第四章 保護してくれ、保護を!
遡ること数時間。
電話は、一斉に鳴ると悲鳴に似る。
一台なら連絡。
二台なら忙しさ。
三台を超えると、それはもう音ではなくなる。人間の焦りが、機械の振動を借りて部屋に流れ込んでくる。
警視庁本部の一角に設けられた臨時対策室では、午後に入ってから電話が鳴り止まなくなっていた。
「はい、警視庁です。落ち着いてお話しください」
「対象者のお名前をお願いします」
「現在地は分かりますか」
「アプリの画面を閉じずに、そのまま保管してください」
「単独で迎えに行かないでください」
「警察官が到着するまで、鍵のかかる屋内で待機してください」
「いいえ、登録した方を責めないでください」
「繰り返します。登録した方を責めないでください」
同じ言葉が、何度も部屋の中を行き交う。
真壁彰は、ホワイトボードの前に立っていた。
ボードには、被害者と保護対象者の名前が書き込まれている。時間、場所、登録者との関係、アプリ表示、現在の安否。書き足される速度に、整理が追いついていない。
柏木修一。六十二歳。大学教授。死亡。
長谷部慎也。四十一歳。会社員。死亡。登録者は十四歳。
小野寺真由美。四十四歳。保護済み。
桐谷安未果。十四歳。保護済み。
その他、通報多数。
名前の横に、赤い丸や青い線が増えていく。
事件というより、感染症の広がりを見ているようだった。
「親父を保護してくれ!」
奥の電話口から、男の怒鳴り声が漏れた。
「昨日喧嘩したんだよ! 俺が死にたいって書いたら、親父の名前が出たんだ! 早くしろよ、殺されるだろ!」
別の机では、若い女性の声がスピーカー越しに震えていた。
『上司が対象になっています。お願いします。私、そんなつもりじゃなくて、仕事を辞めたいっていう意味で、死にたいって書いただけで……本当に殺してほしいわけじゃないんです』
少し離れた席では、老人が泣いていた。
『息子を守ってくれ。昨日、きつく言いすぎたんだ。仕事もしないで家にいるから、出て行けと言った。あいつが死にたいと書いたら、わしの名前が出た。わしはいい。わしはいいが、あいつを犯罪者にしないでくれ』
さらに別の電話。
『妻が殺されるかもしれないんです。いや、喧嘩はしました。しましたけど、夫婦喧嘩です。あいつ、俺の名前を書いたって泣いてて。警察で保護してください。お願いします』
言葉が、次々と運ばれてくる。
親。
子。
上司。
同僚。
元恋人。
友人。
教師。
部活のペア。
隣人。
死にたいという言葉の後ろには、誰かの影があった。
名前のある誰か。
名前のない誰か。
登録者自身にも分からないまま、苦しみの形として浮かび上がった誰か。
そして犯人は、その影に勝手な名前をつけている。
真壁はペンを握ったまま、しばらくボードを見ていた。
全員は守れない。
その事実は、現場の刑事なら誰でも知っている。警察には人数があり、車両があり、距離があり、優先順位がある。すべての通報へ同時に駆けつけることはできない。
だが今回は、その当たり前が許されない。
守れなかった一人が死ねば、次の日にはこう言われる。
警察はなぜ守らなかったのか。
警察は通報を軽視したのか。
アプリのほうが早かった。
警察より《WAIT》のほうが人を見ている。
そして、犯人はそれを待っている。
「真壁」
二階堂壮也が横に来た。
手にはタブレット。目元に疲れが浮かんでいる。だが、声だけはいつも通り軽く保とうとしていた。
「保護要請、午後だけで百六十二件」
「本物は」
「それが分かれば苦労しない。アプリ画面のスクショつきが四十九件。実機確認済みが十七件。明らかな悪戯が二十三件。残りは確認中」
「悪戯が二十三件もあるのか」
「少ないほうだと思うよ」
二階堂はタブレットを操作した。
「便乗投稿も増えてる。偽の《WAIT》画面を作って、嫌いな奴の名前を入れて回してる連中がいる。自分で作ったスクショで上司を脅した会社員。好きな配信者の名前を入れて炎上させようとした高校生。あと、元カノの名前を入れて『ご案内予定』って送った男」
「全部、脅迫で処理しろ」
「そうする。ただ、今は本物と偽物が混ざりすぎてる。本物の犯人からすれば、最高の霧だ」
真壁はボードを見た。
「本物の判別は」
「通知文の揺れが少ない。黒地に白。フォントが一定。表示される時刻の書き方に癖がある。あと、偽物はだいたい余計なことを書く。『地獄に落ちろ』とか『ざまあ』とか」
「本物は」
「丁寧だ」
二階堂の声が少し低くなった。
「そこが嫌なんだ。脅してるんじゃない。案内してる。怒ってるんじゃない。処理してる。誰かの苦しみを受け付けました、確認しました、ご案内します。役所みたいな顔をして人を殺してる」
真壁は黙って聞いた。
二階堂は続けた。
「ネットでは、それが刺さってる」
「どういう意味だ」
「感情的な復讐より、システムっぽく見えるほうが信じられるんだよ。人間が怒って殺したと言われるより、何かが判定して処理したと言われたほうが、正しい気がする」
「正しくない」
「分かってるよ。でも、世間は正しいかどうかより、分かりやすいかどうかで動く」
真壁はペンをボードに置いた。
「広報文は」
「出した。未確認のアプリや投稿を拡散しないこと。自殺をほのめかす言葉を見た場合は、冷やかしや責める言葉を送らないこと。必要に応じて警察、学校、相談窓口に繋ぐこと」
「反応は」
二階堂は乾いた笑いを漏らした。
「最悪」
タブレット画面に、投稿が並ぶ。
警察、綺麗事しか言ってない。
加害者を守るのかよ。
《WAIT》にビビってるだけじゃん。
死にたい人を救ってるのはどっち?
警察より処刑アプリのほうが仕事してる。
登録者を責めるなって、じゃあ被害者は責めていいの?
死にたいって言わせた奴が悪いんじゃないの?
二階堂は画面を消した。
「こうなるのは分かってたけど、実際に見ると胃に悪い」
「お前にも胃があったのか」
「広報課に配属された時に支給された。もう穴だらけだ」
真壁はわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。少しだけ、呼吸が戻っただけだった。
その時、対策室のドアが開いた。
九条雅紀が入ってきた。
白衣ではない。黒いジャケットに黒いシャツ。長身の身体に疲労が滲んでいるが、表情はいつもとほとんど変わらない。ただ、右手に持ったファイルの厚みだけが、死体の数を物語っていた。
「解剖結果か」
真壁が言うと、九条は頷いた。
「暫定だ」
二階堂が椅子を引いた。
「座るか」
「立ったままでいい」
「医者って本当に自分の身体を大事にしないよな」
「職業で一括りにしないで」
「お前個人の話だよ」
九条は無視して、ファイルを開いた。
「柏木修一。主たる死因は頭部外傷による急性硬膜下血腫。右後頭部の損傷は、転倒による可能性もあるが、単純な転倒としては角度が不自然だ。左前腕に把持痕。生前、誰かに掴まれた可能性が高い」
「殺人と見ていいか」
「法医学的には、第三者介在の可能性が高い。断定は現場証拠と合わせる必要がある」
二階堂が小さく言った。
「はい、出ました」
「何が」
「断定しない九条」
「断定できないものは断定しない」
「分かってるよ。分かってるから腹立つんだよ」
九条は次の資料へ移った。
「長谷部慎也。第二の被害者。死因は窒息。ただし、首に強い圧迫痕はない。口鼻部を塞がれた可能性が高い。抵抗痕は軽度。睡眠導入剤の成分が検出されている」
「薬で動けなくしてから殺した?」
「その可能性がある」
「薬は」
「一般的な市販薬ではないが、入手自体は難しくない成分も含まれている。詳細は毒物検査待ちだ」
九条は二枚の資料を並べた。
「二人とも死因が違う」
真壁は眉を寄せた。
「共通点は」
「殺害手段は粗い。だが現場演出は整っている」
九条はファイルを閉じた。
「犯人が凝っているのは、死因ではない。見出しだ」
その言葉が、対策室に落ちた。
真壁はボードを見た。
柏木。長谷部。
大学教授。会社員。
死因は違う。
場所も違う。
登録者との関係も違う。
だが、どの現場にも同じものがある。
スマートフォンの黒い画面。
白い文字。
被害者が“誰かを死にたい気持ちにさせた”という物語。
二階堂が言った。
「殺し方より、サムネか」
「サムネ?」
九条が聞き返す。
「動画サイトの一覧に出る画像だよ。クリックさせるための見出しと絵」
「死体をサムネにしているという意味なら、近い」
二階堂の顔から表情が消えた。
「最悪だな」
「同感だ」
九条がそう言うと、二階堂は少しだけ驚いた顔をした。
「今、同感って言った?」
「言った」
「珍しいな。録音しとけばよかった」
九条は真壁を見た。
「犯人は殺人の専門家ではない可能性が高い。法医学、医療、警察実務に精通しているとは考えにくい」
「だが、警察の動きは読んでいる」
「それはネット上の情報で補える。警察車両、規制線、報道発表、現場周辺の投稿。今は誰でも断片的な情報を集められる」
二階堂が険しい声で言った。
「しかも、みんな親切に教えてくれる」
画面には、現場周辺の投稿が流れていた。
近所に警察めっちゃいる。
たぶん《WAIT》案件。
救急車じゃなくて鑑識っぽい車来た。
現場ここじゃね?
先生たちがバタバタしてる。
うちの学校でも登録者出たっぽい。
真壁はその画面を見て、舌打ちした。
「犯人に捜査情報を渡しているようなものだ」
「渡してるんだよ。善意も悪意も暇つぶしも、全部まとめて」
二階堂はタブレットを置いた。
「今回の犯人、たぶんそれを読むのがうまい。自分で全部調べてるわけじゃない。人が勝手に差し出した情報を拾って、物語に組み込んでる」
真壁は言った。
「だから標的を変えられるのか」
江口の学校で起きたこと。
美咲の母親は保護された。安未果も保護された。
だが、安未果のスマートフォンには、こう表示されていた。
ご案内対象は、変更されました。
それは、犯人が計画通りに動いているのではなく、状況を見ながら“見栄えのする標的”へ切り替えていることを示していた。
九条が言った。
「登録者の苦しみを救うつもりなら、標的変更は不自然だ」
「そうだな」
「登録者本人にとって重要な人物ではなく、犯人にとって扱いやすい人物へ変えている」
二階堂が続けた。
「つまり犯人は、苦しみを選んでない。使ってるだけだ」
真壁はボードに新しい文字を書いた。
苦しみの利用。
ペン先が板に当たる音が、妙に大きく響いた。
九条が静かに言った。
「殺し方は素人に近い。だが、人を動かすことには慣れている」
真壁は振り返った。
「人を動かす?」
「登録者。標的。観客。警察。報道。犯人は直接手を下す前に、周囲の人間を動かしている。あるいは」
九条は一度、言葉を切った。
「実行している人間が一人ではない」
対策室の電話が、また一斉に鳴った。
*
午後三時を過ぎる頃には、警視庁への通報件数はさらに増えていた。
テレビ局も動き始めている。ネットニュースは、ほとんど確定していない情報を「関係者によると」という便利な布で包み、次々と記事にしていた。
《WAIT》とは何か。
加害者処刑アプリの正体。
死にたい人の代わりに“原因”を消す?
大学教授死亡事件との関連は。
警察はアプリの存在を把握していたのか。
二階堂は広報課の席に戻る暇もなく、対策室の隅でコメント文を打っていた。
未確認の情報に基づく投稿や拡散は、関係者の安全を脅かすおそれがあります。
現在、警察では複数の事案について関連性を含めて慎重に捜査しています。
特定の個人を「加害者」と断定する投稿はお控えください。
自殺をほのめかす発言を見かけた場合は、冷やかしや非難をせず、周囲の大人または相談機関へつないでください。
文面としては正しい。
正しいが、弱い。
二階堂は何度も読み返し、そのたびに嫌になった。
警察の言葉は、遅い。
慎重で、正確で、誤解を避けるように作られる。
その結果、強い言葉に負ける。
《WAIT》のほうが短い。
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
短く、冷たく、分かりやすい。
腹立たしいほど、見出しとして強い。
「二階堂さん」
若い広報担当の女性が声をかけた。
「この表現、どうしますか。『殺人事件との関連を捜査中』だと、アプリとの関連を認めたように取られます」
「『一連の事案』にしてください」
「曖昧すぎませんか」
「曖昧にするしかない。断定してないものを断定したら、犯人の広告になる」
女性は頷き、文面を直した。
二階堂は目を押さえた。
その時、スマートフォンが震えた。
江口からだった。
『ごめん、今いける?』
「いけないけど出た。どうした」
『学校、かなりまずい』
「生徒は?」
『教室待機。保護者対応。警察も来てくれてる。ただ、保護者からの電話が止まらない。うちの子が登録した、うちの子の名前が出た、先生の名前を書いたらどうなるのか、学校は責任を取れるのか、って』
二階堂は目を閉じた。
「だろうな」
『二階堂、こういう時、何を言えばいい?』
「俺に聞くな」
『広報の専門でしょ』
「専門だから分かる。何を言っても叩かれる」
『八方ふさがりだな』
「その通り」
少し沈黙があった。
電話の向こうで、江口の息が乱れている。
おそらく、学校中を動き回っているのだろう。
「桜次郎」
『ん』
「死にたいと書いた生徒を、絶対に晒すな。誰が登録したかをクラス内で探し始めたら終わる。標的になった人間の名前も広めるな。犯人が欲しいのはそこだ」
『ああ』
「あと、お前一人で抱えるな」
『努力する』
「努力じゃない。命令だ」
『医者みたいなこと言わないで』
「警察だ。――真面目に聞け」
『聞いてるよ』
江口の声が、少しだけ低くなった。
『二階堂』
「何」
『警視庁にいても、言葉で殺されることはあるだろう』
二階堂は返事をしなかった。
江口は、そういうところで時々妙に鋭い。
普段はふざけているくせに、人の傷の位置だけは外さない。
『あの九条先生の事件、まだ残ってるから』
二階堂の指が止まった。
『犯人が、あれに憧れている可能性があるって話、真壁さんから少し聞きました。九条先生が世間に殺されかけた事件を、面白がって見てた人間が、今回の犯人かもしれないって』
「まだ可能性だ」
『でも、あるんだろう』
二階堂は答えなかった。
ある。
《WAIT》の拡散アカウントの中には、九条雅紀の指名手配事件当時にも頻繁に投稿していたものがあった。アカウント名は違う。消されているものも多い。だが、言葉の癖が似ている。
九条雅紀、設定強すぎ。
こういう事件の中心にいる人間、羨ましい。
二階堂の広報文、うますぎる。
真壁って刑事、ドラマかよ。
俺もこういうふうに名前を呼ばれたい。
まだ一本の線にはなっていない。
だが、嫌な匂いはする。
「江口」
『ん』
「九条の名前を生徒の前で出すな」
『出さない』
「お前らの名前もだ。真壁、九条、俺、鳳、堀島。前の事件を知ってる連中が、また騒ぎ始めてる。お前まで対象にされたら面倒だ」
『もうされてね?』
「されてる」
『早いなあ』
「本当に嫌になるくらいな」
江口は笑わなかった。
『二階堂』
「何」
『死なないで』
「何だ急に」
『いや、何となく』
「切るぞ」
『ん。こっちはこっちでやるよ』
「何かあったらすぐ連絡しろ」
『お前もな』
通話が切れた。
二階堂はしばらくスマートフォンを見ていた。
死なないで。
江口の言葉が、妙に耳に残った。
馬鹿馬鹿しい。
警視庁の中にいる。周囲には刑事も警察官もいる。自分が狙われる理由はない。
いや、ある。
二階堂は自分でそれを否定できなかった。
警察の広報。
言葉を扱う人間。
九条事件で世間に名前が出た人間。
犯人が“事件の中心人物”に憧れているなら、自分は十分に素材になる。
素材。
その言葉に、自分で吐き気がした。
*
午後五時三十一分。
真壁は第三の死亡現場へ入った。
発見場所は、森下裕介が勤務していた中学校ではない。学校から少し離れた雑居ビルの屋上だった。
森下裕介。
三十五歳。区立中学校の国語教師。演劇部の顧問。
彼は、首にロープをかけられ、フェンスにもたれるように座らされていた。自殺に見せかけた形だったが、到着していた九条の初見では、絞まり方が不自然だった。身体の位置も整いすぎている。
屋上の床には、スマートフォンが置かれていた。
画面は黒。
白い文字。
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
その横には、紙が一枚。
印刷された文面は、これまでと同じだった。
違っていたのは、その下に小さな文字があったことだ。
保護できるものなら、保護してください。
森下裕介について、まだ分かっていることは多くなかった。
授業は厳しく、提出物にも細かい。生徒の間では「面倒くさい先生」と呼ばれていたらしい。匿名の学校掲示板には、森下に対する不満もいくつか残っていた。
けれど、懲戒歴はない。体罰の記録もない。
机の引き出しには、翌週返却予定の作文が入っていた。赤字は多かったが、最後にはどれも短い言葉が添えられていた。
もう一度読んでみよう。
ここは君の言葉で書ける。
真壁はその写真を見て、柏木修一のレポートを思い出した。
厳しさは、時に人を追い詰める。
だからといって、殺されていい理由にはならない。
犯人はその境界を、わざと踏み潰している。
森下裕介は、最初から名指しされていたわけではなかった。
午後に保護された別の標的の代わりに、犯人が選び直した可能性が高い。
同じ区内の中学校教師。
ネット上に多少の不満が残っている。
夕方まで一人で動いていた。
そして、殺せば物語になる。
それだけで、犯人には十分だった。
救っているのではない。
裁いているのでもない。
殺せそうで、映える人間を選んでいる。
「頸部圧迫による窒息の可能性が高い」
九条が背後で言った。
白衣の裾が、屋上の風にわずかに揺れている。
「ただし、索条痕の位置が安定していない。吊ったように見せかけているが、実際には別の場所で殺害、あるいは意識障害状態で姿勢を整えられた可能性がある」
「森下は自殺じゃない」
「その可能性が高い」
「また断定しないのか」
「断定は解剖後だ」
真壁はその一文をもう一度見た。
保護できるものなら、保護してください。
初めて、明確な怒りが腹の底に落ちた。
挑発だ。
犯人は警察を見ている。
警察が保護対象者を守ろうとしたことを知っている。
そのうえで、守れなかった別の人間を殺し、紙を残した。
見ている。
どこから。
真壁は屋上のフェンス越しに周囲を見た。
隣のビル。
向かいのマンション。
駐車場。
コンビニ。
歩道橋。
道路を挟んだビルの非常階段。
いくらでも視線はある。
鑑識員が作業を続ける中、真壁のスマートフォンが震えた。
二階堂からだ。
「何だ」
『真壁、今どこ』
「森下の現場だ」
『すぐ戻れる?』
「戻れる状況じゃない。何があった」
『《WAIT》の公式を名乗るアカウントが、新しい投稿をした』
「読み上げろ」
二階堂は一瞬黙った。
その沈黙だけで、真壁は嫌な予感がした。
『次の特別案内は、警察関係者です』
屋上の風が、急に冷たく感じられた。
「投稿時刻は」
『今から三分前』
「対象者名は」
『出てない。ただ、コメント欄がもう騒ぎになってる。誰だ、真壁か、九条か、二階堂かって』
「お前は今どこだ」
『本部だよ』
「本部のどこだ」
電話の向こうで、わずかに車の音がした。
『正確には、本部裏手の通用口の近く。記者クラブからの問い合わせで、資料を取りに広報課へ戻るところ』
「一人か」
『近くに警備はいるよ』
「一人になるな」
『江口にも言われた』
「なら聞け」
『聞いてるよ。聞いてるけど――』
そこで、声が途切れた。
真壁はスマートフォンを耳に押し当てた。
「二階堂?」
返事がない。
「二階堂」
ノイズだけが聞こえた。
次の瞬間、通話が切れた。
真壁はすぐにかけ直した。
呼び出し音は鳴らなかった。
電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるというアナウンスが流れた。
真壁は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
屋上にいた刑事が顔を上げる。
「真壁さん?」
「本部へ連絡。二階堂の現在地を確認しろ」
「二階堂さん?」
「すぐだ」
真壁は階段へ向かった。
走りながら、もう一度二階堂へ電話をかける。
繋がらない。
階段を降りる途中で、対策室から連絡が入った。
『二階堂警部補の位置情報、途切れています』
「最後の位置は」
『警視庁本部裏手、通用口付近です。ただ、十五分前から更新されていません』
「通用口の防犯カメラを確認しろ。本部内、本部周辺、駐車場、通用口、記者クラブ動線、全部だ」
『了解』
「通用口付近にいた警備員にも聞け。二階堂を見た者を探せ」
『了解しました』
真壁はビルの外へ出た。
空はすでに暗くなりかけていた。
街灯が点き始めている。
帰宅時間の人波が道路を流れている。
その全員が、無関係に見えた。
その全員が、何かを隠しているようにも見えた。
六分後、真壁のスマートフォンがまた震えた。
今度は江口だった。
『真壁さん、二階堂から変なメッセージ来てませんか』
「何?」
『俺のところに、二階堂のアカウントから一言だけ来ました』
「何と」
江口の声が震えていた。
『――悪い、ちょっとご案内されてくる』
真壁は立ち止まった。
それは二階堂の軽口に見える。
だが、二階堂なら絶対に送らない。
自分が危険な状況にある時ほど、あいつはもっと正確な情報を送る。
助けを呼ぶなら、場所か手がかりを残す。
冗談だけを送るような男ではない。
つまり、誰かが送った。
二階堂の端末から。
二階堂の言葉を真似て。
真壁は低く言った。
「江口先生、それ以上返信するな」
『はい』
「その画面を保存しろ。スクショを撮って、他には送るな。学校から動くな」
『二階堂は』
「探す」
『真壁さん』
「何だ」
『壮也を助けて』
真壁は、すぐには返事をしなかった。
警察官として、約束できる言葉ではない。
だが、友人としてなら、言うしかなかった。
「死なせない」
通話を切った直後だった。
真壁のスマートフォンに通知が入った。
差出人不明。
画像ファイルが一枚。
真壁は画面を開いた。
そこには、椅子に縛られた二階堂壮也が映っていた。
顔には殴られたような傷。
口元に血。
背後には古いビールケース。
薄汚れた壁。
安い照明。
画像の下に、白い文字が添えられていた。
警察広報による苦しみを確認しました。
ご案内対象:二階堂壮也。
次のご案内まで、あと三十分。
真壁は一瞬、息を忘れた。
それから、走り出した。
電話はまだ鳴り続けている。
対策室でも、学校でも、家庭でも、職場でも。
保護してくれ。
守ってくれ。
助けてくれ。
その声の中で、今度は二階堂壮也の名前が、次の見出しになろうとしていた。




