アルフレッド・ノーマン
「くそったれ! お前らのようにはならんぞ! 近寄るな、この化け物どもめが!」
アルフレッド・ノーマンの声が、古びた家の中に響き渡った。
両手に握ったのは、大きな木を削って整えるための重い鉈。
それを、全身の力を込めて振り下ろす。
ズガンッ!
肉を断ち、骨を砕く鈍い衝撃が、老いた両腕へと伝わってきた。
頭部を叩き割られたアンデッドが、糸の切れた人形のように倒れる。
その顔を見た瞬間――アルフレッドの胸に、苦いものが込み上げた。
(……ヘレン、お前さんまで、こんな姿に……)
倒れたアンデッドは、少し離れた場所に住んでいたヘレン婆さんだった。
今でこそシワだらけの老婆だが、若い頃は知的で整った顔立ちをしていた。
アルフレッドよりも、いくつか年下。
まだ村が平和で、自分たちも若く、未来がどこまでも続いていると信じていた頃。
二人はよく、夜更けまで魔法や剣について語り合った。
『いつか冒険者になったら、世界中を旅しよう』
『自由気ままに、誰も見たことのない景色を見に行こう』
そんな、他愛のない夢。
けれど、あの頃の二人にとっては、光そのものだった。
その残滓が、アルフレッドの脳裏を一瞬だけよぎる。
だが――感傷に浸る時間など、今の彼には与えられていなかった。
ヘレンだったものが床へ倒れる。
その直後。
死体の隙間から、別のアンデッドが顔を覗かせた。
(……!)
その顔にも、見覚えがあった。
(クラリス……!)
隣の家に住んでいた、まだ若い娘。
陽の光を浴びて美しく輝いていたブロンドの髪は、今では血に濡れ、ところどころ引きちぎられている。
クラリスは、本当にいい子だった。
幼い頃から知っている。
両親の言うことをよく聞き、買い出しや力仕事も嫌な顔一つせずこなしていた。
こんな偏屈なジジイにも、
『アルフレッドおじいちゃん、こんにちは!』
と、向日葵のような笑顔を向けてくれた。
「おおおおおっ!」
アルフレッドは叫んだ。
思い出を振り払うように、鉈を振り下ろす。
ズガンッ!
クラリスの頭部が砕けた。
彼女だったものは、ようやく本来の『動かない死体』へと戻った。
(……すまんな)
思い出が邪魔をする。
目の前の化け物たちが、かつて自分が愛し、慈しんできた村人だという事実が、鉈を握る指先を震わせる。
「わん! わん!」
その時。
部屋の奥から、犬の鳴き声が響いた。
ひっくり返った机の陰から、身を震わせながらも必死に吠えている一匹の老犬。
アルフレッドの愛犬――ティラノだ。
昔、この村に立ち寄った異教徒の学者から聞いた話を気に入り、子犬だった頃に大層な名前をつけた。
『大昔の世界には、トカゲの化け物がいたらしい。その中でも一番強くて恐ろしい王の名前が、これだ』
それが、ティラノ。
もっとも本人は、普段なら小さな虫すら怖がって震える臆病な犬だった。
今ではアルフレッドと同じように、目元には白い毛が混じっている。
それでも――
アルフレッドにとっては、この地獄に残された唯一の家族だった。
「大丈夫だ、ティラノ!」
アルフレッドは笑った。
「わしが、この家には一歩も入れさせん! だからお前は奥に隠れとれ!」
そして、豪快に笑い飛ばす。
「ぶわっはっはっ! わしは大丈夫だ!」
愛犬を安心させるため。
そして何より――自分自身の恐怖を誤魔化すために。
アルフレッドは鉈を振り回した。
首を叩き切る。
腕を叩き潰す。
頭蓋を割る。
次々と死者を倒していく。
だが。
アルフレッド自身が、一番よく分かっていた。
(……まずいな)
何度も硬い頭蓋を叩き割ったせいで、愛用の鉈はすでに刃毀れしていた。
このままでは、あと数体も斬れば折れる。
そして――
窓の外を見たアルフレッドの顔から、血の気が引いた。
「……なんじゃ、ありゃあ」
遠くから。
地平線を埋め尽くすほどのアンデッドが押し寄せてくる。
まるで、黒い津波。
そのすべてが、アルフレッドの家を目指していた。
「おお……神よ……」
アルフレッドは呻いた。
最後の力を振り絞り、大きな本棚を引き倒す。
それを玄関へ押しつけ、簡易的なバリケードを作った。
だが――
意味はなかった。
ズドォォォン!!
凄まじい質量が家へ激突する。
扉が吹き飛ぶ。
壁が崩れる。
窓が割れる。
木組みの骨組みごと破壊され、無数の死者が家の中へ雪崩れ込んできた。
「ティラノ!」
アルフレッドの身体が動いた。
老いた身体とは思えないほど素早く愛犬を抱き上げる。
そして二階へ駆け上がった。
その途中。
アルフレッドは、近くにあった油壺へろうそくの火を投げ込んだ。
パリンッ!
次の瞬間――
ゴォォォッ!!
一階が炎に包まれた。
「これで……少しは時間が稼げる!」
しかし。
炎に包まれたアンデッドたちは止まらなかった。
皮膚を焼かれ。
肉を焦がされ。
身体から煙を上げながら。
それでも、二階へ向かって這い上がってくる。
「なにぃ!?」
アルフレッドの計算を、完全に超えていた。
「しまった……!」
階段を登ってくる死体を見て、アルフレッドはティラノを抱き上げる。
「ティラノ、上におれ!」
半ば投げるように二階へ放り込む。
そして振り返る。
「ええい、忌々しい!」
迫ってきた燃える死体へ、渾身の前蹴りを叩き込んだ。
死体が階段を転げ落ちる。
だが――
その後ろから、別の死体が這い上がってくる。
仲間の身体を掴み。
引き寄せ。
まるでロープを手繰るようにして、異様な速度で階段を登ってくる。
「……化け物め!」
アルフレッドは二階の奥へ走った。
そして、物置へ飛び込む。
ガラクタをかき分け――
一本の剣を掴んだ。
古びた剣。
鞘には埃が積もっている。
だが。
抜き放った白刃は、今なお鈍い光を放っていた。
アルフレッドは、その柄を握り締める。
驚くほど手に馴染む。
(……懐かしいな)
若かった頃。
ヘレンと世界へ旅立つ夢を見ていた頃。
毎日のように振っていた、自分の相棒。
「……まだ、使えるじゃないか」
アルフレッドの口元が僅かに笑った。
「この剣で、切り裂いてくれるわ!」
次の瞬間。
老いた身体が、爆発的に動いた。
迫ってきたアンデッドの首を一閃。
さらに一体。
胸元を突き刺す。
頭蓋を貫く。
倒れる。
また一体。
「三体……四体!」
小ぶりな剣が、正確に死者の急所――脳を破壊していく。
五体。
六体。
七体。
流れるような剣筋。
かつての全盛期を思わせる動きだった。
いや――
死線に立たされた今の方が、鋭い。
「はぁ……!」
アルフレッドは剣を振り抜いた。
その時だった。
階段から、ひときわ大きな影が現れた。
「……?」
アルフレッドの剣が止まる。
その顔を見た瞬間。
「っ……!」
目を見開いた。
「…………ケビン」
そこに立っていたのは――
つい昨日まで、村を駆け回っていた青年。
ケビン・アドマイヤーだった。
まだ十八歳。
これからいくらでも未来があったはずの若者。
それが今は――
身体はどす黒く変色し、肉は抉れ、右腕は失われている。
紛れもないアンデッド。
「ああ……お前さんまで……!」
アルフレッドの声が震えた。
だが、戦士としての身体は止まらない。
剣を振り上げる。
狙うのは頭部。
脳を破壊すれば、ケビンを止められる。
「すまん、ケビン!」
渾身の力で振り下ろす。
――しかし。
「なっ……!?」
ケビンが動いた。
ただ突っ込んでくるのではない。
剣の軌道を見ていた。
ほんの僅かに身体を傾け――
紙一重で斬撃をかわす。
「……避けた!?」
ガキンッ!
完全には避けきれなかった。
剣先がケビンの肩へ食い込み、鎖骨が砕ける。
だが。
ケビンは止まらない。
痛みなど、感じていない。
そして――
ブォンッ!
皮一枚で繋がっていた右腕を、鞭のように振り回した。
「ぐっ――!?」
ドグシャァッ!!
遠心力を乗せた一撃が、アルフレッドの腹部を直撃する。
「が、はっ……!」
身体が吹き飛ぶ。
壁へ激突。
アルフレッドは床へ転がった。
口から大量の血が溢れる。
(……肋骨が、やられたか)
だが。
這いつくばっている暇などない。
アルフレッドは歯を食いしばり、立ち上がった。
(這いつくばっていては……勝機は万に一つも残らん!)
若い頃の戦いで身体に染みついた、絶対の鉄則。
立て。
最後まで立て。
アルフレッドはケビンを見据えた。
そして――
思わず苦笑した。
(ケビンよ……)
生前から感じていた。
あの青年には、農夫だけではない才能がある。
牛を扱う時の体重移動。
鍬を振る時の身体の使い方。
無駄のない骨格。
アルフレッドは何度も、
『お前には戦士としての才能もある』
そう言っていた。
まさか。
それがこんな形で証明されるとは。
(死してなお……これほどの身体能力とはな)
皮肉にもほどがある。
その時。
ケビンの右腕が、完全に千切れ落ちた。
ボトリ。
床に転がる。
だが――
ケビンは一切気にしていない。
その両目だけが。
不気味な赤に染まっていた。
生者への憎悪。
それを剥き出しにしたような、禍々しい眼。
「…………」
アルフレッドの手が震えた。
今までの震えとは違う。
村人を斬ることへの躊躇いではない。
恐怖だった。
目の前にいるものを、本能が理解している。
これはケビンであって。
ケビンではない。
「わしも、随分と老いたものだな……」
アルフレッドは、ふぅ、と息を吐いた。
そして、わざと口元を吊り上げる。
「それにしても、ケビンよ」
剣を構える。
「お前さんには農夫以外にも才能があるとは、常々言うておったが……」
一瞬だけ間を置く。
「……まさか、アンデッドの才能まであるとは聞いておらんぞ?」
生前のケビンなら。
『何言ってんだよ、ジジイ!』
そう言い返していただろう。
だが。
今のケビンは何も答えない。
ただ、身体を沈める。
次の一撃へ備えていた。
(……来る)
アルフレッドには分かった。
次の一撃で決まる。
そして――
(わしは負ける)
階下から、足音が響いている。
炎に包まれたアンデッドたちが、二階へ上がってくる。
肋骨を砕かれた今の自分では、ケビンの攻撃を受け切れない。
長い人生だった。
それを振り返る時間すら、もう残されていない。
だが――
「わーーーーん!!」
突然。
鋭い鳴き声が響いた。
「わん! わん!」
アルフレッドが振り向く。
視界の端から、小さな影が飛び出した。
「ティラノ!?」
老犬だった。
普段なら、虫一匹にすら怯える。
臆病で。
弱くて。
もう何年も走ることすらできなかった老犬。
そのティラノが――
ケビンへ向かって跳んだ。
ガチッ!
ケビンの残された左腕に、鋭い牙が食い込む。
「ア……ガ、アァ!?」
ケビンの動きが、止まった。
ティラノは離さない。
小さな身体全体でケビンに食らいつき、必死に唸っている。
主を守るために。
命を懸けて。
「ティラノ……」
アルフレッドの目が見開かれた。
胸の奥で。
消えかけていた何かが――燃え上がる。
戦士として生きてきた男の魂。
そして。
家族を守ろうとする、一人の老人の意志。
それが、再び身体を動かした。
「ティラノ!!!」
アルフレッドは叫んだ。
「よくやった!」
砕けた肋骨の痛みなど、もうどうでもよかった。
血まみれの髭を揺らし、アルフレッドは笑う。
「――よし!」
古びた剣を、再び両手で握り締める。
「お前さんたちの望み通り……」
その目に、戦士の光が戻った。
「死ぬ気で暴れてやるぞ!!!」
「ぶわっはっはっはっは!!!」
老兵の笑い声が、燃え盛る家の中に響き渡った。
最愛の家族――ティラノと共に。
アルフレッドは、地獄のような戦場へと再び踏み込んだ。




