Ⅳ 聖女を選ぶ者たち
聖光教会の古い選定規則には、奇妙な一節がある。
『施恩者は、その恩寵をもって自らを証することを得ず』
神の恩寵を授かった者は、その力をもって自分自身の正しさを証明してはならない、という意味である。
初代聖女エリシアの時代、聖女を名乗る者は少なくなかった。
病を癒やしたという者。
未来を見通したという者。
天使から神託を受けたという者。
そのなかには本当に不思議な力を持つ者もいたが、巧妙な手品を使う者もいたし、金銭を得るために奇跡を捏造する者もいた。
そこで教会は、奇跡を起こす者と、それを確かめる者を分けることにした。
前者を〈《《施恩者》》〉。
後者を〈《《証人》》〉という。
証人は奇跡を起こす必要がない。魔法を使えなくてもよい。必要なのは、目の前で起きたことを正確に見定め、偽りを退けることである。
そして、選定規則には、もう一つの一節が続いていた。
『証人は施恩者を見定め、また選定を司る者をも問うべし』
この一節を見つけたとき、リリー・ベルンシュタインは、少しだけ嫌な予感がした。
何故なら、そこには証人の報酬について、何も書かれていなかったからである。
*
午前六時十分。中央大聖堂の古文書室には、まだ夜の冷気が残っていた。
リリーは窓際の机に座り、三冊の古い帳簿を並べている。向かいではアデルが欠伸を噛み殺しながら、昨日の調査記録を清書していた。
「リリー様。結局、昨夜は何時にお休みになったんですか」
「二時半です」
「昨日より三十分早いだけじゃありませんか!」
「改善しています」
「改善という言葉に謝ってください」
リリーは返事の代わりに、一枚の紙をアデルの前へ差し出した。
それは財務局の支出命令書だった。
「三年前の設備更新費について、昨日、もう一度調べてみました」
「またあの銅管ですか?」
「銅管だけではありません」
リリーは項目を指で追った。
「導水管十二本。弁六個。小型金属容器三個。それから、昇降用の歯車二組、滑車四個、鋼線三巻」
アデルは顔を上げた。
「歯車?」
「ええ。最初に見た帳簿には『祭儀設備一式』としか書かれていませんでしたが、納品明細には内訳がありました」
「それって、昨日の祭壇室と……」
「関係があるかもしれません」
リリーはもう一枚、別の紙を重ねた。
「しかも、納品先は二か所です。西礼拝堂と、地下聖遺物庫」
「二か所?」
「同じ予算で設備が作られています。少なくとも、血涙の仕掛けと祭壇の昇降装置は、同じ時期に設置された可能性があります」
アデルは、しばらく明細を見つめていた。
「でも、三年前ですよね。今回の聖女選定が発表されたのは先月なのに」
「そこなのです」
リリーは頷いた。
「三年前の工事が、今回の聖女選定のためだったとは限りません。むしろ、別の目的で作られた設備を、今回利用したと考えるほうが自然でしょう」
彼女は三冊目の帳簿を開いた。
「そこで、当時の承認記録を調べました」
頁の下部には、二つの署名があった。
一つは、当時の財務責任者のもの。
もう一つは、オルフェン枢機卿のものだった。
アデルは息を呑んだ。
「猊下が?」
「はい。ただし、承認したことと、設備の用途を知っていたことは別です」
「……また、それですか」
「大切なことなので」
リリーは帳簿を閉じた。
「でも、猊下には説明していただく必要があります」
*
午前七時。リリーは、地下聖遺物庫の管理官グレゴールを訪ねた。
老人は、まだ朝の祈りを終えたばかりだった。
「昨日に続いて、何かございましたかな」
「三日前の点検について、もう少し伺いたいのです」
「構いませんよ」
グレゴールは管理室へ二人を招いた。
壁には古い鍵束が掛けられ、机の上には分厚い管理台帳が置かれている。
リリーは椅子に腰を下ろした。
「三日前、祭壇室を開けたとき、財務局のヴァイスさんが祭壇の下を点検したそうですね」
「ええ」
「その作業を、ずっと見ていましたか?」
グレゴールは少し考えた。
「……いえ。清掃の修道士たちを監督しておりましたので」
「では、ヴァイスさんが何をしていたか、すべては見ていない?」
「そうなりますな」
「祭壇の下には、以前から昇降装置があったのでしょうか」
老人は眉をひそめた。
「昇降装置?」
「歯車と滑車を使うものです」
「ああ……」
グレゴールは頷いた。
「そういえば、三年前の工事で、祭壇の内部に何か機械が取りつけられましたな」
「ご覧になったんですか?」
「工事中に一度だけ。祭儀用の装置だと説明されました」
「何の祭儀に使うんでしょう」
「それは……聞いておりません」
リリーは手帳に書き込んだ。
「では、昨日の首飾りが現れたとき、祭壇室の外で何か変わったことはありませんでしたか?」
グレゴールは首を振った。
「何も。私はいつもどおり、午前六時に確認しただけです」
「その前の夜は?」
「衛兵が二時間ごとに巡回しております」
「点検孔は?」
グレゴールは顔を上げた。
「点検孔?」
「祭壇室の西側の壁に、小さな点検口がありますね」
「ああ、古い排水路の点検口ですな」
「そこから祭壇室へ、何かを通せるでしょうか」
「さあ……」
老人は困った顔をした。
「長年使っておりませんから」
リリーは頷いた。
「ありがとうございます。もう一つだけ」
「何でしょう?」
「三日前の点検記録に押されていたヴァイスさんの確認印ですが、本人以外でも使えるものですか?」
「印そのものは、本人が持っております」
「では、記録に押されたことは、本人が作業した証明になりますか?」
グレゴールは少し考えた。
「……本人が押したなら、そうでしょうな」
「でも、印を押したことと、作業内容が正しかったことは、別ですよね」
老人は、しばらくリリーを見つめていた。
やがて、苦笑した。
「あなたは、ずいぶん厳しい方ですな」
「帳簿係なので」
「ほっほっ……なるほど。それなら仕方ありませんな」
*
午前八時二十分。リリーは西礼拝堂を訪れた。
昨日、血の涙を流した初代聖女像は、今朝は静かな表情で祭壇の上に立っている。
清掃係のベアトリスが、床を磨いていた。
「あら、リリー様。またいらしたんですか」
「はい。少し確認したいことがありまして」
「どうぞ。今日は泣いておりませんよ」
「それはよかったです」
リリーは石像を見上げた。
白い石の頬には、まだ薄く赤い筋が残っている。
「ベアトリスさん。昨日、最初に血涙を見つけたのは午前八時半でしたね?」
「ええ」
「その前に、礼拝堂へ誰かが入ったのを見ましたか?」
「私は朝の掃除で入っただけですから、そこまでは……」
「では、前日の夜は?」
「夕方六時に戸締まりしました。そのときは何もありませんでした」
「鍵は誰が管理していますか?」
「私と礼拝堂の管理司祭です」
「夜間も施錠されていますか?」
「はい。ただし、裏の管理通路は別です」
リリーは顔を上げた。
「管理通路?」
「ええ。礼拝堂の裏側に、修繕用の細い通路があります。床下の排水管や、壁の補修箇所を調べるためのものです」
「そこから、聖女像の台座に近づけますか?」
「近づけますよ」
ベアトリスは頷いた。
「でも、普段は誰も使いません」
「鍵は?」
「財務局の設備管理係が持っています」
リリーは手帳に書き込んだ。
「ありがとうございます」
そして、石像の台座へ近づいた。
昨日見つけた、新しい補修跡。
そのすぐ脇に、細い銅管が床下へ伸びている。
リリーは、管の表面を見つめた。
そこには、薄い赤褐色の染みが残っていた。
彼女は指を触れず、手帳に位置を記録した。
「……ベアトリスさん」
「はい?」
「この管は、昨日の涙が出る前から、ここにありましたか?」
「ええ。先月の修理のあとからです」
「そうですか」
リリーは頷いた。
新しい管。古い設備。そして、裏の管理通路。
誰かが石像を泣かせようとしたなら、礼拝堂の正面から入る必要はなかった。
しかし、問題はそこではない。
何故、昨日の午前八時半だったのか。
そして、誰がその時刻を選んだのか。
*
午前九時十分。リリーは、財務局の記録室でレオポルト・ヴァイスと向かい合っていた。
ヴァイスは三十歳前後の男で、痩せた頬と細い指をしていた。黒髪をきちんと撫でつけ、襟元まで隙なく整えた服装をしている。
「祭壇室の点検についてですか?」
「はい」
リリーは頷いた。
「三日前、あなたは祭壇の内部を点検しましたね?」
「ええ。定例の備品点検です」
「何を調べたんですか?」
「金具の緩み、滑車の摩耗、鋼線の状態などです」
「昇降装置があることは、ご存じだったのですね?」
「もちろんです」
ヴァイスは不思議そうに答えた。
「三年前から設置されている設備ですから」
「何のための装置でしょう?」
「祭儀用の演出装置です」
リリーは、わずかに目を細めた。
「演出装置?」
「ええ。古い祭儀では、聖遺物を祭壇の内部から持ち上げて、参列者に示すことがあったそうです」
「では、今回の首飾りも、その装置で現れた可能性がありますね」
ヴァイスは黙った。
「……可能性はあります」
「三日前の点検で、首飾りを見ましたか?」
「いいえ」
「祭壇の内部には?」
「ありませんでした」
「本当ですか?」
ヴァイスは眉をひそめた。
「私が嘘をついていると?」
「確認をしているだけです」
リリーは穏やかに答えた。
「ところで、装置はどうやって動かすんですか?」
「祭壇室の外側に、操作棒を差し込む穴があります」
「扉の外ですか?」
「いいえ。西側の点検通路です」
「鍵は?」
「設備管理係が持っています」
「あなたも?」
「はい」
リリーは手帳を開いた。
「昨日の朝、その点検通路へ行きましたか?」
ヴァイスは首を振った。
「いいえ」
「では、昨日の午前六時以前に、装置を動かしたことは?」
「ありません」
「証明できますか?」
ヴァイスは少し苛立ったように答えた。
「私は昨日、午前五時半から財務局の朝礼に出席していました」
「朝礼は何時まで?」
「六時までです」
「出席者は?」
「十名ほどです。記録もあります」
「そうですか」
リリーは頷いた。
「では、朝礼が始まる前は?」
ヴァイスの表情が変わった。
「……何?」
「午前五時半より前の行動です」
「自室にいました」
「どなたか確認できますか?」
「……一人で寝ていましたので」
リリーは手帳に書き込んだ。
「ありがとうございます」
ヴァイスは、しばらく彼女を見つめていた。
「……私を疑っているのですか?」
「まだ、誰も犯人だと決めつけてなどいません」
リリーは答えた。
「ただ、装置を操作できた人を調べています」
ヴァイスは、何も言わなかった。
*
午前十時。リリーは医務局を訪れた。
マティアス司祭が倒れたときの診察記録と、毒物検査報告書について確認するためである。
医務局長のハインリヒは、白髪混じりの温厚な男だった。
「毒杯の件ですか?」
「はい」
リリーは頷いた。
「検査報告書の時刻について、確認したいんです」
ハインリヒは書類棚から一冊の記録簿を取り出した。
「これは医務局に保管している原本です」
リリーは頁を開いた。
そこには、第一話で見たものと同じ検査番号が記されていた。
しかし、結果の欄が違っていた。
『毒性なし』
リリーは顔を上げた。
「……毒性なし?」
「ええ」
「記録保管室にあった写しには、『毒性あり』と書かれていました」
ハインリヒは眉をひそめた。
「それはおかしい」
「原本の作成時刻は?」
「午前十一時四十分です」
「儀式の前ですね」
「はい。儀式に使う聖水の安全確認ですから」
リリーは頷いた。
ようやく、第一の奇跡に関する疑問が一つ解けた。
検査報告書が儀式前に存在したのは、事前検査だったからである。
しかし、何故、写しの結果だけが違っていたのか。
「原本から写しを作るのは、誰ですか?」
「医務局の書記官です」
「そのあと、どこへ送られますか?」
「財務局を経由して、記録保管室へ送られます」
リリーは顔を上げた。
「財務局を?」
「ええ。祭儀に関する検査費用は財務局の管轄ですから」
「写しの受領記録はありますか?」
「あります」
ハインリヒは別の帳簿を開いた。
そこには、写しを受け取った職員の名前が記されていた。
『レオポルト・ヴァイス』
リリーは、しばらくその名前を見つめていた。
「……この方が受け取ったんですね」
「そうです」
「そのあと、誰に渡したかは?」
「財務局の記録を調べれば、わかるでしょう」
リリーは頷いた。
「ありがとうございます」
そして、もう一つ尋ねた。
「マティアス司祭が倒れたとき、本当に毒を飲んだのでしょうか?」
ハインリヒは少し考えた。
「儀式後に回収された聖杯の残留液からは、毒性のある成分が検出されました」
「しかし、それは司祭が飲んだ水と同じものだったと証明できますか?」
ハインリヒは黙った。
「……厳密には、できません」
「では、司祭が倒れた原因は?」
「薬物による症状に似ていましたが、確定診断には至っていません」
「死亡していたわけでもない?」
「呼吸と脈拍は確認されていました」
リリーは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
毒杯。血涙。聖遺物。
三つの事件には、共通する特徴があった。
見た目は奇跡だった。
しかし、調べてみると、人間の手で起こせる可能性があった。
そして、その証拠は、驚くほど簡単に見つかった。
リリーは、少しずつ考えを整理していった。
*
午前十時半。リリーはオルフェン枢機卿の執務室を訪れた。
枢機卿は、大きな窓の前に立っていた。
「ベルンシュタイン嬢。調査は進んでいるようだな?」
「はい」
「何かわかったかね?」
「ええ。いくつか」
リリーは机の上に書類を置いた。
「三年前の特別予算について、伺いたいことがあります」
オルフェンは、書類を見た。
「……懐かしい記録だ」
「猊下が承認されていますね」
「そうだ」
「何のための設備だったのでしょう?」
オルフェンは少し考えた。
「古い祭儀設備の復元計画だ」
「復元?」
「聖女選定の歴史を調べる過程で、初代聖女の時代に使われていた祭儀装置の記録が見つかった。それを再現するための試験だった」
「では、血涙や聖遺物の出現も、演出として再現できるように?」
オルフェンは黙った。
やがて、静かに頷いた。
「……そうだ」
リリーは息を吐いた。
「つまり、三年前から、奇跡に見える現象を人工的に再現する設備があったのですね」
「その通りだ」
「では、今回の奇跡が起きたとき、その設備の存在を思い出されましたか?」
オルフェンは、しばらく答えなかった。
「……思い出した」
「それでも、奇跡だと公表されたのですね」
「教会の秩序を守るためだ」
「……そうですか」
リリーは静かに頷いた。
そして、もう一つ尋ねた。
「猊下は、私が奇跡を疑うことを、最初から期待していましたか?」
オルフェンは、ゆっくりと彼女を見た。
「……何故、そう思う?」
「私には、奇跡を起こす力がありません。それなのに、聖女候補として招かれました」
「それが?」
「帳簿を調べることは得意ですが、治癒や予言はできません」
リリーは少し考えた。
「それに、猊下は私の調査を、ほとんど妨げませんでした」
オルフェンは黙った。
「もしかして、私は聖女候補としてではなく、別の役割を期待されていたのでしょうか」
長い沈黙があった。
やがて、枢機卿は静かに答えた。
「……そうだ」
リリーは頷いた。
「やはり」
「君には、奇跡を見極める役割を期待していた」
「証人として?」
オルフェンの目が、わずかに動いた。
「……その言葉を知っているのか?」
「今朝、古い選定規則で読みました」
リリーは一枚の写しを取り出した。
「《《施恩者》》と《《証人》》。奇跡を起こす者と、それを確かめる者です」
オルフェンは、ゆっくりと頷いた。
「その通りだ」
「では、私は証人として招かれたのですね」
「そうだ」
リリーは、しばらく考えた。
「……それなら、最初からそう言っていただきたかったです」
オルフェンは苦笑した。
「君なら、断っただろう」
「はい」
リリーは即答した。
「仕事が増えますから」
枢機卿は、思わず笑った。
しかし、リリーは笑わなかった。
「猊下」
「何だね?」
「証人は、施恩者だけでなく、選定を司る者の正しさも問うべきだと書かれています」
オルフェンの笑みが消えた。
「……そうだ」
「では、猊下にも、後ほど質問させていただきます」
枢機卿は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……よかろう」
*
午前十一時。リリーは、アデルと合流した。
聖女選定の公開審問は、正午から始まる。
残された時間は一時間だった。
「リリー様!」
アデルが駆け寄ってきた。
「大変です!」
「どうしました?」
「エドガー司教が、セレスティア様の候補資格について、異議を申し立てるそうです!」
リリーは足を止めた。
「……理由は?」
「奇跡の偽装に関与していた疑いがある、と」
リリーは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……やはり」
「やはり?」
「犯人の目的が、少し見えてきました」
アデルは困惑した。
「どういうことですか?」
「三つの奇跡が偽物だとわかれば、最も疑われるのは、奇跡の中心にいたセレスティア様です」
「でも、セレスティア様が仕掛けたとは限りません!」
「そうです」
リリーは頷いた。
「それなのに、司教様は、真相が解明される前に、候補資格を取り消そうとしている」
アデルは息を呑んだ。
「……最初から、それが目的だった?」
「可能性はあります」
リリーは静かに答えた。
「ただし、まだ証明できません」
「では、どうするのですか!」
リリーは少し考えた。
「証拠を集めます」
「もう時間がありません!」
「そうですね」
彼女は手帳を開いた。
「では、残り一時間で、できることをしましょう」
アデルは、しばらく彼女を見つめていた。
「……リリー様」
「はい」
「あなた、本当に焦らないのですね……」
「焦っていますよ」
「どこがですか!」
「朝食を食べる時間がありませんでした」
アデルは、思わず大きな溜め息をついた。
*
午前十一時十五分。リリーは、財務局の記録室へ戻った。
ヴァイスは机に向かい、書類を整理していた。
「また、あなたですか」
「はい」
リリーは一礼した。
「毒物検査報告書について、確認したいことがあります」
ヴァイスの指が止まった。
「……何でしょう?」
「医務局の原本と、記録保管室の写しで、検査結果が違っています」
ヴァイスは眉をひそめた。
「それは、書き間違いでは?」
「そうかもしれません」
リリーは頷いた。
「ただ、写しを受け取ったのは、あなたですね?」
「……ええ」
「そのあと、誰に渡しましたか?」
「記録保管室の担当者です」
「直接?」
「はい」
「途中で、誰かに見せましたか?」
ヴァイスは少し考えた。
「……司教様に」
「エドガー司教ですか?」
「はい。儀式の安全確認のため、報告書をお見せしました」
「そのとき、結果は?」
「……覚えていません」
リリーは静かに頷いた。
「では、受渡し記録を見せてください」
ヴァイスは渋々、帳簿を差し出した。
そこには、写しの受領時刻と、記録保管室への送付時刻が記されていた。
午前十一時四十五分。
午後一時十分。
リリーは、その数字を見つめた。
儀式は正午に始まっている。
つまり、写しは儀式の前に財務局へ届き、儀式が終わったあとに記録保管室へ送られたことになる。
「……なるほど」
リリーは頷いた。
「この間、報告書は財務局にあったんですね」
「そうです」
「司教様に見せたのは、いつですか?」
「午前十一時五十分頃です」
「そのあと、あなたが保管していた?」
「はい」
「では、写しの結果が書き換えられたとすれば、この間の可能性がありますね」
ヴァイスは顔を強張らせた。
「……私が書き換えたと?」
「そうは言っていません」
リリーは答えた。
「ただ、誰が触れられたかを調べています」
ヴァイスは、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……司教様は、結果を見て、少し驚いておられました」
「驚いた?」
「ええ。『《《毒性なし》》』という結果を見て、何か考え込んでおられました」
「それで?」
「……そのあと、私に写しを預けるよう命じました」
リリーは顔を上げた。
「司教様が?」
「はい」
「どのくらい?」
「十分ほどです」
「その間、あなたは?」
「別の書類を届けに行っていました」
リリーは手帳に書き込んだ。
「ありがとうございます」
これで、写しを書き換えられた人物の候補が、さらに絞られた。
しかし、まだ断定はできない。
エドガー司教が写しを預かったことと、書き換えたことは別だからである。
リリーは、もう一つ尋ねた。
「ヴァイスさん。三年前の祭儀設備について、あなたは詳しいですね」
「……ええ」
「今回の三つの奇跡に、あの設備が使われたと思いますか?」
ヴァイスは黙った。
しばらくして、ゆっくりと答えた。
「……使われた可能性はあります」
「誰が?」
「それは、わかりません」
「あなたは、使っていない?」
「はい」
リリーは頷いた。
「わかりました」
彼女は書類を揃えた。
「最後に一つだけ」
「何でしょう」
「もし、あの設備が奇跡の偽装に使われたとしたら、誰が一番困るでしょうか?」
ヴァイスは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……聖女候補でしょうね」
「そうですね」
リリーは頷いた。
「ありがとうございます」
*
午前十一時四十五分。聖女候補たちは、本堂の控室に集められていた。
セレスティアは窓際に立ち、静かに外を見つめている。
リリーは彼女の隣へ歩み寄った。
「セレスティア様」
「リリー様?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「もうすぐ、審問ですね」
「はい」
リリーは頷いた。
「その前に、一つだけ、確認したいことがあります」
セレスティアは、静かに彼女を見た。
「……何でしょう?」
「あなたに、奇跡を起こすよう命じたのは、エドガー司教ですか?」
セレスティアの顔色が変わった。
しばらく、沈黙が続いた。やがて、彼女は小さく頷いた。
「……はい」
リリーは息を吐いた。
「どんなことを命じられたんですか?」
「マティアス司祭が倒れたら、すぐに治癒の祈りを捧げるように、と」
「倒れることを、事前に知っていたんですね?」
「……はい」
セレスティアは俯いた。
「でも、毒を使うとは聞いていませんでした。司祭様が本当に苦しんでいるのを見て、怖くなって……」
リリーは黙って聞いていた。
「どうして、断らなかったのですか?」
セレスティアは、しばらく答えなかった。
やがて、小さな声で言った。
「……故郷の孤児院への支援を、続けてもらえなくなるかもしれないと言われたんです」
リリーは、ゆっくりと顔を上げた。
「……支援を?」
「はい」
セレスティアの声は震えていた。
「私は、あの孤児院で育ちました。今も、たくさんの子供たちが暮らしています」
彼女は目を伏せた。
「私が協力すれば、支援は続けられると……」
リリーは、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「その話を、誰かにしましたか?」
セレスティアは首を振った。
「いいえ」
「何故です?」
「……怖かったのです」
リリーは頷いた。
「そうでしょうね」
セレスティアは、驚いたように顔を上げた。
「……怒らないのですか?」
「怒っています」
リリーは答えた。
「ただし、あなたにではありません」
セレスティアの目に、涙が浮かんだ。
リリーは少し考えた。
「セレスティア様」
「はい」
「今日の審問で、あなたの証言が必要になるかもしれません」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
リリーは微笑んだ。
「ありがとうございます」
*
正午まで、あと十分。リリーは控室を出て、長い廊下を歩いていた。
アデルが追いついてきた。
「リリー様!」
「はい」
「もう、準備はできたんですか?」
リリーは少し考えた。
「……半分くらいは」
「半分!?」
「はい」
「そんな状態で、審問に出るんですか!」
「出ます」
リリーは頷いた。
「残り半分は、審問の中で確かめるしかありません」
アデルは、しばらく彼女を見つめていた。
「……本当に、大丈夫なんでしょうか?」
「わかりません」
「そこは大丈夫と言ってください!」
リリーは小さく笑った。
「でも、少なくとも、わかっていることはあります」
「何ですか?」
「三つの奇跡には、人間の仕掛けが関係している可能性が高いこと」
「はい」
「そして、誰かが、その仕掛けを利用してセレスティア様を失脚させようとしている可能性があること」
「……はい」
「さらに、その人物は、奇跡が偽物だと暴かれることを恐れていないかもしれません」
アデルは息を呑んだ。
「……では、犯人は?」
リリーは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「まだ、断定できません」
「えっ?」
「でも、審問で確かめられることがあります」
彼女は手帳を閉じた。
「犯人が、何を望んでいたのか」
アデルは首を傾げた。
「……どうやって?」
リリーは微笑んだ。
「本人に、聞いてみます」
アデルは、しばらく絶句した。
そして、深いため息をついた。
「……リリー様」
「はい」
「あなた、本当に怖いもの知らずですね」
「怖いものはありますよ」
「何ですか?」
「帳簿の不一致です」
「んもう!」
二人は、思わず笑った。
そのとき、正午を告げる鐘が鳴り始めた。
聖女選定の公開審問が、始まろうとしていた。
リリーは、ゆっくりと歩き出した。
神の奇跡を証明するためではない。
人間の嘘を、見逃さないために。
そして、誰かの都合で聖女にされ、あるいは罪人にされようとしている少女を守るために。
彼女は、証人として、祭壇へ向かった。




