幕間―旅人ハリスの冒険録
パチパチッ──。
静寂に包まれた夜の山林に、乾いた爆ぜ音が小さく響き渡る。
赤々と燃える焚き火の炎が、周囲の木々の輪郭を仄暗く浮かび上がらせていた。燃え盛る木材から立ち上る、特有の香ばしくも煤けた臭いを鼻腔に吸い込みながら、ただじっとその火を見つめている一人の男がいた。
男の名はハリス。大陸を渡り歩く、しがない一人の旅人である。
その細い目で焚き火を見ながら無精髭が伸び放題になった顎をザラザラと指先で弄る。
彼は旅の道中で酷使してすっかり刃の鈍くなった、切りにくいナイフを熱心に動かしていた。何度も刃を押し当て、ようやく小さく切り分けることができた鶏肉の干し肉を、一つ掴んで口に含む。
お世辞にも美味しいとは言えない、驚くほど硬く塩辛いだけの代物だった。しかしハリスの顎は迷うことなくそれを咀嚼し、胃袋へと収めていく。
美味を求めているわけではない。
今この瞬間に、少しでも栄養を体内に摂取しておかなければ、明日という過酷な一日を生き延びることが困難になるのを、長年の経験から嫌というほど知っているからだ。
ここ数日の出来事は、文字通りの災難の連続だった。
全長4メートルにも達する猛禽類の超巨大魔獣『タイラントホーク』に急襲され、危うくその巨大な爪に掴まれて断崖絶壁にある巣へと連れ去られたのだ。
絶体絶命の状況だったが、その時たまたまハリスが荷物代わりに担いでいたゴブリンの死体を身代わりに投げ与えることで、なんとか奇跡的にその窮地を脱した。
しかし、命からがら逃げ延びた先で、今度は『アイアンベアー』と遭遇する羽目になった。
その名の通り、全身を鋼鉄のように硬質な皮膚で覆われた、山をも揺るがす獰猛な熊の魔物だ。
ハリスは持てる技術のすべてを動員して泥泥の戦闘を繰り広げ、どうにか辛勝を収めることには成功した。だが、息を整えて周囲を見渡したときには、自分がトロール山の中腹まで迷い込んで登ってしまっていることに気づいたのだ。
正確にここが山のどの位置にあたるのか、ハリスには分からなかった。
ただ一つ確実なのは、この周辺に生息している魔物が、どれもこれも一筋縄ではいかない凶悪な個体ばかりだということだ。
生半可な実力や一瞬の油断があれば、一瞬にして骨まで噛み砕かれて終わる。だからこそ、やられないためにも、こうして英気を養える一瞬の隙を見つけては、確実に肉体を休めなければならなかった。
今夜は幸いなことに、山特有の吹き下ろしの風が止んでいる。周囲に火が燃え広がる心配もなく、火元を警戒して寝ずの番をする必要もなさそうだった。
その事実だけでも、ハリスにとっては大いに胸を撫で下ろせる材料だった。
粗末な夕食を終えると、彼は腰の水筒から冷えた水を口に少しだけ含んで喉を潤し、すぐさま愛用の弓の手入れに取りかかった。
弦の張りが緩んでいないか、細かなほつれや摩擦による摩耗はないか。
弓の命とも言える「しなり」の弾性に問題がないかを慎重に確かめ、さらに一本ずつ矢筒から矢を抜き、月光に透かしながら矢じりの歪みや傷を入念にチェックしていく。
続いて、腰から武骨な鉈を取り出し、懐から取り出した砥石を使って静かに研ぎ始めた。
シャッ、シャッ、と鋭い音が闇に溶けていく。
もし明日、凶悪な魔物と不意に遭遇した際、得物が刃毀れ(はこぼれ)していれば、それだけで生存率は劇的に下がる。
襲い来る猛烈な眠気はあったが、眠さは命の重さには変えられない。
道具の手入れを完璧に終えたハリスは、ようやく道具を枕元にまとめると、地面に横になって静かに目を瞑った。
真っ暗闇が支配する広大な山の中で、ハリスの熾した小さな焚き火だけが、孤独に周囲を明るく照らし続けていた。
これまで旅人として、世界中の数多くの魔物を観察し、その生態を記録してきたハリスだったが、この山だけは極力触れないように遠ざけてきた未踏の地であった。
ここは、かつて栄華を誇った王国グランの遙か北方に位置する峻険な山岳──通称『トロール山』。
その名の通り、狂暴で強靭な巨躯を持つ魔物『トロール』が割拠していることで悪名高い山だ。並大抵の腕を持つ冒険者であっても、この山に安易に近寄ることは決してない。なぜなら──。
──ドシン! ドシン!
突如として、大地を激しく揺るがす不穏な地鳴りが鳴り響いた。
遠くの地中から伝わるその凄まじい大振動に、浅い眠りに落ちかけていたハリスの眼が、カッピらき、鋭く見開かれる。
頭蓋骨を直接揺さぶるような小刻みな震動が神経を逆撫でし、もはや眠ることなど不可能だった。
地鳴りの発生源が、まだここから随分と遠くであることは確かだった。しかしハリスが不審に思ったのは、あのトロールが、夜間であるにもかかわらず寝ずに激しく動き回っているという点だった。
普段、トロールという魔物は極めて単独行動を好み、一人で行動する。それも完全に、太陽が上っている昼間の時間帯だけだ。
その巨体は、優に9メートルはあるだろうか。縦だけでなく横幅も凄まじく大きく、その身体には筋肉ばかりでなく、分厚い肉がダルンと重そうに付いている。だが、それを単純に「太っている」と形容するにはあまりにも不自然なほど、肉の境界線から強固な筋肉の塊が浮き出ている。
その異様な体格から、ダルンとした脂肪の下は、鋼鉄の如く極めて硬い筋肉の層に覆われているのだと容易に推測できた。
そんなトロールは、昼間のうちに山林の広大な距離を歩き回り、手当たり次第に獲物となる肉や植物を見つけては貪り食う。彼らは見つけた生き物を文字通り「ただ食べている」という印象で、他の魔物であっても容赦なく巨大な口に放り込み、不要となった硬い皮や骨だけを、器用に口からペッ、ペッと吐き捨てていくのだ。
そのトロールが吐き捨てた魔物の部位は、かつてハリスが立ち寄った事のある『ヴィネルバの館』と呼ばれる場所にて、ゴーストの貴婦人が高く買い取ってくれる。だが、ハリスに言わせれば、それはお世辞にも良い代物とは言えなかった。
何せ、トロールの胃液まみれで吐き捨てられた骨と皮は、独特の鼻を突くような生臭みと酸っぱい臭気が異様に強く、普通の人間であれば、嗅いだ瞬間に強烈な拒否反応を示すほどに悍ましいものだからだ。
ハリスはこれまで数日間、そんなトロールの生態をじっくりと観察し、彼らが毎日日が落ちると同時に、自分で作った手作りの住居へと帰っていくのを確認していた。住居と言っても、崖の岩肌を器用に削って天井代わりにし、その下の地面に柔らかい草の絨毯を敷き詰めただけの、極めて簡易で素朴な雨風を凌ぐためだけの場所だ。トロールはそこに潜り込むと、夜を待たずにすぐさま深い就寝につく。
ハリスはその規則正しい就寝パターンを何日も確認した上で、安全を確信してこうして焚き火をつけ、夜の眠りについていたのだ。しかし、どういうわけか、今夜に限っては夜になっても彼らが狂ったように歩き回り、大地を鳴らしている。
(こんな珍しい、異例の事態があるものか……)
ハリスは即座に焚き火の傍から身を翻し、音を立てずに近くの木の上へと素早く這い上がった。周囲を見渡せる特に背の高い大木を選び、枝を伝って登った先で、彼は懐から一つの魔道具──『遠映鏡(望遠鏡)』を取り出した。丸く丁寧に研磨された不思議な水晶レンズが精巧にはめ込まれた、片目サイズの手鏡のような形状をした魔道具だ。それを自身の右目へと持っていく。レンズ越しに視界を覗き込むと、遥か数マイル先の夜の景色が、まるで目の前にあるかのように何倍にも拡大されて鮮明に映し出された。
最初に映ったのは、激しく揺れる鬱蒼とした木々。そこではない。ハリスは冷静にレンズの角度を変え、探索の焦点をずらしていく。
視界を切り替えたその瞬間、遠映鏡の向こうで繰り広げられていた光景に、ハリスは息を呑んだ。
画面の向こうでは、『ヘルハウンド』と呼ばれる、禍々しい漆黒の体毛に覆われた大型の狼の魔物が5体、群れを成して地鳴りの主──あのトロールの簡易住居を狂暴に襲撃していたのだ。
どうやら夜間の就寝中に奇襲を受けたらしく、巨体のトロールは腕や首筋から、おびただしい量の鮮血を流して苦悶の声を上げている。
しかし、その圧倒的な質量を持つ巨腕を存分に振り回し、暴風の如き一撃で襲い来るヘルハウンドたちを強引に薙ぎ払っていた。
ヘルハウンドは体長2メートルはあろうかという巨躯を持つ獰猛な獣である上に、ただの野生動物とは違い、その鋭い牙に属性魔法の「闇属性」の魔力を収束させて戦う、極めて恐ろしい魔獣だ。
ハリスはその緊迫した死闘を木の上から注視しながら、すぐさま懐から愛用のメモ帳を開き、その戦いの一部始終を克明に書き写し始めた。
彼にとって、未知の魔物を観察し、その生態を詳細に記録することは、生業の一部であると同時に、人生における至上の趣味の一つでもあったからだ。
遠映鏡の奥で暴れるトロールは、山緑色の分厚い強固な皮膚を持っていた。その巨大な手先の構造は驚くほど人間に近く、五本の指が分かれているため、トロールという種族の中には道具を扱う器用な個体が非常に多い。
そしてハリスは、メモをとる手を一瞬止め、レンズの奥の個体を凝視した。そこに住んでいたトロールは、驚くべきことに「メス」だった。これは極めて稀な、貴重な観察対象である。
元来、トロールという種族のほとんどはオスとして産まれ落ちる。オスたちは成人すると、血で血を洗うような凄惨な戦いを繰り広げ、その闘争に勝ち残った最強のオスの種だけを、絶対数の少ないメスがその胎に宿し、一度にたくさんの子供を産み落とす生態を持つ。そして、その産まれた子供たちが成長し、再び少ないメスを奪い合って殺し合うのだ。
トロールの顔立ちはどれも醜悪で似たり寄ったりであるのが一般的だが、今まさに必死の防戦を繰り広げているそのメスのトロールは、顔の中央に巨大な「一つ目」を有しており、その瞼には驚くほど長いまつ毛が生え揃っていた。彼らトロールの基準からすれば、おそらくはかなりの「美形」に分類される個体ではないだろうか。
ハリスはそんな場違いな感心を抱きながらも、観察者として淡々とペンを走らせ、特徴をメモしていく。
だが、観察を続けるうちに、そのメスのトロールが目に見えて段々と劣勢に立たされていくのが分かった。ヘルハウンドの鋭い牙によって深く噛み千切られた無数の傷口から、一向に出血が止まる気配がないのだ。
(……間違いない。あの狼ども、牙に闇魔法の『血の呪い』を付加させてやがるな)
ハリスは遠映鏡の焦点を絞り、トロールの傷口の変色具合からそう推定した。
『血の呪い』──それは一度傷をつけられれば、呪いの発動源である術者をすべて屠らない限り、どれほど強靭な肉体を持っていようとも無限に出血がし続け、傷口の細胞再生が完全に阻害されるという、極めて邪悪な闇の魔術である。
ヘルハウンドは高度な闇魔法を行使するがゆえに、通常の野獣や低級の魔物と比べて、その脳の容積が格段に発達しているのだろう。統率された知能を持ち、獲物を確実に仕留める戦術を理解している、極めて厄介な捕食者たちだった。
現に、2メートル級の凶暴な黒狼5体は、決して無謀に突っ込むことはせず、トロールの怪腕の一撃を避けるように交互に後退し、ヒット・アンド・アウェイを繰り返しながら、代わる代わるにその強靭な牙で肉を噛み千切っていく。急激な失血によってトロールの体力が限界を迎えるのを、じっと待ちながら確実に狩ろうとしているのだ。
それは、息を呑むほどに凄絶な弱肉強食の光景だった。
本来であれば、一対一の真っ向勝負なら、圧倒的なパワーと耐久力を誇るトロールが圧勝する可能性が非常に高い。
トロールもまた決して愚鈍ではなく、それなりの高い知能を有しており、彼ら独自の言語を介して強固なコミュニティを作り上げ、時には自作の原始的な武器を持って戦うことすらあるのだから。
しかし、今の状況はトロール側にとって最悪と言うほかなかった。深夜の寝込みを襲われ、最も致命的な首筋を深く噛まれた状態からスタートし、すでに全身は血だらけである。
激しい攻防の最中、彼女の胸元と腰に巻き付けられた粗末な毛皮の布は、トロール種特有の、禍々しくも鮮やかな『真っ青な血』によって、見る影もなくドロドロと深く染め上げられていくのだった。
トロールの周囲を執拗に旋回し、じわじわと退路を断っていくヘルハウンドたち。彼らは今か今かと涎を垂らし、目の前の巨躯を貪り喰らおうと、闇属性の魔力を帯びた牙を剥き出しにしていた。
野生の獣とは一線を画す、独特な跳躍ステップ。小刻みなフェイントを織り交ぜ、トロールが苛立ちに任せて振り下ろす剛腕を見切り、そのカウンターで容赦なく肉を噛みちぎっていく。
(……恐るべき知能の高さだ。群れとしての統率力は、並のオークの軍勢をも凌駕する)
木の上で息を潜めながら、ハリスのペンは止まらない。心臓の鼓動は激しく跳ね上がっていたが、観察者としての本能が彼の手を動かし続けていた。
だが、これまで防戦一方であったトロールの動きが変わった。
当たらないもどかしさからか、あるいはこれが絶望の最期に放つ絶叫なのか――トロールは虚空に向けて狂ったように両腕を振り回し、夜の山林に激しい慟哭を木霊させた。
「ウガァァァァァァア!!!!」
周囲の木々から鳥が一斉に飛び立ち、地響きを伴うような唸り声が鼓膜を震わせる。直後、彼女はなりふり構わない猛突進を繰り出した。
一分の迷いもない、直線的な質量兵器としての突進。ヘルハウンドたちは咄嗟に後方へバックステップを刻んだが、トロールの突進はその回避速度をも上回っていた。まともに撥ね飛ばされ、宙を舞う黒狼たち。
その凄まじい猛攻の最中、ハリスは遠映鏡(望遠鏡)越しに見届けていた。トロールの巨大な一つ目から、大粒の涙が溢れ出しているのを。
しかし、安を突かれたのはハリスのほうだった。
木々を文字通り薙ぎ倒しながら、急激に方向転換したトロールが向かう先は――
「え……うぇっ!? ま、まさか、こっちかよ!?」
その猛突進の直線上に位置していたのは、ハリスが身を隠している大木だった。
大慌てで枝から滑り落ちるように飛び降りる。運悪く、着地の衝撃で腰を地面に強打してしまった。
「う、ぐあぁっ……!」
痛みでのた打ち回りそうになるが、そんな猶予は一秒たりともない。最悪なことに、右足首を激しく挫いてしまっていた。立ち上がることすらままならない激痛が走る。
だが、ハリスは死に物狂いで這いつくばり、まずは焚き火の火へ手近な土を被せて消火した。そして、バックパックから一本のロープを引っ張り出す。
あらかじめ油をたっぷりと染み込ませてあるそのロープを、這いつくばったまま必死の思いで周囲の木々の間に張り巡らせていく。
このロープは、蜘蛛の身体に人間の女性の上半身を持つ化け物――『アラクネ』の放棄された巣から採取した特殊な糸を編み込んだものだ。一度火をつければ激しく引火して燃え上がるが、その強靭な繊維が千切れることは決してない。行商人に買い叩いた、文字通り「命の次に高い」代物だった。
続いて、懐から禍々しい色をした小瓶を取り出す。
焦る手つきで、毒消し草を極限まで煎じた自製の薬草スカーフを口元に固く巻き付けると、ハリスはその毒瓶の蓋を開け、トロールが倒れ込むであろう進路の地面へ一気にぶち撒けた。
以前、ドレッドヘアが特徴的なモグラの獣人商人から買い取った品だ。あの守銭奴のモグラはニヤニヤと笑いながら、こう豪語していた。
『これは迷宮の奥深くで仕入れた極上品さ。ドラゴンですら、一滴ありゃあイチコロの代物だぜ?』
深く詮索せずとも分かった。おそらく、これも先ほどのアラクネから抽出された、強力な神経毒の原液だろう。ハリスがあまりに熱心に生態を質問し続けたため、モグラは面倒くさそうにそれ以上語らなかったが、効果は本物のはずだ。
罠を仕掛け終え、茂みの奥へと必死に身体を滑り込ませる。足と腰の激痛のせいで、これ以上は一歩も動けない。
ハリスは震える手で愛用の弓に矢を番えた。
ズシン! ズシン! と近付く地鳴り。心臓がうるさいほどに警鐘を鳴らし、冷や汗が全身から噴き出す。
間近で見るトロールの巨体は、それだけで生物としての絶対的な恐怖を植え付けるに十分だった。しかし同時に、深く傷つき、真っ青な血を流しながら泣きじゃくるその巨大な瞳に、ハリスはほんの少しだけの哀れみを抱いてしまう。
そして、現実は非情だった。
トロールはその圧倒的な歩幅ゆえに、ハリスが仕掛けたロープを綺麗に跨ぎ、毒が撒かれた地面すら気づくことなく通り過ぎてしまったのだ。サイズが違いすぎた。
(……終わったな。手負いだろうが、まともにやり合って勝てる相手じゃない)
逃げ出したい。だが、身体が恐怖と痛みで硬直して動かない。
しかし、奇跡は背後からやってきた。
トロールを血眼で追ってきたヘルハウンドたちが、視界の悪さと速度のせいで、ハリスの仕掛けたロープに面白いように引っかかったのだ。
まず2体が足をすくわれて派手に転倒。勢いのまま、アラクネの毒が染み込んだ地面へと頭から突っ込んだ。
「ガ、ゥ……ッ!?」
毒を浴びた瞬間、黒狼たちの身体はガクガクと奇怪に痙攣し、文字通り「一瞬で」ころりと絶命した。
(本当に効きやがった……! 恐ろしいほどの威力だ!)
ハリスの胸に一筋の希望が灯る。立て続けに、後続の2体も前のめりに転倒した。だが運悪く、彼らは先に死んだ仲間の死体の上に覆いかぶさる形になり、直接毒を浴びていない。即座に体制を立て直そうとする。
それをハリスが許すはずがなかった。
「燃えろ……ッ!」
ハリスは即座に矢じりへ火をつけ、火矢として放った。狙うは、ロープの存在に辛うじて気づき、唯一それを回避しようとした最後の一体。
風を切り裂いた火矢が見事にヘルハウンドの脇腹へ命中し、激しい炎が燃え広がる。
「ギャィィンッ!?」
悶絶する黒狼が苦し紛れにのたうち回った瞬間、油を染み込ませたアラクネのロープにその炎が引火した。
凄まじい勢いで燃え上がる炎の壁。
体制を崩していた2体もその火柱に巻き込まれ、焼け焦げながら地表の毒を吸い込み、あっという間に絶命していった。
一瞬にして5体のヘルハウンドを全滅させるという、冒険者ギルドならゴールド級の偉業。
思わず安堵で胸が高鳴ったハリスだったが、直後、すぐ目の前でドシン、と重い質量が揺れた。
「ウガ、アウガウ……」
聞き慣れない不気味なトロール語を呟きながら、巨大な影が手を伸ばす。驚きで硬直したハリスの身体は、あっけなくその太い指先によって、まるでおもちゃのように鷲掴みにされてしまった。
(あぁ、今度こそ終わった。観察記録もここまでか……)
骨を砕かれ、一口で貪られる結末を覚悟しながらも、ハリスは鉈を抜くのではなく、無意識にペンを握り直していた。せめて最期の瞬間まで、この怪物の至近距離での顔付きをメモに書き残そうという、狂気に近い執念だった。
その一つ目の迫力は、これまでの旅で見たどの魔物よりも凄まじかった。
だが――。
ギリギリと肉体を握り潰される覚悟をしたハリスだったが、引き寄せられた先で待っていたのは、トロールの硬くザラついた頬による、激しい「頬ずり」だった。
「…………へ?」
あまりの衝撃に、ハリスは指先からペンを落とした。
トロールは、床に落ちた小さなペンをその不格好な爪先で器用に拾い上げると、大きな指でハリスの手元へ、そっと返すように渡してきた。
見上げるほど巨大な一つ目は、潤んだ涙でいっぱいで、その頬は心なしか、わずかに「青く」染まっている。
人間で言うところの、恥じらいで赤面する仕草。
彼女の血液が青い以上、それが彼女なりの『乙女の極み』であることは疑いようがなかった。
ハリスの細い身体を、まるで宝物でも扱うように大切に抱え直し、足元に転がるヘルハウンドの死体をまとめて担ぎ上げるトロール。
こうしてハリスは、激痛の走る身体のまま、彼女の住居へと拉致されるように連れ去られていくのだった。
――それからしばらくの後。
「トロール山に住むトロールが、凶暴な番を見つけた。」という噂を一部の商人と、本人であるハリスの口から流れるようになるのだが、それはまた、少し先のお話である。
どうも。古木花園です。
久しぶりにアンデットの出ないお話でした。
もし面白かったら感想や高評価頂けるととても嬉しく思います。




