髪と魔術書と筋肉と
王都グランの崩壊から数週間。
トロール山を大きく迂回する行軍の果て、ようやく王都の輪郭が遠目に霞んで見える位置にまで到達したサピエンティアの進軍部隊は、岩陰に臨時の野営地を張っていた。
パチパチと爆ぜる焚き火の傍らで、隻眼の男――ヘリオス・アウグストゥスは、熱心に自分の髪を手入れしていた。
彼は自身の長い髪を染め粉で艶やかな紫に染め上げており、それを何よりも大事にしている。前線での過酷な行軍中であるにもかかわらず、桶に汲んだ貴重な水を使って、丁寧に髪を洗っている最中だった。
「……はぁ。なんて女々しいのかしら」
すぐ近くから、呆れ果てたような、刺々しい小娘の声が飛んでくる。
声の主は、魔術学校を卒業したばかりの若い魔術師、メイデス。宗教国家サピエンティアから遠く離れた小国、カウバングル出身の志願冒険者だった。
彼女の茶髪はショートボブに切りそろえられていたが、それは自分で適当に切り落としたものらしく、あちこちがボサボサに跳ねている。お世辞にも髪を愛しているとは言えない、無頓着な有様だった。
「はぁ……。女々しいはずの小娘は、もっと髪に気をつけたほうがいいぜ、嬢ちゃん。俺の何千倍も汚ねぇぞ」
ヘリオスは桶の水で髪をすすぎながら、片目で彼女を一瞥した。
「うるさいです! 髪の毛のお手入れなんかより、魔術書の一ページでも読んだほうが何倍も有意義です! これなんか、あの大賢者ジフ様が新しく発刊された魔術書なんですから! 見ましたか!?」
急に得意分野の魔術の話になった途端、メイデスの声に熱がこもり、声量が跳ね上がる。
ただでさえ若者のキンキン響く声だ。おじさんの域に足を入れかけているヘリオスの耳にはいささか刺激が強すぎ、彼は髪を拭きながら、たまらず両耳を指で塞いだ。
こんな劣悪な野営地でわざわざ髪を手入れしたくなどないが、これには仕方のない事情があった。
数十日前、黒魔術師の襲撃により、大陸有数の大国であった王国グランが一夜にして滅んだという最悪の凶報が舞い込んできたのだ。それは、命からがら亡命してきた、ごく僅かな生き残りによる証言だった。
片腕を失った老人とその飼い犬、あるいは高名な宮廷魔導師オズ・ブラッドフォード卿。
そうした者たちが、恐怖に顔を青ざめさせながらこぞって口にした言葉はただ一つ――「自我を失ったアンデッドの大群が国を襲った」というものだった。
事態を重く見たサピエンティア教会は、すぐさま聖騎士団と実力派の冒険者を選抜。大量の物資と共にこの地へ派遣した。それが、いまここにいるヘリオスたちの部隊だった。他にも別働隊が何組か行軍を開始している。
ヘリオスはふぅ、と長い溜め息をつき、髪を揺らした。
「嬢ちゃんの魔術書の話はまた今度にするとして……。なぁ嬢ちゃん、お前ほどの知識があれば、その『アンデッドを操る魔法』ってやつを再現したりできるのか?」
その問いに、メイデスは不満げに眉を吊り上げ、背が低いくせに精一杯背伸びをしてヘリオスを見下してきた。
「あー……本当にわかってませんね。ヘリオスさんは魔術書なんて一冊も読んだことがないんでしょ? あのですね、魔法というものは大きく分類して、生活に扱う魔法、七属性を操る魔法、そして『禁忌を司る魔法』の三つに分けられるんです」
メイデスは手にした木の杖の先で、地面の土に器用に図解を描きながら講釈を始めた。
「生活魔法は基本的には物を浮かせたり、移動に用いるもの。属性魔法は火や水、雷、土、闇といった自然の格ですね。そして、問題の『禁忌の魔法』。これの中身は市販の魔術書には絶対に載っていませんが、学生時代に講師から聞いたことがあります。回復魔法や死者蘇生、そして――アンデッドを使役する魔法も、間違いなくそこに加わるでしょうね」
「ふぅん」
「ふぅん、って、ちゃんと聞いてます!? まぁ、アンデッドを軍隊規模で操る魔法なんて歴史上聞いたこともないですが。私は基本的に、魔術書に書かれている魔法しか使えませんから」
そう言って胸を張るメイデスは、実は魔術学校きっての「天才」と謳われた才女だった。本人はその評価を「私は真摯に努力し続け、体得しただけ」と否定しているが、魔術書に書かれている呪文であれば、一見しただけで全てを完璧に会得・再現してしまう彼女の能力は、紛れもない異能だった。
「なら、嬢ちゃん。そのアンデッドを操る『禁忌の魔術書』とやらが手に入れば、お前にも同じことができるんじゃねぇか?」
「はぁ……! もし万が一できたとしても、絶対にしませんよ! 禁忌とされているのにはそれ相応の意味があるんです。それに、そんな魔法を使ったところを少しでも見られたら、即座に魔術教会で裁判にかけられて一発で死刑です!」
メイデスは自分の首元に親指を当て、ぐいっと真横に引いてみせた。
「そりゃ、ちげぇねぇな」
ヘリオスは思わず鼻で笑った。
「なんですか、その笑いは!?」
むっとしたメイデスが、大きな瞳を鋭く細めて睨みつけてくる。
「いや、お前ほどの天才なら、死刑になった途端に執念で『リッチ』にでも成っちまうだろうなと思ってよ」
「あー! そういう悪趣味な冗談、絶対に教会の審問官たちの前で言わないでくださいね! ていうか、もしアンデッドになるなら、ヘリオスさんこそ最低最悪の、生前より弱っちい剣使いのアンデッドになりますよ!」
「ははっ、なるわけねぇだろ。俺は死なねぇよ」
ヘリオスは不敵に笑い、次の瞬間、その切れ長の目をカッと見開いた。
超一流の冒険者としての直感が、背後からの微小な「人間の接近」を察知したのだ。
彼は地面に置いていた鋼の剣の柄に手を伸ばすや否や、目にも留まらぬ速さで反転し、背後の気配へ向けて切っ先を突きつけた。
「おっと……まいったな。完璧に気配を消したつもりだったけど、やっぱりヘリオスさんには通用しないか」
剣を突きつけられた暗闇から、両手をひらひらと挙げて苦笑しながら現れたのは、金の短髪を綺麗になびかせた、非常に整った顔立ちの優男だった。
彼の名はサイマン。サピエンティア聖騎士団の中でもトップクラスの剣の使い手であり、同時に高度な属性魔法をも操る、若き最高峰の才能だった。
「まったく……気配が駄々漏れだぞ、サイマン」
ヘリオスは呆れたように息を吐き、構えていた剣を鞘へと収めた。
「いやー、手厳しい。今回は行ける!と思って試してみました…ははっ、無理でしたけど…」
ヘラヘラと笑う優男の肩を、ヘリオスは拳で軽く小突いた。もちろん相手は強固な鎧を着込んでいるため、地味に痛いのは小突いたこちらの拳の方である。
「本当に、サイマンさんは聖騎士っぽくないですよね。もっと堅苦しいと思ってました」
メイデスがジト目で言うと、サイマンは肩をすくめておどけてみせた。
「何を言うんだい、メイデスちゃん。僕はこれでも、純白の信仰心を胸に抱く立派な聖騎士さ」
「どちらかと言うと、お気楽な冒険者上がりに見えます」
「そりゃそうだろ。うちの聖騎士団のエースは、元々は冒険者上がりなんだからな」
地を震わせるような太い重低音が響き、さらに奥から巨大な影が現れた。
大きな顎に刻まれた三本の深い傷跡。そして、両腕が鈍い金属の光沢を放つ『機械の義手』。聖騎士団の長を務める大豪傑、カシウスだった。彼は普段着ている堅苦しい法衣や鎧をすべて脱ぎ捨てていたため、その下に隠された、岩石のように巨大な胸筋がこれでもかと露出している。
メイデスの視線が、突如として目の前に現れたカシウスの凶悪な大胸筋へと釘付けになった。
「おい、カシウス。多感な嬢ちゃんには教育に悪すぎる。その胸筋をしまえ」
髪の毛の水気を絞り終えたヘリオスは、メイデスに合図を送る。彼女は不満げに口を尖らせながらも、手慣れた様子で火と風の複合魔法を発動し、ヘリオスの濡れた紫髪に向けて心地よい温風を送り始めた。即席のドライヤーである。
「ガッハッハ! 何を言うかヘリオス! 俺の鍛え抜かれた胸筋と腹筋は、全人類に開放された見放題の芸術だ! 嬢ちゃん、たんと見ろ!」
カシウスが器用に胸筋を右、左、とピクピク動かすと、メイデスの大きな瞳もまた、誘蛾灯に引き寄せられる虫のように右、左、と素直に往復した。
「……はっ! や、やっぱり、聖騎士団という組織は、大人の魅力がおっぱ――ゲフン、いっぱいです……!」
「おい、お前いま確実に『おっぱい』って言おうとしなかっ――熱っ!!!」
ヘリオスの余計なツッコミを遮るように、メイデスが嫌がらせで温風の温度を爆上げしたため、ヘリオスの頭皮ではなく、軽く腕を焼かれて悲鳴を上げた。
「それにしても、サイマンさんが元冒険者だったなんて本当に驚きです」
メイデスが温風を弱めながら言うと、サイマンは過去の経歴をあまり大声で語られたくないのか、腕を組んで少し拗ねたようにそっぽを向いた。
「ガッハッハ! そうだぞ! それも昔は、ヘリオスとバディ(相棒)を組んで前線を駆け回っていたんだ。ヘリオスに剣技の基礎を叩き込まれ、隠密の気配の消し方なんかも教わったらしい。ま、見ての通り、気配の消し方は全然体得に至らなかったようだがな!」
「ちょ、カシウスさん! あまりそういう昔の恥ずかしい話を大声で言わないでください! 本当にデリカシーが無いんだから、この筋肉ダルマは!」
サイマンが顔を真っ赤にして抗議するが、カシウスはまったく気にする様子もなく、再びガッハッハと豪快に笑い飛ばした。
ひとしきり笑った後、ヘリオスは紫の髪を揺らしながら、鋭い隻眼の視線をカシウスへと向けた。
「……んで、カシウス。わざわざこんな下らない雑談をしに俺たちの天幕に来たわけじゃねぇだろ?」
カシウスの太い眉が、キリッと片方だけ跳ね上がった。
「――その通りだ。二人とも、先ほど、最前線の偵察隊から緊急の魔導通信が入った」
その一言で、野営地の空気が一瞬で凍りついた。ヘリオスもメイデスも、一瞬で冒険者の冷徹な顔へと戻る。
「王国グランが完全に滅び、廃墟と化しているのは間違いなく確認された。……そして、現在王都の敷地内、および周辺を徘徊しているアンデッドの推定総数――ざっと『五万』だ」
「……五万?」
その桁違いの軍勢の数に、メイデスは一瞬ぎょっと息を呑んだ。しかし、すぐに彼女の明晰な頭脳が、ある奇妙な違和感を弾き出す。彼女は小首をかしげた。
「あの……カシウスさん。アンデッドの数、いくら何でも『少なすぎ』ませんか?」
「ああ。お前の言う通りだ、メイデス」
カシウスの顔から笑みが完全に消え去り、刻まれた傷痕が深く歪んだ。
「王国グランの総人口は、およそ三百万人。周辺の開拓村や領地を合わせれば、三百十万を優に超える人間がいたはずだ。もし亡命した連中の言う通り『一夜にして全国民が襲われた』のだとすれば、残りの三百万人以上の人間は一体どこへ消えた?」
カシウスは重苦しく言葉を紡ぐ。
「考えられる可能性はいくつかある。アンデッドの呪いに適合せず、ただの死体として完全に腐り落ちたか。あるいは、別の場所へ大移動を開始したか。もしくは……知性のないアンデッド同士で、凄惨な共食いと殺し合いが行われたのか……。それとも、俺たちの想像を遥かに超える『もっとおかしなこと』が、あの王都で起きているのか。そのどの事柄も当てはまっているか…」
沈黙が野営地を支配する。
夜風が、遠くに見える死の都の不気味な静寂を運んできた。
ヘリオスたちはまだ知らない。自分たちがこれから足を踏み入れる場所が、ただのゾンビの群れなどではない、人間の理性を保ったまま狂気に歪む「新種の怪物」が蠢く、本物の地獄であることを――。




