第二話 新しい医者
その名前を、三枝は講堂のいちばん後ろの席で聞いた。
四月の最後の週だった。昼休みの院内説明会に、医師と看護師が百人ほど集まっていた。壇上で病院長の戸田が、画面を指していた。
「診療支援システム、アスクレピオス。来週から、画像診断と治療計画の支援に使います」
戸田は六十を過ぎた内科医で、話が短い。それがこの病院で好かれている理由の一つだった。
「見落としを減らすこと。それから、皆さんの夜を少しでも短くすること。目的はその二つです」
前の席で誰かが小さく笑った。当直明けの顔が、何人か並んでいた。
隣の高野が、手元の資料をめくりながら声を落とした。
「アスクレピオスって、ギリシャ神話の医者の神様ですよね」
「そうらしいな」
「死んだ人を生き返らせて、それで神に罰せられたんです。雷で」
三枝は答えなかった。
壇上の画面には、人の手と光の線を組み合わせた図が映っていた。誰が描いたのか分からない、明るい絵だった。
*
稼働して三日目の朝、三枝の画面に通知が出た。
導入にあたって、システムは過去一か月分の画像を読み直していた。その中に一件、確認を求める印がついていた。
森川の、胸のレントゲンだった。
四月の初めに、咳が続くというので撮ったものだ。三枝が読み、異常なしと書いた。
画像を開いた。右の肺の上のほう、鎖骨と肋骨の影が重なるあたりに、黄色い丸がついている。
三枝は画像を拡大した。
さらに拡大した。
骨の影の縁に、もう一つ、淡い影があった。一センチに満たない。言われなければ、骨の一部に見える。
三枝はしばらく、その影を見ていた。
「本当だな」
声に出したのは、それだけだった。
後ろで画面をのぞいていた高野が、何か言いかけてやめた。
*
森川は、その日の午後に来た。帽子を膝の上で両手に持っていた。
三枝は画面を森川のほうへ向けた。
「先月撮った胸の写真です。ここに、小さな影があります」
森川は目を細めた。
「どこですか」
「ここです。骨の影と重なっています。先月、私が見落としました」
森川は画面と三枝の顔を、交互に見た。
「先生が、見つけてくれたんですか」
「いいえ。新しい機械が見つけました。見落としたのは私です」
診察室が静かになった。
三枝は続けた。悪いものと決まったわけではないこと。大きさからすれば、急いで詳しく調べるべきこと。呼吸器の専門の先生に診てもらうこと。
森川は黙って聞いていた。それから、帽子のつばを指でなぞった。
「今月、孫と飯を食うんです。初任給で、ごちそうしてくれるって」
「いつですか」
「十七日です。土曜日の」
三枝は予約の画面を開いた。呼吸器内科の空きを探し、二つ候補を出し、一つを消した。
「検査は十四日の水曜日にします。十七日は、行ってください」
森川はうなずいた。何度かうなずいて、帽子をかぶった。扉の前で一度振り返り、頭を下げて出ていった。
高野は、閉まった扉を見ていた。
「悔しくないんですか」
「何が」
「機械に、見落としを見つけられて」
三枝は次の患者のカルテを開いた。
「見落としが一つ減った。それだけだ」
*
小野寺真理の精密検査は、五月の連休明けに組まれた。
予約を決めるとき、真理は鞄から一枚の紙を出した。店の営業時間を印刷した、手のひらほどの紙だった。
小野寺洋菓子店。営業、十時から十九時。定休日、火曜日。裏に手書きで、焼き菓子の仕込みの曜日が書き足してあった。
「火曜なら、いつでも来られます。ほかの日だと、午後の焼きが終わってからなら」
三枝は紙を受け取り、しばらく見ていた。
それから、検査の枠を火曜日の午前にまとめた。造影剤を使った断層撮影と、心臓のくわしい超音波検査。採血。一日で終わるように組んだ。
「火曜日に全部済ませます。午後はお休みになれるように」
「お休みの日ですから」真理は笑った。「休みの日に病院って、なんだか損した気分」
三枝は返事をしなかった。営業時間の紙を、カルテの横に置いたままにした。
*
――新聞は、机の上に音を立てて置かれた。
二〇二二年の秋。東京の病院の医局だった。窓の外はもう暗く、机の上の電気だけが点いていた。
「読めよ」
黒田剛志が言った。三十九歳の黒田は、今より肩が厚く、今より声が大きかった。
「お前の顔が真ん中だ」
見出しが見えた。神の手。写真の中に五人がいた。黒田と、水城と、片桐と、藤堂と、真ん中に自分。
三枝は新聞を机の端へずらした。
「明日の患者の画像は」
「お前な」
「三件目の、造影の画像だ。まだ見ていない」
黒田は大きく息を吐き、新聞をたたんで自分の鞄に入れた。
「俺が取っておいてやる」
三枝は画面を開いた。心臓の画像が、黒い背景に浮かび上がった。
記事は、最後まで読まなかった。
*
火曜日の夕方、真理の検査結果がそろった。
三枝は診察室で一人、画像を開いた。
断層画像の中で、大動脈の根元がふくらんでいた。計測の線を引く。五十二ミリ。超音波の結果には、逆流の程度が書かれていた。中等度から、高度。
アスクレピオスの解析結果が、画面の右側に並んでいた。
大動脈二尖弁。大動脈基部拡大。大動脈弁逆流。
その下に、小さな文字の注記が一行あった。
――弁尖癒合部付近に組織の菲薄化の可能性。
三枝はその一行を一度だけ読んだ。画像を拡大してみたが、薄いと言われればそうも見え、そうでないと言われればそうも見えた。
注記を閉じた。
カルテの横に、営業時間の紙が置いてあった。定休日、火曜日。
三枝は所見を打ち込んだ。大動脈二尖弁。大動脈基部径、五十二ミリ。大動脈弁逆流、中等度から高度。労作時の息切れあり。
打ち終えて、指を止めた。
手術を考えなければならない条件が、すべて揃っていた。
第二話 完




