貴婦人の亡霊
「……ガ、ァ……」
アルフレッド爺さんの家の敷地を進むにつれ、ケビンは周囲の『空気』に奇妙な変化を感じ取っていた。
視界の端々が、まるで薄墨を流し込んだかのように、どす黒く、重苦しく淀んでいるのだ。呼吸をしているわけではない。肺はとうに機能していないのだから、これは気のせい、あるいは死者としての感覚が捉えた「世界の変質」だった。
ケビンの脳裏に、再び旅人ハリスの言葉が蘇る。彼がかつて、大きな戦争の跡地である平原でアンデッドと戦った時の講釈だ。
『いいか、ケビン。人間ってのはな、生きてるだけで体内に「魔素」ってエネルギーを有してる。魔法使いは、そいつを体内で上手く練り上げて魔法をぶっ放すわけだ。だがな、戦争なんかで人間が一度に大量に死ぬとどうなると思う? 体内で行き場を失った膨大な魔素が、一気に空気中へ放出されるんだよ』
ハリスは無精髭をじりじりと毟りながら、真剣な目で語っていた。
『その放出された魔素が土地にこびりつき、濃密な「魔力溜まり」を形成する。それが、ただの死体を死霊系の魔物へと変貌させると言われている。死者が蘇るのはな、神の呪いかも知れねぇし、魔素の変質みたいなもんかも知れねぇし。それは俺たちには分からねぇ』
伝え聞いた話だ。当時はピンとこなかったが、今のケビンにはそれが真実だとよく分かった。
戦争の場でさえそうなのだ。
もし、一つの国が丸ごとバイオテロによって滅ぼされたのだとしたら――この国に満ちる魔素の総量は、ハリスが語った平原の比ではないはずだった。
そんな考察を巡らせながら、ケビンはアルフレッド爺さんの裏小屋へと辿り着いた。
床板の一部を退けると、地下へと続く薄暗い木製の階段が現れる。だが、知性を失い、ただ足を引きずるだけの二人の妹を、この狭く急な階段へ綺麗に歩かせるのは不可能に思えた。
(……いや、今ならできるか?)
身体の感覚が、先ほど発狂して疾走したあたりから明らかに変わっていた。
ケビンはまず、リリィの細く痩せた身体を、残された左手一本でひょいと担ぎ上げてみた。
(軽い……!)
まるで乾いた藁の束でも持っているかのように、何の抵抗もなくリリィを肩に乗せることができた。リリィは「ウガウガ」と顎を鳴らして不快そうにもがいたが、ケビンは心の中で『すまん、リリィ』と謝りつつ、慎重に階段を降りて彼女を地下室へと運び入れた。
続いて地上に戻り、ルルを同じように担ぎ上げる。ルルもまた、驚くほど軽かった。
この死んだ肉体は、ケビンが思っている以上に、この地獄の環境に順応し、引き締まった怪力を手に入れているようだった。
地下室の奥、アルフレッド爺さんが密造酒や保存食を隠していたという頑丈な空間に、二人をそっと降ろした。
ケビンは二人を縛っていたロープを完全に解き、その場に解放した。ここにいれば、外を彷徨う他の死者や、魔物に襲われる心配はない。
そして、ケビンの胸の奥には、一つの「淡い希望」が灯っていた。
自分がこうしてアンデッドになっても意識を保てているのなら、それは自分が特別な存在だからではなく、ハリスのいっていたように何らかの物質的・魔術的な法則があるはずだ。ならば、世界を探し回れば、二人の意識を取り戻す方法だって見つかるかもしれない。
高名な三大魔道士の大賢者が作った秘薬、あるいは失われた神聖魔術――もし少しでも彼女たちを元に戻す可能性があるのなら、ケビンはその僅かな光に、この死んだ命のすべてを賭けたかった。
(待っててくれ、二人とも。必ず戻る)
二人の妹を地下に残し、ケビンは地上へと戻った。
地下室の重い鉄扉を閉め、頑丈な南京錠で鍵をかける。そして、その鍵を、胸の傷口の奥に潜む父の三日月の首飾りにしっかりとくくりつけ、再び臓腑の隙間へと戻した。これなら、鍵を盗まれることも失くすことも絶対にない。
地上部の細工も徹底した。
ケビンは左手一本で、黒焦げになった巨大な家屋の柱や梁を軽々と持ち上げ、地下室への入り口を塞ぐように乱雑に積み上げた。さらに、周囲の炭を素手で擦って入り口を黒く塗り潰し、焼けた柱の瓦礫を周囲にカモフラージュとして配置した。
一見れば、ただの「完全に焼け落ちた廃墟」にしか見えない。完璧な隠蔽だった。
準備は整った。だが、ただ闇雲に小雪を追って北へ向かっても、あのトロールの山脈で脳を叩き潰されて終わる。
かと言って、山を避けて遠回りしようとすれば、まだ生き残っている周囲の人里や騎士団の駐屯地に差し掛かり、化け物として討伐されてしまうだろう。
(まずは、自分を強くすること。そして……この異形の身を包む『装備』を探す)
ケビンが目指した方角は、小雪が去った北ではなく、彼女が滅ぼしたという『王都』だった。
王都へ向かう理由は、単に身を隠すための服を探すためだけではない。かつてヘレン婆さんが、楽しそうに語っていた話を思い出したからだ。
『いいかいケビン、王都にはね、普通の人間じゃ見向きもしないような変わり種の店があるんだよ。変わった職人が作った妙な仮面だとか、細工物の義手を売るような、風変わりな店がねぇ』
ヘレン婆さんは偏屈な収集癖があり、往年はよく妙な骨董品を王都まで買い付けに行っていた。かつて村に『呪われた魔物の肝の干物』なんていう禍々しいものを持って帰ってきた時は、ケビンも気味が悪くて逃げ出したものだった。
だが今となっては、その変わり種の店こそが、片腕を失い、顔を腐らせた自分に必要な場所だった。
さらに、もう一つ、ケビンには確信に近い予想があった。
ハリスの言っていた法則が正しいなら、国の中枢であり、最も多くの人間が命を落としたあの王都には、この村の比ではないほどの「凄まじい魔素溜まり」が形成されているはずだ。
この世界の魔物は、空気中に漂う魔素を吸収することで強くなる。食事によって得るのが基本だが、魔素の濃い場所に生きる魔物は、それだけで通常の数倍の強度を持つ。だからこそ、生前の人間たちは『魔素の濃い領域には絶対に近づくな』を鉄則としていた。
見たことはないが、あの最強の魔物とされる『飛竜』なども、大気中の魔素の影響を最大に受けて巨大化した種族なのだと、誰もが共通の知識として知っていた。
(俺はもうアンデッド……つまり、魔物の端くれだ。あの王都の濃密な魔素を浴びれば、俺のこの身体は、さらに強く、強固に強化されるはずだ……!)
ケビンは王都へと足をすすめた。
一歩、また一歩と王都に近づくにつれ、空気の「重み」が目に見えて増していく。生前は一度も意識したことのなかった大気中のエネルギー――『魔素』が、今はアンデッドとなった自らの皮膚や、露出した臓腑に直接、心地よい波動となって染み込んでくるのがリアルに感知できた。
王都の城門を潜ると、そこは言葉を失うほどの静寂と、濃密な紫黒の霧に包まれた死の都だった。
大通りには、未だに徘徊を続けるアンデッドたちの姿がチラホラと見られた。小雪の使役から解かれ、完全に野生化した死者たちだ。
彼らは飢えを満たすためか、地面を這い回るネズミなどの小動物を貪り食っていたり、中に生存者がいると思い込んでいるのか、完全に無人となった店舗の扉を執拗にどんどんと叩きつけたりしていた。
ケビンはその死者たちの横を通り過ぎ、ヘレン婆さんが言っていた特徴の店――古びた看板に奇妙な紋章が刻まれた、骨董品店とおぼしき建物の前に立った。
ちょうど、一体の衣服の破れたアンデッドが、その店の扉に遮られて中に入ろうと、ガリガリと爪を立てていた。
「アァ(そこを退け)」
ケビンは左手を伸ばし、群がっていたアンデッドの胸元を掴むと、ヒョイと軽い力で横へ放り投げた。放り出された死体は地面を転がっていったが、ケビンに敵意を向けることもなく、また別の場所へとふらふらと歩き去っていく。
ケビンは残された左手で店の取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開けた。
キィ、と錆びた音が響く。
店内に一歩足を踏み入れると、そこには外の地獄が嘘のような、奇妙な空間が広がっていた。
壁という壁、棚という棚に、夥しい数の『仮面』が飾られていたのだ。
道化師の笑い顔、おどろおどろしい悪魔の形相、精巧に作られた美しい獣の面、何に使うのか分からないのっぺらぼうの木面。思った以上の種類の多さと、その不気味な造形の数々に、ケビンは思わず呆気にとられて立ち尽くした。
(これなら……俺のこの化け物の顔を隠す面が、見つかるかもしれない)
そう思った、次の瞬間だった。
――ギィ。
静まり返った店内の奥で、古びた木製の椅子が、不自然に前後に揺れる音が響いた。
風など吹いていない。誰もいないはずの、死に絶えた王都の、死に絶えた店だというのに。
ケビンの濁った目が、その椅子へと向けられる。
「おや……もしかしてお客様かい??」
暗がりの中から、深く奥深い声を妖艶にしたような、低く、しかし酷く透き通った声が響いた。
声がしたのは、確かにその椅子の場所からだった。
だが、そこに座っていたのは、血の通った人間ではなかった。
椅子のグラデーション(影)から浮かび上がるようにして姿を現したのは、燃えるような深紅の衣装に身を包んだ、一人の美しい女性の姿だった。
その身体は、向こう側の壁が薄らと透けて見えるほどに半透明であり、地面に足はついていない。衣服の裾は、まるで水中に漂う藻のように、空中でゆらゆらと不自然に揺らめいている。
幽霊。
肉体を失い、魂だけでこの世に留まり続ける、死霊系の魔物の一種。
深紅のドレスを着たその貴婦人のような幽霊は、肘掛けに優雅に頬杖をつきながら、生気を失った灰色の瞳で、ケビンの姿をじっと見つめていた。
片腕がなく、胸が裂け、土気色の肌をした、明らかに「生者ではない不届き者」の姿を。
しかし、幽霊の顔に恐怖や敵意の色はなかった。彼女はふっと、形の良い唇を吊り上げて、妖しく微笑んだ。
「驚いたね。ただの這いずり回るアンデッドが迷い込んできたのかと思ったら……。お前さん、まさか、その身体でまだ『中身』が残っているのかい?」
死者と亡霊。
滅び去った王都の片隅で、二つの異形が、静かに対峙していた。




