第一話 白衣の男
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・企業・地名・事件は、実在のものとは一切関係ありません。作中の制度・業務の描写には、物語上の創作が含まれます。
四月の朝は、まだ外来棟の床が冷たい。
県立青葉総合医療センターの総合診療科は、一階のいちばん奥にある。廊下の突き当たり、自動販売機の手前。窓の外では、散り遅れた桜が数枚、駐車場の白線の上を転がっていた。
午前八時半。三枝修一は、一人目の患者の腕に血圧計の帯を巻いた。
自動で測れる機械は、診察室の隅にある。三枝はそれを使わない。帯を巻き、球を握り、聴診器を肘の内側に当てる。目盛りの針が落ちていくのを、黙って見る。
「百四十二の、八十」
森川という八十二歳の男は、満足そうにうなずいた。
「先生に測ってもらうと、下がる気がするんですよ」
「下がってはいません」
「そうですか」
森川は笑った。三枝は画面に数字を打ち込み、薬の袋の残りを数えた。朝の分が、四日ぶん余っている。
「朝、飲み忘れていますね」
「いやあ。孫がね、就職が決まりまして」
話はそこから始まった。孫は東京の会社に入る。電車の会社だという。入社式には背広を新調した。その背広の色を、森川は三度言い直した。
三枝は画面を閉じた。
背中のほうで、専攻医の高野圭が小さく身じろぎした。二十七歳。この春から三枝の外来についている。高野の目が、扉の上の表示に向いているのが分かった。待ち人数、十四。
三枝は森川の話を最後まで聞いた。背広は紺だった。
「朝の薬は、歯を磨いたあとに飲んでください。歯ブラシの横に置いておく」
「歯ブラシの横」
「そうです」
森川は何度か繰り返し、帽子をかぶって出ていった。
高野が口を開きかけた。
「次の人を呼んでくれ」
三枝はそれだけ言った。
*
小野寺真理は、白いシャツの袖を肘までまくって入ってきた。
三十九歳。問診票の職業欄には、几帳面な字で「自営(洋菓子店)」とある。椅子に座ると、かすかに甘い匂いがした。バターか、焼いた砂糖か。三枝には区別がつかなかった。
「健診で、心臓の音がどうとか言われて」
真理は封筒から健診結果を出し、机の上に置いた。心雑音、要精密検査。去年の欄にも同じ印があった。
「去年も言われていますね」
「言われました」真理は少し笑った。「忙しくて。来週でもよかったんですけど、今日たまたま時間ができたので」
「今日でよかったと思います」
三枝は聴診器を首から外した。
「服の上から失礼します」
真理は背筋を伸ばした。三枝は聴診器の膜を、胸の上に当てた。
規則正しい音が来る。一つ目の音、二つ目の音。
「朝が早いんです。仕込みが五時からで」真理は話し続けた。黙っていられない人なのだろう。「最近、粉の袋を運ぶと息が上がっちゃって。二十五キロのやつなんですけど。年ですかね。主人には運動不足だって言われて」
三枝の手が止まった。
二つ目の音のあとに、何かがある。息を吹きかけるような、ごく細い音。消えていく音だった。
三枝は聴診器を胸骨の左の縁へ移した。
「少し前かがみになってください。息を吐いて、そこで止めて」
真理は言われたとおりにした。
診察室が静かになった。廊下で誰かが名前を呼ばれている。自動販売機が缶を落とす音がした。
三枝は聴いていた。
拡張期の、細い雑音。心臓が血を吸い込むとき、本来は閉じているはずの扉から、わずかに漏れ戻る音だった。
「楽にしてください」
真理は息を吐き、少し咳をした。
「何か、ありました?」
「心臓の超音波の検査をします。今日、このあと」
「今日ですか」
真理は腕時計を見た。
「午後に焼くものがあって」
「今日です」
三枝の声は大きくなかった。真理はしばらく三枝の顔を見ていたが、やがてスマートフォンを取り出した。
「ちょっと、主人に電話してきます。オーブン、任せられるかどうか」
真理が出ていくと、高野が言った。
「何か聞こえたんですか」
「聞こえた」
三枝は検査の依頼を打ち込んだ。それ以上は言わなかった。
*
昼過ぎ、医局の窓際で高野はタブレットを見ていた。
午前の外来で、三枝は一度も時計を見なかった。それなのに外来は、予定より二十分早く終わった。患者の話は長いのに、診察は短い。どうしてそうなるのか、高野にはまだ分からなかった。
何となく、名前を検索した。
三枝修一。
画面に出てきたのは、九年前の新聞記事だった。
見出しには「神の手」とあった。東京の病院の、心臓血管外科。誰も引き受けなかった難しい手術を、五人の医師が成功させたという記事だった。写真の中央に、手術着の男がいる。今より髪が黒く、今より痩せていた。
高野は写真を拡大した。
間違いなかった。
「あら、知らなかったの」
背後から声がした。外来看護師の宮下が、湯呑みを持って立っていた。この病院に三十年いる人だった。
「五年前に来たのよ、先生。最初の日に、外科の部長が挨拶に来てね。手術室の見学をどうぞって。先生、断ったの」
「断った」
「ええ。総合診療で来ましたからって」
宮下はお茶をすすり、それ以上は何も言わなかった。
*
夕方、外来の最後の患者が帰った。
三枝は診察室の流しで手を洗っていた。
指を一本ずつ。爪の先まで。診察室の手洗いにしては、少し長かった。
「先生」
三枝は手を止めなかった。
「どうして、手術を辞めたんですか」
水の音だけがした。
三枝は蛇口を閉め、紙で手を拭いた。机に戻り、カルテの画面を開いた。森川の血圧の数字が出ていた。百四十二の、八十。
答えはなかった。
高野は、それ以上聞けなかった。
三枝は画面を見ていた。
見ているのは数字ではなかった。
――光。
頭上から降りる、影のできない白い光。無影灯の下で、誰かの胸が開いている。手袋の指先が赤い。モニターの音が規則正しく鳴っている。
「三枝、閉じるぞ」
低い声がした。
三枝はうなずいた。助かった、と思った。あのときは、確かにそう思った。
――蛇口から、残った水が一滴落ちた。
三枝は画面を閉じた。
*
内線が鳴ったのは、六時を少し過ぎたころだった。
生理検査室の技師からだった。
「先生、小野寺さんの心エコー、終わりました。ちょっと見てもらえますか」
技師の声は落ち着いていた。落ち着いた声で呼ばれるときのほうが、悪い。三枝は長い年月で、それを知っていた。
検査室は二階にある。照明が落としてあり、画面だけが青白く光っていた。真理はもう着替えて、廊下の長椅子で待っているという。
「基部が太いです。五センチ、少し超えてます。それと、これ」
技師が画面を切り替えた。
心臓を輪切りにした像だった。大動脈の出口が、黒い円になって映っている。その中で、弁が開き、閉じる。
開く。閉じる。
三枝は画面に顔を近づけた。
人の大動脈弁は、ふつう三枚の薄い膜でできている。閉じれば、三本の合わせ目が中央で寄り合う。
画面の中の合わせ目は、一本しかなかった。
開くと、細長い楕円の口になる。魚が水面で口を開けるように。
三枝は何も言わなかった。
技師も、何も言わなかった。
廊下の向こうで、真理がまた誰かに電話をしている声がした。オーブンの温度のことを話していた。百七十度。いや、百六十度。
心エコーの画面に、二枚しかない大動脈弁が映っていた。
第一話 完




