第七話「抗う心」
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赤く滲んだ視界が、闇に溶けていく。
息が、できなかった。そこまでは覚えている。首に食い込む指の感触、すぐ間近で燃えていた、あの瞳――それきり、何もかもが途切れた。
だが、ここはどこだ。
重さも、匂いも、何ひとつ感じられない。上も下も分からないまま、ただ闇の中に浮かんでいるような感覚だけがあった。怖いはずなのに、その怖さの実感すら、どこか遠くにある。
闇の一点が、ゆっくりと蠢いた。滲むように色を帯び、輪郭を持ち始める。
浮かび上がったのは、黒紫の肌と、一対のくの字に曲がった角――ザガリアだった。
「あなたは、もう――私の人形」
囁くような声とともに、ザガリアが指先を軽く振る。何もない虚空に、黒い靄が渦を巻きながら、等身大の鏡が浮かび上がった。
(見たくない)
そう思うのに、視線を逸らせない。鏡に映っていたのは――うっすらと青みを帯びた銀色の髪を垂らした、あの少女の姿だった。
見た瞬間、全身を稲妻のような激痛が貫いた。
「あ、ああああッ!」
膝から、力が抜けていくのが分かる。受け身も取れないまま、体ごと地面に叩きつけられる感覚があった。骨という骨が軋み、内側から灼かれるような熱が這い上がってくる。何度味わっても、慣れることのない痛みだった。
倒れ伏した俺を、鏡の中の少女が見下ろしていた。
「私は、ザガリア様に従う人形」
抑揚のない声で、そう告げてくる。
「……違う」
激痛に喘ぎながらも、声を絞り出す。
「違う……! 俺は、そんなものじゃない!!!」
鏡が、甲高い音を立てて砕け散った。
「あなたが、私の為に戦うと決めたのでしょう――?」
ザガリアの声とともに、頭が割れるような痛みが走った。
同時に、何かが、頭の中へなだれ込んでくる。
――魔法少女に襲われ、殺されかけたところを、ザガリアに救われた。恩を返すため、この身を差し出し、実験を受け入れた。
まるで本当にあったことのように、鮮明な映像が流れ込んでくる。ザガリアの指先の感触、交わした言葉、頷いた瞬間の安堵感――そのすべてが、記憶として胸の奥に馴染んでいくのが分かった。
(そう、だ……俺は――)
流されかけた、その時。
滲んだ視界の隅に、別の光景が割り込んできた。
意識を失いかけながら、それでもこちらへ手を伸ばそうとする、サファイアさんの姿。あの夜、最後に見た光景だった。
(――違う)
その一瞬の光景だけで、頭の中を満たしていた偽りの記憶が、音を立てて崩れていく。
「そんな過去は、ない」
震える声で、そう言い切る。それでも、まだ足に力が入らない。
「俺は……サファイアさんを、助ける」
奥歯を噛みしめ、痛みに引き攣る体を、無理やり引き起こす。
「――俺の答えは、変わらない」
「助ける? ――あなたのせいで、サファイアはこうなったのに」
愉しげなザガリアの声が、闇の奥から響く。それに応えるように、すぐ目の前の闇が弾けるように裂け、見覚えのある影が現れた。
サファイアさんだった。
燃えるような瞳の奥に、涙の膜が張っているのが見えた。伸びてきた手が、迷いなく喉に食い込んだ。
「あ、が……っ」
「あなたのせいで……あなたのせいで、私はこうなった……!」
怒りに震える声の底に、堪えきれない哀しみが滲んでいた。「あなたのせいで」というその一言だけが、掠れて震える声で、何度も何度も繰り返される。
後悔と罪悪感が、抵抗する気力ごと押し潰しそうになる。それでも俺は、両手を持ち上げ、喉に食い込むサファイアさんの手を、その上からそっと包み込むように握った。振り解こうとはしない。ただ、指先に触れる彼女の手の震えを、感じ取ろうとした。
視界が滲んでいくのが分かる。込み上げてくるものを、奥歯を噛んで堪えながら、それでも頬が引きつるように持ち上がっていく感覚があった。
「必ず……あなたを、助け……てみせます」
うまく笑えている自信はなかった。それでも、精一杯の笑みのつもりで、彼女を見つめ返す。
俺を睨みつけたまま黙り込むサファイアさんの後ろで、ザガリアが小さく息を吐いた。
「諦めが悪いこと。……なら、もっと痛い思いをすることになるわよぉ」
愉しげな声を最後に、ザガリアの姿が闇へと溶けて消えていく。同時に、喉を締め上げていたサファイアさんの手の感触も、すっと失われた。
ザガリアを呑み込んだその闇が、今度は四方から俺自身に押し寄せてくる。抗う間もなく、全身が呑み込まれていった。
閉じ込められた、と自覚する間もなく、何かが体の中に流れ込んでくる感覚があった。
生温かいような、それでいて凍えるような、矛盾した感触。それが体の奥深くまで染み込むたび、燃えるような激痛が全身を貫いた。
「あ、が――ッ!」
悲鳴にもならない声が漏れる。骨の一本一本が軋み、内側から作り替えられていくような、そんな感覚だった。
流れ込んでくるたびに、何かが――体の奥から、静かに抜け落ちていく気配があった。温かい何かの断片のような、名前も顔も思い出せない、ずっと昔に置き忘れてきたはずの記憶。それが何なのか、確かめる余裕はなかった。ただ、抉り取られるたびに、自分という輪郭が少しずつ薄くなっていくような、そんな心許なさだけが残った。
痛みに喘ぎながら、意識が焼き切れそうになる。
それでも、胸の奥に、小さな熱を感じた。
目を凝らす余裕もないまま、その熱に引き寄せられるように視線を落とす。胸の中央――そこに埋め込まれたはずの宝石が、脈打つように熱を放ち、淡い光を灯していた。
考えるより先に、手が動いていた。震える指先で、その光に触れる。
「へん、しん――」
自分の声とは思えないほど掠れた呟きが、唇から零れ落ちた。意味も分からないまま、ただ体の奥から込み上げてくる衝動に従っただけの言葉だった。
その瞬間、全身を焼いていた激痛が、嘘のように止んだ。
眩しいほどの白に、すべてが塗り替えられていく。
――どこか遠くで、声が聞こえた気がした。だが、その感覚も束の間、視界は再び闇に沈んでいった。
何度も書き直してました。




