ライの最期-1
王都の都心部で暮らしていくには、地方の村とは比べ物にならないほどの莫大な税金が課せられる。当然、生きていくだけで大金が必要になるため、ライ・スキンティラとその夫であるレイノルドは、夫婦共働きで必死に稼いでいた。
夫のレイノルドは、王様直属の宮廷魔導師である『オズ・ブラッドフォード卿』の助手だった。オズ卿は近年、特に「魔物の発生理由」の研究に並々ならぬ力を注いでおり、その最前線で日夜データを取り続けていた一人がレイノルドだったのだ。
レイノルドは実直で真面目な男だったが、そのぶん酷く頭が固く、研究の方針を巡ってオズ卿や同僚と衝突することも少なからずあった。それでも、夫婦の仲はとても良好だった。
一方、妻のライは、宮廷のメイドとして働いていた。王宮内の清掃や、第四王子であるアーノルド殿下の身支度などを任されており、給金も良く、非常にやり甲斐を感じていた。
ライの方は仕事で大きなミスもなく順調な日々を送っていたが――夫のレイノルドの方は、ここ一ヶ月ほど、精神的にかなり追い詰められているのが妻の目から見ても明らかだった。
上司であるオズ卿から「魔物研究の成果を早く出せ」と強烈な圧力をかけられ続け、焦りだけが募っていく日々。未だに魔物がなぜ生まれるのか、その根本的な発生理由を突き止められずにいたレイノルドは、結果を出せない己の無力さに激しく憤り、狂ったように研究へのめり込んでいった。
気づけば彼は家に帰らなくなり、風呂すら入らなくなった。
心配したライが王宮の地下にある研究所を訪れた時、そこには防腐剤の薬品臭と、腐敗した魔物の肉が混ざり合った、凄まじい悪臭が立ち込めていたという。
「レイ……、あなた、しっかりして。一度お家に帰って、お風呂に入りましょう?」
ライが優しく促すと、レイノルドは心ここにあらずといった様子で、気のない返事をしながらも、ようやく重い腰を上げて風呂に入りに家へと帰っていった。
夫が去った後、ライはふと違和感を覚えた。広い研究所を見渡しても、レイノルド以外の研究者の姿がどこにもなかったのだ。
(レイ……一人で、この膨大な作業を……?)
他の同僚たちは、結果の出ない研究に愛想を尽かして逃げ出したのか、あるいはオズ卿によって更迭されたのか。誰もいない不気味な研究所を見回しながら、メイドとしての職業病か、ライは思わず掃除をしたくなる衝動に駆られた。だが、夫の大事な研究資料の場所が分からなくなっては困ると思い直した彼女は、無闇に物を片付けず、夫の帰りをじっと待つことにした。
やがて、お風呂に入ってさっぱりとしたレイノルドが研究所に戻ってくると、彼は疲れた顔で、誰もいなくなったこの部屋の事情を静かに話してくれた。
過酷な孤独の戦い。ライはそっと夫の手を取り、微笑んだ。
「レイ、丁度私も明日からまとまった休暇に入ったの。だから、あなたの研究を隣でお手伝いさせて」
荒みきっていたレイノルドの心を、優しく包み込んで癒してくれるのは、いつだってライの存在だった。
「……ありがとう、ライ」
「ううん。私たちは夫婦ですもの」
二人は冷たい研究所の中で軽く抱擁を交わすと、すぐに未完成の実験作業に取り掛かった。
二人が行っていた実験は、牛型の魔物の死体を使ったものだった。
魔物がどのようにして大気中の魔素を取り込んでいるのか、その「核心」となる器官を確定させるため、死体の様々な部位に、直接魔素を流し込むという緻密な作業。
切り裂かれた魔物の腹部から、大腸を退けてみたり、胃を触ってみたり、心臓や肺を覗き込み、レイノルドはオズ卿から支給されたという特製の「魔石」を活用して、一点に魔素を集中させていく。
死体であっても、魔素を取り込むための特殊な器官であれば、外部からの刺激に対して何らかの反応を示すことは、すでにネズミなどの小動物を用いた実験で実証済みだった。
「ライ、そこからもう少し魔素の出力を一定に保ってくれ」
「ええ、分かったわ」
魔素を流し込んでいる間、レイノルドは肉眼で魔物のドロドロとした内臓を執拗に覗き込んでいた。魔石の操作を手伝いながら、その様子を横で見ていたライは、夫の身体からあれほど酷い異臭が立ち込めていた理由を、嫌というほど理解させられた。この血と内臓の臭いは、一度染み付けばそう簡単には落ちない代物だ。
数十分の間、根気強く魔素を流し込み続けた、その時だった。
レイノルドが、今までに聞いたこともないような歓喜の声を上げた。
「……やはり、これだ!!! ついに見つけたぞ、ライ!!!」
彼が魔物の臓器の一部をナイフで切り取り、ピンセットで慎重に取り出したのは、一つの『塊』だった。
それは、魔物の体内に本当に存在していたのかと疑うほどに大きく、歪な石のような形状をしていた。血と謎の粘液でテラテラとヌメりながら、妖しい光を放っている。
「レイ……、それは何?」
ライは鼻の息を留めながら言った。
「これが『魔晶石』の正体だ、ライ! 外部から流し込んだ魔素を急速に吸収することで、このように生体組織が石みたいに形状変化する器官なんだよ! これが大きければ大きいほど、魔物はより多くの魔素を蓄え、強く、強力になるんだ……!」
レイノルドは、これまでの鬱屈をすべて吹き飛ばすかのように、興奮気味に、少年のように目を輝かせて熱弁した。
「…しかし、これは無理やり流したから肥大化して他の臓器を傷つけてしまう。本来は許容量が決まっているのか…であれば…」
ブツブツ呟きながらその魔晶石をみる。これで夫の努力が報われる。オズ卿にも成果を報告できる。本当に良かった――ライが心から安堵し、夫と共に笑顔を浮かべた、まさにその瞬間だった。
研究所の頑丈な木製の扉の向こう側――王宮の廊下が、にわかに、異常なまでの大騒ぎに包まれ始めた。
「キャァァァーーーッ!?」
「何だこれ、うわあああああ!! 狂ったか、離れ――」
遠くから聞こえる、大勢の宮廷人たちの悲鳴と、肉が引きちぎられる不穏な衝撃音。
ただ事ではない。ライは胸に嫌な騒めきを覚え、様子を確認するために、ゆっくりと研究所の重い扉を開けた。
それが、すべての破滅の幕開けだった。
「うがぁあぁぁっ!!」
扉を開けた瞬間、廊下の暗がりから飛び出してきたのは、衣服を血に染めた、巨漢の宮廷衛兵の姿だった。
だが、その男の目は完全に濁り、口元からは大量のよだれを垂らし、生者への凄まじい飢餓感を剥き出しにしていた。男はライの姿を認識するや否や、獣のような速度で襲いかかり、防ぐ間もなく彼女の細い右腕へと、その鋭い牙を深く突き立てたのだ。
「いやぁあぁぁーーーっ!!! 離して!!!」
肉が抉れる激痛と恐怖に、ライは悲鳴を上げた。
彼女の叫びを聞いた瞬間、それまで研究机の前にいたレイノルドが、弾かれたように飛び出してきた。彼は生まれてこの方、一度も剣を握ったことも、人を殴ったこともない大人しい研究者だった。
だが、最愛の妻が襲われているのを見た彼は、人生で初めて、その細い拳を全力で振り抜き、大男の衛兵の顔面へと殴りつけたのだ。
「私の妻に、触るなぁぁあぁっ!!!」
グシャリ、と鈍い音がして、衛兵の身体がわずかに揺らぐ。
レイノルドはその隙を見逃さず、ライの身体を強引に室内に引き戻すと、勢いよく扉を閉め、ガチャン!! と頑丈な鉄のかんぬきを掛けた。
扉の向こうからは、すぐにドンドンドンドン!! と、先ほどの大男が狂ったように扉を叩きつける不気味な音が響き始める。
「大丈夫かい、ライ!! すぐに傷の手当てを――」
レイノルドは蒼白な顔を震わせながら、出血の止まらないライの右腕を押さえた。
魔物の知識に深く精通していたレイノルドは、その瞬間に理解していた。今、自分たちを襲ったあの衛兵が、生きた人間ではなく、紛れもない『アンデッド』と化していたことを。
そして、王宮の全域で、途方もなく最悪な事態が勃発しているということを、彼は鋭く察知していた。




