白昼夢
ここは、どこだろう……。
ケビンがゆっくりと目を開けると、そこには、生前に何度も、それこそ嫌というほど見続けてきた、のどかなアドマイヤー家の畑が広がっていた。朝の柔らかな光の中、父のアバンが、愛牛のビッグボーイ――BBの背を叩き、優しく声をかけながら、慣れた手つきで頑丈な鋤を引いて土を耕している。
(あ、そうか! 今日は作付けの日だ。今から俺も手伝いに行くんだったな!)
ケビンは弾かれたように土を蹴って駆け出した。「父さん!」と大声で叫びながら、その背中に向かって手を伸ばす。しかし、どういうわけか、どれだけ全力で脚を動かしても、父との距離は一向に縮まらなかった。まるで空間そのものが伸び縮みしているかのように、常に一定の、決して届かない距離が保たれている。
(な、なんだこれ……? なんで、近くに行けないんだ!?)
困惑し、足を止めかけたケビンの肩を、背後からそっと冷たい手が叩いた。
『――それはね、お兄ちゃん。お兄ちゃんがもう、死んじゃってるからよ』
鈴を転がすような、聞き馴染んだ声。振り返ると、そこには双子の妹の一人、リリィがいた。彼女は特徴的な金髪のツインテールを誇らしげに揺らし、楽しげに目を細めながら、何もないはずの空間に突如として現れた木製の椅子に腰掛けていた。
『お兄ちゃんはさ、あの時、私に腕を思い切り噛まれたでしょ?その後何回もみんなに食べられて死んだのよ。 自分で自分のこと、覚えてないの?』
その無邪気な言葉が引き金となり、ケビンの脳内に、あの忌まわしい夜の鮮烈な記憶が濁流となって押し寄せた。
(そうだ……俺は、アンデッドに襲われて……あの時、理性を失って襲いかかってきたリリィに、腕を噛みちぎられて……そのあと、俺自身もアンデッドに……!)
ケビンが絶望に顔を歪めた瞬間、目の前のリリィがケラケラと笑いながら一歩、こちらへ近づいてきた。しかし、彼女が地面を踏みしめるその一歩ごとに、彼女の美しいはずの皮膚がボロボロと剥げ落ち、真っ赤な筋肉が剥き出しになり、やがて白い骨へと変わり、まるで炎に焼かれるように灰となって消え去っていった。
「う、うわああぁぁっ!?」
あまりの恐怖にへっぴり腰になり、後方へと無様に転がると、背中に柔らかく温かい、不思議な感触が当たった。
『きゃっ!? もう、お兄ちゃん! いきなり倒れ込んでくるなんて、破廉恥だよ!』
そこに座っていたのは、もう一人の双子の妹、ルルだった。おさげ髪を揺らす彼女の、自慢の大きな胸がケビンの背中に当たっていたのだ。
(す、すまんルル! そんなところに、お前がいるなんて思わなくて……!)
『――誰も、そこにいないよ』
冷たい声は、遥か後方から聞こえた。
驚いて視線を戻すと、さっきまで目の前にいたはずの健康的なルルの姿は、どこにもなくなっていた。恐る恐る後ろを振り返ったケビンの目に飛び込んできたのは――全身の肉が腐り落ち、ウジが湧き、完全に干からびた「死体」としてのルルの姿だった。彼女は顎の骨をカチカチと不快な音を立てて打ち鳴らし、眼窩から溢れ出そうな濁った瞳をこちらに向けている。
次の瞬間、死せるルルの腐った両手が、ケビンの首筋を容赦なく締め上げた。
強烈な圧迫。呼吸が止まり、激しい吐き気が込み上げてくるが、死者となった身体からは何も出てこない。気づけば、ケビン自身の身体も、健康的な血色を失い、グズグズと汚く崩れた土気色の死肉へと変貌していく。
ルルの腐った瞳が、ボロリと地面に転がり落ちた。しかし彼女はそれを気にする風もなく、ただひたすらに、兄の命を奪うように首を絞め続ける。
(たす……けて……だれ……か……ッ!!)
逃れられない絶望の中、ケビンの首は、ぶちりと肉の千切れる悍ましい音を立てて、胴体から完全にねじ切られた。
身体を失い、地面に転がった「頭部だけ」の状態になっても、なぜか意識だけは依然として鮮明なままだった。地面に落ちた視界は、なおもその先の美しい畑を映し出し続けている。
そこには、リリィとルル、そして父のアバンと母のリンウェルが、かつてのように楽しそうに手を取り合って笑い合っていた。愛牛のBBさえも、嬉しそうに尾を振っている。家族全員が、そこにいる。
ただ、長男のケビンだけが、首だけの状態で地面に生ゴミのように捨てられ、その幸福の光景をただ遠くから見つめることしか許されていない。
――なんで。なんで俺だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ?
猛烈な理不尽への怒りが脳髄を焼いたその時、美しかった畑の光景が、一瞬にして深い闇へと塗り潰された。
その闇の奥から、真っ黒なローブを纏い、異国の奇妙な学生服を着た一人の少女――橘小雪が、地面に転がるケビンの生首を見下ろしていた。彼女は、虫ケラでも見るかのような、徹底的に蔑み、軽蔑しきった冷酷な視線を送りながら、くすくすと不敵に笑っている。
(許せない……。憎い、憎い、憎い……っ!!!)
コイツのせいで。この「黒魔術師」の気まぐれな復讐のせいで、俺の人生も、家族の未来も、すべてがめちゃくちゃに破壊されたんだ。なのに、何をお前は楽しそうに笑っている?
(殺してやる……。コイツを殺さないと……殺さないと、俺の家族の魂は絶対に救われない……っ!)
コイツを……必ず、この手で殺す!!!
激しい殺意が爆発した瞬間、白昼夢の景色はガラスのように粉々に砕け散り、ケビンの視界は、真っ赤な「血と肉のカーペット」が敷き詰められた、王都の高級街へと引き戻された。
「……はっ、はぁ、はぁっ……!」
ケビンは荒い息を吐きながら、自分の両手を見た。
周囲の豪奢な高級店舗は、先ほどの巨大な球体アンデッドの暴走によって、原形を留めないほどに破壊し尽くされ、辺りは酷い有様となっていた。石畳を埋め尽くすドロドロとした血肉の敷物の上では、球体の爆発に巻き込まれて無理やり変異させられた複数の『膨張型アンデッド』たちが、かすかに残された生者の匂いを求めて、ノロノロと目的もなく徘徊している。
横を見ると、同じく電撃のダメージから立ち上がったライ・スキンティラが、ケビンの覚醒に気づいたように、その異常に長い5本の凶爪をチキリ、と地面の肉に突き刺した。
「あら……ようやく悪夢から気づいたようね、ケビン」
その、生前と変わらぬ知性を宿した彼女の静かな声音に、ケビンは辛うじて人間の理性を保ち、ホッと胸をなで下ろした。
「ああ、すまない……。ライさん、俺たちが倒れていた間、何があったか分かるか?」
ケビンの問いに対し、深い猫背の頭部から垂れ下がった金髪の隙間から、ライの狂乱を秘めた瞳が一つ、瞬きをしながら静かに頷いた。
「さっき、人間たちを見たのは覚えているかしら? 確か、聖騎士の集団だったと思うけれど……」
「ああ、覚えている。隻眼の男と、魔法使いの女の子だ」
「あの魔法の直撃を受けたあと、私たちは生者に対する強烈な飢餓感に襲われて、完全に理性を失って彼らに襲いかかったようよ。私の爪には、確かにあの男の肉を裂いた感触が残っているわ」
「……そうか。俺はまた、他人を傷つけてしまったのか……」
ケビンは悲しそうに自らの瞳を閉じた。しかし、彼の顔はヴィネルバの店で購入した『2本の黒い角がある騎士風の仮面』に完全に覆われているため、その苦悩や悲しみが外部に悟られることはない。
だが、同じ境遇を辿るライは、彼の微かな空気の変化だけでその心情を完全に察し、同情するように言葉を重ねた。
「仕方ないことよ、ケビン。悲しまないで……私たちの身体は、もう完全に『人』ではないのだから。それよりも……あなたの身体、あの電撃の余波かしら、かなり異質な変化を遂げてしまったようね」
「変化……?」
言われて初めて、ケビンは自分の身体に走る奇妙な違和感に気づき、自身の肉体を確認した。そして、その変貌ぶりに息を呑んで驚愕した。
「な、なんだこれ……!? 尻尾……!? それに、右腕が生えてる……!?」
先ほどまで無惨に欠損していたはずの右腕には、人間の皮膚の代わりに、硬質な漆黒の「鱗」がびっしりと敷き詰められ、関節からは骨のトゲが突き出していた。さらに腰の裏からは、トカゲのような強靭なしっぽが伸び、自らの意思で不気味に蠢いている。
「もしかして、この変化は……ヴィネルバの仮面のせいか? くそっ、ダメだ、外そうとしても外れない……。無理に剥がそうとすると、あの店主が言った通り、頭まで一緒に取れてしまう……っ」
ケビンは、鏡もない壊滅した街の中で、己の肉体が「悪魔」の如き異形へと突き進んでいる現実を突きつけられ、激しい葛藤に襲われた。だが、かつてアルフレッド爺さんとの死闘で失った右腕を、義手を手に入れる手間なく取り戻せたことだけは、戦力として不幸中の幸いと言うべきかもしれない。
ただ、彼の胸元から不気味に突き出した、あの真っ赤に脈打つクリスタルのような『魔晶石』だけは、普通の服を着たところで到底隠せそうになかった。
「その身体では、上からどれだけ分厚い服を着たとしても、その立派な尻尾のせいで台無しね」
ライが、自らの爪を見つめながら自嘲気味に呟く。
「私も、この血のような赤い肌と、地面を削るこの長い爪のせいで、もう二度と人間社会に混じることなんて出来そうにないわ」
生前のような人間の姿に変装し、一般人に紛れて王国を滅ぼした橘小雪を追う――それが二人の当初の計画だったが、現在の変わり果てた容姿を見るに、それはもはや不可能に近い有様であった。
「……仕方ないか」と、ケビンは拳を握り締め、思考を即座に戦闘へと切り替えた。もとより、家族の仇を討つためなら、人間の身分などとうに捨ててある。
「そういえば、スキンティラさん……」
「ライ、でいいわ。私も、あなたのことはケビンと呼ばせて頂戴。私たち、もう普通の人間には戻れない、同類なのだから」
「……分かった。ライさん。俺は、ライさんの旦那さんである、レイノルドさんがオズ卿の命令で行っていたという『魔物研究』について、何か手がかりがないか調べたいんだ。もっと、強くならなきゃいけない……。このままの力じゃ、小雪に一矢報いることもできずに、ただの動く死体として討伐されて終わると思う」
妻であるライを守るため、そして研究仲間の裏切りに遭いながらも最後まで結果を出そうとした悲劇の学者、レイノルド・スキンティラ。彼の遺した研究成果なら、死者の肉体を効率的に強化する、あるいは魔素をコントロールするための重要なヒントが隠されているかもしれない。
ケビンの確固たる決意の眼差しを受け、ライは静かに微笑むように目を細めた。
「分かったわ、ケビン。これから共にする者として夫の研究のすべてを託しても後悔はない。……ここから少し離れた場所に、夫が最期まで使っていた『魔物研究所』があるの。私がそこまで案内するわ」
「ありがとう、ライさん。行こう」
二人は、破壊された高級街の惨状を背に、徘徊する膨張型アンデッドの群れをかき分けながら、新たな力を求めて王都のさらに深い闇へと歩みを進めた。




