人間もいる」

「そうだな」

 真壁は窓から離れた。

 机の上には、分厚い捜査資料が積まれている。

 事件は終わっていない。

 柏木修一、長谷部慎也、森下裕介。

 殺された人間の記録。

 殺されかけた人間の証言。

 未成年者の保護。

 二次被害への対応。

 模倣犯対策。

 間宮零司の供述。

 やるべきことは山ほどある。

 だが、ひとつだけ区切りはついた。

 あの夜、死ぬはずだった人間が何人も生きている。

 江口桜次郎。

 相沢沙耶。

 中原千夏。

 二階堂壮也。

 そして、名前を入力してしまった子どもたち。

 真壁は資料を閉じた。

「九条」

「何」

「お前は、この事件をどう書く」

「俺は書かない」

「報告書だ」

「なら、事実を書く」

「事実だけか」

「事実以外を書く権限はない」

 九条は少し考えた。

「だが、事実の並べ方は選べる」

 真壁は九条を見た。

「被害者の名前を最初に書く。犯人の名前ではなく」

 真壁は小さく頷いた。

「そうしろ」

「お前が決めることだ」

「なら、そうする」

 窓の外では、報道陣がまた誰かにマイクを向けている。

 真壁はその光景を見ずに、机へ向かった。

 事件は、犯人の物語ではない。

 そのことを、記録の最初から示さなければならなかった。

     *

 夕方。

 江口桜次郎は、誰もいなくなった教室で黒板を消していた。

 個人の尊重。

 基本的人権。

 公共の福祉。

 提出物締切。

 最後の一つだけは授業内容ではなかったが、つい書いてしまった。

 黒板消しを動かすたび、白い粉が舞う。

 黒板の隅には、まだ薄く残っている跡があった。

 いなくならない。

 死んで待たない。

 朝、消したはずの文字。

 強く書きすぎたのか、完全には消えなかった。

 江口は、その跡をしばらく見つめた。

 消えないものはある。

 事件の記憶も。

 スマートフォンに浮かんだ白い文字も。

 生徒たちの泣き声も。

 間宮が最後に名前を呼んでほしがった顔も。

 二階堂が病室から送ってきた短い確認も。

 何もかも、綺麗には消えない。

 だが、黒板はまた使う。

 消え残った跡の上から、新しい文字を書く。

 少し見えにくくても、また書く。

 そのうち、別のチョークの粉が重なり、日々の授業の中に紛れていく。

 忘れるのではない。

 続けるのだ。

 江口は黒板消しを置いた。

 教卓の上の出席簿を手に取る。

 今日の欄には、全員に丸がついている。

 その丸を、指でなぞった。

 相沢。

 石川。

 大槻。

 小野寺。

 倉田。

 桐谷。

 中原。

 そして、ほかの生徒たちの名前。

 名前が並んでいる。

 ただの名簿。

 ただの出席簿。

 学校ならどこにでもある、誰も普段は気にしない書類。

 だがそこには、生きている人間の今日が記録されている。

 江口は出席簿を閉じた。

 スマートフォンを見る。

 二階堂への返信は、既読になっていた。

 返事はない。

 寝ているのかもしれない。

 堀島に端末を没収されたのかもしれない。

 真壁に怒られているのかもしれない。

 それでいい。

 返事がすぐに来ない時間も、日常の一部だ。

 窓の外で、夕焼けが校舎を染めている。

 江口は教室の電気を消した。

 廊下へ出る前に、もう一度だけ振り返る。

 机が並んでいる。

 椅子が並んでいる。

 黒板がある。

 窓がある。

 明日また、生徒たちが来る。

 それだけの場所。

 だが、昨夜はその「それだけ」を奪われかけた。

 江口は小さく息を吐いた。

「また明日」

 誰もいない教室に言った。

 返事はない。

 それでも、明日になれば返事がある。

 そう信じられることが、今は何よりありがたかった。

     *

 次の案内は、もう来なかった。

 《WAIT》の黒い画面は閉じられ、白い文字は消えた。

 それでも江口桜次郎は、しばらくのあいだ、名前を呼ぶたびに少しだけ待つようになった。

 返事が遅れた生徒を、すぐには急かさなくなった。

 小さな「はい」を、聞き落とさないようになった。

 手だけで返事をする生徒にも、丸をつけるようになった。

 誰かが「死にたい」と冗談めかして言った時、笑い飛ばす前に、ほんの少しだけ目を見るようになった。

 生きている者は、呼ばれれば返事をする。

 けれど、返事には時間がかかることもある。

 声にならないこともある。

 手を上げるだけのこともある。

 隣の誰かが代わりに知らせることもある。

 泣きながら、ようやく頷くだけのこともある。

 だから江口は待つ。

 出席簿を開き、名前を呼び、返事を待つ。

 その当たり前を、誰にも奪わせないために。

                                 了


読んでくださってありがとうございます。


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