第二話「連行」
--side 柊≪シュウ≫--
逃げろ。
頭の芯だけがそう叫んでいるのに、足はまるで根が生えたように離れなかった。
異形の顔が、ゆっくりとこちらへ向き直る。月明かりの下、その唇の端がゆっくりと吊り上がるのが見えた瞬間、ようやく体の自由を取り戻した。
だが、遅かった。まるでスローモーションの中で、自分だけが取り残されたように。
「……捕まえたぁ」
女の声は、獲物を口説くような、蕩けた響きを孕んでいた。耳元で囁かれたかのように近く聞こえたその声に、肌が粟立つ。次の瞬間には、視界が反転していた。何が起きたのか理解する間もなく、体は地面に叩きつけられ、喉元に冷たい何かが押し当てられる。爪だ、と気づいたのは、それがわずかに皮膚に食い込んだ痛みを覚えてからだった。
「その人を離しなさい!」
少女の悲鳴のような声が耳を打つ。顔だけを動かして見ると、彼女――さっきまで戦っていた魔法少女が、こちらへ駆け寄ろうとして足を止めていた。異形の女が、片手だけで俺の首元を押さえつけたまま、もう一方の手で少女を牽制するように振るったのだ。
「動けば、この子の喉が先に開くわよぉ?」
楽しげな声色だった。少女の顔から一気に血の気が引くのが、暗がりの中でも分かった。
「……っ、卑怯な真似を」
「あらぁ、酷い言い草。私はただ、有効に使えるものを使っているだけなのにぃ」
状況の理解が、じわじわと追いついてくる。自分は今、人質に取られている。目の前で戦っていた魔法少女の動きを封じるための、道具として。
(俺のせいだ)
近づかなければよかった。撮影なんてしなければよかった。今更どれだけ悔やんでも、喉元に食い込んだ爪の感触は消えない。
目の前の少女は、レイピアを構えたまま一歩も動けずにいた。動けば俺が殺される。彼女の瞳が、絶望的な逡巡に揺れているのが分かった。 何か言わなければと思うのに、喉が固まったように言葉が出てこなかった。
異形の女が促す。少女は歯を食いしばりながら、それでもゆっくりとレイピアの切っ先を下げた。
「いい子ねぇ」
満足げな声が漏れたのと同時だった。少女の足元から黒い靄が這い上がり、瞬く間にその体を搦め捕っていく。武器を下したその隙をあらかじめ狙っていたとしか思えない、迷いのない動きだった。
「なっ……!」
少女が驚愕に目を見開く。大人しく従えば見逃してもらえるなどという期待は、最初から幻だったのだ。抵抗する間もなく、黒い靄は彼女の四肢を締め上げ、身動きを封じていく。
「大人しく従ったご褒美に、この人だけは無事に帰してあげる──なんて、そんな都合のいい話、あるはずないでしょうー?」
女は喉の奥で笑いながら、そう告げた。少女の顔から表情が抜け落ち、絶望とも怒りともつかない色に染まっていく。
女を中心に、空間そのものが軋むように波打ち始めた。見たこともない、不穏な現象だった。
「な、なにを――」
「案内してあげるわぁ。これから、あなたたちにはとても興味深い体験をしてもらうからぁ」
女が、俺の首を掴んだ手を離さないまま、自ら黒い渦の中へと足を踏み入れる。引きずられるように、俺の体もその後に続いた。少女を搦め捕った黒い靄もまた、まるで意思を持っているかのように、同じ渦の中へと吸い込まれていく。抵抗しようにも、力の差は歴然だった。常軌を逸した締め付けに、呼吸すらまともにできない。
「私は好きにすればいい……! でも、その人は関係ないわ! 放しなさい!」
少女がもがきながら叫ぶ。だが黒い靄はより強く彼女を締め上げるだけで、拘束が緩む気配はなかった。
(ごめん……ごめん、俺のせいで……)
好奇心なんかに負けなければ、撮影なんてしようとしなければ――そんな「たられば」が、後悔と罪悪感を巻き込みながら、頭の中で渦を巻いていた。愚かな自分が、勇敢な彼女の足を引っ張ったのだという事実だけが、出口を持たないまま重く沈殿していく。詫びる資格すらないと分かっていても、その重さだけは、闇に沈んでいく意識の中でも消えてくれなかった。
最後に見たのは、同じように意識を失いかけながらも、こちらへ手を伸ばそうとする少女の姿だった。まるで自分こそが庇いきれなかったことを悔いているかのような、罪悪感の滲んだ表情。届くはずのないその手と、その顔を見ながら、俺の意識は完全に途切れた。
目が覚めたとき、そこはもう、見知らぬ場所だった。




