滅びゆく足音
宗教国家サピエンティア――その中心地には「命の木」と呼ばれる、天を覆うほどの絶大な大樹が鎮座していた。
街はその大樹を包み込むように円状に形成されており、大樹から溢れ出る輝きこそが、この国に豊かな加護をもたらす源泉とされていた。そして命の木の真横には、国の象徴である巨大な石造りの大聖堂が聳え立っている。
大聖堂の分厚い壁面には、石造職人たちが彫り上げた街の人々を模した精密な石像がぎっしりと貼り付けられ、まるで民の群衆が大聖堂そのものを下から支えているかのような重厚な威容を誇っていた。
そして、その石像群の頂点――大聖堂の最上部には、この建築の象徴である大神サピエンティアの神々しい巨大石像が刻まれていた。六本の腕を広げ、そのすべての手のひらに人間を乗せた大神の像は、慈悲と威厳に満ちた眼差しで常に下界を見下ろしているのだった。
そんな荘厳なる大聖堂の内部にて、大神の教えを静かに説く一人の男がいた。
この国において最高指導者であり、『三大魔導師』の一人に数えられる大賢者――ジフである。
低く、深く、どこまでも奥行きのある声が大聖堂の静寂を震わせ、石造りの天井へと重々しく響き渡る。
「我らが大神サピエンティア様は、新たなるお告げを授けられた。……我が聖域を冒涜し、喰らい尽くさんとする不浄なる蛮族の侵孔を。そして、その猛威に立ち向かわんとする我ら信徒に対し、偉大なる加護を約束されたことを……」
口の周りから顎先にかけて三十センチほども伸びた雪のような髭と、後ろへ流した長い白髪。深く刻まれた皺を刻む老人が、最高司祭の教壇に立ち、言葉を紡ぎ出している。
純白の司祭服を身に纏い、その頭上には最高権威の象徴たる眩い王冠を戴いていた。
瞳を固く閉ざした大賢者ジフの厳かな声だけが、広大な聖堂を満たしていく。集まった信徒たちは一様に平伏し、祈りを捧げるようにしてその声に耳を澄ませていた。
「聖なる加護の前には、蛮族の紡ぐ死の呪いなど無に帰すであろう。……たとえその身が呪いに侵されようとも、我ら信徒を最後に救うのは高潔なる死であり、魂の救済である。生きとし生ける者は自然の摂理に身を委ねるのだ。……いざ、大神サピエンティア様の御名のもと、蛮族の討伐へと向かおうぞ」
「「「我らの誇りはジフ様の元に! この身を解き放ち、聖なる剣とならん!!!」」」
一斉に叩きつけられる歓声を合図に、白銀の鎧の上に純白のローブを羽織った聖騎士たちが、寸分の乱れもない行進で大聖堂をあとにしていった。
静まり返った教壇で、ジフは小さく咳払いをした。
「……ふぅむ、ついにこの時が来てしまったか。長く生きすぎたものよ……人の身とは、実に脆く重いものだ。」
誰もいなくなった大聖堂の虚空を見上げ、ジフは共に三大魔導師と並び称される二人の怪物へと思いを馳せた。
ヴィネルバをはじめとする二人は、己の欲望や探求心を全うするために、とうの昔に「生身の人間」であることを放棄した。
しかし、ジフだけは愚直なまでに人間の肉体にこだわり続けた。それは大神サピエンティアの教えゆえではない。彼自身が掲げる絶対の矜持によるものだった。
――人の身体で生き、人の限界のなかで業を極めてこそ、真に生を全うしたと言えるのだ。
今まさに押し寄せてくる厄災は、あの歴史あるグラン王国を一夜で滅ぼした災厄そのもの。
若く活力に満ち溢れていた全盛期であれば、かつて世界を震撼させた「魔王」とすら渡り合えた自負がある。しかし、魔王の如き途方もない力を振るう異世界の少女に対し、この老いた肉体でどこまで抗えるか。ジフの卓越した洞察力をもってしても、極めて凄惨な死闘になることは明白であった。
そして実際――前線にて敵と対峙した瞬間、ジフはその予感が完全に的中していたことを痛感した。
魔女クラガリと同等、いや、それを遥かに凌駕する圧倒的な魔素の渦。加えて、人間の域を遥かに逸脱した魔力の精緻な術式運用。それらを同時にこなす悪夢のような存在が、そこにいた。
聖都から大きく離れた荒野に陣を敷き、万全の体制で待ち構えていたサピエンティア軍であったが、地平線を埋め尽くした軍勢は「数万」を超えるアンデッドの大群。さらにその中には、死霊系魔物の中でも極めて稀有で強大な上位種が多数蠢いていた。
しかし――サピエンティア側も、ただ指を咥えて待っていたわけではない。
二十万を数える大軍勢に加え、万が一「新たな魔王」が降臨した際に備えて構築された絶対の対抗策――それらを、かつてグラン王国のオズ卿と共に秘かに作り上げていたのだ。
金属と魔法陣で組み上げられた「機械仕掛けの魔導兵器」と、それを一斉制御する魔導師隊。
そして一般戦士たちの肉体には、切断された四肢の代わりにゴーレムの機械腕や機械足を直接結合する「魔導義体化」が施され、兵卒個々の戦力が狂気的なまでに底上げされていた。
そして何より、サピエンティアの極秘兵器――『魔導戦車』と呼ばれる異形の機体。
巨大な肉厚の大砲を搭載した四足歩行の超大型ゴーレムであり、内部には人間一人を格納する操縦空間が存在する。しかし、その座席に入った人間は生体回路を通じてゴーレムとほぼ不可逆的に同化させられる仕組みとなっていた。オズ卿がグラン王国から提供した「調教済みの異世界人」を核として組み込むことで、この莫大な魔力を消費する巨大兵器を駆動させていたのだ。
これほどの狂気と技術を結集して挑むからこそ、この一戦において退くことは許されない。
いや――これはもはや「戦い」と呼べるような生易しいものではないのだ。
「……野蛮なる蛮族に、宣戦布告など不要。――焼き払え!!」
ジフの地を這うような低温の令が下った瞬間、魔導戦車が一斉に砲身を旋回させ、押し寄せる無数のアンデッド軍勢へと照準を合わせた。
ズドォォォォンッ!!!
空気が激しく破裂し、大気が歪むほどの凄まじい爆風と轟音が戦場を支配した。
砲口から放たれたのは、濃密な魔素の塊――純粋な暗黒エネルギーの砲弾。
迫り来る屍の波へと直撃した瞬間、爆心点を中心に半径数十メートルの空間が、あらゆる命を焼き尽くす黒炎の渦へと呑み込まれていった。
アンデッドたちが次々と黒炎に包まれ灰燼と化す中、ジフ自身も静かに宙へと浮遊した。
下道の信徒たちと意識を同調させ、空中で巨大な極大魔法の詠唱を開始する。ジフの紡ぐ祝詞に呼応し、空全体を覆い尽くすほどの超巨大な魔法陣が幾重にも描き出されていく。
だが――敵の頭目たる『橘小雪』は、その巨大魔法陣が完成するのを黙って指を咥えて待つような甘い相手ではなかった。
ドス黒い漆黒のローブを夜風になびかせ、上空へと急上昇してきた小雪は、ジフと真っ向から対峙するように極大の闇魔法を展開した。
彼女の手元から放たれたのは、拳ほどのごく小さな黒い球体。しかしそれは、周囲の光も大気も物質もすべてを無差別に喰らい尽くす「擬似的なブラックホール」であった。
黒い球体は空間を激しく歪ませながら、火花のように黒炎を周囲へ飛び散らせ、膨張と消滅を繰り返しながら聖騎士たちの陣列へと牙をむく。
直撃を受けた機械化戦士たちが凄惨な絶叫を上げるが、その悲鳴すらも空間の歪みの中に吸い込まれ、一瞬で姿を消していく。
それを口火とするように、空からはコウモリのような巨大な翼を持つアンデッドが飛来した。
王都での戦いでも報告のあった「体内の一部に高濃度のガスを溜め込んだ膨張型のアンデッド」を両足の爪で掴み、サピエンティア軍の陣頭を目がけて惨烈な空中投下を開始する。
――聖都の空の下、まさに地獄の如き全面戦争の幕が切って落とされたのだった。




