腐り貪り
「ア、ウ……、ガ……」
ケビン・アドマイヤーは、自らの不格好な肉体を無理やり前へと進めていた。
それは生前のように、心地よい風を感じながら、筋肉の伸縮を愉しむような「歩行」では断じてなかった。死んで硬直しかけた関節を、脳内に残る強固な意思という名の楔で無理やり駆動させる、極めて機械的で、不自然な肉体の酷使だった。
(動け……動け。ただ足を引きずるんじゃない。膝を上げろ、重心を前に傾けろ……!)
ケビンは悲惨な運命に抗うように、人ではなくなった身体の効率的な使い方を、一歩ごとに『思考』しながら、小雪とデュラハンナイトが消え去った方角へと進んでいた。感覚の麻痺した足の裏が土を掴む。生前の農業で培った骨格のバランスだけが、辛うじて彼に「まともな歩行」を許していた。
小雪たちが飛び去った北の空を見上げると、地平線の彼方に、生前は遠くから眺めることしかしなかった、険しくそびえ立つ山岳地帯が不気味なシルエットを見せていた。
あの山脈の向こうにあるものを、ケビンは知っている。
(あの先にあるのは……宗教国家『サピエンティア』だ……)
宗教国家サピエンティア。
そこは、この大陸でも三大魔道士とよばれる最高峰の魔導師であり、『大賢者』と称される老人ジフが統治する巨大な聖都だった。人々は大神サピエンティアを崇め、不浄なる魔術を排し、厳格な教義の元で暮らしていると聞く。
小雪がなぜ、王都を滅ぼした後にその宗教国家を目指したのか、ケビンには分からなかった。国への復讐を終えた彼女が、次にあの強大な聖都をも血に染めようとしているのか、あるいは別の目的があるのか。
だが、理由などどうでもよかった。あいつがどこへ行こうと、この足で追い詰め、その細い首をへし折る。それだけが、今のケビンを動かす唯一の原動力だった。
しかし、現実は非情だった。どれだけ頭で命令を下しても、身体が思うように動かない。
右腕の肉はリリィに噛みちぎられてぶら下がったままであり、歩くたびに脇腹の傷からドロリとした腐汁が溢れる。
(クソッ、やっぱり死んだ身体は、脳の信号をうまく筋肉に伝えられないのか……?)
死者は呼吸をしない。心臓も打たない。血も巡らない。
ならば、なぜ自分はこうして物を考え、歩くことができるのか。稼働しているのは、頭蓋骨の中に収まった「脳」だけなのだろうか。
その時、ケビンの濁った記憶の底から、ある一人の男の顔が浮かび上がってきた。
それは、一昔前にアドマイヤー家が営む農村にふらりとやってきた、一人の奇妙な旅人の記憶だった。
「よお、若大将。美味い野菜を育てる秘訣は知ってるみたいだな。でも、そんな野菜や若大将を襲う魔物が来たらどうする?…たとえばアンデッドがきたら?」
男の名はハリス。
細く薄い目をしており、顎には無精髭を蓄えていた。一見すると、どこか頼りなく、ヒョロヒョロとした風体に見える男だったが、ケビンは知っていた。ハリスがふとした拍子に見せる身のこなしや、衣服の隙間から覗くその肉体には、一切の無駄がない、鋼のように引き締まった筋肉が凝縮されていることを。
ハリスは村の酒場で、ケビンに何度か自慢話を語ってくれた。
自分はかつて、世界各地を旅する中で、通常の魔物だけでなく、死者が蘇ったとされる『死霊系魔物』の化け物どもと幾度も死線を潜り抜けてきたのだと。
その当時のケビンは、それをただの「酒飲みのホラ話」か、吟遊詩人が語る大袈裟な冒険譚としてしか聞いていなかった。農業一筋で生きていくつもりだった自分には、一生関係のないおとぎ話だと切り捨てていたのだ。
(ああ……クソッタレ。あの時、もっと真剣に話を聞いておくべきだった……!思い出せ!思い出すんだ。)
ケビンは死んだ頭を激しく後悔で満たした。だが、なんとか思い出すことに成功した。ハリスが語っていた言葉が、今になって一言一言、血の滲むような重要性を持って脳裏に蘇る。
『いいか、ケビン。アンデッドってのはな、神聖魔法による浄化を受ければ一発で消し炭になる。それは教会のエライ奴らに任せればいい。だが、俺たちみたいな物理で戦う人間がアンデッドを確実に仕留める方法は、ただ一つだ』
ハリスは少々大袈裟に手振りを交えながら、自分の頭を指差して見せた。
『――脳の破壊だ。奴らの身体がどれだけ腐ってようが、心臓が止まってようが、その肉体を動かしている魔力の核、ま、こっちはどこにあるか分からないからオススメはしない。あとは呪いの命令系統は「脳」に集約されている。そこを叩き潰さねば、奴らは手足がもげても這いずって噛みついてくる。裏を返せば、脳さえブチ抜けば、どんな大物の死体でもただの動かない肉塊に戻るのさ』
その時は半信半疑だったハリスの言葉。
だが、実際に自分が「アンデッドになってしまった」今なら、それが紛れもない真実だと理解できた。現に、ケビンは心臓が止まっているにもかかわらず、脳だけは明晰に思考を続けている。そして、この脳が物理的に破壊されれば、自分の意識も、復讐の誓いも、すべてが完全に消滅して消え去るのだろう。
(脳を守らなければならない……。ここを潰されたら、俺の復讐はそこで終わる)
ケビンは自らの腐りかけた手で、頭蓋骨の感触を確かめるように頭を触った。
小雪を追うためには、まず自分自身の「脳」を死守し、この肉体を維持し続けなければならない。冷性な自己分析が、彼の死んだ思考を支配し始めていた。
しかし、前方に見える険しい山岳地帯を凝視した時、ケビンの足取りは次第に重くなっていった。
(あの山は……生きている時ですら、俺たち村の人間は誰一人として近づかなかった場所だ……)
魔物が数多く棲息する、呪われた山。
特にその一帯は、凶暴極まりない『トロール』の住処として恐れられていた。トロールは常人の数倍の体躯を持つ巨人で、その皮膚は岩山そのもののように硬く、灰色の山肌に見事に同化して獲物を狩るという。生前、あのビッグボーイを引く強靭な力を持っていたケビンですら、トロールにまともに殴られれば、肉一塊も残さずに粉砕されることは容易に想像がついた。
しかも、旅人ハリスの話によれば、あの山に住むトロールは単独ではなく、獰猛な「つがい」と暮らしているのだという。並の冒険者パーティですら近づかない死の領域。
(今の俺の、思い通りに動かないこの身体で、あの山を越えられるのか……? トロールに遭遇して脳みそを叩き潰されたら、小雪のところへ辿り着くことすらできずに終わるぞ……)
考えれば考えるほど、ケビンの足は重くなり、ついに泥の中に根を張ったようにピタリと止まってしまった。
煮えたぎる怒りのままに我が家を飛び出してきたが、この行動は決して最善ではない。死者となったからこそ、生前よりもずっと冷静に、冷徹に物事を組み立てなければならないのだ。
さらに、ケビンの胸を突き動かす別の不安が頭をもたげた。
(待てよ……。もし、俺がこうして小雪を追って留守にしている間に、我が家に残してきたリリィとルルが、通りすがりの冒険者や騎士団に『ただのアンデッド』として退治されていたらどうする……?)
二人は柱に縛り付けられている。抵抗もできず、逃げることもできない。もし誰かに見つかれば、一瞬で首をハネられるか、神聖魔法で灰にされるだろう。
いくらかわり果てた姿になろうとも、彼女たちはケビンの最愛の妹なのだ。
(まずは、あの二人を守るための安全の確保が最優先だ。拠点を固め、自分の身体を確実に動かせるようになってからでも、小雪を追うのは遅くない……!)
「ォ……、ォウ、オ……(戻るぞ)」
ケビンは踵を返した。
物理的に重く、泥を捏ねるような足取りで、彼は再び我が家がある村の中心部へと引き返し始めた。
村へと続く帰路の途中、ケビンの視界に、二つの歪な影が映り込んだ。
それは、近所に住んでいたダンソンご夫妻の姿だった。
すでに年配の夫婦だったが、生前はいつも仲睦まじく、アドマイヤー家にも「ケビン、これ持っていきなさい」と、獲れたての美味い野菜をよく分けてくれた、温厚で優しい人たちだった。
だが、今の二人はどうだ。
衣服はボロボロに引き裂かれ、互いに生気のない顔でうめき声を上げながら、すでに無人となった民家のドアを、爪が剥がれ落ちるのも構わずにドンドンと叩き続けている。
(ダンソンさんも……死んだんだな。いや、俺たちと同じになったんだ……)
周囲を見渡せば、ダンソン夫妻だけではなかった。
見知らぬ衣服を着た死者、王都の紋章が刻まれた鎧を虚ろに着た兵士の死体。彼らが、あちこちでチラホラと、宛てもなく彷徨っている。
おそらく、小雪の支配が解け、王都を襲うという明確な目的を失ったアンデッドの軍勢が、四方八方に霧散し、その一部がこうして津波の残り滓のように村まで流れ着いているのだろう。
その数は、一人や二人ではなかった。
気づけば、百、あるいは二百を超える凄まじい数のアンデッドたちが、じわじわと村の広場や路地を埋め尽くし始めていた。言葉を失うほどの、文字通りの『死の行進』。
もし自分がまだ生者であったなら、この光景を見ただけで恐怖に腰を抜かし、絶句していただろう。
だが、奇妙なことに、周囲のアンデッドたちはケビンのすぐ横を通り過ぎても、彼に一切の見向きもしなかった。彼らはケビンを「生きた肉」ではなく、「同類(ただの死体)」として認識しているからだ。
しかし、その不気味な静寂は、ある一箇所に集まる死者たちの異常な動きによって破られた。
村の少し外れにある、アルフレッド宅。
その家の周囲に、数十体ものアンデッドが執拗に群がり、狂ったように壁や扉を叩いていた。ガリガリ、ガリガリと、木を削る爪の音が不快に響く。そして、その激しい音に引き寄せられるように、周囲を彷徨っていた百以上のアンデッドたちが、まるで雪崩のようにその家へと押し寄せ始めた。
死者が音に反応して集まっている。ということは――
「くそったれ! お前らのようにはならんぞ! 近寄るな、この化け物どもめが!」
家の中から、割れんばかりの絶叫が響き渡った。
まさしく、あのアルフレッド爺さんの声だった。
直後、ひしゃげたドアの隙間から、大きな木を削って整えるための、研ぎ澄まされた重い「鉈」が鋭く突き出された。
凄まじい力で振り回されたその鉈は、ドアに群がっていた一体のアンデッドの脳天を、文字通り真っ二つにかち割った。ハリスの言葉通り、脳を破壊された死体は、糸が切れた人形のようにどさりと地面に倒れ伏し、二度と動かなくなった。
ドアの奥から見えたアルフレッドの姿は、凄惨を極めていた。
生前、ケビンに「裏小屋の屋根を直してくれ」と頼んできた、あのお茶目で憎めない爺さんだ。薄くなった頭髪をいつもお気に入りの帽子で隠していたが、今はその帽子もなく、真っ白に長く伸びた自慢の髭が、死者たちの返り血でべっとりと真っ赤に染まっている。
アルフレッドはまだ生きている。必死に、己の命を守るために戦っている。
それを見た瞬間だった。
ケビンの頭脳に、凄まじい衝撃が走った。
(……あ?)
ケビンの胸の奥底から、突如として、あの小雪を目撃した時と全く同じ――いや、それを遥かに凌駕するほどの、脳味噌が沸騰するような『強烈な怒りの感情』が爆発的に湧き上がってきた。
視界が、灰色から一瞬にしてドス黒い赤へと染まる。
思考が急速に焦げ付き、胸の奥の臓腑に隠した父の形見の首飾りが、まるで熱せられた鉄のように熱く感じられた。
(な、んだ……? この怒りは……何なんだ……!?)
ケビンは必死に、残された理性でその感情を抑え込もうとした。
おかしい。
あの時、小雪を見た時に湧き上がった怒りは、自分たちの平穏を破壊し、家族を奪った「諸悪の根源への憎悪」だと思っていたはずだ。だからこそ、彼女への復讐を誓ったはずだった。
だが、今、目の前で必死に生きようと鉈を振るうアルフレッド爺さんを見て、なぜこれほどの殺意が湧き上がる?
なぜ、あの老人の生きている温かい肉を、その喉笛を、この腐った爪で今すぐ引き裂き、貪り尽くしたいと激しく願ってしまうのか。
(違う……! 俺はアルフレッド爺さんに恨みなんてない! 明日、屋根の修理を手伝いに行く約束だってしてたんだ……! なのに、どうして……!)
信じたくない事実が、ケビンの脳裏に突きつけられる。
この激しい怒りと憎悪の正体は、小雪への個人的な怨みなどではなかった。
これは、アンデッドという『死者の種族』に成り果てた者が、その肉体に刻み込まれた絶対的な本能――
「生者すべてを、ただ生きているというだけで激しく憎悪し、呪い、喰らい尽くそうとする、抗えぬ呪いの炎」
それそのものだったのだ。
ケビンは小雪を憎んでいたのではない。死者としての本能が、生者である小雪を、そして今生きているアルフレッドを、ただただ等しく「抹殺すべき敵」として認識し、怒りを燃え上がらせていたに過ぎなかった。
自分は、高潔な復讐者などではない。
ただの、生者を貪る化け物へと作り替えられてしまったのだ。
「あ……、ガ、アァァァァァッ!!」
ケビンは頭を抱えて絶叫した。しかし、その喉から出たのは、やはりおぞましい獣の咆哮だけだった。
アルフレッドが必死に生きようと放つ、生命の放熱。それが、死者であるケビンにとっては、自らを苛む何よりも不快で、許しがたい光として網膜を焼く。
(やめろ……やめてくれ、俺は心までアンデッドになんか……!くそっ… 飲まれるな……!)
拒絶しようとすればするほど、胸の内で燃え盛る怒りの炎は温度を増し、ケビンの中に残されていた数少ない人間の『思考』を、情け容赦なく焼き尽くしていく。
生きている者が、許せない。
あの温かい血の流れる音が、不快でたまらない。
壊せ。貪れ。引き裂け。
アルフレッド宅へ向かって雪崩を打つ死者の群れの中に、ケビン・アドマイヤーの肉体もまた、自らの意思か、あるいは死の本能か分からぬまま、ゆっくりと、しかし確実に混ざり合っていった。
彼の理性が完全に闇に呑まれるまで、あと、ほんの数秒だった。




