第三話 一枚の紙
説明の日は、五月の半ばの水曜日だった。
午後の焼きが終わってから、と真理は言った。診察室に入ってきたのは四時過ぎで、シャツの袖口に白い粉が少し残っていた。
三枝は画面を真理のほうへ向けた。
「これが、あなたの心臓の出口です」
断層画像の中で、大動脈の根元が丸くふくらんでいた。三枝は指で、そのふくらみの輪郭をなぞった。
「心臓から出ていく、いちばん太い血管です。普通は、ここまで太くありません。それから、出口にある弁が二枚しかない。生まれつきのものです。そのせいで、閉じきらずに、血が少しずつ心臓へ戻っています」
真理は画面を見ていた。うなずきもしなかった。
「粉の袋で息が上がるのは、そのためだと思います」
「年じゃなかったんですね」
「年ではありません」
真理は小さく笑った。笑って、それから黙った。
「血管がこれ以上ふくらむと、裂けることがあります。弁の逆流も進んでいます。手術が必要になる可能性が高い」
三枝は言葉を選ばなかった。選んで柔らかくした言葉は、あとで患者を迷わせる。
真理は膝の上で両手を組んだ。指の関節が、少し白くなった。
長い間があった。廊下を、ストレッチャーの車輪が通り過ぎていった。
真理が口を開いた。
「店は、どうなりますか」
三枝は、すぐには答えなかった。
*
――二〇二三年、十月。
救急の扉が開いたのは、夜の十一時を回ったころだった。
担架の上の女は、若かった。服の胸もとが切り開かれ、救急隊員が何かを叫んでいた。モニターの数字が下がっていく。
胸の大きな血管が傷ついていた。どうしてそうなったのか、救急隊員は短く告げた。三枝はそれを聞き、聞いたことを頭の奥へしまった。いま必要なのは、そこではなかった。
「やる」
黒田が言った。画像を一枚見ただけだった。
「間に合う。三枝、お前が開けろ。俺が前に立つ」
水城がすでに麻酔の準備を始めていた。片桐が画像を読み上げ、損傷の位置を告げた。藤堂は集中治療室に電話をかけ、ベッドを一つ空けさせていた。
五人は、言葉をほとんど交わさなかった。交わす必要がなかった。
手術は四時間かかった。
無影灯の下で、三枝は傷ついた血管を縫った。血が止まり、心臓が自分の力で打ち始めた。モニターの音が、規則正しくなった。
「三枝、閉じるぞ」
黒田の声がした。三枝はうなずいた。
助かった、と思った。
明け方、廊下の長椅子に、女の母親が座っていた。小さな人だった。三枝はその前に立ち、マスクを外した。
「手術は終わりました。助かりました」
母親は三枝の顔を見上げ、それから深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
女の名前は、篠原遥といった。二十九歳だった。
*
遥は三日目に目を開けた。
藤堂美咲は、そのとき枕元にいた。遥は天井を見て、それから藤堂を見た。何も言わなかった。
遥は、ほとんど話さなかった。痛みを聞けば、首を小さく振る。眠れたかと聞けば、うなずく。どちらも本当ではないことを、藤堂は知っていた。
精神科の医師が毎日来た。臨床心理士も来た。病棟の看護師たちは、交代で遥の部屋をのぞいた。
二週間目に、遥は一つだけ頼みごとをした。
「鉛筆、ありますか」
藤堂が持っていくと、遥は枕元の「入院のしおり」を開いた。病院が患者に配る、十数ページの冊子だった。
遥は、その冊子に鉛筆で印をつけ始めた。
翌朝、藤堂は冊子をのぞいた。余白に、細い字が並んでいた。「面会時刻」の「刻」が一か所だけ「時」になっていること。句読点の位置。同じ言葉の、送り仮名の揺れ。
遥は小さな出版社で、原稿の誤りを直す仕事をしていたという。母親から聞いた話だった。
「すごいね。誰も気づかなかった」
藤堂が言うと、遥は少しだけ口もとを動かした。笑ったのかどうか、藤堂には分からなかった。
三枝は毎日、回診の最後に遥の部屋に寄った。傷を見て、胸の音を聞く。経過は良かった。身体は、教科書どおりに回復していった。
ある日、三枝が部屋を出ようとしたとき、遥が言った。
「先生」
三枝は振り返った。
遥は何か言おうとしていた。唇が動きかけ、止まった。
「いえ。何でもないです」
三枝はしばらく待った。遥はもう、窓の外を見ていた。
その日、三枝はそれ以上聞かなかった。
あとになって、何度もその場面を思い出すことになる。思い出すたびに、聞けばよかったのか、聞かなくてよかったのか、分からなくなる。
*
十二月の初めの朝、遥は亡くなった。
見回りと見回りの、あいだのことだった。
病棟は静かだった。誰も走らなかった。走るべき時間は、もう過ぎていた。
ベッドの上に、紙が一枚残っていた。
入院のしおりの、最後のページを切り取ったものだった。余白に、あの細い鉛筆の字があった。誤りのない、きれいな字だった。
――なぜ、死なせてくれなかったんですか?
三枝は、その紙を見つめた。
どのくらいそうしていたのか、分からなかった。紙は軽かった。軽いのに、手から離れなかった。
藤堂は部屋の隅に立っていた。手の中に、遥に貸した鉛筆があった。返してもらっていなかった。
水城は廊下の壁にもたれ、目を閉じていた。
「記録は残ってる。診察も、申し送りも。全部、決められたとおりだった」
水城は壁から背中を離した。
「それで、何が足りなかったんだろう」
片桐は何も言わなかった。
黒田が、三枝の隣に来た。紙を見て、三枝の顔を見た。
「俺たちは、間違ったことをしたわけじゃない」
低い声だった。
「あの夜、あの人は死にかけてた。俺たちは助けた。それは、間違いじゃない」
三枝はうなずいた。
うなずくほかに、何もできなかった。黒田の言葉は正しかった。正しいと分かっていた。
紙は、まだ三枝の手の中にあった。
助かった、と思ったのだ。あの明け方、母親の前でも、そう言った。
三枝は紙を折らずに、机の上へ置いた。
入院のしおりは、遥のベッドの棚に残っていた。藤堂がそれを手に取り、ページをめくった。
最後から二ページ目の余白に、鉛筆の印が一つあった。「退院後の生活について」という見出しの、「後」の字に小さな丸がついていた。
何の誤りなのか、藤堂には分からなかった。
*
――二〇三一年、五月。
「店は、どうなりますか」
真理の声は、静かだった。
三枝は画面から目を離し、真理を見た。
「手術のあと、しばらくは休んでいただくことになります」
「しばらくって、どのくらいですか」
「手術の方法によって違います。まだ決まっていません」
真理はうなずいた。何度か、うなずいた。
それから鞄を持って、立ち上がった。扉のところで振り返った。
「先生」
三枝は顔を上げた。
真理は何か言おうとしていた。唇が動きかけ、一度止まった。
三枝は、待った。
あのときより、長く待った。
「私、また店に立てますか」
診察室の窓から、西日が斜めに入っていた。机の上の営業時間の紙が、半分だけ光っていた。
三枝は答えた。
「そのための治療を考えます」
第三話 完




