第三章 先生、安未果が死んじゃう!
噂は、授業より早く教室へ入ってくる。
教師が黒板に日付を書く前に、もう生徒たちは知っている。
職員会議で注意喚起の文面を整える前に、もう生徒たちは名前をつけている。
大人が「不確かな情報に惑わされないように」と言う頃には、子どもたちはその不確かな情報の中で笑い、怯え、試し、傷ついている。
江口桜次郎は、その速度を何度も見てきた。
芸能人の不倫。
近所の火事。
知らない学校のいじめ動画。
誰かの炎上。
誰かの訃報。
誰かの謝罪文。
どれも一時間目にはもう話題になっていて、二時間目には飽きられ、昼休みには別の話へ移っていく。けれど、その情報の中心にいる人間だけは、飽きることができない。
だから江口は、噂というものがあまり好きではなかった。
嫌い、と言い切るほど潔くもなかった。自分だって、職員室でニュースの話をする。生徒の間で何が流行っているのか、短い動画の音声で知ることもある。笑ってしまうこともある。よくできているな、と感心することもある。
だが、噂は時々、人を運ぶ。
本人が望んでいない場所へ。
本人が戻れない場所へ。
七月十日、金曜日。
朝の三年二組は、いつもよりざわついていた。
江口が教室に入った時、前の席の男子二人が、机の下でスマートフォンを見ていた。正確には、見ていないふりをしながら見ていた。教師という人種は、そういうものにだけ無駄に敏感である。
「はい、朝から違法営業してる携帯ショップ、閉店してください」
江口が言うと、男子の一人、佐久間がびくっと肩を跳ねさせた。
「見てません」
「見てないのに閉じる動きだけ速いな。忍者か」
「いや、時間見てただけです」
「今の時代、時計を見るのに両手の親指がそんなに動くんですね。先生、勉強になります」
教室に小さな笑いが起きた。
江口は出席簿を教卓に置き、黒板に日付を書いた。チョークがかすれ、白い粉が指につく。
「七月十日。金曜日。今日は全員が待ち望んだ小テストの日です」
教室がざわめいた。
「聞いてない!」
「先生、先週言いました?」
「言いました。言った記憶があります。記憶というものは時に都合よく改竄されますが、教師側の記憶だけ採用します」
「横暴だー」
「社会はだいたい横暴です」
江口はいつもの調子で言いながら、教室の空気を見ていた。
騒がしい。
だが、いつもの騒がしさとは少し違う。
笑い声の下に、妙な硬さがある。何人かの生徒が、こちらを見る前に隣の席を見る。誰かが何かを知っていて、誰かがそれを聞きたがっていて、誰かが怖がっている。
江口は出席を取り始めた。
「相沢」
「はい」
「石川」
「はい」
「大槻」
「はい」
返事はいつも通りだった。
ただ、一人だけ声が遅れた。
「小野寺」
「……はい」
小野寺美咲。
江口は名前の横に丸をつけながら、顔を上げた。美咲は窓際の後ろから二番目に座っている。長い髪を耳にかけ、机の上に両手を置いていた。視線はノートへ落ちているが、ノートには何も書かれていない。
江口は続けた。
「久保」
「はい」
「佐久間」
「はい。スマホ見てません」
「聞いてません」
また笑いが起きる。
美咲は笑わなかった。
江口は黒板に向き直った。
「じゃあ、小テストは冗談です」
教室が一気にざわめいた。
「は?」
「最悪!」
「寿命返して!」
「寿命を教師に請求するな。労災になる」
江口は黒板に「情報と責任」と書いた。
「今日は社会科らしく、情報の話をします。噂、投稿、拡散、責任。まあ、みんなが一番苦手で、一番得意なやつですね」
佐久間が手を挙げた。
「先生、《WAIT》の話ですか」
教室の空気が一瞬止まった。
江口はチョークを置いた。
やはり来たか、と思った。
「それを今から聞こうとしてたんですけどね。教師の授業展開を正確に予知しないでください。お互い気まずくなります」
何人かが笑った。
だが、美咲は顔を上げなかった。
「知ってる人」
江口が聞くと、半分以上の手が上がった。
知っている。
見た。
聞いた。
リンクが回ってきた。
検索した。
怖くて開いていない。
開いたけどすぐ閉じた。
友達が登録したらしい。
嘘でしょ。
本当らしいよ。
大学の先生が死んだんでしょ。
教室が一気に騒がしくなる。
江口は手を叩いた。
「はい、一回止まる」
声を荒げたわけではない。
それでも、生徒たちは静かになった。
「この手の話題は、知ってる量でマウントを取りたくなります。『俺、詳しいよ』『それ嘘だよ』『本当はこうらしいよ』。でも、今の段階で僕が言えることはひとつです」
江口は教室を見回した。
「未確認のサイトを開かない。入力しない。共有しない。スクショを回さない。あと、誰かの名前を面白半分で書かない」
「でも、先生」
前の席の女子、莉央が口を開いた。
「本当に、原因の人が死ぬんですか」
その声は、好奇心と恐怖の半分ずつだった。
江口は少しだけ間を置いた。
「分かりません」
「分かんないの?」
「先生は神でも警察でもアプリ開発者でもないので、分からないことは分からないと言います」
「でもニュースで」
「ニュースも、投稿も、先生も、全部間違うことがあります」
江口は黒板の「情報と責任」の下に、もう一つ書いた。
分からない時に、決めつけない。
「これを今日の結論にします。五十分授業だけど、もう結論が出ました。残り四十六分、どうしましょうか」
少し笑いが戻った。
江口はほっとしたように見せながら、教室の奥を見た。
美咲の顔色が悪い。
莉央もどこか落ち着かない。
その隣の席、本来なら安未果がいるはずの場所は空いていた。
江口は出席簿を確認した。
安未果は欠席ではない。
部活の合同朝練後に遅れると聞いていた。
その時点で江口は、彼女が朝練そのものに来ていないことを、まだ知らなかった。
江口の胸の奥に、細い針のようなものが刺さった。
*
二時間目の終わり、職員室では《WAIT》の話題が出ていた。
校長は教育委員会から届いた注意喚起のメールを読み上げた。
未確認の匿名アプリ、ウェブサイトへのアクセスを控えること。
児童生徒への指導を徹底すること。
「死にたい」等の発言があった場合は、担任、養護教諭、管理職、スクールカウンセラーへ速やかに共有すること。
保護者への連絡は慎重に行うこと。
警察からの照会があった場合は管理職対応とすること。
言葉は丁寧だった。
丁寧なぶんだけ、現場から遠かった。
江口は自分の机でマグカップを持ったまま、メール文面を眺めていた。コーヒーはすでに冷めている。近くの席では五十嵐理人が、理科準備室から持ってきた資料を整理していた。
五十嵐は二十七歳の理科教師で、江口より二歳若い。声が柔らかく、生徒からの人気もある。怒鳴らない、急かさない、説明が分かりやすい。江口から見ると、教師としての初期設定がかなり優秀だった。
「五十嵐先生」
江口が声をかけると、五十嵐は顔を上げた。
「はい」
「もし『死にたい理由を入力してください』って言われたら、何て書きます?」
五十嵐は少し考えた。
「金曜の午後に実験器具の数が合わない時、ですかね」
「リアルですね」
「江口先生は?」
「職員会議が延長した時」
「それは、みんな少し思ってます」
五十嵐は静かに笑った。
江口も笑ったが、すぐに表情を戻した。
「三年二組、ちょっと変なんですよ」
「《WAIT》ですか」
「たぶん。朝からざわついてます。小野寺美咲が明らかに顔色悪い。あと、莉央が安未果の席ばっかり見てる」
五十嵐は手を止めた。
「安未果さん、今日遅れてるんですか」
「遅刻って、出欠アプリには入ってます」
「昨日、莉央さんと揉めてました」
江口は五十嵐を見た。
「知ってるんですか」
「理科室の前で少し。バドミントン部のペアのことで。安未果さんがダブルスの組み替えを希望したとかで、莉央さんが泣いていました」
「それ、先生たちに共有されてましたっけ」
「部活内の話だと思って、顧問には伝えました。ただ、深刻ないじめという感じではなくて」
「まあ、中学生にとってはペア変更も世界の終わりですからね」
江口はそう言ってから、自分の言葉が嫌になった。
世界の終わり。
大人はそれを軽く使う。
だが子どもにとって、その瞬間だけは本当に終わりのように見えていることがある。
五十嵐が静かに言った。
「江口先生」
「はい」
「小野寺さん、朝、廊下でスマホを握りしめていました」
「いつですか」
「一時間目の前です。声はかけたんですが、大丈夫です、とだけ」
江口はマグカップを置いた。
「大丈夫って言う時、だいたい大丈夫じゃないですね」
「はい」
その時、職員室の扉が勢いよく開いた。
小野寺美咲が立っていた。
顔が真っ白だった。
呼吸が浅い。
目が赤い。
鞄も持たず、授業中の教科書も机に置いたまま、両手でスマートフォンを握っている。
職員室の教師たちが一斉に顔を上げた。
美咲は江口を見つけると、一直線に駆けてきた。
「先生」
声が裏返っていた。
江口は椅子から立ち上がった。
「小野寺、どうした」
「どうしよう」
「まず座ろう」
「どうしよう!」
美咲はスマートフォンを突き出した。
「お母さんが殺されてしまう!」
職員室の空気が凍った。
江口は、美咲の手からスマートフォンを受け取らなかった。
まず、美咲の両肩に軽く手を置いた。
「息。吸って。吐いて。先生を見る」
「無理、無理です。先生、どうしよう。私、そんなつもりじゃ」
「分かった。そんなつもりじゃないのは分かった。座ろう」
「でも、時間が」
「座ったほうが早く話せる。立ったままだと先生の腰が死ぬ」
美咲は泣きながら、少しだけ表情を崩した。
江口は近くの椅子を引いた。
「はい、座る。深呼吸。五十嵐先生、水お願いします」
五十嵐がすぐに動いた。
江口は美咲のスマートフォンの画面を見た。
黒い背景。
白い文字。
加害者候補を確認しました。
ご案内予定時刻:本日二十時三十分。
その下に、名前があった。
小野寺真由美。
美咲の母親だろう。
江口は指先が冷たくなるのを感じた。
だが、顔には出さない。
「小野寺。ゆっくりでいい。これ、いつ出た」
「さっき……二時間目が終わったら、画面が勝手に変わって」
「その前に、何を入力した」
美咲は唇を震わせた。
「昨日、お母さんと喧嘩して」
「うん」
「塾のことで。成績が下がったって怒られて。スマホばっかり見てるからだって。部屋に戻って、ムカついて、もう死にたいって思って」
「うん」
「《WAIT》の話、学校で聞いてて。嘘だと思って。どうせ嘘だし、誰にも見られないと思って」
「何を書いた」
「お母さんが嫌いって。もう家に帰りたくないって。お母さんがいるから死にたいって。でも、違うんです。違うんです、先生」
美咲は両手で顔を覆った。
「お母さんに死んでほしいわけじゃないんです。ただ、昨日は、本当に嫌だっただけで。朝も普通にご飯作ってくれて。私、何も言わないで出てきて。どうしよう、先生。お母さんが死んだら、私のせいだ」
江口はすぐに言わなかった。
あなたのせいじゃない。
大丈夫。
そんなことは起きない。
どれも必要な言葉だ。
だが、軽く言えば嘘になる。
江口は膝を曲げ、美咲と目の高さを合わせた。
「小野寺」
「はい」
「死にたいって思ったことを、今ここで先生は怒りません」
美咲が顔を上げた。
「でも」
「でも、これからやることはある。まず、お母さんに連絡する。学校から警察にも連絡する。お母さんを一人にしない。君はここにいる。勝手に帰らない。スマホは先生たちと一緒に確認する」
「お母さん、怒りますか」
「怒ると思う」
美咲の顔が崩れた。
「でも、それは生きてるからです。死んでたら怒れません」
美咲は声を殺して泣き始めた。
江口は軽く息を吐いた。
「大丈夫。先生が今から、全員まとめて欠席扱いにします。死亡予定も、親子喧嘩も、塾の説教も、今日は全部なしです」
美咲は泣きながら、意味が分からないという顔をした。
「先生、ふざけてますか」
「かなり真面目です。先生は真面目な時ほど、ふざけたことを言います。仕様です」
五十嵐が水の入った紙コップを持って戻ってきた。
「小野寺さん、少し飲めますか」
美咲は小さく頷いた。
江口は校長に目で合図した。
校長はすぐに教頭へ指示を出し、職員室の電話が動き始めた。保護者連絡、警察連絡、スクールカウンセラーの手配。大人たちが急に大人らしく動き始める。
その時だった。
職員室の外から、廊下を走る音がした。
ばたばたと、上履きが床を叩く。
江口は振り返った。
扉がまた開く。
今度は莉央だった。
顔をぐしゃぐしゃにして、息を切らしている。片手にはスマートフォン。もう片方の手で、制服の胸元を握りしめていた。
「江口先生!」
江口は反射的に立ち上がった。
「莉央、走るなって言いたいけど今は許す。どうした」
「安未果が」
莉央はそこで言葉を詰まらせた。
美咲が顔を上げる。
職員室の教師たちが、また動きを止める。
莉央はスマートフォンを差し出した。
「今、来たんです。安未果の名前が出て……先生、安未果が死んじゃう!」
江口は喉の奥が乾くのを感じた。
画面を見る。
黒い背景。
白い文字。
加害者候補を確認しました。
ご案内予定時刻:本日十八時十分。
名前。
桐谷安未果。
江口は画面から目を離した。
「莉央。入力した内容を話せるか」
「昨日、安未果と喧嘩して」
「部活のこと?」
莉央はびくっとした。
「どうして」
「先生たちも少し聞いてる」
「私、ペア解消したくなくて。でも安未果が、別の子と組みたいって言って。私が足引っ張ってるからだって。そうは言ってないけど、そういう意味で。私、もう嫌だって、死にたいって」
「《WAIT》に書いた?」
莉央は泣きながら頷いた。
「安未果のせいで死にたいって。でも、本当は違うんです。安未果に死んでほしいなんて思ってない。むしろ、安未果がいないと部活行けない。昨日も、本当は謝りたかった。でも、朝から安未果来てなくて、既読もつかなくて」
莉央は息を吸い込んだ。
「先生、お願い。安未果を助けて」
江口は何かを言おうとした。
だが、その前に美咲が椅子から立ち上がった。
「私も……私も、お母さんを」
声が震えていた。
美咲も莉央も、同じ顔をしていた。
誰かに死んでほしいわけではない。
ただ、その瞬間だけ苦しかった。
その苦しみが、自分の大事な人間の死亡予定に変わってしまった。
江口は二人を見た。
怒鳴るべき場面ではない。
説教をする場面でもない。
スマートフォンを取り上げて終わる話でもない。
子どもたちは、すでに十分すぎるほど罰を受けている。
「分かった」
江口は言った。
「二人とも、ここに座る。水飲む。勝手に動かない。泣いていい。ただし過呼吸は禁止。先生が対応できない」
莉央が泣きながら言った。
「禁止って言われても」
「そこは努力目標です」
江口は職員室の電話へ向かった。
まず安未果の担任へ連絡。
次に部活顧問。
次に校長。
そして警察。
受話器を持つ手が、ほんの少し震えていた。
江口はそれを自分で見て、腹が立った。
ここで震えるな。
生徒が見ている。
だが、身体は正直だった。
電話が繋がるまでの呼び出し音が、異様に長く感じられた。
*
学校から所轄への正式通報は、すでに入っていた。
真壁彰が江口本人から直接連絡を受けたのは、午前十一時二十六分だった。
警視庁内はすでに、二件目の死亡事件で騒然としていた。十四歳の登録者。被害者との関係。入力内容に個人名がなかったこと。犯人がどのように標的を選んだのか。捜査線は増え続けているのに、中心が見えない。
そこへ江口からの電話が入った。
「江口先生か」
『真壁さん、今、大丈夫ですか』
いつもの軽さはあった。
だが、声の底が硬い。
「大丈夫じゃないが話せ」
『うちの学校で《WAIT》に登録した生徒が二人出ました。一人は母親、一人は同じ部活の友人が“ご案内予定”になっています』
真壁は立ち止まった。
「名前は」
江口はすぐに答えた。
小野寺美咲。母親、小野寺真由美。ご案内予定時刻二十時三十分。
倉田莉央。友人、桐谷安未果。ご案内予定時刻十六時十分。
「対象者の現在地は」
『母親とは連絡がつきました。自宅にいます。今、教頭が通話を続けています。桐谷安未果は、まだ連絡がつきません。自宅にもいないそうです。部活の朝練には来ていない。携帯も不通』
「警察に正式通報を」
『しました。たぶんそちらにも上がります』
「生徒は」
『職員室で保護しています。責めてません。怒ってません。たぶん今怒ったら、あの子たちが壊れます』
真壁は一瞬、言葉を失った。
江口らしい言い方だった。
軽いようで、核心だけは外さない。
「その判断でいい」
『ありがとうございます。教師が刑事に褒められると、何かやらかした気になりますね』
「ふざける余裕があるなら続けろ」
『余裕じゃなくて癖です』
電話の向こうで、江口が息を吐くのが分かった。
『真壁さん』
「何だ」
『これ、本当に殺されるんですか』
真壁は即答できなかった。
警察官としては、分からない、と言うべきだ。
事実だけで言えば、予告と殺人の関連はまだ立証されていない。
だが、すでに二人死んでいる。
「分からない」
真壁は言った。
「だが、殺させない」
『それ、先生が生徒に言いたいやつです』
「言え」
『根拠は?』
「警察が動いている」
『弱いですね』
「お前が動いている」
電話の向こうが一瞬、静かになった。
江口は小さく笑った。
『それも弱いです』
「なら、二つ合わせろ」
『分かりました。何とか強そうに言ってみます』
通話を終えると、真壁はすぐに指示を出した。
小野寺真由美の保護。
桐谷安未果の所在確認。
学校周辺の警戒。
《WAIT》関連の投稿監視。
江口の学校への捜査員派遣。
二階堂が近づいてきた。
「学校か」
「江口のところだ」
二階堂の表情が変わった。
「江口?」
「生徒が二人登録した。母親と友人が対象になっている」
二階堂は舌打ちした。
「来たな」
「来た?」
「学校は相性が悪すぎる」
「何と」
「このアプリと」
二階堂は端末を見せた。
「子どもは『死にたい』を大人より軽く使う。軽いっていうのは嘘って意味じゃない。言葉にできない感情を、いちばん強い単語で出す。犯人はそこを拾ってる」
真壁は頷いた。
「江口の学校へ行く」
「俺も行く」
「広報課が?」
「俺は江口の高校時代の同級生だ」
「知ってる」
「それに、学校で騒ぎになったら報道より先にネットが来る。警察車両、保護者、泣いてる生徒。全部、見出しになる」
二階堂の声は苦かった。
「犯人が欲しい絵が揃ってる」
*
午後一時四十分。
連絡直後から近隣の交番勤務員が自宅前に張りついていたが、小野寺真由美は所轄署員に付き添われ、正式に保護場所へ移された。
美咲は職員室でその連絡を聞くと、机に突っ伏して泣いた。
泣き方は、朝とは少し違っていた。
恐怖だけではない。
安堵が混じった泣き方だった。
江口はその横で、職員室の丸椅子に腰かけていた。
「お母さん、無事だって」
美咲は頷いた。
「電話、しますか」
「今は警察の人が一緒にいる。少し落ち着いたら話そう」
「怒ってますか」
「怒ってるかもしれない」
「ですよね」
「でも、たぶん泣いてもいます」
美咲は顔を上げた。
「何で分かるんですか」
「親って、怒る時と泣く時が同時に来るらしいです。僕は親じゃないので詳しくは分かりませんが、保護者面談でよく見ます」
美咲はまた泣いた。
江口はそれ以上、何も言わなかった。
莉央は別室で、五十嵐とスクールカウンセラーに付き添われていた。
安未果とはまだ連絡がつかない。
十六時十分。
その時刻が近づくほど、職員室の空気は重くなっていった。
安未果の家族は、娘が学校へ向かったものと思っていた。だが学校には来ていない。近所の防犯カメラには、午前七時過ぎに家を出る姿が映っていた。学校へ向かった形跡はある。途中で足取りが途切れた。
警察は周辺を捜索している。
江口は、莉央のいる相談室へ向かった。
扉を開けると、莉央は椅子に座り、スマートフォンを両手で握りしめていた。五十嵐が隣にいる。スクールカウンセラーは少し離れた席で、莉央を見守っていた。
莉央は江口を見るなり立ち上がった。
「先生、安未果は」
「まだ探してる」
「死んじゃう」
「死なせないために探してる」
「でも、時間が」
江口は時計を見た。
午後三時二十二分。
ご案内予定時刻まで、四十八分。
「莉央」
「はい」
「昨日、安未果とどこで喧嘩した」
「体育館の裏です」
「そのあと、安未果はどこへ行った」
「分からない。私、先に帰ったから」
「安未果が一人になりたい時に行く場所、知ってる?」
莉央は一瞬、黙った。
五十嵐が静かに言った。
「思い出せる範囲でいいよ」
莉央は唇を噛んだ。
「……図書室の横の階段」
「学校の?」
「はい。人があんまり来ないから。あと、旧体育倉庫の裏。猫がいるから」
江口は頷いた。
「他には」
「川沿いの歩道橋。部活で負けた時、そこで泣いてたことがあります」
「分かった」
江口はすぐに電話を出した。真壁へ連絡する。
場所を伝える。
警察が動く。
莉央は江口の袖を掴んだ。
「先生」
「はい」
「私、安未果にひどいこと言いました」
「うん」
「ペア変えるなら、もう死ぬって。そんなこと言いました」
江口は、少しだけ目を閉じた。
中学生は時々、世界を人質にする。
それは脅しではなく、助けてほしいという叫びに近い。
だが、言われたほうは傷つく。
「それは、ひどい」
江口は言った。
莉央の顔が歪んだ。
「でも、今それを反省できるなら、謝るチャンスはある」
「ありますか」
「作るんです」
「どうやって」
「大人が走ります」
「先生も?」
「先生は運動不足なので、できれば走りたくないですが」
莉央は泣きながら、ほんの少し笑った。
その時、江口のスマートフォンが震えた。
真壁からだった。
『江口』
「はい」
『桐谷安未果らしき女子生徒を保護した』
江口は息を止めた。
「無事ですか」
『意識はある。怪我もない。川沿いの歩道橋近くにいた』
江口は壁に手をついた。
膝から力が抜けそうになった。
「よかった」
莉央が立ち上がった。
「先生?」
江口はスマートフォンを耳に当てたまま、莉央を見た。
「安未果、見つかった。生きてる」
莉央は声を出さずに泣いた。
五十嵐がそっと背中に手を添える。
江口は真壁へ言った。
「ありがとうございます」
『礼はいい。まだ終わってない』
「分かってます」
『安未果のスマートフォンにも表示が出ている』
江口の背筋が冷えた。
「何て」
真壁は少し黙った。
『ご案内対象は、変更されました』
江口は言葉を失った。
『それと、別の現場で死亡者が出た。安未果じゃない。小野寺の母親でもない』
「誰ですか」
『まだ確認中だ。ただ、被害者の近くにスマートフォンがあった。画面には、いつもの文言だ』
江口は目を閉じた。
守れたと思った瞬間に、別の誰かが死んでいる。
『江口』
「はい」
『生徒たちを帰すな。保護者にも単独で動かないよう伝えろ。今夜は学校で待機させたほうがいい』
「分かりました」
『それから』
「はい」
『お前も一人になるな』
江口は一瞬、笑おうとした。
だが、笑えなかった。
「先生を殺しても、数字は伸びませんよ」
『犯人がそう思っている保証はない』
通話が切れた。
江口はスマートフォンを下ろした。
莉央が不安そうに見ている。
「先生」
「安未果は無事」
江口はまず、それだけを言った。
「本当ですか」
「本当」
「じゃあ、もう大丈夫?」
江口は答えられなかった。
その時、莉央のスマートフォンが震えた。
部屋にいた全員が、画面を見た。
黒い背景。
白い文字。
ご案内対象は、変更されました。
莉央の手から、スマートフォンが滑り落ちた。
床に当たって、乾いた音がした。
江口はそれを拾い上げようとして、画面の下に続く新しい一文に気づいた。
次の苦しみを確認しています。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
江口は、初めて本気で寒気を覚えた。
これは、子どもたちの叫びを聞いているのではない。
子どもたちの叫びを、餌にしている。
そして犯人は、守られた標的に興味を失えば、別の誰かを殺す。
江口は床に落ちたスマートフォンを拾い、画面を伏せた。
莉央が震える声で聞いた。
「先生、次って誰?」
江口は答えなかった。
答えられなかった。
職員室のほうから、電話の鳴る音が聞こえた。
一台ではない。
二台、三台。
鳴り続けている。
保護者からだろう。
警察からだろう。
あるいは、別の生徒からだろう。
夕方の学校に、帰りのチャイムが鳴った。
いつもなら、生徒たちを家へ返す音だった。
その日は違った。
誰を帰していいのか、誰を守ればいいのか、誰が次に選ばれるのか、誰にも分からなかった。
江口は廊下へ出た。
窓の外で、空が赤く沈みかけている。
校庭には誰もいない。
それなのに、どこかから大勢の視線を感じた。
スマートフォンの向こう側。
黒い画面の奥。
名前も顔も知らない誰かが、次の案内を待っている。
江口は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「ふざけるな」
その声は怒鳴り声ではなかった。
だが、隣にいた五十嵐は、江口が本当に怒っている時の声だと分かった。
数秒後、職員室から教頭が走ってきた。
「江口先生!」
「はい」
「保護者から電話です。『うちの子が《WAIT》に登録した』と。ほかにも、何件も」
江口は目を伏せた。
広がっている。
もう噂ではない。
学校そのものが、受付窓口になり始めている。
教頭が蒼白な顔で続けた。
「それから、警察からも連絡がありました」
「死亡者ですか」
「はい」
教頭は震える声で言った。
「被害者は、別の学校の教師だそうです」
江口は顔を上げた。
教師。
「その教師も、《WAIT》に名前を書かれていたんですか」
「分かりません。ただ、亡くなった現場に紙があったそうです」
江口は、聞かなくても文面が分かった。
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
案の定、教頭はそう言った。
江口は廊下の窓に映る自分の顔を見た。
疲れた中年教師の顔だった。
生徒を守ると口にしたわりに、何から守ればいいのかも分かっていない顔だった。
その時、職員室の奥で美咲が泣き崩れる声がした。
別室では莉央が安未果に電話をかけている。
どちらも、誰かに死んでほしくて登録したわけではない。
江口は深く息を吸った。
「教頭先生」
「はい」
「全クラス、帰りの会を止めてください。生徒を教室に残します。保護者には、単独で迎えに来ないよう連絡。警察が来るまで、校門を開けっぱなしにしない」
「分かりました」
「あと、校内放送を借ります」
「何を言うんですか」
江口は少しだけ考えた。
怖がらせすぎてもいけない。
軽く扱ってもいけない。
死にたいと書いた生徒を、犯人のように見せてはいけない。
標的にされた人間を、加害者として晒してもいけない。
言葉を間違えれば、この学校からも誰かが落ちる。
「出席確認です」
「え?」
「全員、まだいるか確認します」
教頭は意味が分からないという顔をした。
江口は職員室へ戻り、放送用マイクの前に立った。
手は震えていた。
マイクのスイッチを入れる。
スピーカーから、短いノイズが校内に流れた。
廊下が静かになる。
江口は、いつもの朝の声を思い出した。
出席簿を開く時の声。
忘れ物を注意する時の声。
生徒が笑う程度に軽く、でも聞き流せない程度に低い声。
『生徒の皆さん。江口です』
校内のどこかで、ざわめきが止まる。
『今日は、帰りの会を一度止めます。先生たちから確認があります。勝手に帰らないこと。廊下に出ないこと。スマートフォンで未確認のサイトを開かないこと。誰かの名前を入力しないこと。スクショを回さないこと』
江口は一度、息を吸った。
『それから』
喉が少し詰まった。
だが、続けた。
『死にたいと思った人は、怒られに来なくていいです。説教されに来なくていいです。まず、近くの先生に言いに来てください。死にたいと言ったことを、今日この学校では罪にしません』
職員室が静まり返った。
『ただし、アプリには言わないでください。先生たちに言ってください。返信は遅いかもしれませんが、返事はします』
江口はマイクの向こうにいる生徒たちを想像した。
机に座っている者。
スマホを隠している者。
笑ってごまかしている者。
すでに泣いている者。
何も関係ない顔をして、実は検索欄に言葉を入れかけた者。
『全員、教室で待機。先生たちが確認に行きます。今日の目標は、全員が返事をすることです』
江口はスイッチを切った。
誰もすぐには喋らなかった。
数秒後、職員室の電話がまた鳴った。
今度は、ひとつではない。
鳴り続ける電話の中で、江口のスマートフォンが震えた。
真壁からではなかった。
非通知。
江口は画面を見つめた。
警察からの折り返しかもしれない。
保護者が番号を伏せてかけているのかもしれない。
出るべきではない。
そう分かっていても、今は無視できなかった。
江口は通話ボタンを押した。
「江口です」
通話の向こうで、しばらくノイズが鳴っていた。
それから、加工されたような低い声が聞こえた。
『いい放送でした』
江口は何も言わなかった。
『先生って、いいですね。名前を呼べば、返事が返ってくる』
「誰ですか」
『ご案内係です』
江口の背中に、冷たいものが走った。
声は続けた。
『次は、もっと大きな声で呼んでください。みんなが見ていますから』
通話は切れた。
江口はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
校内放送は、学校の中だけに流れたはずだった。
校舎の外にも漏れていたのか。
誰かが録音して流したのか。
それとも、犯人は校内にいるのか。
江口はゆっくりと窓の外を見た。
校門の向こう。
夕暮れの道路。
電柱の影。
停まっている車。
歩道を歩く人影。
そのどこかに、誰かがいる。
あるいは、もっと近くに。
職員室の電話は鳴り続けていた。
江口は、ようやく理解した。
事件が学校へ来たのではない。
もう、学校が事件の中に入ってしまったのだ。




