堕落した聖女-2
夜風を切り、フワリと宙に浮遊したまま固まっている『500番』を伴い、ヴィネルバは建物の屋根よりも少し高い高度を飛んでいった。
真夜中の空。
眼下に広がる街の灯りはほとんど消え失せ、満天の星空の下、ふたつの影が闇に紛れて東の湿地帯へと向かっていく。リザードマンたちの集落を通り抜け、幻惑の濃霧を払うと、そこにひっそりと佇む小さな家が見えてきた。
庭の畑では、鹿の頭骨を持つスケルトンが耕作に励んでおり、丁度地面からマンドラゴラを引き抜こうとしているところだった。
地面に舞い降りたヴィネルバは、短く「やめな」と一言だけ告げた。
スケルトンは即座に動作を止め、引き抜く寸前の体勢で静止する。
先に固まったままの『500番』を家の中に放り込み、室内に異常がないことを確認してから、ヴィネルバは外のスケルトンへ手短に合図を出し、重い扉を固く閉ざした。
直後、外から人間の精神を直接苛むような、絶叫に似たマンドラゴラの悲鳴が上がり始めた。
この湿地帯における夏の風物詩のような音覚。夜に引き抜くのは、昼間に比べてマンドラゴラの動きが多少なりともおとなしくなるからだ。もっとも、土から出された恐怖で狂ったように叫び散らすのは、昼も夜も変わりはないのだが。
新たな薬液を抽出するために大量の材料が必要だったため、今宵はこうして収穫を進めさせているのだった。
扉を閉め切っていれば、外の悲鳴も室内まではそこまで激しくは届かない。
……そう高をくくっていたヴィネルバだったが、口の硬直だけを解いてやった『500番』の口から、マンドラゴラにも負けない凄惨な叫び声が上がった。
その絶叫にくるっと目を回し、口をへの字にして嫌な顔をしながら速やかに500番の口を再び閉じさせた。
やがて東の空が白み始め、朝方になる頃にはマンドラゴラの鳴き声も完全に止んだ。そろそろ大丈夫だろうと、ヴィネルバは腰掛けていたロッキングチェアからゆったりと立ち上がった。
指先をひと振りし、『500番』の頭部の硬直だけを解除してやる。
急に頭部だけ動かせるようになった少女は、驚きの声を上げて周囲を見回した。そして己の置かれた状況を正しく理解すると、再び鋭い殺意でヴィネルバを睨みつけた。だがその瞳の奥には深すぎる絶望が横たわり、光など一片も宿っていなかった。
「それで? お前さんの本当の名前はなんだい?」
「……殺す」
「はぁ……。お前さんの名前は『殺す』っていうのかい。覚えておくよ。ちなみに私は見ての通り、すでに死んでいるからねぇ」
その返答に面食らったように、少女はガクリと頭を垂れた。
ヴィネルバはその細い顎の微妙な動意を見逃さなかった。
「やめておきな。舌を噛み切って死ぬつもりのようだが、あたしは死なせないよ。お前さんだって安くはないんだ。しっかり役に立ってもらわないとねぇ……」
言っているそばから、少女の口端からダラリと鮮血が溢れ出していく。
ヴィネルバは大きく息を吐き出すと、呆れ混じりにため息をつき、行使が禁忌とされる高階位の回復魔法を紡いだ。
「――『リライフ』」
緑の光が口元を包み込み、引きちぎられかけた少女の舌が瞬時に再構築され、溢れていた血がピタリと止まる。少女は口内に残った血をゴボッと吐き出し、苦しげに呻き声を上げた。
「……な、何なんだよ。私は……死ぬことすら許されないの……!?」
「そうさ。お前さんはもう私の所有物だからね。……それで、名前は?」
うつむいたまま、すべてを諦めた虚無の瞳で、少女はヴィネルバを見上げた。
「……小雪。橘小雪よ」
「ほう……小雪かい。このあたりの名付けじゃないねぇ。どこから来たんだい?」
「言っても……分からないと思う。私はこの世界とは別の場所から来たから。……『召喚』されたの」
その言葉を、ヴィネルバは静かに頷きながら聞き入った。
『500番』こと小雪は、自らを異世界人であると語った。こことも異国の地とも違う、「日本」と呼ばれる世界からやってきた人間であると。そこには愛する家族や大切な恋人がいて、何不自由のない順風満帆な日々を送っていたのだという。
だが、ある日恋人とのデート中に立ち寄ったトイレから、突然見知らぬ大広間へと転移させられた。
王国グランの国王の御前、宮廷魔術師オズ・ブラッドフォード卿が執り行った異界召喚の儀によって強引に連れてこられ、「聖女」として崇め奉られることになったのだ。
しかし、魔法も言葉も通じない異世界の少女に与えられたのは、栄誉などではなかった。
王国は、異世界人である小雪の体内に過剰なまでに蓄積されていた膨大な魔素に着目した。彼女の魔力を極限まで絞り出し、王国の防壁や兵器の動力として搾取し始めたのだ。
半分監禁されたような状態で言葉と文字を無理やり叩き込まれ、与えられた仕事はただひたすら、己の魔素を「無機質な石ころ」へと移し替えるだけの理不尽な作業。わけのわからないまま摩耗していく日々が、数ヶ月にわたって続いた。
そしてある日、急に「もう用済みだ」と告げられた。
奴隷商へと売り払われる直前の数日間は、まさに地獄そのものだったという。過酷な職務に疲弊した王国の兵士たちの、抑圧された欲望を吐き捨てる「はけ口」として弄ばれたのだった。
その後に買われた奴隷商会では自由こそなかったものの、商品として扱われたため、少なくとも兵士たちのような惨烈な暴力に晒されることはなかった。
現在に至るまでの壮絶な生い立ちを語る小雪の全身から、煮え滾るような恐ろしい憎悪がドクドクと溢れ出していく。
その感情の凄まじい昂りは、ヴィネルバが施していた生活魔法の硬直すら強引に打ち破り、小雪の身体に自由を取り戻させた。
ヴィネルバは思わず目を見開いたが、彼女の内に眠る桁外れの魔素量を考えれば、それも当然の帰結だとすぐに納得した。
自由を得た瞬間、小雪は無意識のうちに己の魔素を激しく放出し、ヴィネルバへ向けて直撃させた。ヴィネルバはそれを手元で簡単に薙ぎ払って防いだが、内心では深い感嘆の声を上げていた。
これほどの素質がありながら、まともな魔法の体系すら教わらなかったのだろう。放たれたのは魔法の形すら成していない、ただの粗雑な「魔素の破裂」でしかない。
だが――それだけの単純な放出で、ここまでの破壊力を叩き出せる者が、この世界にどれほど存在しようか。
(ふふ……やはりあたしの目に狂いはなかったねぇ)
己の見立ての正しさに、ヴィネルバは酷く満足した。
小雪が放った無駄な上段蹴りに対し、ヴィネルバが静かに扇子を仰ぐと、発生した強風が小雪の華奢な身体を容易く吹き飛ばした。短い悲鳴と共に壁へと叩きつけられ、仰向けに転がる小雪。
間髪入れず、ヴィネルバが「首を絞めるような素振り」を見せると、彼女の手元から離れた空間の先で、離れた場所にいる小雪の細い首が、目に見えない力によって強く締め上げられた。
「うぐぅ……っ!」
「自殺も、あたしへ攻撃することも許しはしないよ、小雪。……お前さんに、正しい『魔法』を教えてあげる。その代わり、お前さんの魔素を定期的にあたしへ寄こしな。あたしはお前さんの魔力をもらって新しい仮面が作れる。お前さんは魔法を覚えて、復讐でも何でも好きにやり遂げられる。……どうだい?」
にんまりと笑みを浮かべるヴィネルバ。霊体である彼女の笑みは、まるで闇から誘う悪魔のように美しく、そして深く歪んでいた。
「……がぁっ……!」
「おっと、失礼」
首を絞めていた不可視の力を解放してやる。
「……ぐっ……げほっ、ごほっ……! ……本気で言ってるの……? 私に魔法を教えて……後悔しない……!? 私はこの世界を……絶対に許さないわよ……!」
喉元を押さえ、息も絶え絶えになりながらも、小雪は爛々と狂気を宿した瞳で猛烈な殺気を放つ。
「いいさね。好きにおしよ。私はゴースト……この世界の因果の理から外れた存在さ。お前さんが世界を滅ぼそうとどうしようと知ったことじゃない。私が誰に魔法を教えようと、それも私の勝手さね。……どうだい? 私の『弟子』になる気になったかい?」
「………………分かったわ。どうせ、私に拒否権なんてないんでしょう? ……それで、あなたの名前は?」
「あたしはヴィネルバ。……『師匠』とお呼び」
「……えぇ。……お師匠様、よろしく頼むわ」
地に伏せたまま、ほんのりと会釈をしてみせる小雪。
その姿を見届けたヴィネルバは、パッと扇を開いて口元を隠し、満足そうに高らかに笑い声を響かせるのだった。




