第一章 ご案内を開始します
人は、自分が誰かを死にたいほど追い詰めたことに、なかなか気づかない。
たいていの場合、それは正論の形をしている。
お前のために言っている。
社会に出たら通用しない。
その程度で泣くな。
みんな我慢している。
努力が足りない。
甘えるな。
言った側は、翌朝には忘れている。
言われた側だけが、夜になってもその言葉を抱えている。布団に入って、目を閉じて、眠れないまま天井を見つめて、何度も何度も同じ声を聞く。耳の奥に残った言葉は、時間が経つほど大きくなる。
その夜、三瀬莉子は死にたいと思った。
本当に死ぬつもりだったかと問われれば、彼女はきっと首を振っただろう。まだ二十歳になったばかりだった。大学に入って一年と少し。好きな服も、行きたい場所も、見たい映画も、会いたい友人もあった。来月には、ずっと迷っていた髪色を変えるつもりだった。
ただ、その夜だけは、もう全部やめたいと思った。
正確には、消えたい、だった。
死にたい、という言葉は強すぎる。けれど消えたい、という言葉は弱すぎる。自分の中にあるものを誰かに分からせるには、たぶんその中間が必要だった。
午後十一時四十七分。
莉子はベッドの上で膝を抱え、スマートフォンを握っていた。部屋の電気は消していた。カーテンの隙間から、向かいのマンションの廊下灯が細く差し込んでいる。その光が、床に置かれたトートバッグの持ち手をぼんやり照らしていた。
トートバッグには、大学の資料が入ったままだった。
柏木修一の授業資料。
赤いペンで何箇所も修正されたレポート。
そして、面談時に渡された評価票。
再提出。
論理構成が甘い。
引用元の理解が不十分。
この程度の内容で卒業研究に進むのは難しい。
印字された文字よりも、その下に手書きで添えられた一文のほうが、莉子には堪えた。
――自分の頭で考えていない。
その通りかもしれない、と思った。
だから余計に苦しかった。
柏木修一は、京東文化大学社会情報学部の教授だった。メディア論を専門とし、テレビ番組にも何度か出演したことがある。大学の紹介ページには、柔らかく笑う写真が載っている。白髪交じりの髪を後ろへ流し、銀縁の眼鏡をかけた、いかにも知的な男だった。
学生からの評価は二つに割れていた。
熱心。
厳しい。
面倒見がいい。
怖い。
言い方がきつい。
本気で向き合ってくれる。
追い込まれる。
でも、あの先生についていけたら成長できる。
どれも嘘ではないのだろう。
莉子も最初はそう思っていた。
柏木ゼミに入れば鍛えられる。
自分は変われる。
高校まで何となくやり過ごしてきた自分でも、大学では本気になれるかもしれない。
そんな期待は、三ヶ月で擦り減った。
ゼミ室で、柏木はいつも穏やかな声で学生を追い詰めた。怒鳴りはしない。机を叩くこともない。ただ、こちらの言葉の弱いところを見つけて、正確に突いてくる。
「それは感想だね。研究ではない」
「何を根拠にそう言っているのかな」
「君は、その言葉の意味を本当に理解して使っている?」
「分からないなら、分からないと言えばいい。分かったふりをするのが一番よくない」
すべて正しい。
正しいから、逃げ場がなかった。
三日前の面談で、莉子は泣いた。
泣くつもりはなかった。泣いたら負けだと思っていた。だが、柏木から「君はまだ、自分の言葉を持っていない」と言われた瞬間、涙が勝手に出た。
柏木は困った顔をした。
「三瀬さん、泣いても評価は変わらないよ」
その言葉で、涙は止まった。
代わりに、胸の奥に冷たい穴が開いた。
莉子はスマートフォンの画面を開いた。
検索欄には、さっきから何度も同じ言葉を入れていた。
死にたい
もう無理
消えたい
大学 つらい
教授 怖い
死にたい アプリ
最後の検索語は、自分でもなぜ入れたのか分からなかった。
短文SNSで、誰かがそんな投稿をしていたのを見たからかもしれない。
――《WAIT》って知ってる? 死にたい理由を入れると、原因を確認してくれるらしい。
ふざけた都市伝説だと思った。
それでも、莉子はリンクを踏んだ。
画面が黒くなった。
余計な装飾はない。広告もない。運営会社名もない。アプリというより、古いウェブページに近かった。中央に、白い文字が浮かんでいる。
死にたい理由を入力してください。
莉子はしばらく、その文字を見ていた。
指先が冷たくなっていた。画面に触れようとして、何度もやめた。こんなものに入力したところで何も変わらない。分かっていた。分かっていたのに、何かを吐き出す場所がほしかった。
入力欄をタップする。
キーボードが表示された。
莉子は打った。
もう無理です。
柏木先生が怖いです。
私が全部悪いのは分かっています。
でも、もう大学に行きたくないです。
消えたいです。
送信ボタンの上に、小さな注意書きがあった。
あなたを死に追い込んだ人を、こちらで確認します。
莉子は眉をひそめた。
変な文章だと思った。
けれど、その違和感よりも、自分の書いた言葉が画面上に残っていることのほうが怖かった。こんなことを本当に思っている人間なのだと、突きつけられているようだった。
送信ボタンを押した。
画面が一度、暗く沈んだ。
数秒後、白い文字が浮かんだ。
あなたの苦しみを受け付けました。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
莉子は息を止めた。
冗談にしては、悪趣味だった。
すぐにページを閉じた。スマートフォンを布団の上に放り投げ、両手で顔を覆った。胸の中で、嫌な鼓動が続いている。
死んでお待ちください。
文字が瞼の裏に残った。
その夜、莉子は泣き疲れて眠った。
翌朝には、そんなアプリのことなど忘れているはずだった。
だが、忘れたのは莉子だけではなかった。
柏木修一もまた、自分が三日前に一人の学生を泣かせたことを、すでにほとんど忘れていた。
*
柏木修一は、学生が嫌いではなかった。
むしろ、かなり好きなほうだと自分では思っている。若い人間が、曖昧な言葉を使いながら、それでも何かを掴もうとする姿を見るのは悪くない。拙いレポートも、論理の飛躍も、誤字だらけの発表資料も、柏木にとっては教育の材料だった。
ただし、甘やかす気はなかった。
大学はサービス業ではない。
学生は客ではない。
研究とは、慰め合いではない。
柏木はその考えを、長年変えていなかった。
そのせいで、何人かの学生がゼミを辞めた。授業評価アンケートに、言い方がきつい、人格を否定されたように感じた、と書かれたこともある。学生相談室から連絡が来たこともあった。
そのたびに、柏木は丁寧に説明した。
人格を否定したことはない。
研究内容の不備を指摘しただけだ。
本人の将来を考えて、厳しく伝えている。
曖昧なまま社会に出すほうが無責任だ。
大学側も、最後には柏木の説明を受け入れた。彼の授業は人気もあった。メディア出演歴もあり、外部資金も取ってくる。厳しいが実績のある教員。大学という組織は、そういう人間を簡単には手放さない。
七月九日、木曜日。
午後十一時五十八分。
柏木は研究室にいた。
京東文化大学の社会情報学部棟は、夜になると妙に乾いた音がした。昼間は学生の声やエレベーターの到着音、コピー機の駆動音が重なっているが、深夜になると空調の低い唸りだけが残る。時折、建物のどこかで配管が鳴った。水が流れたような音にも、人が歩いたような音にも聞こえた。
柏木の研究室は七階の奥にある。
机の上には、学生のレポートが積まれていた。ノートパソコンの横には、飲みかけのコーヒー。紙コップではなく、大学のロゴが入った白いマグカップだった。
柏木は赤いペンを持ち、レポートの余白に短く書き込んでいた。
根拠不足。
先行研究確認。
結論が飛躍。
要再考。
書きながら、少しだけ疲れを感じた。
もう六十二歳だった。老眼は進み、肩も凝りやすい。若い頃のように徹夜で論文を読むことはできなくなった。それでも、夜の研究室は嫌いではない。誰にも邪魔されずに考えられる時間は、年々貴重になっていた。
スマートフォンが震えた。
机の端で、短く光る。
柏木は赤ペンを置き、画面を見た。
通知元に覚えはなかった。
《WAIT》
柏木は眉を寄せた。
その名前のアプリを入れた記憶はない。そもそも、彼はスマートフォンに余計なアプリを入れない。メール、通話、大学の認証アプリ、ニュース、電子書籍。それくらいで十分だった。
通知文が表示されていた。
あなたは、三瀬莉子さんを死にたい気持ちにさせました。
柏木は、しばらく画面を見つめた。
三瀬莉子。
顔はすぐに思い浮かんだ。二年生。ゼミ希望者。レポートの出来はよくないが、授業には真面目に出ている。三日前の面談で泣いた学生だ。
柏木は小さく息を吐いた。
「またか」
誰かのいたずらだと思った。
学生の間で、教員をからかうようなアプリが流行っているのかもしれない。あるいは、三瀬本人が何らかの相談サイトに書き込み、それを見た第三者が悪ふざけで送ってきたのかもしれない。
柏木は通知を消そうとした。
だが画面が切り替わった。
ご案内を開始します。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
柏木の指が止まった。
白い文字は、黒い背景に浮かんでいた。何かの広告でも、ゲームでもない。画面の上部には時刻だけが表示され、それ以外の操作ボタンが見えない。
「何だ、これは」
声に出すと、研究室が急に静かになった気がした。
柏木はホームボタンを押した。反応しない。電源ボタンを押す。画面は消えなかった。強制終了しようとしても、白い文字が残り続ける。
ご案内中です。
その一文が表示された。
不快感が、首筋を上がってきた。
柏木は椅子から立ち上がり、研究室の電話に手を伸ばした。内線で情報センターに連絡しようとしたのだ。だが受話器を上げた瞬間、通話音が聞こえないことに気づいた。
無音だった。
柏木は受話器を見た。コードはつながっている。壁の端子も抜けていない。
その時、室内の照明が一度だけ瞬いた。
蛍光灯の光が、白から青へ変わるように揺れる。
柏木は天井を見上げた。
次の瞬間、部屋が暗くなった。
完全な停電ではない。非常灯だけが点いている。研究室の入口近くに設置された緑色のランプが、机や本棚をぼんやり照らしていた。窓の外には、夜のキャンパスが沈んでいる。七階から見下ろす中庭には人影がない。
柏木は、急に喉が渇くのを感じた。
廊下で音がした。
かすかな金属音だった。
エレベーターの到着音ではない。誰かが鍵束を持っているような、短く硬い音。
柏木は研究室のドアを見た。
曇りガラスの向こうに、廊下の非常灯が滲んでいる。人影は見えなかった。
だが、誰かがいる。
そう思った。
理由はない。気配というほど曖昧なものでもない。ただ、柏木は理解した。廊下に誰かがいる。こちらが息を潜めているように、向こうも息を潜めている。
柏木はスマートフォンを握り直した。
画面には、相変わらず白い文字が浮かんでいる。
ご案内中です。
柏木は舌打ちし、研究室の固定電話をもう一度確認した。それから、机の引き出しを開けた。中には、古い名刺入れ、印鑑、予備のUSBメモリ、学会でもらったボールペンが入っていた。武器になるようなものはない。
馬鹿馬鹿しい。
自分は何を考えているのか。
学生の悪ふざけに怯えて、六十二歳の大学教授が研究室で武器を探している。
柏木は自分に言い聞かせた。冷静になれ。まず警備室へ行けばいい。廊下に誰かがいたら、声をかければいい。どうせ学生だ。面白半分でやっているだけだ。
それでも、ドアノブに手をかけるまでに数秒かかった。
「誰かいるのか」
柏木はドア越しに言った。
返事はない。
「学生なら、すぐにやめなさい。今なら問題にしない」
やはり返事はない。
柏木はドアを開けた。
廊下には誰もいなかった。
非常灯に照らされた廊下が、奥へまっすぐ伸びている。床は薄い灰色で、昼間よりも妙に広く見えた。研究室の並ぶ廊下は、夜になると病院の通路に似る。人がいるべき場所から人の気配だけが抜け落ちると、建物は別のものになる。
柏木は廊下へ一歩出た。
その時だった。
背後で、スマートフォンが震えた。
柏木は振り返った。
机の上に置いたはずのスマートフォンが、研究室内で光っている。
画面には、新しい文字が表示されていた。
逃げないでください。
ご案内は、まだ完了していません。
柏木は息を呑んだ。
研究室の中に、誰かがいた。
そう気づいた時には、もう遅かった。
黒い影が、本棚の脇から動いた。
柏木は声を出そうとした。だが、喉が張りついたように音が出ない。後ずさろうとして、廊下の壁に肩をぶつけた。
相手の顔は見えなかった。
白いマスク。
黒い帽子。
手袋。
そして、胸元に小さなカメラのようなもの。
柏木は、なぜかそのカメラから目を離せなかった。
撮っているのか。
自分を。
この状況を。
誰に見せるために。
「君は――」
言いかけた言葉は、最後まで形にならなかった。
影が近づいた。
柏木は腕を振り上げ、相手を押し返そうとした。手が何かに当たった。軽い衝撃。相手がよろめく。しかし、次の瞬間には柏木の視界が傾いていた。
頭が壁にぶつかる。
鈍い音がした。
膝から力が抜けた。床に手をつこうとして、指先が滑る。廊下の床が冷たかった。
遠くで、スマートフォンが震えている。
柏木は視線だけを動かした。
研究室の机の上。黒い画面。白い文字。
ご案内を続行します。
柏木は、自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。胸が上下するたびに、喉の奥で変な音がする。立ち上がらなければと思った。警備室へ行かなければ。誰かを呼ばなければ。
影がしゃがみ込んだ。
柏木のすぐそばで、何かを床に置いた。
一枚の紙だった。
白い紙。
印刷された文字。
柏木は読もうとしたが、視界がぼやけていた。眼鏡がずれているのだと気づく。右手を動かそうとしたが、うまく動かなかった。
影が、柏木の耳元に顔を近づけた。
若い男の声がした。
「先生」
柏木の心臓が跳ねた。
学生なのか。
自分の教え子なのか。
声には聞き覚えがなかった。だが、若い。少なくとも柏木よりははるかに若い。
「ご案内って、いい言葉ですよね」
男は静かに言った。
「人って、命令されると腹が立つんです。でも案内されると、なぜか従う。こちらです、って言われると、みんなそっちへ歩く。死ぬ時でさえ」
柏木は唇を動かした。
やめろ、と言ったつもりだった。
声にはならなかった。
「三瀬莉子さんは、死にたいそうです」
男の声は、少しだけ弾んでいた。
「でも、死ぬのは彼女じゃない」
柏木の視界の端で、スマートフォンの画面がまた変わった。
今度の文字は、少し長かった。
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
柏木は、その文字を最後まで読むことができなかった。
*
午前零時三十八分。
社会情報学部棟の警備員は、七階の廊下で柏木修一を発見した。
最初は転倒事故だと思った。
柏木は研究室の出入口近くに倒れていた。身体の半分は廊下、半分は室内に入っている。右手は何かを掴もうとするように伸び、左手は胸の下に折り込まれていた。眼鏡は顔から外れ、数十センチ先の床に落ちていた。
床に大量の血はなかった。
だが、柏木は動かなかった。
警備員は何度も名前を呼んだ。
「柏木先生。柏木先生」
返事はない。
携帯電話で救急へ連絡しながら、警備員は柏木の首筋に手を伸ばした。脈を探そうとして、すぐに手を引っ込める。触れていいのか分からなかった。救急隊員でも医師でもない。ただ、死んでいるのではないかという直感だけがあった。
その時、警備員は床の紙に気づいた。
柏木の右手の近くに置かれている。
A4のコピー用紙。
白い紙。
中央に、黒い文字。
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
警備員は、その意味を理解できなかった。
理解できなかったが、背筋が冷たくなった。
誰かが意図して置いた紙だ。事故ではない。少なくとも、ただ倒れただけではない。
警備員は震える指で、警察にも通報した。
通話中、柏木のスマートフォンが鳴った。
警備員は思わず画面を見た。
黒い背景に、白い文字が浮かんでいた。
次のご案内まで、しばらくお待ちください。
警備員は悲鳴に近い声を上げ、スマートフォンから後ずさった。
その拍子に、廊下の壁へ肩がぶつかった。壁に設置された防犯カメラが、赤い小さなランプを点滅させている。
ただし、その時間帯の映像は、後に確認できなかった。
柏木修一が倒れるまでの十二分間だけ、七階廊下のカメラは記録を失っていた。
*
同じ頃。
三瀬莉子は夢を見ていた。
大学の廊下を歩いている夢だった。廊下の突き当たりに、柏木修一が立っている。手には赤ペン。いつものように、表情は穏やかだった。
「三瀬さん」
柏木が言う。
「君はまだ、自分の言葉を持っていない」
莉子は逃げようとした。
だが足が動かない。廊下がどんどん伸びていく。左右の教室の扉が、次々と閉まる。柏木との距離だけが縮まらない。けれど声は近づいてくる。
「泣いても評価は変わらないよ」
やめてください、と言おうとした。
その時、柏木の背後に黒い画面が浮かんだ。
白い文字。
ご案内は完了しました。
莉子は目を覚ました。
息が乱れていた。頬が濡れている。部屋は暗いままだった。スマートフォンが布団の端で光っている。
午前零時五十六分。
通知が一件。
莉子は、寝ぼけたまま画面を見た。
《WAIT》
あなたの苦しみは確認されました。
ご案内は完了しました。
莉子は、最初、その意味が分からなかった。
しばらくして、心臓が強く鳴り始めた。
画面を閉じようとした。閉じられなかった。電源を切ろうとした。切れなかった。黒い背景に白い文字だけが残る。
莉子はスマートフォンを床に落とした。
プラスチックのカバーが、薄い音を立てた。
部屋の中は静かだった。
向かいのマンションの廊下灯。
床に落ちたスマートフォン。
黒い画面。
白い文字。
莉子はベッドの上で、両手を口に当てた。
違う。
そう思った。
違う。そういう意味じゃない。私は、先生に死んでほしかったわけじゃない。ただ、もう会いたくなかっただけだ。ただ、怖かっただけだ。ただ、誰かに分かってほしかっただけだ。
莉子は震える手でスマートフォンを拾い上げた。
画面には、もう別の文字が表示されていた。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
「いや」
声が漏れた。
「いや、いや、いや……」
莉子は画面を叩いた。何度も叩いた。アプリを閉じようとした。削除しようとした。検索履歴を消そうとした。けれど何をしても、黒い画面は戻ってくる。
やがて、画面の下に小さな文字が現れた。
共有しますか?
莉子は息を止めた。
共有ボタンの下には、短い文章が自動で作られていた。
死にたいと登録したら、原因の人が消えました。
莉子はスマートフォンを投げた。
今度は床ではなく、壁に当たった。画面に細いひびが入った。それでも白い文字は消えなかった。
莉子はベッドから降り、部屋の隅にしゃがみ込んだ。
膝を抱え、耳を塞いだ。
自分は何もしていない。
自分は殺していない。
ただ、死にたいと書いただけだ。
ただ、名前を書いただけだ。
ただ、苦しいと送っただけだ。
だが、どれだけ心の中で繰り返しても、その言葉は莉子自身を救わなかった。
*
柏木修一死亡の第一報が、大学関係者の間に流れたのは午前二時過ぎだった。
公式発表ではない。
警察車両が大学に入った。
社会情報学部棟の七階が封鎖された。
柏木先生が倒れていたらしい。
救急車が来た。
亡くなったらしい。
事件かもしれない。
情報は、廊下を歩くよりも早く流れた。
誰かが見たこと。
誰かが聞いたこと。
誰かが想像したこと。
それらは区別されないまま、短い文章になっていく。
午前三時十二分。
匿名掲示板に最初の書き込みがあった。
【京東文化大の柏木、死んだってマジ?】
五分後。
【七階封鎖されてる。救急と警察来てた】
さらに三分後。
【学生追い込んでたって噂の先生?】
午前三時二十六分。
短文SNSに、誰かがこう投稿した。
柏木先生の件、《WAIT》関係ある?
その投稿には、最初ほとんど反応がなかった。
午前三時三十一分。
別のアカウントが書いた。
死にたいって入力すると、原因の相手が死ぬアプリあるって聞いたんだけど、あれガチ?
午前三時四十分。
さらに別の投稿。
友達が《WAIT》に登録したあと、嫌いな教授が死んだって泣いてる。怖い。誰か知ってる?
午前三時四十七分。
誰かが、ふざけた調子でまとめた。
つまり、
死にたいってアプリに登録
↓
原因の相手が死ぬ
↓
ご案内完了
ってこと?
午前三時五十分。
最初の拡散が起きた。
投稿は一気に共有された。
誰も事実を確認していない。
誰も柏木修一の死因を知らない。
三瀬莉子の名前も、まだ出ていない。
それでも、人々は物語を見つけた。
死にたい人を救うアプリ。
加害者を処刑するアプリ。
苦しめた側が、代わりに死ぬアプリ。
分かりやすく、怖く、少しだけ気持ちがよかった。
誰かが書いた。
これ本当なら、世の中ちょっと良くなるんじゃない?
別の誰かが返した。
良くなるかは知らんけど、使いたい奴はいっぱいいるだろ。
その下に、さらに短い投稿がついた。
次のご案内、誰?
*
午前四時二分。
莉子の部屋のスマートフォンが、また震えた。
莉子は部屋の隅にしゃがみ込んだまま、動けずにいた。画面を見るのが怖かった。けれど見なければ、もっと怖かった。
ひびの入った画面に、白い文字が浮かんでいる。
ご利用ありがとうございました。
あなたの苦しみは、正しく処理されました。
その下に、新しい一文があった。
次の苦しみを受け付けます。
莉子は震える指で、スマートフォンに触れた。
画面が切り替わった。
入力欄が表示される。
死にたい理由を入力してください。
莉子は喉の奥から、声にならない音を漏らした。
柏木が死んだかどうか、彼女はまだ知らない。
それでも、何かが終わったことだけは分かった。
そして、終わったはずのものが、まだ続くことも分かった。
莉子はスマートフォンを見つめた。
入力欄の下には、前と同じ注意書きがあった。
あなたを死に追い込んだ人を、こちらで確認します。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
その白い文字は、もう画面の中だけにあるものではなかった。
莉子の部屋の壁にも、布団にも、床にも、自分の手の甲にも、同じ言葉が貼りついているように見えた。
夜明け前の東京で、一人の教授が死んだ。
まだ誰も、それを連続殺人の始まりとは呼ばなかった。
けれどネットでは、もう次の誰かが検索を始めていた。
死にたい。
消えたい。
許せない。
あいつのせい。
《WAIT》。
そして、どこかの暗い部屋で、一人の男が画面を見ていた。
投稿の数字が増えていく。
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引用。
閲覧数。
男は、モニターの前で笑った。
ようやく、誰かが見てくれた。
その顔は、画面の光に照らされていた。
名前はまだ、誰にも呼ばれていない。
だが男は、もう自分が物語の中に入ったつもりでいた。
画面の中央に、自分で作った文字列が表示されている。
次のご案内まで、死んでお待ちください。
男はキーボードに指を置いた。
次の登録者は、すでに現れていた。




