第三話「壊されていく」
意識が浮上する感覚は、水底から急に引き上げられるのに似ていた。
まず知覚したのは、背中に当たる硬く冷たい感触だった。手足には重い拘束具が食い込み、わずかに身じろぎしただけで、金属同士が擦れる音が耳障りに響く。
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。無機質な金属の梁と、その隙間を縫うように走る紋様──明らかに魔法陣の一部だと分かる意匠が、淡い光を放ちながら明滅している。
(ここ、は……)
意識を集中させ、魔素を取り込もうとして、そこで異変に気づいた。
取り込めない、わけではない。体の奥に、確かに魔素が流れ込んでくる感覚はある。だが、それが自分の内側に留まってくれない。まるで底の抜けた器のように、取り込んだそばから、すり抜けるように失われていく。
(まさか……)
視線を天井へ向ける。淡く明滅するあの紋様――その方向へ、まるで導かれるように、取り込んだはずの魔素が吸い寄せられていくのが、感覚として分かった。あの魔法陣が、私の魔力そのものを吸い上げ、封じ込めているのだ。
頭の奥に鈍い痛みが走る。思い出せ、と自分に命じるまでもなく、記憶は勝手に蘇ってきた。あの二本角の女。突然踏み込んできた見ず知らずの少年。そして、彼を人質に取られたこと。
「――っ、あの人は」
掠れた声が漏れる。慌てて周囲を見回そうとするが、拘束具のせいで首を巡らせる程度しか動けない。視界の端に、白衣のようなものを纏った男の後ろ姿が映った。
「ああ、目が覚めたか。ちょうどいい、こちらもすぐに取り掛かれる」
男が振り返らないまま、抑揚のない声で言った。まるで実験動物の様子を確認するような、その温度のなさに、背筋が粟立つ。
「あの人はどこ……! 何をするつもりなの!」
「彼のことは、正直まだ決めかねていてね。何しろ健康的な被検体でね、どんな実験にするかはじっくり吟味してから取り掛かりたい。──それより今は、目の前にある確かな収穫の方が先だ。正真正銘の魔法少女から得られるデータ、これは何にも代えがたいものだからね」
男は独り言のように呟きながら、値踏みするような目で私を眺め回した。彼にとって私もまた、あの人と同じ、ただの実験動物の一体でしかないのだと、その視線だけで嫌というほど伝わってきた。まるで新しい玩具を手に入れた子供のような、無邪気ですらある高揚感が、口調の端々に滲んでいる。それが、恐怖をより一層かき立てた。
拘束具を引きちぎらんばかりに暴れるが、当然のようにびくともしない。無力感だけが、じわりと胸を焼いていく。
「暴れれば暴れるほど、消耗するだけよ。──まあ、好きにすればいいけれど」
抑揚のない声が、部屋の奥から響いた。あの二本角の女とは明らかに違う女の声だった。
振り向くことのできない視界の端に、ゆっくりと歩み寄ってくる影が映る。黒いローブに身を包み、顔には目や口にあたる部分すらない、真っ白でのっぺりとした仮面をつけている、そんな出で立ちだった。
「メルヴィア様。丁度良いところに。準備はもう整っています。お願いしますね」
白衣の男が、淡々とした調子で告げる。メルヴィアは、白い仮面をわずかにこちらへ向けた。表情の読めないその奥から、値踏みするような気配だけが伝わってくる。
「そう。なら手早く済ませましょう」
白衣の男が小さく口の端を上げた。同業者に対するような、気安さの滲む反応だった。互いに相手の仕事の流儀を理解している者同士の、余計な言葉を必要としないやり取り。
メルヴィアが、私の額にそっと手をかざす。冷たい指先が肌に触れた瞬間、まるで焼き印を押し付けられたかのような、鋭い熱が額の内側に走った。先ほど天井で見た魔法陣とはまるで質の違う、粘つくような、悪意そのものを煮詰めたような気配が、触れた指先から流れ込んでくる。
額に触れた指先を見つめるメルヴィアの仮面は、相変わらず何の感情も映さないままだった。だが、ほんの一瞬、その白い表面に淡く発光する線が浮かび上がり、獣のように仄暗く歪んだ目の形を象った。普段の彼女からは想像もつかない、そんな気配。
「……何を、する気」
声は震えていたが、辛うじて言葉の形を保っていた。恐怖を押し殺し、せめて虚勢だけでも張ろうとする、その意地だった。だが、その問いかけに答えは返らなかった。額に触れたままの指先から、何か焼け付くような感覚が染み込んでくる。熱い。痛い。頭の奥が、じりじりと灼かれていく。
(な、に……何か、変――)
心臓が、早鐘のように打っている。何か、おかしい。今まで感じたことのない異物感が、頭の中を這い回っている。
(まずい。まずい、まずい――)
思考が、まともな形を保てない。ただ「まずい」という焦りだけが、ぐるぐると空回りしている。痛いわけじゃない。それなのに、どうしようもなく怖い。自分の内側にある何かが、少しずつ、でも確実に、こそぎ取られていく。それが何なのかを考える余裕さえなかった。
(これ以上、受け続けたら――)
戻れなくなる。それだけは、分かる。理屈じゃない。本能が、そう叫んでいる。頭のどこかが焼き切れそうだった。このまま流されたら、もう二度と自分に戻れない――そんな確信めいた恐怖に、心臓が締め付けられる。
(いや……嫌だ、消えないで――)
初めてこの手を取ってくれた時の、女王の静かな声。厳しい稽古の帰り道、澄香さんと分け合った肉まんの温かさ。放課後の教室で、律とくだらないことで笑い転げた時間。──そのどれもが、確かに自分の中にあったはずの、大切な記憶。
なのに、それらすべてが、薄い霧の向こうへと遠のいていく――
最後に思い浮かんだのは、名前も知らない、自分のミスで巻き込んでしまった、あの人のこと。
「あ、あああああ――ッ!」
何かに引き裂かれるような激痛に、喉から絞り出すような絶叫が漏れる。それでも、歯を食いしばり、意識を手放すまいと踏ん張った。
(耐えなきゃ……耐えないと、あの人を助けられない)
耐えれば耐えるほど、頭の奥に何かが刻み込まれていくような感覚が、より深く、より重くなっていく。何をされているのかも分からないまま、まるで自分という存在が、頁を一枚ずつめくられて書き換えられていくような、そんな感覚。
「あら、まだ持つのね。……ふふ、一体いつまで保つのかしら」
平坦な声のまま、メルヴィアはそう言った。額に添えたままの指先に、じわりと力を込める。だが、白い仮面の表面に、うっすらと発光する線が滲み、口の形をした笑みを象っていた。私の悲鳴と、必死に抗おうともがく様を、まるで極上の見世物でも眺めるかのように愉しんでいる証だった。まるで、こちらが抗えば抗うほど、何か取り返しのつかないものが深く刻み込まれていくのを、承知の上で愉しんでいるかのように──そう感じさせるほど、心の底からこの時間を味わっているのだと、嫌というほど伝わってきた。声色こそ淡々としていても、仮面に滲むその笑みだけは、隠しようもなかった。
歯を食いしばり、消えかけていく自分自身の輪郭を、必死に握りしめようとした。だが、どれほど強く握りしめたつもりでも、指の間から零れ落ちていく感覚だけは、止められなかった。
「あ、ああああ――やめ、て――ッ!」
もはや誰に向けての言葉なのかも、自分でも分からなかった。ただ、喉が張り裂けんばかりの絶叫だけが、意味もなく零れ続ける。
(誰か……誰か、助けて……)
縋る相手の顔すら、もう思い浮かばなかった。ただ、助けてほしいという感情だけが、輪郭を失いかけた意識の中で、行き場もなく渦を巻いていた。
やがて、視界が白く染まっていく。
遠く、何かが聞こえた気がした。後悔の色をした、掠れた響き。誰の声とも判別できないまま、それでも切ないような余韻だけが、消えていく意識の隅に残っていた。
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