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Dead Man's Journey  作者: 古木花園


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6/15

三日月は胸の中


「うっ…………」

暗転していた意識の底から、ケビン・アドマイヤーは這い上がった。

どれほどの時間が経ったのだろうか。目を開けると、視界に飛び込んできたのは灰色の空ではなく、真っ黒に焼け焦げた木材と、崩落した石壁の破片だった。彼は倒壊した家屋のがれきの下敷きになっていた。

(何が……あったんだ? 俺は確か、自分の家に向かって……)

記憶が混濁している。ただ、一刻も早くこの不快な圧迫感から抜け出さなければならないということだけは理解できた。

ケビンは残された左腕を地面につき、背中にのしかかっている太い大黒柱を、力任せに押し上げた。

ズゴゴゴゴ……。

驚くほど簡単に、巨木が移動していく。

アンデッドとなった自らの身体の使い方を、完全に脳が理解したのだろうか。それとも、絶望の中で眠っていた死者の怪力が引き出されたのか。理由は分からなかったが、生前ではあり得ないほどの膂力が、今のケビンには備わっていた。

がれきの隙間から這い出たその時、ケビンは強烈な違和感に気づいた。

重心のバランスがおかしい。自らの右側に視線を落とすと――そこにあるはずの、農業で鍛え上げた逞しい右腕が、肘あたりから綺麗に消失していた。


「あ……、あ……」


いつ、どうやって失ったのか。考えてもわからず、この火災跡と関係があるのかないのか。

周囲を見回して右腕を探そうとも考えたが、これほど激しく倒壊し、黒焦げになった有様では、自分の肉片一つ見つけ出すのも難しいだろう。ケビンはすぐに探すことを諦めた。痛覚がないということは、肉体の欠損に対する恐怖をも麻痺させる。彼は引きちぎれた右腕の断面を気にする風もなく、倒壊した家屋から少し離れた地面に、どさりと座り込んだ。


 静寂が包む村の中で、ケビンは記憶の断片を必死に手繰り寄せようとした。

小雪への怒りに任せて北の山脈を目指そうとしたこと。トロールの危険を思い出して引き返したこと。その帰り道、百以上の死者の行進を見たこと。

そして――アルフレッド爺さんが、必死に鉈を振るって戦っていた、あの光景。

そこまで思い出した瞬間、ケビンの動かない脳髄に、身の毛もよだつような最悪の想像が浮かび上がった。

今、村を見渡すと、あれほど大量に彷徨っていたアンデッドたちの姿が、ほとんど綺麗に消え失せている。

あんなにいた死者の群れが姿を消したということは、このエリアにおいて、彼らの目的が果たされたということ――すなわち、この村にいた最後の「生者」がいなくなったということを意味していた。

(まさか……俺があの時、他の奴らと一緒に……アルフレッド爺さんを……!)

座り込んだケビンのすぐ横には、ボロボロになりながらも、奇跡的に倒壊せずに形を残している石壁の『裏小屋』が佇んでいた。屋根の大部分は焼け落ちて壊れているが、間違いなかった。ここは、アルフレッド爺さんの家だ。

アルフレッド爺さんは、村の誰もが認める風変わりな老人だった。だが、長く生きている分だけ、誰も知らないような素晴らしい知識をたくさん教えてくれた。難しい学者が書いたという古い本の話や、大昔の世界の成り立ちなど、村の若者たちにとってはひとつの娯楽であり、皆がこぞって彼の話を聞きに集まったものだった。

その中でも、特に男心をくすぐったのが『身体の鍛錬についての話』だった。

『いいかケビン、真の戦士ってのはな、筋肉をただ肥大化させるんじゃねえ。芯を鍛えるんだ』

爺さんの言葉通りに慣れない鍛錬をして、次の日、全身の凄まじい筋肉痛でベッドから起き上がることすらできなくなった日のことを、ケビンは鮮明に思い出した。あの時、父さんには「畑の仕事をおろそかにするな」と大声で怒られ、リリィとルルには「お兄ちゃんダサすぎ!」と散々馬鹿にされながら、スープを食卓まで運んでもらったのだ。

あんな凄まじい鍛錬を、日々平然とやってのけていた本物の戦士である爺さんが、ただのアンデッドごときに負けるわけがない。そう思いたかった。

だが、ケビンは無意識のうちに、残された左手で自らの口元を乱暴に拭った。

死んでいるはずの顔面の皮膚に、何かがねっとりと垂れ落ちたような気がしたからだ。

拭った手のひらを見た瞬間、ケビンの思考が完全に停止した。

そこには、生々しい、乾ききっていない『人間の血と肉片』がべっとりと付着していた。

これが、自分の傷口から流れたものなのか。それとも――アルフレッド爺さんの肉だったのか。

そんな…と震えた時、空いた口から答えのように一本の太い指が落ちた。

ゴロン。

この考えは定かではない。定かではないのに、ケビンの心は、それ以上先を考えることを完全に拒絶した。

今まで、必死に考えないようにして、心の奥底に鍵をかけて閉じ込めていた部分があった。

自分はアンデッドになってから、小雪に操られて大群の一部となり、王都に侵入していた。そこで、自分は何をした? どれほどの人々を引き裂き、その肉を貪った?

無数の死者の存在そのものが、自分が犯してきた大罪の証明だった。それを考えたら自分が崩壊してしまうからと、必死に脳の蓋を閉めていたのだ。

だが、あの優しかったアルフレッド爺さんを、自分のこの牙で食べたかもしれないと思った時点で、その脆弱な蓋は、いとも簡単に内側から弾け飛んだ。


「………うァァァ!!」


ケビンは発狂した。

獣のような絶叫を上げながら立ち上がり、狂ったように道を駆け抜ける。

その足の速さは、ケビン自身すら気づかないほどに異常だった。生前の農夫としての肉体を遥かに凌駕する、死者特有の、限界リミッターが外れた爆発的な疾走。

あっという間に、二人の妹を縛り付けている隠れ家の民家へと辿り着いたが、今のケビンには彼女たちの様子を気遣う余裕すら残されていなかった。

彼は家の中に飛び込むと、泥のように己のベッドへと転がり込み、頭を抱えて丸まった。

うぅ、うぅ、と、喉の奥から血を吐くようなうめき声が漏れる。実際に血もたれている。

涙腺が死んでいるため、一滴の涙すら出ない。だが、彼の心は、生きていた頃よりもずっと激しく、血の涙を流して号泣していた。

自分だけがアンデッドになった後も意識を残され、妹たちも化け物になり、諸悪の根源である小雪は国一つを一瞬で地獄に変えるほどの強大な黒魔術師だ。あの高名な騎士や戦士たちすら、彼女の前では簡単に操り人形に変えられた。

そんな絶対的な化け物を相手に、「一矢報いてやる」などと息巻いていた自分の姿が、あまりにも滑稽で、あまりにも無力で、心の底から泣けてきた。

今までここまで動いてこれたのは、自分の都合の良い、あまりにも小さく淡い「希望」を勝手に抱いていたからだ。

だが、自分が犯したかもしれない罪と、小雪という巨大な絶望の前では、そんな希望など夜闇に消える火花に等しかった。

ただ、自分が無力な死者であるという絶望を、認めたくなくて目を背けていただけなのだ。

絶望の闇の中で、ケビンが完全に心をへし折られ、ただの動かない屍に戻ろうとした、その時だった。


「えー、お兄ちゃん泣いてるの?」


耳元で、懐かしい鈴を転がすような笑い声が聞こえた気がした。

ハッとしてベッドの中から顔を覗かせると、そこには、いつものように意地悪そうに、しかし愛おしそうに目を細めて笑うルルの姿があった。


「ダサー……。そんな弱虫のお兄ちゃんに、良いこと教えてあげる」


隣で、リリィがいつものように、まだ幼さの残る薄い胸をドヤ顔で張りながら、嬉しそうに口を開く。


「胸に手をあてて。――『家族を大事に。人を想いやって。今日を生きる』って唱えるんだよ。そしたらアドマイヤー家は、今日も元気に畑を耕せるのです!」


それは、アドマイヤー家の父が毎朝口にしていた他愛のない家訓だった。

生きるために土を耕し、家族で食卓を囲むための、ささやかな、しかし絶対のルール。

(……家族を大事に。人を想いやって。今日を生きる……)

ケビンは、中身が丸見えの、ぽっかりと穴が空いた自らの不気味な胸の内に、そっと左手を当てた。

当然、そこにあるはずの心臓は静止している。動いてなどいない。

だが、不思議なことに、その絶望の空洞の奥底で、何かがトクン、と熱く脈打ったような錯覚を覚えた。

胸の傷口の奥、どす黒い臓腑の隙間にしまい込んだ、父の形見である「三日月の首飾り」。

それが、灰色の世界の中で、一瞬だけ、鈍く温かい光を放ったように見えた。

(そうだ……俺には、まだやることがある。ここで腐っている暇なんて、一秒もないんだ)

死者になり、どれほど魂が汚れようとも、あの妹たちの笑顔を奪った世界を、俺は絶対に許さない。


「ご……えんなぁ。ふだぁりどぉもぉ(ごめんな、二人とも)」


壊れた喉から、震える声が漏れ出す。


「おれぇぁ! まもっ…えあげぇなくぅでぇ!!!(俺が、守ってあげられなくて!!!)」


涙の出ない目で空を仰ぐケビンに、幻影の妹たちは優しく微笑みかけた。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん」

「私たちはずっと一緒にいるよ。お母さまとお父さまも」


家族全員が、自分の背中を押してくれているような気がした。

ケビン・アドマイヤーは、こんな絶望の泥の中で、ただ引きこもって泣いているような男ではない。長男として、農夫として、彼は何度も過酷な自然と戦ってきたのだ。

ケビンはベッドから力強く起き上がると、残された左手で自らの頬を思い切り叩いた。

パンッ、と虚しい音が室内に響く。当然、痛みなど一つもない。だが、その衝撃が彼の魂に眠る最後の理性を完全に覚醒させた。


ケビンは、扉の向こうで今なおロープに繋がれ、ガチチと顎を鳴らしているリリィとルルの姿を真っ直ぐに見つめた。

まずは、彼女たちをこの不安定な場所から、もっと安全で、誰の目にも触れない場所へと移動させなければならない。冒険者や、王都の残党がいつこの村を調査しに来るか分からないのだ。

その時、ケビンの脳裏に、先ほど目にした『アルフレッド爺さんの裏小屋』の光景が浮かび上がった。

(あの裏小屋だ……。爺さん、昔自慢してたな)

アルフレッド爺さんの裏小屋には、頑丈な石壁の床に、地下へと続く隠し階段が存在していた。爺さんはそこに、村の税金から隠れて作った極上の密造酒や、いざという時のための長期保存が利く食料を大量に溜め込んでいるのだと、酒が入った時にだけケビンにこっそり教えてくれたのだ。

あそこなら頑丈な石造りであり、地下室の扉に外から鍵を閉めてしまえば、二人がどれだけ中で暴れても音が外に漏れることはない。さらに、地上部分の倒壊した建物の残骸を使って入り口を巧妙に隠蔽すれば、通りがかった者が地下室の存在に気づく可能性は極めて低いはずだ。


「イ……、オ(行くぞ)」


ケビンは二人の妹を繋ぎ止めていた柱のロープを外した。

右腕がないため、左手一本だけでロープを掴み、二人の身体を力強く引きずりながら歩き出す。二人は抵抗することなく、ただ兄の力に引かれるまま、大人しく足を引きずって付いてきた。

ズリ……、ズリ……。

再び、村の荒廃した道を、三人の死者が進んでいく。

右腕を失い、胸に穴を空け、口元を血に染めた最悪の化け物の姿。

だが、そのケビンの濁った灰色の瞳の奥には、先ほどまでの絶望の曇りは一切消え失せていた。

まずは、二人の安全の確保。彼女たちを世界の悪意から隠し通すこと。

それが終われば――次こそは、自分のこの「死んだ身体」の特性を完全に掌握し、あのトロールの住む魔の山脈を越えるための力を蓄える。

小雪。あの黒魔術師の女が世界のどこに隠れていようとも、このいのちなき命が尽きるまで、地の果てまで追い詰めてやる。

ケビンは、その動かない胸の奥に、再び青く静かな『意思の火』を力強く灯した。

絶望を燃料に変えた死者の進軍が、ここから本当の始まりを告げる。


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