一寸の光
ここ「王国グラン」と北の「宗教国家サピエンティア」は、歴史的に見ても極めて密接な相互依存の関係に成り立っていた。
肥沃な大地に恵まれた王国グランは、その領土のおおよそ半分を広大な農地として開拓しており、そこで収穫された大量の作物を北の本国へと輸出・取引することで莫大な富を得ていた。
一方のサピエンティアからは、大賢者ジフの号令の元、国家の威信をかけて建造された『サピエンティア魔術大教会』の巨大な神殿が王国グランの都へと堂々と建てられ、この国の宗教観を本国と全く同じ「サピエンティア一色」へと完全に統一していたのである。
もちろん、王国グランは確固たる王政の国であるため、国王の政治的な権力そのものは揺るぎない。
しかし、日々の暮らしの中で国民が「大神サピエンティア」を絶対の神として崇め奉るよう、国を挙げて強く推奨されているのが実態であった。
この歪なまでの国家間の結びつきが、三大魔道士の一人である大賢者ジフと、同じく三大魔道士のオズ・ブラッドフォード卿との間で行われた、過去の政治的な取り決めから始まったことは紛れもない事実であった。
そんな背景を持つ魔術大教会へと日夜通う熱心な信者たちは、神聖魔法の適性を磨き、毎日欠かさずその豪奢な礼拝堂にて、大神サピエンティアに祈りを捧げては心身を清める聖なる魔法を行使していた。
周囲を十二本の巨大な大理石の柱――通称「十二柱」に支えられたその大教会は、この王都に橘小雪のアンデッド軍団が侵行してきたという凶報がもたらされた瞬間、かつての『来る者は拒まず』という寛大な教えの象徴であった巨大な青銅の大扉を、文字通り固く閉ざして籠城を極め込んでいた。
かつては美しく青々と整えられていた芝生が周囲を優雅に囲み、大扉の前には白砂の石畳が隙間なく敷き詰められ、完璧に整地されていた美しい聖域。
しかし今や、その場所は大量のアンデッドがドロドロと蠢き、その爪と肉体で大扉を叩き割ろうと狂暴に押し寄せる、血塗られた地獄絵図へと変貌していた。
大教会の敷地を埋め尽くすアンデッドの総数は、控えめに見積もっても優に「五千」は揺るぎない。
先ほど王都中に響き渡った、あの不気味な教会の鐘の音。あれを聞きつけて王都全域から這い出てきた死者たちの数は、生者の想像を遥かに超える凄まじい質量に達していたのだ。
そして今、その圧倒的な死者の群れに対し、決死の覚悟で魔法と剣による絨毯爆撃を食らわせ、防戦一方の戦いを繰り広げている一団がいた。
彼らは、本国からトロール山を迂回してこの地へと派遣されていた、元々は二千人ほどいたはずのサピエンティアの精鋭騎士団、そして現地で合流した腕利きの冒険者たちであった。
しかし、連戦につぐ連戦の末、彼らはその兵力を大きくすり減らし、包囲網によってすでに退路を完全に断たれてしまっていた。このまま打つ手なく時間が過ぎれば、彼らが全滅して死者の軍勢に飲み込まれるのは、もはや時間の問題であった。
――ゔぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!!
大気をビリビリと震わせ、地響きが鳴り響くような凄まじい重低音の咆哮を張り上げる、一際巨大な「異常個体」がそこに一体、君臨していた。
その身体は異常なほどに頑強な筋肉質へと肥大化しており、人間の原型を辛うじて留めているものの、両肩の肉には不気味にギョロギョロと動く「巨大な眼球」が埋め込まれている。さらに、その背中の皮膚を内側から突き破るようにして、翼のような形状を模した鈍い鉛色のクリスタルが左右に何本も生え渡っていた。その異形極まる筋肉ダルマの怪物は、自らの顎の関節が外れて砕けるのではないかと思われるほどの広さまで大口を開け、前線の人間たちを威嚇するように叫び続けている。
そして、その筋肉ダルマの怪物のすぐ傍らで、怪しく宙に浮かびながら禍々しい漆黒の杖を構える、もう一体の強力なアンデッドがいた。
それは赤黒い返り血でドロドロに染まり上がった、生前は高潔であったはずの「純白の法衣」を身に纏っている。かつて、このサピエンティア魔術大教会を統括し、人々から多大な尊敬を集めていた最高司祭その人であった。
だが、今の彼には聖職者としての威厳など見る影もない。顔の皮膚や肌はアンデッドの群れに無残に食い破られ、生生しい筋肉の繊維と、剥き出しになった白骨の髑髏が不気味に露出しているだけだ。
死霊系魔物の中でも上位に位置する、生者の絶対的な天敵。その悪名高き名は、平民であっても誰もが知る恐怖の代名詞だった。
――上位不死者、『リッチ』である。
リッチがその骨張った手で掴む杖を前方の空間へと向けると、その指示に従うようにして、大盾を必死に構える聖騎士の一団へと死者の群れが殺到していく。
大扉を執拗に叩き続けるアンデッドと、前線の聖騎士団へと明確な殺意を持って向かうアンデッド。
烏合の衆であるはずのゾンビどもが、まるで一人の優秀な指揮官に率いられているかのように統制の取れた二手に分かれて動く様は、まさにこのリッチの能力によるものだった。リッチという高位の不死者は、ゾンビやスケルトンといった、知性を持たない低位の死霊系魔物たちを自らの意思のままに誘導し、操る精神支配の能力を持ち合わせているのである。
完全に包囲された聖騎士団は、知性を得て賢く立ち回るアンデッドたちの波に翻弄され、完全に逃げ道を塞がれた状態で、防戦一方の絶望的な泥沼戦を強いられていた。
「ひるむな! 前列は一歩も引くな、大盾を隙間なく構えて奥歯を食いしばれ! 後列の魔導班は魔法による遠隔攻撃を交互に絶え間なく繰り返せ! 敵に暇を許すな、絶対に手を休めるんじゃないぞ!」
その、戦場に響き渡る甲高くも気高い号令の主は、自ら最前線へと身を投じていた。
彼女は人間の限界を超えた圧倒的な武力をもって、身の丈ほどもある巨大なバスターソードを力任せに横一閃へと薙ぎ払う。凄まじい風切り音と共に放たれたその強烈な横薙ぎの一撃が、一網打尽にしようと迫っていた複数のアンデッドの肉体を捉えた。
それは刃で斬るというよりも、圧倒的な質量で力任せに叩き潰すといった方が正しかった。直撃を受けたアンデッドたちの頭部や上半身が、まるで熟しすぎた果実のように木っ端微塵に砕け散り、周囲の石畳へと派手に飛び散る。
最前線で孤軍奮闘し、押し寄せるアンデッドの波をその身一つで食い止めているその勇敢な女性こそ、サピエンティア聖騎士団の団長――シフォン・リグウィッドであった。
彼女は名門貴族の出身でありながら、代々その優れた武勇をもって聖騎士団長の座を受け継いできた由緒正しきリグウィッド家の現当主の一人である。
彼女が身に纏う美しい白銀の胸当て(プレート)には、家紋である『3対の翼』が精巧に刻み込まれており、その頭部を守る重厚な兜の頭頂部にも、同じく3対の翼を模した豪華な飾りが凛々しく取り付けられていた。
そんな一騎当千の英雄である彼女でさえ、ここまでのあまりにも激しい連続戦闘と、二十四時間休みなく怒涛の如く押し寄せ続けるアンデッドの物量作戦の前に、その肉体はすでに疲弊しきっていた。
「くっ……別働隊の到着は、まだなのか……っ!」
シフォンは剣を構え直し、仮面の下で苦渋の声を漏らした。
今すぐにでも一度陣形を下げて後退したかったが、背後で盾を構える数千の兵士たちは皆、精神的にも肉体的にも限界を迎えており、その心は恐怖によって激しく蝕まれていた。
だが、それも仕方のないことであった。さっきまで肩を並べて戦っていた最愛の旧友や仲間が、一歩足を踏み外してアンデッドにやられた次の瞬間には、今度は『敵』として自分たちに牙を剥いて最前線へと襲いかかってくるのだ。そんな冒涜的な光景を何度も見せつけられて、精神を病まない人間などいるはずがなかった。
しかし、どれほど絶望的な状況であろうとも、シフォンの立場としては簡単に撤退の命令を下すわけにはいかなかった。
周囲を完全に死者たちに囲まれているという物理的な理由だけではない。そもそも今回の王国グランへの遠征調査の最重要目的には、この地に孤立している『サピエンティア魔術大教会の最高司祭の救出』が含まれているからだ。
だが、皮肉にもその救うべき対象であったはずの司祭は、すでにリッチという最悪の化け物へと成り果てていた。そして今、彼が守るべきはずだった大扉の向こう側に隠れ、僅かに生き残っているであろう無辜の生存者たちを、今度は自らの飢えを満たすための食料として貪り食おうと、狂暴に大扉を襲っているのだ。
もし、自分たち聖騎士団がここで戦線を引き、敵に背を向けて逃げ出せば、大扉の中に閉じ込められている人々の無垢な魂は、一人残らず無残に噛みちぎられ、すべてが哀れな死者へと成り果ててしまうだろうことは、火を見るよりも明らかであった。
「――通信! 通信が入りました! 我らの危機を察知した別働隊が、今、全速力でこちらへ救援に向かっています! 繰り返す! サイマン殿率いる別働隊が、間もなくこの戦場へと到着します!」
アンデッドの怒号を掻き消すように、魔導通信の魔晶石を耳に当てていた副長が、歓喜の声を張り上げた。
その吉報を耳にした瞬間、シフォンの凛とした表情に一筋の希望が宿る。彼女は眼前のアンデッドの首をバスターソードで豪快に薙ぎ払いながら、全軍に向けて大声で叫んだ。
「聞いたか皆! よくぞ持ちこたえた! 我らの優秀な同胞、サイマン達に倒すべき敵を残してやるな! 遅れてやってくる彼らを、我らの圧倒的な戦果で驚かせてやれ!!」
その団長の力強い号令に、それまで絶望に沈んでいた聖騎士団と冒険者たちの顔に、安堵の光と共に行き返るような奮起の炎が灯った。
「おおぉぉ戦えっ!」
「死者どもを聖なる光で焼き尽くせ!」
兵士たちは最後の力を振り絞り、攻撃の手をさらに激しく緩めることなく、大教会前での死闘は一層の熱を帯びて繰り広げられる。
暗雲立ち込める地獄の戦場に、ついに一寸の光が差し込んだのだ。
――だが。
文字通り、戦場を引き裂いたのは、救いの光などではなく、破壊の『雷光による光』の一閃だった。
バチバチと空間を焼きちぎる凄まじい放電の音が響いた直後、光速の一撃が、聖騎士団が絶対の防壁として維持していた前列の大盾の陣を、紙切れのように容易く貫いた。
「うがぁあぁぁーーーっ!?」
「ぎゃ、あぁぁぁっ……!」
短い、そしてあまりにも無惨な悲鳴が戦場に木霊する。
それまでどれほどのアンデッドの猛攻にも耐え、鉄壁の守りを誇っていた前列の盾の部隊が、その雷撃の一撃によって一点だけ、無残に消し飛ばされるようにして崩壊した。
そして、その陣形が崩れ去った致命的な隙を、あの背中にクリスタルを生やした筋肉ダルマの異常個体が、ここぞとばかりに見逃すはずもなかった。
怪物は地を削るような凄まじい足取りでの大突進を見せたのだ。
「ゔぉぉぉぉぉっ!!!」
怪物は自慢の怪力で、大盾を構えていた盾の部隊の兵士たちを鎧ごと鷲掴みにすると、まるで軽い石ころのように空中へと次々と投げつけ、その鋭い牙で容赦なく生きたまま首筋を食い破り、引き剥がした血塗られた鎧の破片を周囲へと狂暴にぶん投げる。
それは、完璧を誇っていた聖騎士団の防衛前線が、完全に崩壊した決定的な瞬間だった。




