第二章 死にたいと入力しただけだった
人が死ぬと、場所の意味が変わる。
昨日まで教室だった場所が、現場になる。
昨日まで研究室だった場所が、立入禁止区域になる。
昨日まで誰かが使っていた机が、証拠品の置かれた台になる。
そして昨日まで人間だった者が、遺体と呼ばれる。
真壁彰は、そういう変化を見るたびに、いつも少しだけ腹が立った。
死者に対してではない。
犯人に対してでもない。
人間というものが、死んだ途端に別の名称で処理されていく、その手続きの速さに対してだった。
午前四時五十六分。
京東文化大学の正門には、すでに警察車両が三台停まっていた。救急車はいない。用がなくなったからだ。人を運ぶ車が去ったあとに残るのは、事件を運ぶ車ばかりだった。
キャンパスはまだ暗い。
六月の朝は早いが、それでも夜明け前の空気には冷たさが残っていた。植え込みの葉が街灯を受け、濡れているように光っている。雨は降っていない。湿気だけが、地面に薄く張りついていた。
真壁は車を降り、社会情報学部棟を見上げた。
七階建ての灰色の建物だった。
大学の建物にありがちな、清潔だが温度のない外観。正面玄関のガラス扉には、警備員が立っていた。腕章をつけた所轄の刑事が、真壁に気づいて軽く頭を下げる。
助手席から降りた二階堂壮也が、肩を回しながら言った。
「朝の大学って、夜の病院に似てるな」
「まだ朝じゃない」
「じゃあ夜の大学か。もっと嫌だな」
二階堂はあくびを噛み殺し、スマートフォンを取り出した。画面の光が、整った横顔を白く照らす。寝不足のはずなのに、髪型だけは崩れていなかった。そこに妙な苛立ちを覚えるのは、真壁のほうが疲れている証拠だろう。
「広報課が来る必要はない」
真壁が言うと、二階堂は画面から目を離さずに答えた。
「俺もそう思う」
「なら帰れ」
「帰れるならな。上が『大学教授の死亡で、ネットが動き始めてる』って言うんだよ。そういう時に呼ばれるのが俺。便利な雑巾みたいな部署だな、広報課って」
「お前は雑巾というより、濡れた新聞紙だ」
「ひどいな。せめて使えるものに例えろ」
二階堂は軽口を叩いたが、目は笑っていなかった。
真壁はその顔を見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。二階堂が本当に面倒な時にする顔だった。軽い言葉を使って、先に自分の緊張を薄めている。
「状況は」
「死者は柏木修一、六十二歳。京東文化大学社会情報学部教授。発見は午前零時三十八分、七階研究室前の廊下。第一発見者は警備員。死亡確認は一時二分。外傷あり。現段階では転倒事故か事件か、所轄が判断に迷っていた」
「迷っていた?」
「現場に変な紙があった」
真壁は足を止めた。
「紙?」
「白い紙に黒い文字。『あなたの苦しみは確認されました。ご案内は完了しました』」
「何だ、それは」
「俺が聞きたい」
二階堂はスマートフォンの画面を真壁に見せた。
匿名掲示板の書き込みが表示されていた。
【京東文化大の柏木、死んだってマジ?】
次に、短文SNSの投稿。
柏木先生の件、《WAIT》関係ある?
別の投稿。
死にたいって入力すると、原因の相手が死ぬアプリあるって聞いたんだけど、あれガチ?
真壁は眉をひそめた。
「何だ、《WAIT》って」
「今、調べてる。アプリというより匿名サイトに近い。登録した人間が『死にたい理由』を入力すると、原因を確認するとか何とか」
「馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しいものほど広がる」
二階堂の声は低かった。
「特に、人が死んでる時はな」
真壁は返事をしなかった。
社会情報学部棟に入ると、空気が少し変わった。大学特有の、紙と埃とワックスの混じった匂いがする。夜間の建物は空調が弱く、廊下の空気が停滞していた。
エレベーターの前で、所轄の刑事が二人を待っていた。三十代半ばほどの男で、目の下に薄い隈がある。名乗った名前は、宮下だった。
「真壁警部補ですね。お待ちしておりました」
「遺体は」
「すでに搬送準備中ですが、現場保存はしています。ご遺体の確認は、司法解剖の手配も含めて――」
「解剖医は」
真壁が聞くと、宮下は少し困った顔をした。
「近隣の京東大学法医学教室へ依頼予定です。ただ、どなたが担当されるかはまだ」
二階堂が横から言った。
「九条が来るな」
宮下が顔を上げた。
「九条先生をお呼びする予定ですか」
「予定というより、呼ばなくても来る」
「広報課の方が、よくご存じで」
「知りたくて知ってるわけじゃない」
エレベーターの扉が開いた。
中に乗り込むと、二階堂はまたスマートフォンを見た。指先が早く動く。投稿、検索語、共有数。彼は現場に向かいながら、別の現場を歩いている。真壁にはそう見えた。
事件には二つの現場がある。
ひとつは、人が死んだ場所。
もうひとつは、人々が死を語る場所。
真壁は前者しか信じない。
二階堂は後者を無視しない。
エレベーターが七階で止まった。
扉が開いた瞬間、消毒液の匂いがした。厳密には、鑑識が使った薬品の匂いだろう。廊下には青いシートが敷かれ、数人の鑑識員が作業していた。研究室のドアには、黄色い規制線が貼られている。
廊下の奥は薄暗かった。
非常灯だけではない。七階全体の照明が一部落ちている。所轄の刑事によれば、死亡推定時刻前後に短時間の停電があったという。
「停電?」
真壁は聞き返した。
「建物全体ではありません。七階の一部だけです。電気設備の異常か、外部からの操作かは確認中です」
「防犯カメラは」
「七階廊下のカメラが、零時二十二分から零時三十四分まで記録を失っています」
「十二分間か」
「はい」
二階堂が小さく笑った。
「親切な停電だな」
宮下が表情を硬くした。
真壁は廊下を見た。
発見場所には、白いチョークのような印が残っていた。遺体が倒れていた位置を示すものだ。半身が研究室の中、半身が廊下。右手を伸ばしたような姿勢。
真壁はしゃがみ込んだ。
床の灰色いリノリウムに、わずかな擦過痕がある。血痕は少ない。壁の下部に、頭部がぶつかったと思われる痕跡。近くに落ちていた眼鏡は、証拠品として回収済みだった。
「死因は」
「頭部外傷による可能性が高いと、救急隊員は見ています。転倒時に壁、または床へ強く打ったものと。ただ、詳しくは解剖を待たないと」
「殴られた可能性は」
「あります。ただ現場に凶器らしいものは見つかっていません」
「研究室内は」
「荒らされた形跡はほとんどありません。机の上のレポート、パソコン、私物もそのままです。ただ、教授のスマートフォンに不審な表示がありました」
二階堂が顔を上げた。
「《WAIT》か」
「はい」
宮下は証拠品の画像をタブレットで表示した。黒い画面に白い文字が映っている。
次のご案内まで、しばらくお待ちください。
真壁は画面を見つめた。
遊びにしては、湿度が高い。
脅迫にしては、言葉が整いすぎている。
犯人の感情が見えない。
いや、見えないように作っている。
「この画面は通常操作で閉じられなかったのか」
「警備員の証言では、何をしても消えなかったそうです。端末は解析に回します」
二階堂が低く言った。
「スクショ映えする画面だな」
「何?」
「黒地に白文字。文章も短い。誰が見ても読める。写真に撮っても分かる。拡散される前提の画面だ」
真壁は二階堂を見た。
「お前は何でも拡散に結びつける」
「今回は結びついてる。もう流れてるからな」
二階堂はスマートフォンを真壁に向けた。
さっきより投稿が増えていた。
柏木先生の件、《WAIT》だったらしい。
死にたいって登録すると、原因の相手が死ぬってやつ?
加害者処刑アプリ、ガチ?
これ本当なら使いたい人多そう。
真壁は画面から目を離した。
「被害者の学生関係は」
「ゼミ生、授業履修者、直近で面談した学生を確認中です。三日前に三瀬莉子という学生と面談しています。本人は昨夜、《WAIT》と見られるサイトにアクセスした可能性があります」
「可能性?」
「学生本人が混乱しているようです。まだ詳しい聴取はできていません。ただ、彼女のスマートフォンにも同じ表示が出ていたと」
真壁はゆっくり立ち上がった。
「三瀬莉子は、柏木に死んでほしいと言ったのか」
「そこまでは」
「じゃあ、原因と決めつけるな」
宮下は口を閉じた。
二階堂が少しだけ真壁を見た。
真壁は自分の声が低くなっていたことに気づいた。
だが撤回する気はなかった。
死にたいと言った人間を、殺人の原因にするのは早い。
本人がどんな言葉を入力していたとしても、それは犯行声明ではない。
少なくとも、まだ。
「柏木の人間関係を洗え。学生だけじゃない。教員、事務、研究費、外部出演、過去のトラブルも全部だ。アプリの件は別線で追う」
「はい」
真壁は研究室の中へ入った。
机の上にはレポートの束がある。赤ペンが一本、キャップを外したまま置かれていた。マグカップには冷めたコーヒー。パソコンの画面はスリープ状態。壁には学会発表の写真や、新聞記事の切り抜きが貼られている。
真壁は本棚を見た。
メディア倫理。
現代社会論。
ネット世論。
炎上の構造。
被害者報道。
デジタル社会における責任。
皮肉な蔵書だ、と思った。
ネット世論を研究していた人間が、ネットの噂とともに死んでいる。
二階堂も本棚を見ていた。
「専門家ってのは、自分の専門で殺されると厄介だな」
「不謹慎だ」
「事実だよ。法医学者が疑われた時も、そうだった」
その一言に、廊下の空気が少しだけ重くなった。
真壁は二階堂を見た。
二階堂は視線を外さなかった。
九条雅紀の指名手配事件。
あの事件は、まだ完全には終わっていなかった。犯人は捕まり、九条の疑いは晴れた。だが一度ネットに流れた名前と顔は、完全には消えない。今でも検索すれば、切り抜きやまとめ記事が出てくる。
九条雅紀。
法医学者。
右に心臓がある男。
一時、殺人犯として疑われた人物。
真壁はその記憶を振り払うように、机の上のレポートを見た。
表紙に名前があった。
三瀬莉子。
赤字で、何箇所も書き込みがある。
最後のページの余白には、手書きでこうあった。
自分の頭で考えていない。
二階堂がそれを覗き込んだ。
「これ、きついな」
「教育的指導の範囲かもしれない」
「そういう正しい言い方、嫌いじゃないけどさ」
二階堂は顔を上げた。
「死にたい時にこれ見たら、死にたくなるやつもいる」
真壁は何も言わなかった。
言葉が人を追い詰めることはある。
それは分かる。
だが、その言葉を理由に誰かを殺していいわけではない。
廊下で足音がした。
白衣の裾が視界に入る。
九条雅紀が来た。
黒いシャツに白衣。長身。いつも通りの静かな顔。夜明け前に呼び出された人間とは思えないほど、表情に乱れがない。ただ、目元には薄い疲労があった。彼の疲労は、身体ではなく、周囲の人間が勝手に意味を読もうとする部分に出る。
「早いな」
真壁が言うと、九条は廊下の規制線を見た。
「遅いほうだ。死亡確認から三時間以上経っている」
「挨拶くらいしろ」
「おはよう」
二階堂が小さく笑った。
「お前の挨拶、死亡時刻みたいだな」
「死亡時刻に挨拶はない」
「そういうところだぞ」
九条は反応しなかった。
そのまま現場を見た。
視線が、床、壁、ドア枠、廊下の照明、遺体のあった位置へ流れる。九条が現場を見る時、そこには妙な静けさが生まれる。人間が死んだ場所を、恐れも嫌悪もなく、ただ読む。
真壁はそれが時々、腹立たしい。
だが、同時に信頼している。
「遺体は」
「搬送車両が来るまで、一階の救護室に一時的に移している。解剖はお前が?」
「依頼が正式に来れば」
「来る」
「なら見る」
九条は床の印の前にしゃがんだ。手袋をはめ、床に顔を近づける。鑑識員がわずかに緊張した顔をした。
「頭部外傷と聞いた」
「救急隊員の見立てだ」
「壁に衝突痕。床に擦過痕。転倒の可能性はある」
「事件性は」
「現場だけでは断定できない」
二階堂が横から言った。
「お前が断定しないと、みんな困るんだよ」
「困らせるために断定しない」
「本当にそういうところだぞ」
九条は壁の痕跡を見た。
「ただ、不自然ではある」
真壁が反応した。
「何が」
「倒れ方だ」
九条は遺体の位置を示す印を指さした。
「柏木教授は研究室の出入口付近で倒れていた。頭部を壁、または床で打った可能性はある。ただ、右手が廊下側へ伸びていたというなら、彼は室内から廊下へ向かって倒れたか、廊下から室内へ戻ろうとして倒れたか、そのどちらかになる」
「それが?」
「逃げようとした人間の倒れ方に見える」
廊下が静かになった。
九条は続けた。
「自発的な転倒なら、身体はもう少し自然に崩れる。だが、第一発見時の写真を見る限り、右手は何かへ向かって伸びている。助けを求めたか、スマートフォンを取ろうとしたか、あるいはドアを閉めようとしたか」
「誰かがいたと?」
「その可能性は高い」
二階堂が言った。
「じゃあ、殺人?」
「まだ断定しない」
「出た」
九条は二階堂を見た。
「だが、柏木教授が死ぬ直前に一人ではなかった可能性は、考慮すべきだ」
真壁は頷いた。
「紙は見たか」
「見た」
「どう思う」
「医学的には紙で人は死なない」
二階堂が天井を見た。
「誰かこいつを黙らせてくれ」
九条は気にせず言った。
「ただ、現場に置かれた紙は死因とは別の情報だ。犯人が残したのか、被害者が持っていたのか、第三者が後から置いたのか。そこを分ける必要がある」
「文面はどうだ」
「『あなたの苦しみは確認されました。ご案内は完了しました』」
九条は一度、紙の文面を口にした。
「被害者へ向けた言葉ではない」
真壁は目を細めた。
「どういう意味だ」
「柏木教授の苦しみが確認されたのではない。三瀬莉子の苦しみが確認された、という構造になっている。つまり紙は被害者に向けたものではなく、登録者、あるいは観客に向けたものだ」
二階堂が少し表情を変えた。
「観客?」
「この文面は、見られることを前提にしている」
二階堂は真壁を見た。
「ほらな」
真壁は答えなかった。
九条の言葉と二階堂の懸念が、同じ方向を向いている。
犯人は、柏木修一を殺した。
しかし、それだけではない。
殺したことを、誰かに見せようとしている。
「死因が分かれば、犯人の手際も見えるか」
真壁が聞くと、九条は立ち上がった。
「ある程度は。頭部外傷が主たる死因か、別の要因があるか。転倒によるものか、殴打によるものか。生前の抵抗痕があるか。確認する」
「頼む」
「頼まれなくても見る」
二階堂が小さく言った。
「九条、お前言い方な……」
「こいつは昔からこうだ」
九条はやはり反応しなかった。
*
三瀬莉子は、大学の学生相談室にいた。
午前六時二十分。
窓の外は明るくなり始めていた。だが空は白く、朝というより夜が薄まっただけに見える。相談室のソファは柔らかすぎて、座っていると身体が沈んだ。莉子はその感覚が怖かった。立ち上がれなくなるような気がした。
向かいには女性のカウンセラーが座っている。
その隣に、所轄の女性刑事。
部屋の隅には、大学の学生支援課の職員。
全員が、莉子を壊れ物のように扱っていた。
それが余計につらかった。
「三瀬さん」
女性刑事が穏やかに言った。
「昨夜、《WAIT》というサイトに入力した内容を、もう一度確認させてもらってもいいですか」
莉子は膝の上で手を握った。
爪が掌に食い込んでいる。
「私が、殺したんですか」
部屋の空気が止まった。
カウンセラーがすぐに首を振る。
「違います。あなたが殺したわけではありません」
「でも、私が書きました」
「書いたことと、殺したことは違います」
「でも、先生の名前を」
「名前を書いたんですね」
女性刑事の声は慎重だった。
莉子は唇を震わせた。
「名前というか……柏木先生が怖いって。もう会いたくないって。死にたいって。でも、先生に死んでほしいなんて、思ってなかったんです。本当に、思ってなかったんです」
最後は声が崩れた。
カウンセラーがティッシュを差し出す。莉子は受け取ったが、涙を拭けなかった。
「アプリには、どんな表示が出ましたか」
「最初は……苦しみを受け付けました、って。それから、次のご案内まで死んでお待ちください、って」
自分で言って、莉子は身体を震わせた。
「それだけですか」
「夜中に、また通知が来て……ご案内は完了しましたって」
「その時、柏木教授が亡くなったことは知っていましたか」
莉子は強く首を振った。
「知りませんでした。知らなかったんです。夢を見て、起きたら通知が来てて、それで、怖くなって」
女性刑事はメモを取った。
「その後、共有しますか、という表示が出た?」
莉子は目を見開いた。
「どうして知ってるんですか」
「あなたのスマートフォンを確認しました」
「私、共有してません。絶対にしてません。怖くて、投げて、画面が割れて」
「分かっています。あなたの端末から共有された形跡は、今のところ確認されていません」
「じゃあ、誰が」
誰も答えなかった。
莉子はその沈黙で理解した。
誰かが、自分の言葉を使った。
自分の知らないところで、勝手に話を広げた。
自分の「死にたい」が、柏木修一の死と結びつけられた。
莉子は自分の両腕を抱いた。
「私、どうしたらいいんですか」
カウンセラーが言った。
「今は、休みましょう」
「休んだら、先生が生き返るんですか」
その言葉は、自分でも驚くほど冷たく出た。
部屋の中にいる大人たちが、わずかに黙った。
莉子は泣きながら、笑いそうになった。
休みましょう。
大丈夫です。
あなたのせいではありません。
そう言われても、柏木修一は死んでいる。
自分が死にたいと書いた夜に。
*
午前八時十五分。
警視庁本部の一角に、臨時の捜査会議が設けられた。
柏木修一死亡事件。
大学教授。
不審なアプリ。
登録者とされる女子学生。
現場に残された紙。
防犯カメラの欠落。
ネット上での急速な拡散。
材料だけを並べれば、すでに事件は形を持ち始めていた。
だが、真壁はそれが気に入らなかった。
形が早すぎる。
事件は、捜査によって輪郭を持つべきだ。
犯人が用意した輪郭に、捜査が合わせられてはいけない。
会議室の正面モニターに、柏木の顔写真が表示されている。大学の公式サイトから取られたものだ。隣には、現場写真、紙の画像、スマートフォン画面。
二階堂は壁際に立ち、腕を組んでいた。広報課の人間でありながら、捜査会議に顔を出している。誰も文句を言わなかった。今の事件では、彼の見ている場所も現場だった。
九条は少し遅れて入ってきた。白衣ではなく、黒いジャケットを羽織っている。司法解剖前の暫定所見だけを伝えるためだった。
管理官が言った。
「九条先生、現時点での所見を」
九条は前へ出た。
「柏木修一教授の遺体には、右後頭部に鈍的外力による損傷があります。現段階では、この損傷が死亡に直接関与した可能性が高い。ただし、転倒によるものか、第三者による殴打かは断定できません」
「抵抗痕は」
「右手背部に軽度の擦過傷。左前腕に圧迫痕のようなものがあります。誰かに掴まれた可能性はありますが、これも断定は避けます」
二階堂が小さく言った。
「今日も断定を避けてるな」
九条はそちらを見ずに続ける。
「重要なのは、殺害手段が洗練されていない点です。仮に第三者による犯行だとしても、力任せに近い。計画性がない、とは言いません。しかし、死因を作る技術より、死体の置かれ方とメッセージのほうが目立つ」
真壁はその言葉を聞いた。
死因より、見え方。
現場で九条が口にした違和感が、少しずつ形になっている。
「つまり?」
管理官が促す。
九条は短く言った。
「犯人は、殺し方より、見られ方を重視しています」
会議室が静かになった。
二階堂が腕を解いた。
「ネットの動きとも一致します」
管理官が目を向けた。
「説明しろ」
二階堂はモニターへ近づき、端末を接続した。画面にSNSの投稿群が表示される。匿名掲示板、短文投稿、動画サイトのコメント欄、まとめアカウント。
「柏木教授死亡の噂が出たのは、午前三時過ぎです。そこから《WAIT》という名前が出るまでが早すぎる。最初の投稿が自然発生だとしても、その後の拡散には明らかに誘導があります」
「誘導?」
「同じ文言が複数のアカウントから出ている。『死にたいって入力すると、原因の相手が死ぬ』。『加害者処刑アプリ』。『ご案内完了』。どれも短く、見出しにしやすい」
モニターに投稿が並んだ。
死にたいって入力すると、原因の相手が死ぬらしい。
加害者処刑アプリ、ガチだったら熱い。
教授が死んだの、あのアプリのせいじゃね?
これ本当なら、救われる人いるんじゃない?
二階堂は画面を見たまま言った。
「犯人、あるいは関係者は、事件を“都市伝説”として流そうとしている。最初から報道より速い場所に投げてるんです」
「目的は」
「拡散。注目。参加者の増加」
「参加者?」
二階堂は別の画面を出した。
《WAIT》と検索した人間の投稿が並んでいる。
アプリどこ?
試したい。
登録したら本当に相手死ぬの?
死んでほしい奴いるんだけど。
いや死んでほしいわけじゃないけど謝らせたい。
二階堂は言った。
「もう探してる奴がいる。使う気の奴もいる。冗談半分の奴もいる。でも犯人からすれば、それで十分です。死にたい、ムカつく、許せない。そういう言葉が集まってくる」
真壁は低く言った。
「アプリの入り口を閉じられないのか」
「やってる。ただ、ミラーが出始めてる。元のサイトは消えても、リンクだけが回ってる。偽物も混じってる」
「偽物?」
「便乗だよ。注目されると、すぐに真似る奴が出る」
二階堂の声には、明らかな苛立ちがあった。
「今、一番まずいのは、殺人犯を救世主扱いする空気です」
管理官が眉をひそめる。
「救世主?」
「ネットではもう言われてます。『加害者が裁かれた』、『警察より仕事してる』、『死にたい人の代わりに原因を消してくれる』。ふざけた話ですが、こういう物語は広がりやすい」
「被害者が本当に加害者なら、という声も出るだろうな」
別の刑事が言った。
二階堂はすぐに見た。
「出ます。だから危ないんです」
「何が」
「誰かを加害者と呼んだ時点で、その人間を殺してもいい空気ができる」
会議室の空気が一瞬、冷えた。
二階堂は続けた。
「三瀬莉子は死にたいと書いた。柏木教授が怖いとも書いた。だからといって、柏木を殺していいわけじゃない。逆に、柏木が死んだからといって、三瀬莉子を犯人扱いしていいわけでもない。犯人はそこを混ぜようとしてる」
真壁は二階堂の横顔を見た。
軽口ばかりの男が、こういう時だけまっすぐになる。
言葉の扱いに関しては、真壁よりはるかに繊細だった。
「広報方針は」
管理官が聞いた。
二階堂は即答した。
「アプリ名を公式には出さない。特定の学生との関連も伏せる。未確認のサイトや投稿へのアクセス、拡散を控えるよう呼びかける。ただし、死にたいという言葉を見た時に、煽るな、責めるな、通報または相談につなげろ、という文言は入れる」
「事件捜査に相談窓口の話を混ぜるのか」
「混ぜます。混ぜないと、人が死ぬ」
管理官は黙った。
二階堂は画面を閉じた。
「この事件は、死体だけを見ていれば終わる事件じゃありません。死にたい人間の言葉が、次の現場になる」
九条が静かに言った。
「死体が増える前に、言葉を止める必要がある」
二階堂は少し驚いたように九条を見た。
「お前がそれ言うの、珍しいな」
「死因に関係するなら、言葉も見る」
「本当に、言い方を何とかしろ」
真壁は会議室の時計を見た。
午前八時四十二分。
事件発覚から八時間も経っていない。
それなのに、もう社会の側が事件を追い越し始めている。
その時、会議室のドアが開いた。
若い捜査員が入ってきた。顔色が悪い。
「真壁警部補」
「何だ」
「第二の事案です」
会議室が静まり返った。
「場所は」
「渋谷区内のマンションです。男性会社員、四十一歳。室内で死亡しているのを同居人が発見しました」
「《WAIT》か」
真壁が聞くより早く、二階堂が言った。
捜査員は頷いた。
「被害者のスマートフォンに、表示がありました」
モニターに送られてきた画像が映し出される。
黒い背景。
白い文字。
ご案内は完了しました。
真壁は奥歯を噛んだ。
「登録者は」
捜査員は言いづらそうに視線を落とした。
「それが……今回は、登録したと見られる人物が未成年です」
「年齢は」
「十四歳。中学二年生です」
会議室の空気が止まった。
二階堂の顔から、いつもの軽さが完全に消えた。
九条は画面の文字を見つめていた。
真壁は、言葉を探さなかった。
探しても無駄だった。
二人目が死んだ。
そして今度は、死にたいと入力したのが子どもだった。
捜査員の声が、さらに低くなった。
「登録内容に、被害者の名前はありませんでした」
真壁は顔を上げた。
「どういうことだ」
「登録者は、こう入力していたそうです」
捜査員は紙を見ながら読んだ。
「――死にたい。
誰でもいいから、私をここから出して」
捜査員は続けた。
「登録者は、長谷部慎也の実の娘ではありません。長谷部は、登録者の母親の再婚相手です。戸籍上の親子関係も、まだありません」
会議室の誰かが、小さく息を吸った。
「家庭内暴力の通報歴は?」
「ありません。ただ、近隣住民からは、夜中に怒鳴り声が聞こえることがあったと。登録者本人は、長谷部から直接殴られたとは話していません。けれど、長谷部と母親の口論、長谷部によるスマートフォンの取り上げ、食卓での叱責が続いていたようです」
十四歳。
自分の部屋にいても、家の中に逃げ場がない年齢。
真壁は、報告書の一文を見た。
――死にたい。誰でもいいから、私をここから出して。
そこに長谷部の名前はなかった。
だが犯人は、その「ここ」を勝手に読み替えた。
家。
母親の再婚相手。
大人の男。
逃げられない場所。
そして、殺しても物語になる相手。
「……読んだんじゃないな」
二階堂が低く言った。
「利用したんだ」
誰も喋らなかった。
画面の中の白い文字だけが、会議室に残った。
ご案内は完了しました。
真壁はその文字を見つめながら、理解した。
犯人は、苦しみを救っているのではない。
苦しみの原因を見抜いているのでもない。
勝手に読んで、勝手に決めて、勝手に殺している。
そしておそらく、次を待っている。
その証拠に、二階堂のスマートフォンが震えた。
新しい投稿通知。
《WAIT》の公式を名乗るアカウントが、たった今、短い文を投稿していた。
――二件目のご案内が完了しました。
――次の苦しみを、お待ちしています。
投稿の下で、数字が増えていく。
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返信。
引用。
二階堂が低く呟いた。
「始まったな」
真壁は、画面から目を離さなかった。
始まったのではない。
もう始まっていたのだ。
自分たちが現場に着くよりも早く。
死因が決まるよりも早く。
誰が悪いのかを、人々が勝手に決めるよりも早く。
その奥で、誰かが笑っている。
そして、死にたいという言葉を待っている。




