第一話「その公園で、彼女は戦っていた」
--side 瑛守≪エマ≫--
夜風に滲む魔素の匂いに、私はそっと眉をひそめた。
この一帯で反応があったのは三十分前。パトロール中に感知器が振り切れるほどの反応を拾い、単独で駆けつけたのが運の尽きだった。──いや、運が悪かったのではない。相手を見誤ったのだ。
噴水広場の中央に立つそれは、人の輪郭を保ってはいたが、もはや人間と呼べる代物ではなかった。輪郭の端々が黒く滲み、闇そのものが肌の代わりを果たしているような異形。それでいて、体の線そのものは女性のような柔らかさを色濃く残していた。緩やかに揺れる腰つき、たっぷりとした黒紫の髪が夜風に流れる仕草、流し目がちに瞳を細める癖、時折舌先で唇を軽くなぞる仕草――そのひとつひとつが、まるで自分の美しさを誰よりも知り尽くしているかのような、艶やかな余裕に満ちていた。一対の、くの字に曲がった角が月光を鈍く弾き、その妖艶さと禍々しさの同居に、背筋が冷える。
(いつもの魔族とは、格が違う)
これまで私が相手取ってきたのは、次元の門から溢れる、ほとんど本能だけで動く雑兵のような魔族たちだった。だがこの女は明らかに違う。立ち姿だけで分かる、隙のなさ。ならば、正面から名乗り合っている余裕などない──私はそう判断した。
気配を殺し、レイピアを構えたまま茂みの陰から一気に間合いを潰す。奇襲。褒められた戦法ではないかもしれないが、格上の相手には有効な手段のひとつだと、澄香さんからも教わっていた。
光を纏った切っ先が、女の脇腹を正確に捉える──はずだった。
だが、まるで最初から見えていたかのように、女はその一撃を最小限の動きで受け流した。剣先と黒い靄がぶつかり合い、小さな衝撃波が周囲へ弾ける。
「あらぁ、いきなり随分な挨拶ねぇ」
女は驚いた様子もなく、むしろ愉しげに唇の端を持ち上げた。喉の奥で笑うような、蜜を含んだ甘い声だった。
「不意打ちとはぁ、可愛い顔してなかなか容赦がないこと。……ねえ、あなたの名前、教えてくれる? せっかくの挨拶だもの、覚えておいてあげるわぁ」
名乗る義理などないと言わんばかりの、傲慢な物言いだった。名前を尋ねられたところで、この女が何者なのか、私にとっては何一つ分からないままだ。それでも、目の前の敵が並の相手ではないという確信だけは、深まった。
女は値踏みするように、私の全身へ視線を這わせた。
私は一瞬だけ迷い、レイピアを構え直しながら、あえて硬い声で答えた。
「……サファイア。それが、私の二つ名」
本名を名乗るつもりはなかった。素性を明かすことがどれほど危険か、女王からも護衛たちからも耳が痛くなるほど言い聞かされている。それでも二つ名を口にしてしまったのは、この状況で黙り続けるよりはましだという、そんな判断がとっさに働いたからだった。
もっとも、無駄に言葉を交わしていたわけではない。僅かな間を稼ぎながら、私は左手首のブレスレット――女王から授けられた結界装置――に埋め込まれた魔石に、そっと魔力を通わせていた。
(お願い、間に合って……)
本来なら、もっと周到に位置取りをしてから展開すべきものだ。だが今は、悠長に構えている余裕などない。急ごしらえの簡易展開で、この一帯をきちんと覆い隠せるだけの強度が保てるのか、正直なところ確信は持てなかった。それでも、やらないよりはましだった。
「サファイアちゃん……宝石の名前だなんて、あなたにぴったりねぇ」
女はその名を、まるで舌の上で転がすように繰り返した。その拍子に、視界の端で何かがちらりと動いた気がした。女の視線が、ほんの一瞬だけ、こちらの手首の方へ逸れたような──そんな錯覚。だが確かめる間もなく、女の意識はすぐに目の前の戦いへと戻っていて、私自身、気に留める余裕もなかった。
「噂に違わず、いい動きねぇ」
熱っぽい吐息交じりの声が、耳元をなぞるように響いた。
「噂……?」
引っかかる言い方だった。だが問い詰める余裕はない。女の腕が黒い靄を纏いながら振るわれ、私はとっさに後方へ跳んで距離を取った。頬をかすめた一撃だけで、皮膚がひりつくような熱を感じる。
(触れただけでこれ……本気で当たったら)
想像しかけて、その考えを振り払った。今は目の前の敵に集中する。それだけだ。
光の粒子を纏わせたレイピアで、私は連続で斬りかかった。一撃、二撃、三撃──いずれも決定打には至らないが、着実に女の体表に浅い傷を刻んでいく。黒い霧のようなものが傷口から漏れ、夜気に溶けて消えていった。
このまま押し切れる。そう思った矢先だった。
「──そろそろ、あなたがどこまでやれるのか。見極めさせてもらうわぁ」
女の声色から、それまでの余裕が薄れていく。すっと姿勢を低くし、纏う気配そのものが冷たく研ぎ澄まされていくのが分かった。これ以上は手加減しないと、その仕草だけで告げていた。
振るわれた腕を辛うじて弾いたはずが、私の体はそのまま後方へ吹き飛ばされた。受け身を取り損ね、地面を転がる。肩に走った鈍い痛みに奥歯を噛みしめながらも、すぐさま体勢を立て直し、レイピアを構え直す。
(まだ、いける)
息を切らしながらも、視線を逸らさなかった。互角──いや、わずかにこちらが押されている。それでも退くわけにはいかない。
踏み込み、レイピアを閃かせる。女はそれを紙一重で躱すと、伸びた爪でこちらの肩口を狙ってきた。とっさに身を捩り、致命傷は免れる。だが浅く裂かれた皮膚に、鋭い痛みが走った。
構わず斬り返す。二撃、三撃と繰り出すが、女は最小限の動きでことごとく往なしていく。まるで、こちらの動きの先を読んでいるかのような余裕だった。それでも一撃だけ、掠らせることに成功する。黒い霧が傷口から漏れた。
この公園の先には、まだ寝静まった住宅街が広がっている。誰かを巻き込むわけにはいかない。
女が再び踏み込んでくる。私もまた迎え撃つべく足に力を込めた瞬間──
パキ、と。
乾いた小枝の折れる音が、夜の静寂に響いた。
私の意識が、一瞬だけ戦闘から逸れる。音のした方向、公園の植え込みの陰。街灯の乏しい光の中で、そこに人影があることに気づいた刹那、全身の血が凍りついた。
誰か、いる。
結界の中に、部外者がいるはずがない。そのはずだった。
(まさか──)
左手首を見た瞬間、息が止まった。ブレスレットの魔石に、ヒビ。結界は、もう解けていた。吹き飛ばされて地面に叩きつけられた、あの拍子だったのだろう。急ごしらえの簡易結界は、その衝撃に耐えきれなかったのだ。戦いの最中では、気づきようもなかった。
それも──ただの通行人が、こんな時間に、こんな場所に、偶然通りかかるはずがない。スマートフォンらしきものをこちらに向けている影は、明らかにこの戦闘を「見て」いた。結界が守ってくれるはずだった無関係な誰かが、今、剥き出しのまま戦場に踏み込んでしまっている。
喉から、悲鳴に近い声が漏れた。
「逃げ──」
最後まで言い切る前に、女の視線もまた、その方向へと向けられていた。唇の端がゆっくりと吊り上がり、舌先がその輪郭をなぞる。獲物を見つけた愉悦をそのまま形にしたような、蠱惑的で、それでいて底知れない笑みが、闇の中に浮かび上がった。
自分の心臓が、嫌な音を立てるのを感じた。
(まずい。何も知らない人を、こんな場所に──)
守らなければならないものが、また一つ増えた。そう覚悟を決めるのと、女がゆっくりと標的を変えるのとは、ほとんど同時だった。




