異界の魔女
心臓の鼓動はない。肺に空気は入らない。
それなのに、ケビン・アドマイヤーの脳裏には、驚くほどはっきりと「家族を守らなければならない」という生前の執念が、どす黒く、しかし燃えるような灯火となって残っていた。
「ア……あ……」
喉を鳴らしながら、ケビンはズルズルと足を引きずり、かつて自分の家だった廃墟へと向かった。王都といってもほとんど外れの方にいたためか、自分が住んでいた村まではそう遠くも無かった。
視界は相変わらず灰色に濁っている。周囲を彷徨う死者たちの姿が、輪郭だけはっきりと浮き出て見える。
その中に、見間違えるはずのない2つの影があった。
小柄で、同じ体格だが違う凹凸具合。衣服はボロボロに裂け、顔半分が血に染まっているが、黄金色のおさげとツインテール。それは紛れもなく、さっきまで自分をからかっていた双子の妹――リリィとルルだった。
二人は感情を失った瞳で、ただ前後に身体を揺らし、行く当てもなく足を引きずっている。
ケビンは一歩、また一歩と近づいた。
「リ、リィ……ル、ル……」
言葉にはならない。けれど、ケビンは自分の、肉が抉れて骨が露出した右腕を伸ばした。
その腐りかけた手が、リリィの冷たくなった肩に触れる。リリィは生気が失われた顔をゆっくりと兄に向けたが、襲いかかってくる気配はなかった。支配が解けたアンデッドにとって、同じアンデッドは「ただの障害物」であり、捕食の対象ではないからだ。
(一緒に行くぞ。お前たちを、こんな場所に放っておけるか)
ケビンは近くの、半分壊れかけた民家に這い入った。
棚の隅に、頑丈な麻縄が転がっているのが見えた。ケビンは感覚の鈍い両手を使って、不器用にそのロープを掴んだ。生前の農業で鍛えた指先は、死んでなお、ある程度の器用さを保っていた。
家を出て、ケビンはリリィとルルの身体にロープを回した。
二人は抵抗しない。ただ、兄にされるがまま、大人しく立っている。ケビンは二人の腰をしっかりとロープで縛り付け、その端を自分の太い腕に幾重にも巻き付けた。
「アァ、オ……(行くぞ)」
ズリ……、ズリ……。
ケビンが歩き出すと、ロープがピンと張り、後ろからリリィとルルが力なく付いてくる。
かつては「お兄ちゃん、歩くの早すぎ!」と文句を言っていた妹たちを、今は死者となった身体で引っ張っている。その滑稽で、あまりにも残酷な光景に、ケビンの乾いた瞳から涙が流れることはなかった。涙腺はとうに死に絶えている。
三人で我が家へ帰ろう。母さんと父さんが待つ、あの家へ。
そう決意して足を前に進めた時、突如として、廃墟の向こうから凄まじい「肉を断つ音」と、アンデッドたちの絶叫が響き渡った。
「オラァッ! 腐れ損ないどもが! 俺の国から失せやがれぇ!」
地を震わせるような怒号。
ケビンがそちらへ視線を向けると、灰色の世界の中で、一際激しく動く「巨大な影」が見えた。
それは、一人の戦士だった。
すでに全身の鎧はボロボロになり、戦闘の邪魔だとばかりに脱ぎ捨てられている。剥き出しになった上半身は、筋骨隆々という言葉すら生ぬるい、岩山のような筋肉の塊だった。
男は片手斧一本を凄まじい豪腕で振り回し、群がるアンデッドの首を、胴体を、文字通り一撃で薙ぎ払っていた。十体、二十体もの死者が、その斧の一振りの前に肉片となって飛び散る。
(あの人は……確か、王都の……)
ケビンは記憶の片隅にある男の顔を思い出した。かつて王都からこの近辺の見回りに来ていた、高名な戦士だ。見た目は恐ろしいが、村の子供たちに気さくに声をかけるような、気のいい男だったはずだ。
彼だけが、この地獄の中で、未だに「生者」として孤独な戦いを続けていた。
だが、その圧倒的な無双も、突如として現れた「影」によって遮られることになる。
上空の空気が、ピきりと凍りついた。
闇を切り裂くようにして、一人の少女が空中を滑るように舞い降りてきた。黒いローブをなびかせ、この国では見なれない制服を下に着ていた。夜の闇よりも深い、しかしどこか酷く冷徹な瞳をした少女――国を滅ぼした黒魔術師、小雪だった。
「全員滅ぼしたと思っていたけれど。まだ生き残りがいるなんてね。驚いたわ」
小雪の声は、鈴の音のように澄んでいたが、同時に絶対的な死の気配を孕んでいた。
戦士は、群がるアンデッドを蹴散らし、斧を構え直して小雪を睨みつけた。その呼吸は激しく乱れ、肩が大きく上下している。
「……はぁ、! お前さんが……こんなこと、したなんてな……! 国への恨みは……そんなに、深いか……小雪……!」
戦士の言葉に、ケビンは僅かに思考を巡らせた。
二人は顔見知りなのだろう。
この戦士は、小雪がまだ「聖女」として、あるいはただの異邦人としてこの国にいた頃、彼女に偏見なく気さくに関わった数少ない人物の一人だった。
だがケビンがそれを知る由はない。
戦士の問いに、小雪の瞳が一瞬だけ、微かに揺れた。
しかし、その直後、彼女の顔から一切の感情が消え失せ、冷酷な仮面が張り付く。
「ええ、とても………」
ぽつりと、小雪は呟いた。その一言には、他者が決して計り知ることのできない、底知れぬ地獄の記憶が人知れず込められていた。
「でも……あなたは、特別な方法で殺してあげる」
小雪が白く細い指先を天に掲げた瞬間。
戦士の足元、そして四方八方の空間に、どす黒い漆黒の魔法陣が無数に展開された。そこから溢れ出るのは、この世の全ての呪詛を凝縮したような、禍々しい紫黒の魔力。
「う、ぐ……ああぁぁぁぁっ!?」
それまで数千の死者を前にしても不敵に笑っていた最強の戦士が、突如として頭を抱え、絶叫した。
魔法陣から放たれた精神を汚染する呪いが、彼の脳を、魂を直接破壊していく。戦士の目は血走り、正気を失った獣のように狂い始めた。
「ガ、アアァァ! ああぁぁぁーーっ!」
狂乱の極みに達した戦士は、自身の持つ片手斧を高く掲げ――信じられないことに、その刃を自らの首へと、全力で叩きつけた。
ズシャァッ!!
凄まじい音と共に、強靭な首が宙を舞う。
大量の鮮血が噴き出し、男の巨体がどさりと地面に倒れ伏した。自害。それも、最も惨烈な方法での終わりだった。
戦士は絶命した。誰もがそう思った。
しかし、小雪の黒魔術は、彼をただの死体として眠らせることを許さなかった。
ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りのような音が響く。
倒れていた戦士の巨体が、ゆっくりと、不自然な動きで立ち上がった。切り落とされた首の断面からは、血の代わりに、濃密でどす黒い「黒煙」が激しく噴き出している。
そして、どこからともなく飛来した真っ黒な、怨嗟の塊のような呪いの鎧が、彼の身体を包み込んでいく。
その姿は、まさしく国への、生者への、そして自らを狂わせた運命への「憎悪」を具現化したかのようだった。
「さあ、デュラハンナイト。行くわよ」
小雪が冷たく言い放つ。
デュラハンナイトと呼ばれた首無しの騎士は、突如としてその手に現れた巨大な大盾を、地面に向けてドシン、ドシンと2回叩きつけた。
それが合図だったかのように、虚空から黒煙を纏った、同じく首の無い「黒い妖馬」が姿を現す。
騎士は音もなくその馬へと跨った。
小雪の黒いローブが風を孕み、彼女の身体が再び上空へと静かに飛翔する。
その後を追うように、デュラハンナイトが跨る黒馬が地を蹴り、黒煙を撒き散らしながら、山の方向へと駆け抜けていった。その圧倒的な破壊の化身は、残された生者をさらに蹂躙するために進軍していく。
一部始終を、廃墟の陰からじっと見つめていたケビン。
彼の濁った頭脳の中に、確かな事実が刻み込まれた。
(あの女……小雪が、俺たちをこんな姿にした、元凶……)
激しい怒りが湧き上がるかと思った。
しかし、ケビンの胸の内に広がったのは、怒りよりも悲しみが大きかった。
あの小雪という女性が何か事情を持っていようがそんなのは関係ない。こんなにも大勢の命をもて遊び家族を死に追いやった。その事が何よりも悲しかった。
彼にとって重要なのは、今、自分の後ろでロープに繋がれている「家族」の存在だけだ。
「ア……ゥ……」
ケビンは小さくうめき、再び前を向いた。
小雪たちが去った血生臭い大地の感触を、死んだ足の裏で確かめながら、再びロープを強く握りしめる。
ズルり、ズルり。
二人の妹を引きずりながら、ケビンは一歩一歩、アドマイヤー家の我が家へと向かって、静かに歩みを再開した。
空は、不気味なほどに紅く染まっていく。




