第六話「手遅れ」
寒い。意識が戻って、真っ先にそう感じたのは、素肌に突き刺さるような冷気だった。重い瞼をこじ開けた瞬間、間近から覗き込む、あの二本角の女の顔と目が合い、全身が総毛立った。
「あらぁ、お目覚めぇ?」
あまりの近さに、反射的に身を捩ろうとするが、拘束具に阻まれ、ろくに身動きが取れない。
「……う、あ……」
喉がひりつくように痛んだ。叫び続けたせいだと、遅れて気づく。まともな言葉にならない呻きが、喉から漏れるだけだった。
「まずは、おめでとうと言っておくわねえ。実験は――大成功よぉ。気絶している間に、色々と検査させてもらったわ。魔素の定着具合とか、身体的な変化とかね」
くすくすと笑いながら、女が指先を軽く振る。すると、何もない虚空に、黒い靄が渦を巻きながら形を成し始めた。それは瞬く間に、等身大の鏡のような輪郭を作り上げていく。
「ほら、見てごらんなさあい。これが、生まれ変わったあなたの姿よぉ」
声も出せないまま、その鏡へと視線を吸い寄せられた。
鏡に映ったのは、台座に一糸纏わぬまま拘束されている少女だった。うっすらと青みを帯びた銀色の髪。白く細い手足。柔らかく膨らんだ胸――その谷間のすぐ上に、紫の菱形の宝石が皮膚に埋まり込んでいるのが見えた。見間違いだと思いたくて、慌てて自分の胸元へ視線を落とす。だが、そこにあったのは紛れもない実物だった。あの時、ヴェインズワースが押し当てたものが、本当に肉へ食い込み、体の一部と化している。そこにいたのは、まったくの別人――性別すら、違っていた。
(嘘だろ……まさか、これが、俺……? も、戻れるのか……?)
こんな姿は自分じゃない――そう思おうとするのに、肌に食い込む拘束具の硬さも、体の芯まで重く沈み込むような気怠さも、生々しいままそこにある。夢であってほしいのに、体だけがそれを許してくれない。
「可愛らしい魔法少女の誕生ねえ」
女が、うっとりとした声で呟いた。まるで極上の見世物でも眺めるように、女は俺を見つめていた。
これから自分がどうなっていくのか、想像すらできない恐怖に、体の震えが止まらない。
それでも、歯を食いしばり、震える声を絞り出した。
「実験は、成功したんだろ……なら、彼女を早く解放してくれ……」
耐え抜いた。あの熱に、あの苦痛に、意識を失うその瞬間まで。縋りたい気持ちを押し殺し、それでも折れない意志だけを込めて、女を睨みつけた。
「……ああ、そうだったわねえ」
女は、愉しげに口の端を持ち上げた。堪えきれない笑みが、その声にまで滲み出ている。
「約束通り解放してあげるわぁ。でも、本人の意思はどうなのかしらねえ? ──瑛守、こちらにいらっしゃい」
扉の向こうから、抑揚のない声が短く返った。
「……はい、ザガリア様」
戸惑う暇もなく、部屋の扉が開く。
ゆっくりと歩み入ってきたのは、あの夜、公園で戦っていた少女だった。だが、その姿はあまりにも変わり果てていた。サファイアブルーの衣装には、黒い茨のような紋様が這うように広がり、長く艶やかな紺青色の髪はそのままに、瞳だけが濁った色に染まっている。あの夜、公園で対峙した時の澄んだ蒼はもうそこになく、濁った色の奥で、迷いのない、奇妙なまでに落ち着いた光だけが揺るがずにあった。
部屋に入るなり、少女はまずザガリアへと深く頭を下げた。忠実な部下そのものの、迷いのない一礼だった。
女は、ゆっくりと少女の背後に回り込む。両手をその肩に乗せると、芝居がかった調子で声を弾ませた。
「じゃーん! 新生サファイアちゃんでーす」
女が、愉快そうに付け加える。
「一度、変身を解いて、ちゃんと名乗ってあげなさいなぁ」
「……はい、ザガリア様」
短い返事とともに、少女の体を黒い光がふわりと包み込み、そのまま淡く弾けて消えた。茨のような紋様が這っていた衣装が霧のように霧散し、代わりに現れたのは、長く艶やかな紺青色の髪をそのままに、ごく普通の私服姿になった少女だった。
少女は、緩慢な動きでこちらへと向き直り、頭を垂れた。
「……はじめまして。後藤瑛守と申します」
その声には、抑揚がなかった。ただ従うことだけを、存在意義とするような、そんな響き。
女が、面白がるような目で彼女を一瞥する。
「ねえサファイア、聞いてちょうだい。そこの彼女、『サファイアが無理やり連れてこられたんだから、今すぐ解放してあげてくれ』って、そう言っているのよぉ」
「……無理やり? いいえ」
彼女は、淀みなくそう答えた。
「私は、自分の意志でここにおります。ザガリア様のもとにいることを、誰かに強いられたことなど一度もございません」
「――ッ、な……なんで……」
「ちゃぁんと、約束通り、助けてあげたわよぉ?」
震える声が、喉から漏れた。ろくに言葉を交わしたこともない相手のはずなのに、彼女がどこかおかしくなってしまったことだけは、痛いほど伝わってきた。
「彼女に……な、何をしたんだ……」
喉から絞り出した声は、震えていた。怒り、後悔、罪悪感。ありとあらゆる感情が、内側でぐちゃぐちゃに混ざり合い、行き場を失っていく。
女は愉しげに目を細めると、身を屈め、俺の耳元へそっと唇を寄せた。
「あの子の記憶を、弄ってあげたのよぉ」
囁くようなその声が、耳の奥にまで染み込んでくる。
「うああああああああッ!」
記憶を、弄った――その言葉が耳の奥で何度も響く。信じた自分が、馬鹿だった。結局この女は、初めから約束を守るつもりなどなかったのだ。悔しさと怒りがない交ぜになり、喉の奥から獣の唸りのような声が漏れているのが分かる。拘束具を引きちぎらんばかりに身を捩るが、伸ばした指先はザガリアに届く前に鎖へ引き戻される。もがくことしかできない――その無力さだけが、いやというほど思い知らされた。
腹の底から込み上げる怒りのまま、ザガリアを睨みつけながら、声を張り上げた。
「戻せよ! 彼女の記憶を、元に戻せ!」
「あはっ……そんな可愛いお顔で睨まれてもねえ……」
女は、堪えきれないというように喉の奥で笑った。愉しむような響きは変わらず、怒りの色など欠片も見えない。むしろ、心底愉快そうだった。
だが、笑っていたのは女だけだった。
「何を仰っているのか知りませんが」
抑揚のなかったその声に、肌がひやりと粟立った。それまで静かに落ち着き払っていた少女から、まるで違う何かが漏れ出している。
その一言を境に、声はみるみる熱を帯びていく。
「よくも、ザガリア様に向かって、そのような無礼を……!」
抑揚のなかったはずの声に、初めて明確な感情――燃えるような怒りが宿っていた。その怒気に呼応するように、少女の体が黒い光に包まれる。瞬く間に私服が掻き消え、サファイアブルーの衣装と黒い茨のような紋様が、その身を覆い尽くした。
一瞬で姿を変えた彼女に、思わず顔を向ける。
迷いのない足取りで詰め寄ってきた彼女の片手が、瞬く間に首へと伸びる。
「え……」
何か言い返す間もなく、細い指が驚くほどの力で喉元に食い込んできた。
「あ、ぐ……っ」
息が、吸えない。視界の端から、赤い靄が滲むように広がっていく。拘束された体では、指の一本さえ振り解けない。
滲む視界の中でも、少女の瞳の色だけは、はっきりと分かった。燃えるような、その色。まっすぐにこちらへ向けられたそれだけで、全てお前のせいだ、と責め立てられているような気がした。抗う術も、目を逸らす自由さえも与えられないまま――俺の意識は、そこで途切れた。




