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次のご案内まで、死んでお待ちください。  作者: 二条理|アコンプリス


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7/12

第七章 先生が死ぬのは困る

 教師は、ときどき生徒の人生に入り込みすぎる。

 もちろん、本人たちはそんなつもりではない。

 授業をして、出席を取り、宿題を出し、提出物を催促し、時々叱り、時々褒める。部活の予定を組み、保護者に電話をし、進路調査票の空欄に頭を抱える。

 それだけだ。

 それだけのはずなのに、生徒の側から見れば、教師の一言が一日の天気を変えることがある。

 よく頑張ったな、と言われただけで、その日は少し生きやすくなる。

 何やってるんだ、と言われただけで、世界が終わったように見える。

 廊下ですれ違った時、名前を呼ばれなかっただけで、自分は見捨てられたのだと思うことさえある。

 大人はそれを忘れる。

 子どもの頃、たった一言で救われたり、壊れたりしていた自分のことを、いつのまにか忘れてしまう。

 江口桜次郎も、きっと何度も忘れてきた。

 そして今、その忘れてきたものが、黒い画面になって戻ってきていた。

 次のご案内対象

 江口桜次郎

 理由:生徒を死にたい気持ちにさせたため

 ご案内予定時刻:本日二十一時

 スマートフォンの画面は、何度見ても同じだった。

 白い文字は冷たい。

 だが、その冷たさが機械のものではないと、江口はもう知っている。

 この文章を書いているのは人間だ。

 どこかで息をして、画面を見て、こちらの反応を待っている人間だ。

 そして、その人間は今、江口の名前を見出しにしようとしている。

「違うんです」

 職員室の入口で泣き崩れた生徒は、床に膝をついたまま何度も言った。

「違うんです、先生。先生に死んでほしいなんて、ほんとに思ってないんです」

 江口は、スマートフォンを握ったまま、その生徒を見ていた。

 名前は相沢沙耶。

 三年二組。

 前髪をいつも少しだけ目にかけている。

 提出物は遅れがちだが、授業中のノートは几帳面。

 社会科は苦手だと言いながら、歴史上の人物の家族関係だけ妙に詳しい。

 つい三日前、江口は沙耶を叱った。

 理由は、班発表の準備を一人だけしてこなかったからだ。沙耶の班は、他の生徒が何とか穴を埋めようとしていた。江口は放課後、沙耶を廊下に呼び出した。

 ――やれないなら、やれないって言え。黙ってると、周りが困る。

 強く言ったつもりはなかった。

 だが、甘く言ったつもりもなかった。

 沙耶はその時、唇を噛んで俯いていた。

 江口は、彼女が怒られていると思っているのだと判断した。だから最後に、少しだけ軽く言った。

 ――社会科の発表で世界は滅びないけど、約束を守ることは大事なことです。

 沙耶は笑わなかった。

 その顔を、江口は見ていた。

 見ていたのに、見落とした。

「沙耶」

 江口は、できるだけ普段と同じ声で名前を呼んだ。

 沙耶の肩が跳ねる。

「はい」

「立てるか」

 沙耶は首を振った。

 江口は近くの椅子を引いた。五十嵐理人がすぐに近づき、沙耶の背中へそっと手を添える。

「相沢さん、椅子に座ろう。ゆっくりでいいから」

 沙耶は五十嵐に支えられ、椅子に座った。顔は白い。両手を膝の上で握りしめ、呼吸が浅くなっている。

 職員室にいた教師たちは動けずにいた。

 先ほどまで、二階堂壮也の救出でわずかに戻りかけていた空気が、また凍っている。

 江口が標的になった。

 その事実が、職員室全体にじわじわ広がっていた。

 校長が震える声で言った。

「江口先生、すぐに警察へ」

「連絡します……が」

 江口は自分のスマートフォンを見た。

 黒い画面は消えない。

 そして、全国のご案内対象すべてに対応できるリソースが警察にあるとは思えない。

「五十嵐先生、相沢をお願いします。水と、養護の先生を」

「分かりました」

「沙耶」

 江口は沙耶の前にしゃがんだ。

 目の高さを合わせる。

 この高さに降りるだけで、言葉の当たり方は少し変わる。

「先生に死んでほしかった?」

 沙耶は激しく首を振った。

「思ってない、思ってないです。ほんとに、違うんです」

「うん」

「先生に叱られて、怖くて、班の子にも迷惑かけて、もう学校来たくないって思って、それで……死にたいって書いて」

「うん」

「でも、先生が悪いって意味じゃなくて。私が悪いのに。私が準備しなかったのに。でも、その時は、先生の声が頭から離れなくて」

 沙耶は泣きながら言った。

「先生のせいにしたかったんです。ほんとは自分が悪いって分かってるのに、そう思いたくなくて」

 江口はすぐに答えなかった。

 職員室の壁時計が、午後七時十七分を指している。

 二十一時まで、一時間四十三分。

 自分の命に残り時間が付けられた状況で、目の前の生徒は、自分を責めて泣いている。

 滑稽だ。

 そして、ひどく現実的だった。

「沙耶」

「はい」

「先生に叱られて死にたくなる日くらい、あるよな」

 沙耶が顔を上げた。

 江口は少しだけ肩をすくめた。

「先生も、中学の時、数学の先生に当てられて、答え間違えて、先生にため息つかせちゃって、消しゴムになりたいと思ったことがあります」

「消しゴム?」

「人間を辞める時の第一候補でした。小さくて目立たないし、間違いを消せるし」

 沙耶は泣いたまま、少しだけ眉を寄せた。

「先生、今ふざけてますか」

「かなり真面目です」

 五十嵐が横で小さく息を吐いた。

 呆れたのか、安心したのか分からない。

 江口は続けた。

「死にたいって思ったことを、今ここで僕は怒らない。先生に叱られて苦しかったことも、なかったことにしない」

「でも」

「でも、それで僕が死ぬのは困る」

 沙耶の顔がくしゃりと歪んだ。

「ごめんなさい」

「いや、授業も明日ありますし」

「先生」

「それに、まだテスト範囲終わってません。僕が死ぬと、三年二組の公民分野が中途半端になります。これは教育課程上、かなりまずい」

 沙耶は泣きながら笑った。

 その笑いは、声にならないほど小さかった。

 でも、確かに笑った。

 江口はその一瞬だけで、自分の中の何かが少し戻るのを感じた。

 生きている人間は、笑う。

 泣きながらでも、笑う。

 それを犯人に奪わせるわけにはいかない。

「沙耶。ここからは大人の仕事です。君は、これ以上アプリを開かない。自分を責めすぎない。勝手にどこかへ行かない。いいですか」

「でも、私が」

「その『私が』は、今から一時預かりにします」

「一時預かり?」

「僕が保管します。返却予定は未定です」

 沙耶はまた涙をこぼした。

 その時、職員室のテレビが、速報音を鳴らした。

 誰かがリモコンを取るより早く、画面の下に赤い帯が走る。

 《WAIT》関連配信事件 男を現行犯逮捕

 警視庁は、警視庁広報課の二階堂壮也警部補を拉致・監禁し、動画配信サイト上で暴行を加えたとして、墨川区内の閉店済み宴会場で、無職・水口真奈人容疑者、二十一歳を現行犯逮捕したと発表した。

 アナウンサーの声が続く。

『警視庁によりますと、水口容疑者は取り調べに対し、自分は本当の《ご案内係》ではない、と供述しているということです』

 職員室の空気が、また変わった。

 逮捕された。

 だが、終わっていない。

 その二つが同時に伝わってきた。

『水口容疑者は、SNSを通じていわゆる闇バイトに応募し、その後、秘匿性の高い通信アプリに招待されたとみられています。捜査関係者によりますと、水口容疑者は、そこで《ご案内係先生》を名乗る人物から、標的や場所、配信手順を指示されたという趣旨の供述をしているということです』

 江口は、黒い画面のスマートフォンを握ったまま、テレビを見た。

『また、水口容疑者は、警察の調べに対し、「お前も日の目を見たいだろうと言われた」「俺は優秀なのに、誰からも認めてもらえない」「俺のプログラミング能力を買ってくれたのは、ご案内係先生だけだった」などと話しているということです』

 教頭が、小さく言った。

「プログラミング……」

 五十嵐が眉を寄せる。

「犯人に使われた、ということですか」

「使われたんじゃない」

 江口は言った。

 自分でも驚くほど冷たい声だった。

「使われに行ったんです」

 テレビの中で、別の記者が現場前から中継していた。

『水口容疑者はさらに、「何もせずに有名になっている連中が悔しかった。羨ましかった」「あいつらに便乗すれば、自分も有名になれると思った」とも供述しているということです』

 沙月が椅子の上で肩を震わせた。

 江口は、彼女の方へ一瞬だけ視線を向けた。

 水口の言葉は、年齢よりも幼く、むき出しだった。

 誰にも認められない。

 自分だけが見られていない。

 あいつらばかりが有名になる。

 だから、自分も画面の中心に立ちたい。

 そのためなら、誰かを椅子に縛ってもいい。

 誰かの家族が泣いてもいい。

『一方で、水口容疑者は、自身の罪について、「俺の家族が泣く? どうせもう泣いてる」「泣いてるし、もう捨てられてる」などと話しているということで、警視庁は供述の裏付けと、背後にいる人物の特定を急いでいます』

 背後にいる人物。

 その言葉が、職員室に落ちた。

 江口のスマートフォンには、まだ白い文字が表示されている。

 次のご案内対象

 江口桜次郎

 水口は捕まった。

 だが、水口ではない誰かが、今もこちらを見ている。

 水口が作ったものまでは捕まっていない。

 そのことを、江口はこの時まだ知らなかった。

 江口は立ち上がり、真壁彰へ電話をかけた。

 通話はすぐに繋がった。

『江口先生か』

「はい。来ました」

『見た。こちらにも通知が転送された。お前を警察施設へ移す』

「早いですね」

『冗談を言うな』

「まだ言ってません」

『言いそうだった』

 真壁の声には、怒りが混じっていた。

 江口は職員室の窓の外を見た。校庭は暗い。体育館の窓だけが白く光っている。まだ何人かの生徒が校内に残っている。教室にも、保健室にも、相談室にも。

 《WAIT》に登録してしまった生徒。

 自分のせいで誰かが死ぬかもしれないと思っている生徒。

 すでに泣き疲れて、声も出なくなった生徒。

 その子たちを置いていく。

 想像しただけで、胸の奥が冷えた。

「真壁さん」

『何だ』

「学校に残ります」

 電話の向こうが、一瞬静かになった。

『却下だ』

「早いですね」

『当然だ。対象者を安全圏に移す。これは基本だ』

「分かります」

『分かるなら従え』

「でも、校内にまだ登録した生徒がいます」

『学校には警察官を置く。教師もいる。お前である必要はない』

「あります」

『ない』

「あります」

 江口は自分でも驚くほど静かに言った。

「死にたいって書いた子を置いて、先生だけ安全な場所に行くの、それはちょっと、職員会議で説明が難しいですね」

『職員会議で説明する前に死ぬぞ』

「死なないように努力します」

『努力で殺人予告を避けられるなら、警察はいらない』

「そうですね」

『江口』

 真壁の声がさらに低くなった。

『これは頼みじゃない。指示だ』

 江口は目を伏せた。

 真壁の言っていることは正しい。

 警察官として、彼は当然のことを言っている。

 だが、正しいことだけでは動けない場面がある。

 江口はそのことを、今日一日で嫌というほど見た。

「真壁さん」

『何だ』

「生徒が、今ここで泣いてます」

 電話の向こうで、真壁が黙る。

「先生に死んでほしいわけじゃなかったって。叱られて、その時だけ消えたくなったって。あの子、たぶん今、僕が学校を出たら、自分のせいで先生が逃げたと思います」

『それは違う』

「違います。でも、あの子はそう思います」

 江口は沙耶を見た。

 五十嵐に付き添われ、水を握っている。

 手はまだ震えている。

「それに、彼女だけじゃない。美咲も、莉央も、安未果も、他の子もいます。今この学校で、大人が一人ずついなくなったら、子どもたちは自分の言葉が本当に人を消すんだと思う」

『だから警察がいる』

「はい。だから警察にもいてほしいです。僕もいます」

 真壁は深く息を吐いた。

『二階堂は搬送中だ』

 江口の指が止まった。

『意識は戻っていない。重症だ』

「……そうですか」

『生きている。だが、まだ喋れない。だから俺が代わりに言う。学校を出ろ』

 江口は目を閉じた。

 二階堂なら、何と言っただろう。

 きっと、まず悪態をつく。

 それから、冗談みたいな声で核心を突く。

 お前が死んだら、生徒は一生、自分のせいだと思う。

 たぶん、そう言う。

 それは分かっている。

 分かっていても、江口はまだ、職員室の外に広がる校舎を見ていた。

『江口。聞いているか』

「はい」

『二階堂が喋れたら、たぶんこう言う。お前が死んだら、犯人の文章が完成する。教師が生徒を追い詰めた、という見出しになる』

「分かってます」

『分かっているなら出ろ』

「真壁さん」

『何だ』

「今、外へ出る方が危険な可能性はありませんか」

 真壁が黙った。

 江口は続けた。

「犯人は、僕のスマホに直接通知を出しました。学校の連絡網や端末情報に触れている可能性があります。水口の供述では、プログラミング能力を買われたと言っていました。水口が作った何かを、本物のご案内係がまだ使っている可能性もある」

『……続けろ』

「僕を警察施設へ移すルートが漏れたら、移動中の方が危ない。校外に出た瞬間を狙われる可能性もあります。学校には今、警察官も教師もいます。出入口も把握できている。なら、ここを保護区域にした方が制御しやすいかもしれません」

 真壁は返事をしなかった。

 江口は、自分がかなり危うい理屈を言っていることも分かっていた。

 学校に残りたい感情を、理屈で包んでいる部分もある。

 だが、それでも完全な無茶ではない。

 少なくとも、真壁が検討する余地はあるはずだった。

 やがて、真壁が言った。

『移送は一度保留する』

 江口は息を吐いた。

『勘違いするな。許可じゃない。校内を一時保護区域にする。お前は一人になるな。窓際に立つな。外へ出るな。廊下にも勝手に出るな。スマホは警察に渡せ。校内移動は警察官二名以上をつける。指示を一つでも破ったら、担いででも出す』

「分かりました」

『本当に分かっているか』

「努力します」

『努力じゃない』

「守ります」

『よし』

 真壁の声が少しだけ低く沈んだ。

『江口』

「はい」

『死ぬな』

 江口はスマートフォンを握りしめた。

「それは、出席確認項目に入れておきます」

『ふざけるな』

「かなり真面目です」

『……二階堂が起きたら、本人に言え』

「はい」

『犯人は、見ている。お前が何を選ぶかも、見ている』

「分かりました」

『なら、つまらない選択をしろ』

「つまらない選択?」

『死なないやつだ』

 そこで通話は切れた。

 江口は、しばらくスマートフォンを見ていた。

 つまらない選択。

 犯人が欲しがっているのは、派手な絵だ。

 泣き叫ぶ生徒。

 逃げる教師。

 警察の失態。

 死に向かうカウントダウン。

 見出しになる瞬間。

 なら、つまらない選択をしなければならない。

 死なない。

 見世物にならない。

 生徒を犯人にしない。

 江口はスマートフォンを警察官に預けた。

「解析をお願いします。画面はそのままで」

 警察官が頷く。

「校長先生」

 校長が顔を上げる。

「はい」

「全校生徒の確認を続けます。残っている生徒は、体育館ではなく各教室に分けてください。大人数で一か所に集めると、騒ぎが広がります」

「しかし、江口先生は警察へ」

「移送は一度保留になりました」

 職員室が静まり返った。

 校長は困惑し、教頭は口を開けかけ、五十嵐は黙って江口を見ている。

 江口は続けた。

「ただし、一人にはなりません。警察官についてもらいます。校内の移動も複数で。窓際には立たない。外には出ない。スマホは警察に解析してもらう。できる対策は全部やります」

「でも、命が」

「はい。なので、死なないようにします」

 その言い方に、誰も笑わなかった。

 江口自身も笑わなかった。

「相沢沙耶は責めないでください。登録した生徒も探し出して叱らないでください。今やることは、誰が書いたかを責めることじゃなくて、誰がまだここにいるかを確認することです」

 五十嵐が頷いた。

「出席確認ですね」

「はい」

 江口は職員室の放送マイクへ目を向けた。

「もう一度、校内放送をします」

 教頭が顔をこわばらせた。

「また犯人に聞かれるかもしれません」

「聞かれていると思って話します」

 江口はマイクの前に立った。

 スイッチを入れる。

 校内に、短いノイズが流れた。

『生徒の皆さん。江口です』

 廊下のざわめきが少しずつ止まっていく。

『さっき、僕のスマートフォンにも《WAIT》の通知が来ました。たぶん、もう知っている人もいると思います』

 職員室の何人かが息を呑んだ。

 江口は続けた。

『まず、僕はまだ生きています。なので、勝手に追悼しないでください。花もいりません。提出物のほうが欲しいです』

 どこか遠くの教室から、小さなどよめきが聞こえた。

『それから、僕の名前を書いた人を探さないこと。責めないこと。からかわないこと。犯人扱いしないこと』

 江口は一度、息を吸った。

『死にたいと思ったことは、罪ではありません。誰かの名前を書いてしまったことも、ここから先、先生たちと一緒に扱います。一人で抱えないこと』

 声が、少しだけ震えた。

 江口はマイクの横に置いた出席簿を見た。

『僕は、今から各クラスを回ります。全員の顔を見て、返事を聞きます。今日の授業はもうありません。代わりに、出席確認をします』

 職員室で、五十嵐が静かに江口を見ていた。

『返事ができる人は、返事をしてください。できない人は、手を上げてください。それも難しい人は、隣の人が先生に教えてください』

 江口は、最後に言った。

『難しいことは考えなくていいです。呼ばれたら、返事をしてください』

 マイクを切る。

 職員室は静かだった。

 その静けさは、さっきまでの恐怖とは少し違っていた。

 校長が小さく息を吐く。

「江口先生」

「はい」

「……警察の指示には、必ず従ってください」

「もちろんです。教師は基本的に、指示されたことを守る職業です」

 教頭が思わず言った。

「守らないことも多いですが」

「それは業務量の問題です」

 五十嵐が少しだけ笑った。

 その瞬間、職員室にほんのわずかに人間の温度が戻った。

     *

 午後七時四十分。

 江口は三年二組の教室に入った。

 廊下には警察官が二人。五十嵐が後ろにつき、養護教諭が別室対応をしている。校内の出入口には警察が配置され、校門にも数名が立っていた。

 教室の中は静かだった。

 いつもの騒がしさがない。

 机の上にスマートフォンを置いている生徒もいる。教師の指示で電源を切った者もいるが、完全に預けた者は少ない。自分の一部を手放すようで怖いのだろう。

 江口は教卓に出席簿を置いた。

「はい、三年二組。緊急特別出席確認を始めます」

 誰も笑わなかった。

 江口は教室を見回した。

「反応が薄いですね。先生、傷つきます」

 佐久間が小さく手を上げた。

「先生」

「どうした、雄介」

「本当に、大丈夫なんですか」

 大丈夫ではない。

 そう思った。

 だが、そのまま言うわけにはいかない。

 大丈夫と嘘をつくのも違う。

「大丈夫にするために、今けっこう大勢の大人が働いています」

「先生は?」

「僕も働いています。珍しく」

 数人が小さく笑った。

 江口はその笑いを拾いすぎないように、出席簿を開いた。

「春田」

「はい」

「大槻」

「はい」

 返事が続く。

 ひとつひとつの声が、いつもより大事に聞こえた。

 返事は生存確認だ。

 冗談ではなく、今夜だけは本当にそうだった。

「小野寺」

「はい」

 美咲の声は小さかったが、確かだった。

 江口は頷く。

「倉田」

「はい」

 莉央。

 声が少し震えている。

「桐谷」

「はい」

 安未果。

 莉央の隣に座っている。二人は目を合わせなかったが、机の下で手が触れているように見えた。

 江口は名前を呼び続けた。

 生徒たちは、ひとりずつ返事をした。

 だが、最後の列で、一人だけ返事が遅れた。

「相沢」

 沙耶は教室の後方に座っていた。五十嵐が少し離れて見守っている。

 沙耶は唇を開きかけ、声を出せずに俯いた。

 教室が静まる。

 誰かが何かを言う前に、江口は言った。

「手でもいいです」

 沙耶は、ゆっくり手を上げた。

 江口は出席簿に丸をつけた。

「はい、出席」

 沙耶は泣きそうな顔になった。

 周囲の生徒たちは何も言わなかった。

 その何も言わないことが、今は救いだった。

 江口は出席簿を閉じた。

「全員いますね」

 少しだけ、空気が緩んだ。

「じゃあ、今日はここまで。……と言いたいところですが、先生の死亡予定時刻までまだ少しあるので、みんなには重要な仕事があります」

 佐久間雄介が恐る恐る聞いた。

「何ですか」

「寝ないこと」

「それだけ?」

「それだけです。ただし、スマホを見て不安を増やすのはなし。隣の人が変な検索をしそうになったら止める。泣きそうな人がいたら、まわりの大人を呼ぶ。誰かがいなくなったらすぐ言う」

 江口は黒板に大きく書いた。

 いなくならない。

「今日の目標です」

 教室の全員が、その文字を見ていた。

 江口はチョークを置いた。

 その時、校内のスピーカーが鳴った。

 短いノイズ。

 江口は反射的に顔を上げた。

 放送室は使っていない。

 今、マイクを握っている教師はいない。

 廊下の警察官も異変に気づいたように動いた。

 スピーカーから、機械的な音が流れた。

 ピー、と高い電子音。

 続いて、加工された声。

『江口桜次郎先生』

 教室中の生徒が硬直した。

 江口は教卓の端を掴んだ。

 声は、前に電話で聞いたものと同じだった。

『ご案内の準備が整いました』

 女子生徒の一人が小さく悲鳴を上げた。

 廊下で無線の声が飛ぶ。

 警察官が走る音。

 五十嵐が教室の扉へ向かう。

 江口は生徒たちへ向き直った。

「全員、席を立たない」

 声は低く、強かった。

 今度は誰も笑わない。

 スピーカーの声が続いた。

『生徒の皆さん。先生を見送る準備をしてください』

「聞くな」

 江口は言った。

「全員、机の下を見る。顔を上げるな」

 何人かの生徒が従う。

 何人かは恐怖で動けない。

 沙耶が震えながら江口を見ていた。

 自分のせいだ。

 その目が、そう言っている。

 江口は沙耶へ向かって、はっきり言った。

「沙耶、違う」

 沙耶の目から涙がこぼれた。

 スピーカーから笑い声のようなノイズが流れた。

『校門を閉鎖しました』

 江口は窓の外を見た。

 校門の照明が赤く点滅している。

 普段は開いているはずの正門が、ゆっくりと閉まり始めていた。

 遠くで警察官の怒号が上がる。

『防犯システムを確認しています』

 教室の天井隅にある防犯カメラが、小さく動いた。

 江口の背筋を冷たいものが走る。

 水口は捕まった。

 だが、水口が作った侵入経路は残っているのかもしれない。

 あるいは、本物のご案内係は、最初からそれを使うつもりで水口を誘ったのかもしれない。

『ご案内対象を確認しました』

 黒板の横に設置された電子掲示板が、勝手に点灯した。

 黒い背景。

 白い文字。

 次のご案内対象

 江口桜次郎

 ご案内予定時刻

 二十一時

 その下に、カウントダウンが表示された。

 01:12:04

 01:12:03

 01:12:02

 生徒たちの息が、ひとつに固まった。

 江口は電子掲示板を見つめた。

 逃げるな、と犯人は言っている。

 見ろ、と犯人は言っている。

 怖がれ、泣け、責め合え、名前を呼べ。

 それが欲しいのだ。

 江口は、チョークを手に取った。

 電子掲示板の下、黒板の空いている場所に、もう一度大きく書いた。

 いなくならない。

 白い文字が、黒板に残った。

 電子掲示板の黒い画面とは違う。

 チョークの粉で書かれた、少し曲がった文字だった。

 江口は生徒たちへ向き直った。

「もう一度、出席確認をしましょう。声を出す。声を聴く。一人じゃないことを確認する。いいな?」

 スピーカーの声が止まった。

 犯人が見ているのかもしれない。

 聞いているのかもしれない。

 江口は、あえて普段の声に戻した。

「相沢」

 生徒たちは、動けなかった。

 江口はもう一度呼んだ。

「相沢」

 相沢が震える声で答えた。

「はい」

「石川」

「はい」

「大槻」

「はい」

 返事が、ひとつずつ戻ってきた。

 カウントダウンは進む。

 01:11:31

 01:11:30

 01:11:29

 江口は名前を呼び続けた。

 その声は、校内放送よりも小さかった。

 アプリの通知よりも弱かった。

 ネットのコメントよりも遅かった。

 それでも、この教室の中では、確かに届いていた。

 廊下の向こうで、また警報音が鳴った。

 校門が閉じる音がした。

 防火扉が作動する重い音が、校舎のどこかで響いた。

 そして再び、スピーカーから加工された声が流れた。

『江口桜次郎先生』

 江口は出席簿から顔を上げなかった。

『次のご案内まで、死んでお待ちください』

 カウントダウンは進む。

 教室の中で、沙耶が小さく手を上げた。

 江口は彼女を見た。

「先生」

 沙耶は泣きながら言った。

「先生……私は……私は……」

 江口は一瞬、言葉を失った。

 それから、出席簿にもう一度丸をつけた。

「うん、今、ここにいる」

 窓の外で、赤い警告灯が回っている。

 学校は閉じられた。

 そして江口桜次郎の名前は、今、犯人の物語の中心に置かれていた。


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