終わりを告げる足音
燦々と降り注ぐ夏の太陽が、ケビン・アドマイヤーの赤銅色に焼けた肌を容赦なく炙っていた。かなり短く刈り上げた髪をすこし後悔するほどだ。
ケビンは18歳。か大人の仲間入りを果たしたばかりの若者らしい瑞々しさと、長年農作業で培われた強靭な肉体が、彼の自慢であり財産だった。
「ほら、行くぞ、BB。もうひと踏ん張りだ」
ケビンは汗を拭いながら、愛牛の背を叩いた。
彼が手にする鍬と、BBことビッグボーイが引く重い鋤が、乾いた土をザクザクと掘り起こしていく。アドマイヤー家が営むこの農地は、冬が明けた直後に極上の甘みを持つことで国中に知られる銘菓の原料――『冬明け大根』の仕込みの真っ最中だった。夏のうちに土を徹底的に耕し、栄養を蓄えさせなければ、あの凍てつく寒さの中で育つ奇跡の野菜は実を結ばない。
ビッグボーイを労うようになでていると足音が近づいてくる。
「おい、お兄ちゃん! またそんなに頑張っちゃって。色白の男前が台無しだよ?」
「本当本当。お兄ちゃんってば、ビッグボーイと結婚でもするつもりなのかしら」
背後から、鈴を転がすような、しかし確実に神経を逆撫でする笑い声が二つ重なって聞こえてきた。
振り返ると、そこには瓜二つの顔をした少女たちが、籠を抱えて立っていた。ケビンの双子の妹、黄金色の髪をツインテールにしているのがリリィ。おさげにしているのがルル。リリィは幼さの残る体つきであるがルルは胸が大きく肩がこるとかでよく二人は喧嘩しているのを見かけることがある。今年で15歳になる彼女たちは、村でも評判の美少女……のはずなのだが、ケビンにとってはただの『生意気な悪魔たち』でしかなかった。
「お前らなぁ、遊んでる暇があったら水を運べ。BBも喉を乾かせてる」
ケビンがわざとらしく眉を顰めて言うと、双子は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「あら、私たちはちゃんとお母様のお手伝いをして、お兄ちゃんに冷たい麦水を持ってきてあげたのよ?」
「そうよ、感謝してほしいくらい。ねえ、お兄ちゃん、お礼に今度街へ行ったとき、私たちに可愛いリボン買ってくれてもいいんだよ?」
「誰が買うか。文句を言うなら、その麦水は俺が全部飲み干すからな」
ケビンはぶっきらぼうに籠から水筒をひったくり、勢いよく喉を鳴らした。冷たい水が身体に染み渡る。妹たちはそんな兄の反応が面白くてたまらないといった様子で、互いの肩を叩き合いながらケラケラと笑っている。
本心では、ケビンが誰よりも家族を想い、妹たちを溺愛していることを彼女たちは知っている。そしてケビンもまた、二人のからかいが不器用な親愛の情の裏返しであることを理解していた。だからこそ、彼は口を尖らせながらも、妹たちの頭を乱暴に撫で回すのだった。
「あーあ! 髪が崩れちゃう!」
「お兄ちゃんのバカ! 筋肉ダルマ!」
そんな騒がしくも愛おしい日常が、アドマイヤー家の、そしてこの村の全てだった。
農作業を終えた夕暮れ時、ケビンが村の広場を歩いていると、あちこちから声が掛かった。
「おう、ケビン! すまんが、うちの裏小屋の屋根が傾いちまってな。明日ちょっと手伝ってくれんか?」
「ケビン、井戸の釣瓶が壊れちゃって……力仕事、お願いできないかしら?」
ケビンは「えー…」と露骨に嫌そうな顔をして、頭を掻いた。
「おいおい、みんな俺を便利屋か何かと思ってないか? 俺は自分の畑だけで手一杯なんだよ」
しかし、そう言いながらも、ケビンの手帳にはしっかりと彼らの依頼が書き留められていく。
「…はぁ~…分かったよ。明日の朝、大根の様子を見てから行く。屋根の板は自分で用意しておけよ」
「ありがとう、ケビン! お前は本当に気前の良い男だ!」
ぶっきらぼうで、文句ばかり言う。けれど、決して困っている人を見捨てない。それがケビン・アドマイヤーという男の生き方だった。村人たちもそれを知っているからこそ、彼を頼り、愛していた。
だが、そんな温かい平穏は、ある日突然、音を立てて崩壊した。
その兆候は、王都の方向から流れてきた不穏な噂だった。
『黒魔術師・小雪』。
そう名乗る謎の人物が、国への深い怨恨から、王都の大墓地を冒涜したという。神聖な結界を破り、数千もの死者を呼び覚まし、使役した。
最初は誰もが「吟遊詩人の大袈裟な作り話だ」と笑っていた。国には高名な聖騎士団も、神聖魔法を操る司祭たちもいる。たった一人の魔術師に、国が揺らぐはずがないと。
しかし、死者の軍勢は生者を喰らうことで、その数を倍々に増やしていった。
王都の周囲にある村々が、次々と音信不通になっていく。蹂躙され、生きたまま引き裂かれ、肉を貪られた人々が、今度は「新たな死者」として立ち上がり、次の獲物を求めて行進する。
そして、その災厄の波は、ケビンたちの住むのどかな農村にも、容赦なく押し寄せた。
「おい……あれは、何だ……?」
普段魔物は山からほとんど降りてこず、ただ1日酒を飲みながら平原を見渡してた見張りの村人が、酔いも覚めるほどの絶叫は、すぐに肉を裂く音と、この世のものとは思えない獣のようのうめき声にかき消された。
地平線を埋め尽くすのは、腐肉の臭いを漂わせた数千のアンデッド。その先頭に立っていたのは、つい数日前まで隣の村で笑っていたはずの、見知った顔ぶれだった。彼らの目は濁り、口からは黒い血を滴らせている。
「逃げろ! アンデッドだ!!!!早く家に入れ! 戦えるものは武器を持て!」
静かだった村は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
「ケビン! ルル! リリィ! 中へ入れ!」
父親の怒鳴り声が響いた。いつもは温厚な父が、見たこともない形相で、農具のフォークを構えている。
家の敷地内に、生気を失った死者たちが雪崩を打って侵入してきた。衣服は破れ、内臓をはみ出させた凄惨な姿の死者たちが、生きた肉を求めて牙を剥く。
「お父さん!」
ケビンが叫んだときには、すでに遅かった。
群がる死者の群れに、父親の身体が押しつぶされる。フォークで一体の首を突き刺したが、左右から同時に肉を噛みちぎられた。
「ぐあああっ! 早く……家に入れ! 扉を閉めろーーっ!」
それが、父の最期の言葉だった。肉が引きちぎられる凄まじい音と、父の断末魔が夕闇に響き渡る。
ケビンは涙を流す暇すらなく、放心する妹たちの手を引き、母親と共に家の中へと飛び込んだ。頑丈な木製の扉を閉め、閂をガチリと下ろす。すぐに家具を動かし、扉の前にバリケードを築いた。
ドンドン、ドンドン! と、扉を叩く鈍い音が響き始める。
すりガラスの向こうには、無数の死者の影が蠢いていた。
「アバンが……あなた、あなたぁ!」
母親がキッチンで料理をしていたそのままの姿、エプロンを血と涙で濡らしながら、片手に包丁を握りしめたままへたり込んだ。
家の中に、重苦しい動揺と恐怖が充満する。
その時だった。
「……お兄ちゃん」
蚊の鳴くような声で、双子の一人、リリィが呟いた。
彼女は自分の左腕を押さえていた。その指の隙間から、ドロリとした赤黒い血が流れ落ちている。そこには、明らかに人間の「歯型」が生々しく刻まれていた。逃げ惑う最中、死者の牙が、彼女の肉をかすめたのだ。
「そんな……嘘だろ……?」
ケビンの頭が真っ白になった。
アンデッドに噛まれた者は、その呪いと疫病に感染し、確実に死に至る。そして、死んだ後は例外なく、生者を襲うアンデッドとして蘇る。それがこのバイオテロの恐怖の本質だった。
教会の神聖魔法による「浄化」を行えば、極めて稀に感染を防げることもあるというが、この状況で司祭を呼ぶことなど不可能である。いや、仮に司祭がいたとしても、この深い傷ではもう間に合わないことは、誰の目にも明らかだった。
リリィの身体が、急速に熱を帯びてガタガタと震え始める。肌の色が、みるみるうちに土気色へと変わっていく。
「リリィ! 嘘でしょ!? 目を開けてよ!」
もう一人の双子、ルルが懸命にリリィの身体を揺さぶり、涙を流して励ます。
母親は震える手で包丁を握り直した。
我が子が死者となり、家族を襲う前に――その息の根を止める。それが、この世界における唯一の、そして最悪の「救済」だった。母親は涙で視界を曇らせながら、包丁を娘に向けた。
だが、そんなことができる母親ではなかった。手が激しく震え、包丁が床に落ちてカランと高い音を立てる。
ケビンもまた、叫んだ。
「やめてくれ! 母さん、そんなことしないでくれ!」
最後まで、家族を傷つけるようなことはしたくなかった。たとえ、それが破滅を招くとしても。
「……お兄、ちゃん……」
リリィが、薄れゆく意識の中で、いつもよりずっと小さな声で微笑んだ。
「そんな……怖い顔、しないでよ……。最後まで……不細工、なんだから……」
死の間際になっても、彼女は兄をからかうことを止めなかった。それが彼女なりの、大好きな家族への最後の言葉だった。
「リリィ! リリィーーっ!」
ルルの絶叫が響く中、リリィの瞳から完全に生気が消え失せた。ガクリと首が折れ、絶命する。
しかし、その直後。
カチ、カチと、リリィの顎が不自然に鳴った。ゆっくりと開かれたその瞳は、濁りきった灰色に染まり、そこには先ほどまであった兄への愛情も、妹への絆も、何一つ残っていなかった。
「ア……ァア……」
うめき声を上げ、リリィだった『モノ』が、目の前にいたルルへと飛びかかろうとした。
「ルル、危ない!」
ケビンが咄嗟にルルを突き飛ばし、妹の身代わりとなった。
激しい衝撃と共に、ケビンの右腕に凄まじい激痛が走る。リリィの鋭い牙が、農業で鍛え上げられたケビンの逞しい腕に深く突き刺さり、その肉を無残に噛みちぎった。
「が、あぁぁぁぁぁっ!」
痛みに悶絶するケビンの視界の端で、ついに限界を迎えた家の扉がバキバキと音を立てて崩壊した。
バリケードをなぎ倒し、屋外から飢えた死者たちの大群が雪崩込んでくる。
「いやああああああっ!」
「ケビン! ルル! ああぁぁぁ!」
もう一人の妹の悲鳴と、母親の絶叫が、狭い家屋の中に木霊する。
ケビンの視界は、押し寄せる死者の群れと、自らの身体から流れ出る大量の血によって、急速に赤く、そして黒く染まっていった。
(ああ……俺は、ここで死ぬんだな……)
最愛の家族を守ることもできず、ただ無力に貪られていく。
ケビン・アドマイヤーの意識は、底知れぬ絶望の闇へ
と沈んでいった…
―――はずだった…
どれほどの時間が流れたのだろうか。
王都を地獄へと変えた数千のアンデッドの軍勢。それを率いていた黒魔術師・小雪は、国への復讐という目的を果たし、満足したかのように、ある日突然その使役を解いた。
「もう、ここに用はないわ。勝手にしなさい。」
冷酷な言葉を遺し、小雪は王都を、そしてこの国を地獄のまま去っていく。
支配の呪縛から解放された、その瞬間だった。
唐突に、ケビンの意識が深い闇の底から急速に浮上した。
(……え?)
ケビンの視界は、驚くほど冴え渡っていた。
いや、それは生きていた頃の視界とは明らかに異なっていた。色彩は失われ、世界は灰色と不気味な輪郭だけで構成されている。しかし、驚くほどに周囲の状況が「視えて」いた。
目の前には、無数のアンデッドたちが行く当てもなく、ただゆらゆらと彷徨っている。
かつて村人だったモノ、王都の兵士だったモノ。彼らは皆、支配者を失い、ただ本能の赴くままに足を引きずっていた。
「……う、あ……」
ケビンは叫び声を上げたつもりだった。
「みんな、無事か!?」と、家族の名前を呼んだつもりだった。
しかし、彼の喉から漏れ出たのは、生者を恐怖に陥れる、あの忌まわしい『うめき声』だけだった。
(な、んだ、これは……?)
ケビンは己の身体に視線を落とした。
そして、息を呑んだ――いや、肺に空気は入らなかったが、精神が激しく震撼した。
そこに固まっているのは、農業で泥にまみれ、家族を養うために鍛え上げた自慢の腕だった。
しかし、その腕は、かつて愛した妹たちによって無残に噛みちぎられ、肉がえぐれ、骨が露出した凄惨な状態のまま、どす黒く変色して硬直していた。衣服はボロボロに裂け、胸には無数の貪られた痕跡がある。
心臓の鼓動は、無い。
息を吸う必要も、無い。
痛みすら、もう何も感じない。
(俺は……死んだのか……?)
脳裏に、あの最悪の夜の記憶が鮮明に蘇る。
村を襲ったアンデッドの大軍。自分を庇って死んだ父。噛まれてしまったリリィ。泣き叫ぶ母とルル。そして、リリィに噛まれ、群れに貪られた自分自身の最期。
間違いない。自分はあの時、確実に命を落としたのだ。
なのに、なぜこうして立っている? なぜ意識がある?
ケビンはゆっくりと周囲を見回した。
灰色に染まった視界の中、繁栄していたであろう王都だった廃墟の片隅に、同じように力なく佇む、見知った姿がいくつか見えた。土気色の肌、濁った瞳、けれど、確かにあの愛おしかった家族の面影を残す死者たち。
ケビンは生きているのではなかった。
彼は、生者を喰らう側の存在――『アンデッド』として、この地獄に立ち尽くしていたのだ。
支配を失い、ただ彷徨うだけの死者の群れの中で、ケビン・アドマイヤーの「死んだ後の人生」が、静かに幕を開けた。




