不死王リッチ-1
――リンゴーン……、リンゴーン……。
大教会の美しい白亜の尖塔から、不吉極まりない葬送の鐘が鳴り響き続けている。
だが、それを鳴らしているのは敬虔な信徒などではない。かつて人間だった頃の面影を完全に失い、コウモリのような異形の手の翼を持つアンデッドであった。怪物はその歪な四肢を無理やり鐘の紐へと絡みつかせ、狂ったように何度も何度も、聖域の鐘を打ち鳴らし続けている。
その音色が波紋のように遠くまで広がるたびに、王都の至る所の路地裏や廃屋から、狂った死者たちが新たな濁流となって引き寄せられてくる。
言うまでもなく、これはすべて上空に浮遊する『リッチ』が仕掛けた周到な策略であった。
瓦解の危機に瀕しているサピエンティア聖騎士団に対し、休むことなく注ぎ込まれるアンデッドの波。
物量による圧倒的な包囲網は、確実に生者たちの体力を削り、精神を磨り潰して死へと追いやるための、おぞましき戦術。死してなお、元最高司祭の頭脳は冷徹に殺戮の手順を組み立てていた。
「ひるむな……っ! まだ耐えられる、こらえろッ!」
大盾を必死に構える冒険者の青年が、己を鼓舞するように声を張り上げた。彼のまだ若い左手の薬指には、故郷に残してきたであろう婚約者との誓いを示す、銀色の指輪が鈍く輝いている。
だが次の瞬間、そんなささやかな人間の希望などあざ笑うかのように、あの両肩に巨眼を持つ「筋肉ダルマ」の異常個体が、恐るべき質量をもって突進してきた。
凄まじい衝撃と共に、青年が構えていた頑丈な大盾が、まるで薄い板切れのようにへし折れる。
怪物は青年の鉄の鎧を素手で強引に引きちぎり、その太い両腕で彼の身体を掴むと、大根でも引っこ抜くかのように容易く、真っ二つに引き裂いた。
「うげっ……あ……」
短い、哀れな断末魔。
背骨は一瞬で断裂し、裂けた腹腔から鮮紅の内臓が石畳へと派手に滴り落ちる。
悍ましいのは、この筋肉ダルマの怪物に、確かな「知性」の片鱗が垣間見えることだった。
怪物は引きちぎった青年の上半身をわざわざ高く掲げ、溢れ出る腸を衆目の前で下劣に食いちぎってみせたのだ。
その凄惨な行為をあえて前線の兵士たちに見せつけることで、生者の心に絶望を植え付けようとしているのは明らかだった。
「うあぁぁああっ!」
「いやだ、嫌だッ! 助けてくれ!」
「死にたくない、死にたくないぉぉっ!」
その生々しい地獄絵図を目にした瞬間、ついに何人もの兵士の精神が完全に崩壊した。
彼らは恐怖のあまり自らの命綱である盾を投げ出し、一目散に後方へと逃げ出そうとする。
しかし、包囲された戦場に逃げ場所など残されているはずもなかった。背を向けた者から順番に、わらわらと群がってきたアンデッドたちの黒い海へと無残に飲み込まれ、生きたまま肉を貪られていく。
それらの絶望に満ちた悲鳴が、凄惨な絶叫が、容赦なく戦場に響き渡り、人々の鼓膜へと深く焼き付いていく。
「落ち着け! まだ我らは敗北したわけではない! ――私がいる!」
その悲痛な連鎖を断ち切るように、気高い咆哮が響いた。
聖騎士団長シフォン・リグウィッドは、自らの身の丈ほどもあるバスターソードを両手で高く持ち上げ、乱れる前線を跳び越えて筋肉ダルマの頭部へとめがけて鋭く踏み込んだ。
その刹那的な接近に気づいた筋肉ダルマは、すぐさま自らの手に残っていた、真っ二つになったあの冒険者の青年の死体を、盾代わりにシフォンへと投げつけてくる。
常人であれば一瞬の躊躇いが生まれる局面。
しかしシフォンは冷静に、放たれた死体をバスターソードの広い刀身で完璧に受け流し、軌道を逸らした。
だが、死体の質量を流したほんの一瞬、シフォンの視界が遮られたその隙を突き、筋肉ダルマが巨体を利した強烈なショルダータックルを繰り出してきた。
シフォンはその恐るべき突進速度に卓越した反射神経で瞬時に反応。
完全に回避することは不可能と判断するや否や、バスターソードの切っ先を突き出し、カウンターの形で筋肉ダルマの右肩にある不気味な巨大な眼球へと深々と突き刺した。
「ごぉおおぉぉーーーーっ!!!」
眼球を潰された筋肉ダルマは、激痛にのたうち回りながら狂暴なうめき声を上げ、近くにいた無関係なアンデッドの足を掴み上げると、それをまるで棍棒か大剣のように乱暴に振り回してシフォンへと襲いかかってきた。
シフォンはその猛撃をバスターソードの刃で受け止めようと構えたが、直前でそれが「最善の選択ではない」ということに気づき、咄嗟に身体を翻して紙一重で躱した。
怪物の手の中で振り回され、地面に叩きつけられたアンデッドは、身体がどれほど損壊しようとも痛みを感じる様子もなく、ただ飢餓感のままに少しでも人間に噛みつこうと、その顎をシフォンたちに向けてカチカチ、カチカチと不気味に鳴らし続けていたのだ。
もし、先ほどの攻撃をバスターソードで直接受け止めていた場合、衝撃を相殺することは容易だったろう。しかし、剣に叩きつけられたアンデッドはそのまま剣を伝い、あるいは倒れ込みながら、シフォンに対して痛みなど意に介さず、確実に噛みついてきたに違いない。
自分たち生者にとっては、この死霊どもの牙にわずかでも噛みつかれた時点で、汚染が始まり勝敗が決してしまう。
防御することさえリスクになるという、圧倒的に不利な戦いを彼女たちは強いられているのだ。
「――今だ! 前衛の崩壊を食い止めろ! 『ターンアンデッド』!!」
「『ターンアンデッド』!!」
シフォンが前線で怪物の注意を引きつけ、決死の奮戦を続けたことで、わずかながらの貴重な「時間」が生まれた。
聖騎士団は即座に副長の指示のもと、崩れかけていた隊列を必死に組み直していた。
すでに部隊は二方に分断されてしまってはいたが、残された大盾の兵たちが互いの背中を守るように円陣を組み、その中央に位置する魔導班が、聖なる光の魔法による一斉射撃を繰り出す。
周囲から押し寄せる一般のアンデッドたちに確実に対処しつつ、同時に前線で戦うシフォンへの心強い援護射撃も行われる。
聖なる光に焼かれた筋肉ダルマの動きが一瞬鈍り、シフォンにとっては格段に戦いやすい環境が整いつつあった。
「いいぞ! そのまま陣形を維持し、押し切る!」
シフォンは自らの体内で、極限まで魔素を練り上げていた。
彼女は一般的な魔術師のように、魔力を外へと放出して派手な魔法を行使することはできない。
その代わり、極限の肉体操作を得意とするシフォンは、練り上げた魔素を自らの身体中へと隈なく循環させる「内丹」のイメージを高速で行っていた。
魔素が血管を流れる熱い血流のように全身の隅々まで行き渡ると、彼女の筋力、反射速度、動体視力といったあらゆる身体機能が、人間の限界を遥かに超えた領域へと爆発的に向上する。
「――はっ!」
短く鋭く息を吐き出し、シフォンは地を蹴った。
先ほどまでその重量に耐えていたはずの巨大な大剣が、まるで一本の軽い指揮棒であるかのように滑らかに、そして恐るべき速度で突き出される。
対する筋肉ダルマは、その超人的な接近に反応することが著しく難しかった。
怪物はかろうじて巨大な筋肉の腕をわずかに動かし、胸の前でクロスさせることでシフォンの刃を防ごうと試みる。
しかし、魔素を纏ったシフォンの剛剣による全力の斬り上げは、その肉のガードごと怪物の肉体を強引に押し切るだけの圧倒的な破壊力を秘めていた。
肉ときしむ骨の音が戦場に響き渡る。筋肉ダルマの太い右腕が悲鳴を上げながら根元から豪快にちぎれ飛び、怪物の懐が完全にがら空きになった。
その決定的な瞬間を、シフォンが見逃すはずもなかった。彼女はさらに深く敵の懐へと踏み込みながら、勢いよく振り切った剣を流れるような動作で上段の構えへと遷移させ、全体重を乗せて斜め下へと一気に袈裟斬りに振り下ろした。
肉を断ち切る確かな手応え。
筋肉ダルマの首筋から斜めに入った剛刃は、怪物の左半身のすべてを滑らかに切断し、その巨躯は二つの巨大な肉塊となって、どう、と石畳の上に激しく倒れ落ちた。
大教会の前庭を恐怖で支配していた筋肉ダルマを、見事一対一の真向勝負で討ち取ったのだ。
激しい呼吸を繰り返しながら、シフォンはその瞬間、わずかに胸の中で安堵の息を漏らした。
――だが。
バチバチバチッ!!!
最悪のタイミングで、あの邪悪極まりない紫色の「いかずち」が、再び上空から容赦なく迸った。
それも、筋肉ダルマを倒した直後で、完全に硬直していたシフォンの身体を正確に狙い、直撃させたのだ。
「――が、あぁっ……!?」
シフォンの美しい白銀の鎧から、瞬時に黒い焦げ茶色の煙が激しく立ち上る。
あまりの激痛と電撃の衝撃に、彼女の意識は飛びかけ、瞳が白目になりながら地面へと倒れそうになる。
しかし、そこは代々聖騎士団長を輩出してきたリグウィッド家の誇り、そして彼女自身のあり得ないほどに気高く強靭な精神力が、隙を突いた最悪の雷光すらも、強引にねじ伏せて跳ね除けた。
シフォンは震える両腕でバスターソードを力任せに地面の石畳へと突き立て、それを支えにすることで、辛うじてその場に踏みとどまり、倒れなかった。
だが、上空の支配者であるリッチは、生者の英雄が耐えることなど初めから織り込み済みであるかのように、すでに次の冷酷な手を実行に移していた。
先ほどから尖塔で不吉な鐘を鳴らし続けていたあのコウモリ男のアンデッドが、その大きな翼を広げ、上空から猛烈なスピードで滑脚を始めていたのだ。
それも、その強靭な両足の爪で、今にも破裂しそうなほど丸々と膨らんだ『膨張型アンデッド』をがっしりと掴み持った状態で。
それはまるで、戦場を一瞬で焦土に変える空の「爆撃機」のようだった。
上空から正確にシフォンの頭上へと飛来したコウモリ男は、掴んでいた爆弾ゾンビを躊躇なく地上へと投下する。
シフォンの目と鼻の先へと落下した膨張型アンデッドは、その体内のガスを一気に炸裂させ、凄まじい轟音と共に爆散した。
「しまっ……!」
至近距離での容赦ない大爆発。
その凄まじい爆風に巻き込まれたシフォンの身体は、木の葉のように激しく後方へと吹き飛ばされ、自軍の聖騎士たちが形成していた頑強な大盾の壁へと激しく激突した。
「だ、団長ーーーっ!!!」
「リグウィッド様!!」
前線の全員が血相を変えて自らの団長の安否を心配し、声を上げる。
しかし、彼らにはそうやって取り乱している暇など、一瞬たりとも残されてはいなかった。
主導権を完全に握ったアンデッドの群れは、指揮官を失いかけた人間の動揺を突くように、さらにその数を増やしながら津波の如く押し寄せてくる。
この絶望的な状況を上空から見下ろし、リッチは皮膚のすべてが剥ぎ取られた不気味な髑髏の顔であるにもかかわらず、まるで声もなく邪悪に笑っているかのようであった。
リッチは再び、その不気味な骨張った手のひらに濃密などす黒い魔素を練り上げ始める。
今度もまた、あの強力な雷撃の魔法を地上の生者どもへと食らわす算段であった。
そして、今回の術式には、先ほどシフォンを襲ったものとは比較にならないほどの魔力が込められており、これを放てば、確実に聖騎士団の円陣は木っ端微塵に瓦解するであろうという絶対の威力を乗せて、慎重に練り上げられていた。
勝負は決した。
リッチがそう確信し、地上の哀れな虫どもを駆逐しようとほくそ笑んだ、その時だった。
「……? ――ぬ、おぉ……?」
髑髏の顔が、突如として激しい苛立ちと困惑の混じった不気味な歪みを見せた。
この魔術大教会の「南部」で繰り広げられているこの激戦の裏側――大教会の「北側」の勝手口にて、生存者を炙り出すために大扉の破壊に勤しんでいたはずの、数千のアンデッドたちの『支配の糸』が、唐突に、それも一瞬にして綺麗さっぱりと消失したのだ。
それは一部の離脱などではない。
北側に配置していた配下の死霊どもが、文字通り「すべて」消滅したことを意味していた。
リッチは激しく憤り、その眼窩の奥にある怪しい魔力の炎を激しく燃え上がらせた。
いまや目の前で死に体となっている聖騎士団の残党どもなどは、一度置いておいても何ら問題はないという冷徹な判断を下し、怪物は宙を滑るように飛行しながら、自身の支配が突如として消え去った教会の北側へと、猛烈な速度で向かった。
かなりの速度を出して大教会の建物を回り込み、北側の広場へと一瞬で到着したその時――リッチはその場所に広がっていた、あり得ない現状を目の当たりにして、驚愕のあまり思考を停止させた。
――ぐもおおおおおおっ!!!!!
全身を返り血で真っ赤に染め上げた、見上げるほどの巨体を持つ牛頭の怪物――ミノタウロスが、巨大な戦斧を風車のように激しく振り回し、リッチの配下であった一般のアンデッドたちを一撃のもとに次々と肉片へと叩き潰している。
その傍らでは、同じく全身が真っ赤な肌をした、悍ましくも妖艶な姿のアンデッドの女性が、その両手の鋭利な5本の爪を驚くべき器用さで見えざる刃の如く振り回し、押し寄せる死霊どもを瞬時にみじん切りにして刻んでいた。
そして何より、その中心に立つ、頭部に二本の角を生やし、怪しいトゲのついた長い尻尾を持つアンデッドの青年――。
彼はその強靭なしなる尻尾の先端を用い、複数のアンデッドたちの頭部をさながら串焼きのように一突きで串刺しにし、そのまま軽々と持ち上げていた。突き刺したままの死体を自分の目の前へと強引に引き寄せると、人間のものとは思えない漆黒に染まった右腕の爪を使い、体内の何かを確かめるように、アンデッドの腹を割いて内臓を開き、漁っていたのだ。
リッチの高度な頭脳が、瞬時に状況を分析し、警戒数値を最大へと跳ね上げる。
目の前にいる三体は、自分の使役の魔法が一切通用しない、明確な「個の意志」を持った特異なアンデッドたちである。
そして彼らが配下の低位のアンデッドではないということは、自分と同じか、あるいはそれ以上の強大な力と魔素量を持ち合わせているということの証左。
もし、自分の支配が及ばず、自らの大いなる計画の邪魔になる存在であるならば、そんなイレギュラーはここで一足先に、跡形もなく叩き潰してしまえばいい。
リッチの凶悪な殺意の矛先が、一瞬にして聖騎士団から、地上のケビン、ライ、そしてビッグボーイの三体へと切り替わった。
上空に浮遊する最悪の不死者は、先ほどから聖騎士団を壊滅させるために極限まで練り上げていた、あの最大出力の禍々しい紫色の雷撃を、今度はこの三人の頭上へとめがけて、容赦なく一気に解き放ったのだった。
どうも、作者の古木花園です。
恐ろしいリッチとケビンたちが対面しました。
聖騎士団の運命はどうなるのか?
ご期待ください。
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