第六章 画面の中の死んでいない人間
人間は、死んでから救われることはない。
名誉が回復されることはある。
誤解が解けることはある。
誰かが泣き、誰かが悔やみ、誰かが花を供えることはある。
けれどそれは、死んだ人間のためというより、残された人間のための手続きだ。
だから九条雅紀は、死体を読むたびに思う。
間に合うなら、生きているうちに読まなければならない。
画面の中で、二階堂壮也は項垂れていた。
椅子に縛られ、配膳トレーで頭部を殴打され、腹部を殴られたあと、ほとんど動かない。
コメント欄では、すでに彼を死者として扱う言葉が流れ始めている。
死んだ。
終わった。
今のは無理。
二階堂きゅんが。
二階堂さん。
嘘でしょ。
警察何してんの。
ご冥福とか言うな。
まだ死んでないかもしれないだろ。
いや動いてない。
映像止めろ。
でも見ないと分からない。
見ている人間たちは、判断を急いでいた。
生きているか死んでいるか。
本物か偽物か。
助かるか助からないか。
そのどれも、画面越しに決められることではない。
九条は、後続車両の狭い座席でモニターを見続けていた。
車内端末には、配信映像がほぼリアルタイムで共有されている。隣には堀島岳斗が座り、医療バッグを膝に置いていた。二人とも、現場へ向かっている。映像だけで判断するには限界がある。二階堂を診るには、そこへ行くしかなかった。
真壁彰は、さらに前を走る先行車両にいた。
警視庁の対策室、先行車、後続車、突入班、そして学校にいる江口たちが、同じ配信と同じ無線に繋がっている。
それぞれの場所で、全員が画面の中の一人を見ていた。
九条はモニターから目を離さなかった。
呼吸。
胸郭のわずかな動き。
頸部の角度。
出血の流れ。
拘束による圧迫。
頭部打撲後の反応。
薬物による意識障害の可能性。
死体ではない。
まだ死体ではない。
その一点だけが、今の九条にとって唯一の事実だった。
「呼吸が浅い」
九条が言うと、無線越しに真壁の声が返った。
『場所は絞れている。墨川沿いの閉店済み宴会場。突入班が向かってる』
「何分で着く」
『最短で七分』
「長い」
『分かってる』
真壁の声は低かった。
警視庁の対策室では、誰も座っていなかった。大きなモニターに配信画面が映し出され、その周囲で捜査員たちが通信、解析、位置情報確認、周辺地図の照合を続けている。全員が動いているのに、画面の中の二階堂だけが動かない。
それが、ひどく不自然だった。
普段の二階堂は、黙っているだけで何かを企んでいるように見える男だった。軽口を言い、相手の言葉尻を拾い、場の空気を少しだけずらす。真壁が黙っていれば「怒ってんの?」と聞き、九条が所見を述べれば「今の人間語に翻訳して」と言う。
その男が、黙っている。
それだけで、周囲の温度が下がっていくようだった。
『真壁さん!』
対策室の捜査員が無線に割り込んだ。
『候補地、絞り込み完了です。墨川区千鳥町、旧「宴会処みかわ」。先ほど上がった閉店済み宴会場と、配信画面の非常口表示が一致しました。地下にカラオケ宴会場、閉店から三年。現在は賃貸募集停止中。管理会社へ確認中です』
「鍵は」
『管理会社が持っています。ただ、現場到着まで待つと遅れます』
「破る」
真壁は即答した。
「突入班に伝えろ。令状手続きは並行。人命優先だ」
『了解』
九条が車内端末の画面を指さした。
「カメラの位置が変わった」
全員がモニターを見る。
配信画面がわずかに揺れていた。仮面の配信者が、カメラを持ち直したらしい。背景が少し広く映る。二階堂の右側、壁の端に、汚れた非常口表示が見えた。古い緑色のプレート。現行品より縁が太く、白い矢印の形が少し違う。
その瞬間、別の声が共有回線に入った。
『その非常口表示、昭和末期から平成初期のものです』
スピーカー越しの声だった。
鳳恭介。
建築構造を専門とする准教授で、過去の事件で真壁たちに協力した男だ。真壁が連絡を入れた時、鳳は大学の研究室にいた。電話口で事情を聞くと、彼は「映像を送ってください」とだけ言い、三分後にはオンラインで対策室につながっていた。
画面の隅に、鳳の顔が表示されている。
相変わらず、整った顔に感情が薄い。
だが目だけが異様に鋭かった。
『この非常口表示は、現在の法規に合わせて更新されていない。つまり、長く営業していないか、消防点検が形骸化している建物です。候補の閉店宴会場と矛盾しません』
「構造は分かるか」
真壁が聞く。
『映像だけで断定はできません。ただ、二階堂さんの背後の梁を見てください』
鳳の声に合わせ、画像解析班が画面を拡大した。
天井近くに、太い梁が一本走っている。そこから配管が露出し、壁沿いに斜めに落ちている。
『一般的な居酒屋の内装ではありません。天井高が低い。梁と配管が客席側に露出している。元は倉庫、あるいは地下の機械室に近い空間を、後から宴会場に改装した可能性が高い』
「つまり」
『出入口は限られます。客用階段が一つ、従業員用または搬入口へ続く裏動線が一つ。防火扉が古ければ、外から開けにくいかもしれません』
「突入ルートを出せるか」
『今、候補建物の古い平面図を探しています』
鳳が淡々と言った。
『ただし、現場の改装状況によっては図面が当てになりません。特に閉店後、倉庫として使われた場合は内部の動線が塞がれている可能性があります』
「面倒だな」
『建物はいつも面倒です。人間より正直ですが、優しくはありません』
真壁は一瞬だけ、車内端末に映る鳳を見た。
その言い方に、妙な安心を覚えた。
この男は、事件の中でも建物を建物として読む。焦りや怒りに流されない。今はそれが必要だった。
その時、対策室の別の端末に、五十嵐理人の声が入った。
『真壁さん、江口先生から繋いでもらいました。映像、見ています』
「江口は」
『ちょっと今ダメそうです。代わりに僕が』
五十嵐は学校にいた。生徒対応の合間を縫って、配信映像の音声解析に協力している。理科教師であり、地質学に詳しい彼は、鳳とは別のものを見る。
建物ではなく、土地。
壁ではなく、空気。
映像ではなく、音。
「分かることは」
『二階堂さんの背後で、水が流れる音がします。一定ではありません。断続的です。排水ポンプか、古い地下排水設備の音に近いです』
五十嵐の声は柔らかい。
だが、いつもより少し早口だった。
『それと、床に落ちた配膳トレーの動きが気になります。さっき殴打のあと、トレーが床に跳ねてから、画面右側へ滑るように動きました。水平な床なら、あそこまで流れません。床がわずかに傾いている可能性があります』
「傾斜か」
『はい。地下で排水を考えた床なら、水を流すために勾配をつけます。しかも川沿いなら、雨量が増えた時の排水対策が古い建物ほど雑に残っています』
鳳が画面越しに頷いた。
『地下宴会場で床勾配があるなら、元は厨房か倉庫の可能性もあります』
五十嵐が続けた。
『湿度も高いと思います。二階堂さんの髪がさっきから少し張りついています。空調が生きていない地下。川沿い。閉店済みの宴会場。候補としてはかなり強いです』
正確な分析ではない。
だが、今は可能性を潰す時間ではなく、可能性に賭ける時間だった。
真壁は無線へ向かって言った。
「突入班、聞いたな。地下、床勾配あり、排水設備音あり。客用階段と裏動線の両方を押さえろ。犯人は配信を見ている。コメント欄も見ている可能性が高い。接近を悟らせるな」
『了解』
画面の中で、配信者は仮面をつけたまま、コメント欄へ向かって語っていた。
『警察は、まだ来ません』
加工された声が、嫌に楽しそうに響く。
『正義は遅い。発表文は遅い。助けてくださいという声に、彼らはいつも手続きで答える』
コメント欄が流れる。
場所特定された?
墨川?
旧みかわ?
いや言うな。
コメントで場所出すな。
犯人見てるぞ。
警察行ってる?
二階堂さん動いてない。
呼吸してる?
前の事件の法医学の先生、見てるなら何とかして。
あの広報の知り合いの先生も見てるの?
この事件、関係者多すぎる。
誰か止めて。
配信者は、そのコメントを見たのか、仮面の顔をわずかに傾けた。
『墨川、ですか』
対策室の空気が凍った。
真壁は低く言った。
「コメント欄を止めろ。場所推測を流すな」
『削除要請していますが、追いつきません』
「追いつかせろ」
配信者は笑うように肩を揺らした。
『皆さん、優秀ですね。警察より早い』
カメラが少し動く。
二階堂の顔が大きく映された。
額に血の筋。唇は乾き、頬は青白い。胸の動きは小さい。
『でも、少し遅い』
カウントダウンが映る。
00:15:02
数字は、容赦なく減っていた。
*
江口桜次郎は、職員室の端で息を殺していた。
端末には配信画面。
別のノートには、コメント欄から拾った地元情報が箇条書きで並んでいる。
旧みかわ。
墨川沿い。
地下宴会場。
昔カラオケ大会やってた。
ビールケースが残ってる。
非常口の緑のやつ古い。
近くに水門。
裏に細い搬入口。
江口はその文字を見ながら、吐き気に近いものをこらえていた。
自分は刑事ではない。
建築家でもない。
医者でもない。
できることは、コメントを拾うことくらいだ。
画面の向こうで、二階堂は縛られている。
高校時代、隣のコートで笑っていた男が。
体育館裏で缶ジュースを奢らせてきた男が。
試合に負けた夜、江口よりも悔しそうな顔をしていた男が。
今、見世物にされている。
「江口先生」
五十嵐が隣に来た。
「生徒たちは?」
「教室にいます。美咲さんと莉央さんは養護教諭が見ています。安未果さんも戻りました」
「よかった」
江口は短く言った。
「……すみませんでした」
「いえ、大丈夫ですか」
「だいぶマシに。それより二階堂の映像、生徒には?」
「完全には止められていません。でも、見た子には声をかけています。二階堂さんはまだ生きている、警察が動いている、見続けることが助けになるとは限らない、と」
「ありがとうございます」
「江口先生」
「はい」
「手、震えています」
江口は自分の手を見た。
確かに震えていた。
机の上のペン先が、小さくカタカタ鳴っている。
「職業病ですね。テスト採点前も震えます」
「それは違うと思います」
「理科教師は厳しいですね」
江口は笑おうとした。
だが、うまくいかなかった。
五十嵐は画面を見た。
「江口先生、これ」
「何ですか」
「コメント欄に、同じアカウントが何度か書いています」
五十嵐が指さした。
――旧みかわなら裏口から入れる。
――正面階段は錆びてるから危ない。
――裏の搬入口、昔バイトしてたから知ってる。
――警察、裏見ろ。
江口は画面を凝視した。
「地元民?」
「かもしれません。でも、同じ情報を繰り返し過ぎています」
「誘導?」
「可能性はあります」
江口は真壁へすぐに転送した。
『裏口情報、罠かもしれません。コメントで繰り返しているアカウントがあります』
数秒後、真壁から返信。
『受けた。突入班に共有する』
江口は息を吐いた。
その時、背後で小さな声がした。
「先生」
振り返ると、美咲が立っていた。
また教室を抜けてきたらしい。目元は赤い。だが、朝のようなパニックではない。何かを決めてしまったような顔だった。
「小野寺、教室に」
「私、見ました」
江口は言葉を止めた。
美咲はスマートフォンを握っていた。
「二階堂さんが殴られるところ。見ちゃいました。見ないほうがいいって分かってたのに、見ました」
江口は椅子から立ち上がった。
「見たことを責めるつもりはない」
「私、怖かったです。でも、コメント欄で『死んだ』っていっぱい流れて、それ見たら、もっと怖くなって」
「うん」
「死んだって、そんな簡単に言っていいんですか」
江口は答えられなかった。
その問いは、美咲自身にも向いているのだろう。
母親が死ぬかもしれない、と泣く自分。
安未果が死ぬかもしれない、と泣いた莉央。
二階堂が死んだ、とコメントする無数の他人。
どれも、死という言葉を口にしている。
だが、その重さは同じではない。
「よくない」
江口は言った。
「でも、人は怖いと、先に言葉を置きたくなる。死んだって言えば、これ以上怖がらなくて済むと思うのかもしれない」
「済まないです」
「うん。済まない」
美咲は涙を落とした。
「私、お母さんの名前を書きました」
「うん」
「死んでほしくなかったのに」
「うん」
「でも、書きました」
江口は頷いた。
「小野寺。書いたことは消えない。でも、それで全部が決まるわけじゃない」
「本当ですか」
「本当。今、大人たちが必死で悪あがきしてる。かなり格好悪く」
美咲は少しだけ顔を上げた。
「格好悪いんですか」
「格好いい大人は、だいたい映画の中にしかいません。現実の大人は、電話に出たり、走ったり、間違えたり、怒られたり、汗をかいたりします」
江口は画面を見た。
「でも、格好悪くても間に合えば勝ちです」
美咲は画面を見ようとした。
江口は、その前に端末を伏せた。
「ここから先は、先生が見ます」
「でも」
「君は、安未果と莉央と、お母さんのところに行ってください。二人が変な検索をしないように、お母さんが一人で思い悩まないように見張る係です」
「私が?」
「重要任務です。先生よりスマホ操作に強いでしょう」
美咲は涙を拭った。
「分かりました」
その背中を見送りながら、江口は思った。
子どもたちを見せ物にしてはいけない。
同時に、見てしまった子どもを責めてもいけない。
犯人は、そこを突いてくる。
見るなと言われたものほど、人は見る。
見たあとで、自分を責める。
その罪悪感まで、犯人は材料にする。
江口は端末を戻した。
画面の中の二階堂は、まだ動かない。
カウントダウン。
00:11:48
江口は唇を噛み、低く呟いた。
「壮也、まだ寝るなよ」
*
墨川沿いの旧宴会場は、川に背を向けるように建っていた。
地上二階、地下一階。
一階はかつて居酒屋、二階は座敷宴会場、地下はカラオケ付きの大広間だったという。閉店後はしばらく倉庫として使われたが、管理会社が変わってからはほとんど放置されていた。
突入班が現場へ到着した時、周囲はすでに暗かった。
川沿いの道は細く、街灯も少ない。水面は黒く、橋の照明だけがゆらゆらと揺れている。建物の看板は外されていたが、壁には古い留め具の跡が残っている。
正面入口はシャッターが下りている。
裏手には搬入口。
そして、川側へ抜ける非常階段。
真壁は現場へ向かう車内で無線を聞いていた。
『正面シャッター、施錠。破壊に時間がかかります』
『裏搬入口、半開きです。ただし内側に障害物あり』
『川側非常階段、錆びています。使用可能か不明』
罠かもしれない。
だが待てない。
「裏搬入口から一班。非常階段を二班が確認。正面は破壊準備だけ進めろ。犯人が逃げる可能性がある。周辺を固めろ」
『了解』
真壁は現場まで残り二分の地点にいた。
間に合わないかもしれない。
その苛立ちを、喉の奥で噛み殺した。
無線の向こうで、突入班の呼吸が聞こえる。
『搬入口、障害物を除去します』
金属が擦れる音。
何かが倒れる音。
『通路確保。内部、暗いです』
「音を立てすぎるな」
『了解』
真壁は車の窓の外を見た。
川沿いの道が近づいている。赤色灯は消してある。サイレンも鳴らしていない。
犯人は配信を見ている。
コメント欄も見ている。
警察車両の接近情報が一つでも投稿されれば、二階堂の命が縮む。
『地下への階段を発見』
突入班の声がした。
『下から音がします。声です』
真壁は身を乗り出した。
「配信音か」
『不明。加工された声のようなものが聞こえます』
カウントダウンは、対策室から共有されている。
00:07:03
七分。
真壁は車が止まる前にドアへ手をかけた。
「止まれ」
車が完全に停止するより早く、真壁は外へ出た。
湿った川風が頬を叩いた。
建物の前には、すでに数人の捜査員が展開している。
真壁は拳銃を確認し、裏口へ向かった。
その時、無線が鳴った。
『犯人、コメント欄を見ています。警察接近に気づいた可能性』
「なぜだ」
『配信で言いました。“そろそろ足音が聞こえます”と』
真壁は歯を食いしばった。
「突入を早める」
『しかし二階堂さんが――』
「待てば殺される」
真壁は地下へ続く狭い階段を下りた。
湿気が強い。
壁が冷たい。
古い酒と埃とカビの匂い。
遠くで機械音が唸っている。
階段を下りるほど、加工された声がはっきり聞こえた。
『皆さん、警察が近づいているようです』
配信者の声。
『さすがですね。コメント欄の皆さんのほうが、警察より早く教えてくれる』
真壁は足を止めなかった。
地下通路の先に、防火扉がある。古い鉄扉。内側から何かで塞がれているようだった。
突入班の一人が、小声で言った。
「内側にチェーンか、家具です」
「破る」
「音が出ます」
「出せ」
真壁は扉の向こうを睨んだ。
画面越しではない。
ここから先は、現実だ。
その時、扉の向こうで声が変わった。
『では、予定を早めます』
真壁の背筋に、冷たいものが走った。
対策室からの映像音声が、無線に重なる。
『ほら、ほらほら』
加工された声が、初めて明確に弾んだ。
『あんまりもたもたしてると、ご案内の前に君たちのメガホンが壊れますよ?』
メガホン。
警察広報。
二階堂壮也。
犯人は、二階堂を人間としてではなく、警察の声として見ている。
真壁は叫んだ。
「やめろ!」
画面の向こうで、配信者が二階堂の背後へ回った。
床に転がっていた、折れたマイクスタンドの支柱を拾い上げる。
カラオケ宴会場に残されていたものだろう。黒い塗装が剥がれ、芯の金属が覗いている。さっきの配膳トレーとは違う。軽い音ではない。手に持っただけで、重みが分かる。
『警察の言葉は、壊れました』
配信者は支柱を振り上げた。
『次は、身体です』
真壁が扉へ向かって駆け出した。
「破れ!」
だが、その声より早く、支柱が振り下ろされた。
鈍い音。
一度。
二階堂の身体が、椅子ごと大きく傾く。
コメント欄が爆発した。
うわあああああああ。
やめろおおおおおおお。
今のは本当に無理。
音が違う。
やめろ。
死んだ。
殺した。
警察早く。
早く。
早く。
配信者はさらに興奮したように息を荒げた。
『ほら、まだ来ない』
二度目。
今度は、椅子の背に当たったのか、木と金属が割れるような音が響いた。二階堂の頭が揺れ、画面の端へ半分消える。胸の動きは、もう画面越しには分からなかった。
対策室の誰かが叫んだ。
『真壁さん、呼吸が――』
「扉を破れ!」
真壁が怒鳴った。
合図。
一撃目。
金属音。
二撃目。
扉が歪む。
三撃目。
内側の何かが外れた。
扉が開く。
同時に、強い照明が目に入った。
*
配信画面が大きく揺れた。
視聴者は最初、それを演出だと思った。
コメント欄に「来た?」という文字が流れる。
続いて、「警察?」「突入?」「音した」「やばい」「逃げろじゃない助けろ」と加速する。
仮面の配信者が振り返った。
『まだ早い』
その声に、初めて明確な焦りが混じった。
画面の中で、二階堂は椅子に縛られたまま動かない。
カウントダウンは続く。
00:05:48
真壁たちは、地下の大広間へ踏み込んだ。
そこは、確かに居酒屋ではなかった。
低い天井。
露出した梁。
剥がれかけた壁紙。
隅に積まれたビールケース。
動かない冷蔵ケース。
湿ったコンクリート床。
古いカラオケモニター。
床に転がった配膳トレー。
そして中央に、椅子に縛られた二階堂。
その足元には、折れたマイクスタンドの支柱が落ちていた。
仮面の配信者は、二階堂の背後にいた。
右手には小型カメラ。
左手には、コードのようなもの。
真壁は拳銃を向けた。
「警察だ。動くな」
配信者は一瞬、固まった。
それから、笑った。
『間に合いましたね』
「手を上げろ」
『でも、配信は止まりません』
配信者が左手を上げた。
手には、スイッチのようなものが握られている。
「捨てろ」
『押したらどうなると思います?』
真壁は視線を動かした。
二階堂の椅子の下。
床に伸びるコード。
小型のバッテリー。
何かの装置。
爆発物か。
電流か。
煙か。
フェイクか。
犯人は、こちらに迷わせるためにそれを見せている。
真壁は撃てない。
二階堂が近すぎる。
配信者は仮面の奥で息を荒くしていた。
『警察が止めるところまで、見せたかったんです』
「何?」
『ここで止められて、僕は完成する』
真壁は眉をひそめた。
僕。
加工された声の下に、素の言葉が漏れた。
配信者は続けた。
『でも、まだ主役じゃない』
「何を言っている」
『今日は前座です』
その瞬間、配信者はカメラを床へ投げた。
映像がぐるりと回転し、床と天井が交互に映る。
同時に、白い煙が噴き出した。
「煙!」
「確保!」
突入班が動く。
床の装置から出ているのは白煙だけだった。火薬臭はない。爆発物ではない。
「発煙装置! 爆発物反応なし!」
配信者は煙の中を逃げようとした。
だが、真壁はそれを許さなかった。
「逃がすな!」
捜査員二人が左右から回り込む。
仮面の配信者は裏動線へ向かって走った。だが、そこにはすでに別班が入っていた。コメント欄に流れた裏口情報が罠かもしれないと見て、真壁が念のため人を回していたのだ。
「止まれ!」
配信者はなおも走った。
次の瞬間、真壁が距離を詰め、肩からぶつかるようにして床へ倒した。
仮面が外れた。
床に転がり、白い無表情の顔がこちらを向く。
その下から現れたのは、まだ若い男だった。
痩せた頬。
乱れた髪。
汗で張りついた前髪。
恐怖と興奮が混じった目。
真壁は男の腕を背中に回し、手錠をかけた。
「公務執行妨害、逮捕監禁、傷害、殺人未遂の現行犯で逮捕する」
男は床に押さえつけられながら、笑っていた。
「違う」
「黙れ」
「違うんだよ。僕じゃない」
真壁は手錠を締めた。
「何が違う」
男は煙の中で、喉を鳴らすように笑った。
「僕は、ご案内係じゃない」
真壁の動きが止まった。
男は言った。
「僕は、呼ばれただけだ」
その声は、もう加工されていなかった。
若い男の、震えた声だった。
「本物は、見てる」
真壁は男の顔を床へ押しつけた。
「名前は」
男は笑った。
「水口」
「下の名前」
「水口真奈人」
「年齢」
「二十一」
「職業は」
水口真奈人は、少しだけ黙った。
そして、笑った。
「無職」
真壁は奥歯を噛んだ。
水口真奈人。
二十一歳。
無職。
便乗犯。
模倣犯。
だが、二階堂を拉致し、殴り、配信した男。
真壁は水口を捜査員に引き渡すと、すぐに二階堂へ駆け寄った。
「二階堂!」
返事はない。
ロープを切る。
胸の拘束を外す。
手首の結束を切る。
二階堂の身体が前に崩れた。
真壁が受け止める。
軽い。
いつもの軽口を含んだ重さが、今はない。
ただ、意識のない人間の重さだった。
「九条!」
真壁は叫んだ。
九条はすでに二階堂の横に膝をついていた。
後続車両から堀島とともに駆け込んできたのだ。真壁はその足音に気づかなかった。
九条は二階堂の頸動脈に指を当て、次に胸の動きを見る。
その時間が、異様に長く感じられた。
「……脈あり」
九条が言った。
真壁は息を吸った。
「呼吸は」
「浅い。かなり弱い」
「頭は」
「出血は多くない。だが意識障害が強い。薬物の可能性。拘束による循環障害。脱水。二度目の打撃による脳振盪、または頭蓋内損傷も否定できない」
「救急!」
「呼んでいる」
堀島岳斗が膝をついた。
医療バッグを肩にかけ、息を切らしている。九条が事前に手配し、後続車両で連れてきていた。額に汗を浮かべながらも、目は落ち着いていた。
「二階堂さんの状態は」
堀島が聞く。
九条が答える。
「意識なし。呼吸浅い。脈は触れる。頭部打撲。薬物使用疑い。拘束による循環障害。脱水」
「了解」
堀島は二階堂の瞼を開き、瞳孔を確認した。呼吸、脈、皮膚温、外傷。手際が速い。
「酸素。頸椎固定。搬送準備。意識レベル低いです。呼びかけ反応なし」
救急隊員が駆け込んでくる。
堀島は二階堂の気道を確保し、酸素マスクを当てた。
九条は腕の拘束痕と頭部を確認している。
真壁は二階堂の顔を見た。
「おい、二階堂」
返事はない。
「起きろ」
返事はない。
「二階堂」
返事はない。
いつもの軽口は返ってこない。
死亡記事の冗談もない。
主語が大きい、という悪態もない。
ただ、酸素マスクの内側で、かすかに曇る呼気だけがあった。
堀島が低く言った。
「搬送します。重症です。頭部外傷と薬物の両方を見ます」
「意識は」
「戻っていません」
真壁は拳を握った。
生きている。
だが、戻ってこない。
その事実は、救出の安堵を半分だけ奪った。
水口真奈人は、床に押さえつけられたまま、こちらを見ていた。
そして、笑った。
「ねえ」
真壁は振り返った。
水口は、子どものような顔で言った。
「見てた?」
「誰が」
「本物」
真壁は水口の胸ぐらを掴んだ。
「本物とは誰だ」
「知らない」
「ふざけるな」
「知らないんだって。本当に。僕は、送られてきたんだ。場所も、台本も、素材も」
「素材?」
真壁の声が低くなる。
「二階堂さんのこと?」
水口は笑った。
「だって、映えるじゃん」
真壁の拳が動きそうになった。
だが、止めた。
殴れば、負ける。
この男は、それも見たがっている。
「連れて行け」
捜査員が水口を立たせる。
水口はまだ笑っていた。
「僕を捕まえても、終わらないよ」
真壁は答えなかった。
そんなことは、分かっている。
分かっているからこそ、腹の底が冷えていた。
*
配信は、数分後に停止された。
だが、すべては遅かった。
二階堂が殴られる映像。
項垂れたまま動かない映像。
真壁たちが突入する直前の揺れた映像。
白い煙。
誰かの怒号。
床に倒れたカメラから映った、二階堂の靴先。
水口真奈人が床に押さえつけられる瞬間。
それらは切り抜かれ、保存され、加工され、拡散されていた。
二階堂死亡説。
二階堂意識不明説。
警察突入映像。
《WAIT》配信まとめ。
模倣犯逮捕。
水口真奈人とは何者か。
悪の広報とは何だったのか。
九条事件との関連。
次は誰か。
誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが考察し、誰かが面白がる。
事件は止まっていない。
むしろ、二階堂が救出され、水口真奈人が逮捕されたことで、さらに大きくなっていた。
救急車の中で、堀島は二階堂の状態を確認し続けていた。九条は同乗し、モニターの数値を見ている。二階堂の意識は戻らない。酸素マスクの内側が、かすかに曇る。その曇りだけが、彼がまだこちら側にいる証拠だった。
真壁は別車両で病院へ向かいながら、水口真奈人の身柄確保の報告を聞いていた。
水口は、現場で逮捕された。
二十一歳。無職。
過去に《WAIT》関連の投稿を大量に拡散していたアカウントの一つと接点がある。九条雅紀の指名手配事件当時にも、類似の投稿履歴が確認されつつある。
だが、水口は本物の「ご案内係」ではなかった。
少なくとも、柏木修一、長谷部慎也、森下裕介の殺害を一人で行える人物ではない。
真壁には、それが分かっていた。
水口は、演じていた。
誰かから渡された舞台に上がり、誰かから渡された台詞を読み、誰かから渡された獲物を殴った。
逮捕されたのは、舞台上の男だ。
舞台を作った人間は、まだ外にいる。
その事実だけが、二階堂が生きているという安堵を、静かに削っていた。
*
江口の学校に、二階堂救出の連絡が入ったのは午後七時十二分だった。
職員室でその知らせを聞いた江口は、椅子に座ったまま天井を見上げた。
五十嵐が横で小さく息を吐く。
「生きていたんですね」
「はい」
江口は目元を手で覆った。
「よかった」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。
職員室の奥では、美咲と莉央、安未果が並んで座っていた。三人とも、二階堂の詳しい状態は知らない。ただ、警察の人は助かった、とだけ伝えられている。
莉央が泣きながら安未果の手を握っていた。
安未果は困ったように、でも手を離さずにいる。
美咲はスマートフォンを膝の上に伏せたまま、じっと床を見ている。
誰も、完全には救われていない。
それでも、一人は死ななかった。
江口は立ち上がった。
「教室に伝えてきます」
五十嵐が頷いた。
「僕も行きます」
二人が職員室を出ようとした時、江口のスマートフォンが震えた。
真壁からかと思った。
違った。
触っていない。
開いてもいない。
それなのに、画面は勝手に黒くなっていた。
端末が乗っ取られたのか。
連絡網から番号が漏れたのか。
それとも、誰かが江口のスマートフォンを登録していたのか。
白い文字が浮かんでいる。
江口桜次郎先生。
江口は足を止めた。
五十嵐がその横で息を呑む。
画面の文字が、ゆっくりと増えていく。
あなたは、生徒を死にたい気持ちにさせました。
江口の背中を、冷たいものが降りていった。
続いて、次の文。
加害者候補を確認しました。
江口は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
職員室の奥で、電話が鳴っている。
廊下の向こうから、生徒の声がする。
校庭のスピーカーが、風でかすかに鳴っている。
画面の文字は、何も知らないように白かった。
次のご案内対象
江口桜次郎
理由:生徒を死にたい気持ちにさせたため
ご案内予定時刻:本日二十一時
五十嵐が低く言った。
「江口先生」
江口は、すぐには返事をしなかった。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
恐怖ではなかった。
怒りでもなかった。
最初に浮かんだのは、誰が書いたのか、だった。
どの生徒だ。
誰が、そんなに苦しかった。
自分は、何を言った。
いつ、どんな顔を見落とした。
江口は画面を握りしめた。
スマートフォンの中で、最後の一文が表示された。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
その瞬間、職員室の奥から女子生徒の悲鳴が上がった。
「違う!」
美咲でも、莉央でも、安未果でもなかった。
扉の前に立っていたのは、三年二組の相沢沙耶だった。
朝、江口が最初に名前を呼んだ生徒。
あの時は、いつも通りに「はい」と返事をしていた生徒。
顔面蒼白で、両手を震わせている。
「違うんです、先生」
相沢は泣き崩れた。
「先生に死んでほしいなんて、思ってない」
江口は、その生徒の名前を呼ぼうとした。
だが、声が出なかった。
午後七時十三分。
二階堂壮也が画面の中から引きずり出された直後、次の見出しはもう用意されていた。
今度の標的は、江口桜次郎だった。




