第八話「服従」
すみません、遅れました。
目を覚ますと、サファイアさんが、こちらを見下ろしていた。
「起きましたね。立てますか?」
「は、は……はい」
慌てて身を起こし、台座を降りた。
「着替えさせておきました。ザガリア様のご命令ですから、感謝はあの方へ」
言われて初めて、自分が何を着せられているのかに気づいた。おそるおそる、視線を落とす。
目に入ったのは、真っ白なワンピースと、膨らんだ胸。フリルが肌をちくちくとくすぐり、丈の短さが妙に心許ない。
(うっ……女物の服……)
「ザガリア様がお呼びです。ついてきてください」
言葉は丁寧なのに、声だけが蔑むような響きをしていた。
促されるまま歩き出す。前を歩くその後ろ姿を、ぼんやりと目で追っていた。
(……演技、なんじゃないのか)
ふと、そんな考えが浮かんだ。記憶を弄られたふりをして、隙を窺っているだけなのではないか。ザガリアたちを油断させるために、わざと冷たく振る舞っているだけなのではないか。
根拠は、何ひとつない。
あの時、変身を解いた彼女が名乗った声が、耳の奥で蘇った。
――後藤瑛守と申します。
ゴトウエマ。
確かめたい、と思った時には、もう口が動いていた。
「あの、エマさっ――」
「黙りなさい」
振り返りざま、光の粒子が散った。喉元に触れた冷たいものが、レイピアの切っ先だと気づく。続く言葉は、喉の奥で凍りついていた。
「私の名前を呼んでいいのは、ザガリア様だけ」
考えるより先に、足が後ろへ下がっていた。思ったところに足は出ず、踵がもつれる。
「うあっ――」
見上げた先で、目が合った。
瞬き一つ、しない。その目にあるのは、敵意だけだった。
切っ先が、光の粒子に解けて消えた。
「ザガリア様を、お待たせするわけにはいきません」
言い捨てて、サファイアさんは歩き出した。手を貸す気配はない。よろけながら、自分で立ち上がる。
(……馬鹿か、俺は)
呼べば応えてくれる。信じれば届く。そういうのは、物語の主人公に許された特権だ。
俺は、その他大勢でしかない。それも、足を引っ張る側の。
それきり、どちらも口を開かなかった。数歩前を行く背を、ただ追った。
辿り着いた先は、場違いなほど豪華な部屋だった。一対のソファと長机、天蓋付きのベッド。足元には毛足の長い絨毯が敷かれ、奥の暖炉で薪が爆ぜている。香でも焚いているのか、むせ返るように甘い匂いが鼻の奥にまとわりついた。
ザガリアはソファに腰を下ろし、手にした書類に目を落としていた。こちらが入っても、しばらく顔を上げない。
やがて、書類が長机に放られた。伏せていた顔が、こちらを向く。
「あら、いいじゃなぁい。よく似合っているわよぉ、その服」
値踏みするような視線が、上から下へとゆっくり這う。褒め言葉のはずなのに、纏わりつくようなそれに、肌が粟立った。
「サファイアは、扉の外で待っていなさぁい」
「はい、ザガリア様」
背後で、扉の閉まる音がした。
「……あなたは、こっちへいらっしゃぁい」
促されるまま、奥へと進む。
「これからあなたには、私のもとで働いてもらうわ。……嫌だなんて、言わないわよねぇ?」
返事を待たれている。暖炉で薪の爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……わ、分かっ……た。従う……」
(サファイアさんを解放しろ)
喉まで出かかったはずの言葉は、声にならなかった。
「『分かりました。従います』、でしょう?」
声の調子は、変わらなかった。
「それにぃ、従うと言うのなら、それなりの態度があるでしょう? ……分からない?」
(態度……?)
「がっ……!」
額に、鈍い痛みが走った。
頬に、絨毯の毛が擦れている。倒されたのだと、遅れて気づいた。
背中を押さえつけられて、体が起こせない。目の端で、空気が黒く濁る。ソファの方は、静かなままだった。
顎の下に、硬いものが差し込まれる。靴の先だった。そのまま持ち上げられ、首だけが仰け反る。
目が、合った。
その目が、細められる。睨まれているのではない、と分かった瞬間、かえって怖くなった。
「……ほんとうに、愚図な子」
けなす言葉とは裏腹に、声は楽しそうだった。新しい玩具でも見つけたような。
「……ああ、そう。こっちの世界じゃあ、主従なんてもう珍しいんだったわねぇ」
自分に言い聞かせるような、独り言の調子だった。
「知らないのなら、仕方ないわねぇ。……安心なさぁい。私、優しいから。一から教えてあげる」
靴の先は、顎を支えたままだった。
「まずは姿勢ねぇ。主の前で立っているなんて、もってのほか。膝をついて、頭を下げるの。……返事は?」
「……は、い……」
自分の声とも思えない、掠れた音が漏れただけだった。
「あらぁ、聞こえなぁい。……もう一度」
顎を支える力が、わずかに増す。首が反り、無理やり喉が開いた。
「わ、分かり、ました……!」
「私を呼ぶときは、必ず『様』をつけるのよぉ。お願いをするときも、返事をするときもねぇ」
背中の重みが、嘘のように消えた。顎から靴の先が離れる。
「さ、やってごらんなさぁい」
伏せたままでは、その表情までは見えなかった。それでも、弾んだ声に滲む恍惚とした響きだけは、嫌でも伝わってきた。
絨毯に手のひらをつく。腕が震える。それでも、上体を起こした。膝は床につけたまま、頭を深く下げる。
「ザガリア……さ……まに……従い、ます……」
「最初からそう言えば、痛い思いしなくて済んだのに――なら、その証を見せてもらおうかしらぁ」
指を鳴らす音がした。
一拍遅れて、俯いた視界に何かが落ちてくる。黒革のチョーカーだった。銀色の留め具が、絨毯の上で鈍く光る。
「これを、自分の手で着けなさい。誰かに着けさせられるんじゃなくて、自分から」
震える手で、それを拾い上げる。厚みのある革の帯に、ベルトと同じ穴が等間隔に並んでいた。
革の表面には、びっしりと細かい模様が彫り込まれている。装飾にしては、妙に規則正しい並びだった。
(こんな悪趣味なもの、着けたくない)
それでも、ゆっくりと首に巻きつける。金具に革の先を通し、穴に留めた。喉元で、革が締まる。
(……まるで、首輪だ)
衣擦れの音と、ソファの軋む音。それが近づいて、すぐ前で止まった。
「次はぁ、あなたの身も、心も――全てを私に捧げなさぁい」
答えられずにいると、耳のすぐそばに息がかかった。
「ほら、片手をこちらに出して。それからこう言うのよぉ。『ザガリア様に、全てを捧げます』ってねぇ」
言われるまま、震える右手を前に差し出した。その手を、冷たい指が掬い上げる。握るというより、絡めとるような手つきだった。
「ザガリア……様に……全てを、捧げます……」
声は、掠れていた。
言い終えた途端、喉元が熱を持った。
俯いた視界の端で、絨毯が淡く照らされた。光は、自分の喉元から落ちているらしい。それもすぐに褪せて、消えた。
何が起きたのかは、分からなかった。
「いい子。その呼び方、忘れちゃ駄目よぉ」
頭に、手のひらの感触があった。犬か猫にでもするように、優しく撫でつけられている。
その手つきの優しさが、かえって惨めだった。目の端に滲んでいた涙が、堪えきれずに一筋、頬を伝う。
「――ああ、それと」
衣擦れの音がして、目の前に膝をつく気配があった。
頬に、手のひらが添えられた。そのまま顔を持ち上げられる。上げた先に、同じ高さの目があった。
指先が唇をなぞり、輪郭を辿って耳へ滑っていく。
口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「ヴィジオン。今日からそう名乗りなさい。あなたにぴったりな名前だと思わないかしらぁ?」
(名前まで、変えさせられるのか)
顔が歪んでいくのが、自分でも分かった。頷こうにも、頬に添えられた手がそれを許さない。
「ついでに、これから『俺』っていうのはやめなさぁい。今のあなたには似合わないわよぉ」
似合わない。たったそれだけの理由で、自分の呼び方まで取り上げられる。理不尽だと思っても、逆らう術はなかった。
(戻さないと。サファイアさんを、元に……)
同じ言葉が、頭の中を回り続けている。だが、どうやって。今の自分に、何ができるというのか。
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